ミスト・シャワーのような霧雨だったから、肌がじっとりと濡れていくのを感じながら立ち尽くしていた。エーデルワイスの鼻歌がちょうど二周したときにあたしの上だけ雨が止んで、見上げれば紺青色の傘が覆い、面白げな顔つきをした黒い瞳の男性と目が合った。
石煉瓦の橋の上で車は小魚の群れのように規則正しく過ぎていき、歩く人は機械仕掛けのように半円を描いて避けていく。白いブラウスを肌に張り付け、刻一刻濃くなっていく萌葱色のスカートを穿いた乙女はオルゴールのように歌う。そこにスーツを着た若い男性が現れて、ゼンマイを止めた。メロディの途中できっと止まないように。
なのであたしは運命に観念して嘯いた。
「ジェーン・ドゥ」
すると彼も答えたの。
「ジョン・スミス」
かくしてあたし、小国の王女と訪問国の見知らぬ日本人は出会った。お互い、偽名でね。
…… 。
自国で? もちろん傘をさすわ。理由のひとつはいたって単純。お金がなかったの。だってそんなの持つ必要ないから。でもコンビニエンス・ストアで傘を手にいれるには通貨が必要なことも知っている。何不自由なく用意もできたわ――ほんの出来心で迎賓館を抜け出していなければね。国賓としての自覚はないのかって? 人間何時間まで寝ずに耐えられるかっていうのがあるでしょ……では人間何日間分刻みのスケジュールに耐えられるでしょう……ええ、そんなの日常だという人はごまんといるんでしょうね。ただあたしが徹底的に飽きてしまった。それだけが問題。ごめんなさい。
ああそうだもっといい例えを思いついたわ。きぐるみってあるでしょ、たとえばあの……伏字にすると***ー・マウス。常に分刻みのスケジュールでショーにでずっぱり、手を振りたえず感じよく笑いかけ、一生あのテーマパークと着ぐるみから出られないキャラクターになったとしたら……たぶん絶望すると思うのよ。それで、人目をはばかって着ぐるみから抜け出したらきっとあたしのようにジェーン・ドゥ、男ならジョン・スミスと名乗るってもんだわ。つまり“名無しの権兵衛”をね。
と、ずっとあたしはひとり頭の中で喋っていたの。向こう風とエンジン・走行音で声はかき消されるしわりかし舌を噛みそうになるほど体が振れるのね、バイクって。殆ど怖いからと、滅多にない機会だから前の背中にぎゅっとしがみついていた。暗色のスーツはしっとり濡れてより色濃く、ヘンな男だとは思ったけど既に確信に変わっていた。傘の意味は? スーツでバイク。大型の。まあこれもあたしの思惑通りといえばその通り。日本人って勤勉で実直、規則を重んじるって聞いたわ。あと日和見主義……そんなステレオタイプで見ちゃいけないって分かってるけどまあ、橋の上で歌う変人への対応を見る限り傾向はそれを裏付ける感じね。で・まあ、悪いとは思ったのよ。もしこんな面倒に巻き込むとするなら、良心の呵責が薄れるような変人がいいかな、てね。
「銭湯だ、レディ・ジェーン」
連れてこられたのはリョウゴクのそんな場所。“銭湯”がジャパネスク文化だとは知っていたけど、施設は新しく現代風で、殆どスパと変わらないものだった。裸もまぁ知人がいないなら恥はかき捨てね。こちらのサウナも裸だし。
とってもいい気持ちだったわ。雨と汗でじっとり湿った肌には格別。炭酸だの薬湯だの打たせ湯だの、数は多いし岩盤浴まであるし……これは男女混合だったけど裸でないのはいいわね。なんといっても清純なうら若き乙女だもの。
そうして綺麗さっぱりして、横目で見ながら右マエの館内着を着て、のんびり出て行ったのよね。入浴後のリラックス・スペースまでいくつかあって、畳の間を見渡したときに見つけた。
着流しの……浴衣姿。実にくつろいで文庫本を読み耽っている。あたしはすたすたと歩いて行って横にすとんと腰を降ろした。そしてよくよく顔を覗く。外は霧雨で移動はヘルメットを被っていて、若い男という以外の情報はなかったはずだから。
整髪剤の落ちた髪は心なし目にかかり、瞳と同じ鴉の濡羽のような黒だ。頭ひとつ抜けた長身に、東洋とも西洋ともつかず離れずただ言えるのは精確に整った顔立ち。
《ハーフ?》
《クォーターらしい》
思わず自国語で呟くと、思わぬことにその言語で答えが返ってきた。顔をとくとく見てても素知らぬふりだったのに、ようやく本を閉じた。ただキリがよかっただけかもしれない。
《まぁ、じゃああなたのおじいさまかおばあさまが》
《いいや、言語は趣味なんだ》
そう? 彼は困ったように笑ったけど――
あたしがこう早合点するのも無理はない。自国語というのはとてもマイナーなのだ。ややこしいんだけど自国の公用語でもなく、それに訛りを加えた通俗語だ。
俄然親近感が湧いた。小国の王女、というのは謙遜ではなくて、都市程度の広さと言ったら分かりやすいだろうか。知り合いの知り合いは知り合いの知り合い、と言っても過言ではない。ああ、経済・文化の面でなんら引けを取らないのでおみくびりなく。
ただ、まあ……
『クォーターらしい』
これ以上突っ込むのは野暮ってものよね。あたしだって特に大きな秘密を今抱えているわけだし。
「そう。それで……助けてくださってありがとう、“ジョン”。あたし、とても困っていたの」
このフェア精神を言外に伝えるべく、あえて英語に戻って言った。
「役立ててよかった。もう送ろうか?」
「うーん、そう、ね……」
そもそもを言うと橋の上で旅情と孤独に耽ったら、つまり時間にして一・二時間もしたら戻るつもりだったのだ。黄昏時から夕食前に。供も付けずに行方をくらますなんて、本来許されるわけはないんだけど、あたしは昔からの“跳ねっ返り”で、実はちょくちょく脱出癖がある。そうして越えちゃいけないラインっていうのをわきまえているので、王族剥奪なんてことにはならずに呆れられるくらいで済んでいる。
“ディナーは大使館で会食を……明日の出立前に朝はスピーチと記者会見、それから……”
むせ返る香水の匂いと共にマダムの早口スケジュールが頭を巡る。あ、あ、早再生をし過ぎて何を言っているの――要は今帰れば
「カフェに寄りたいわ」
口をついて出たのは真逆の言葉、思わず眉を八の字にして訂正する「だけど――」
「ツケでいい」
からかうようにくすりと彼は笑うから、「よかった」なんて返しちゃった。
それで浴衣を着て街に繰り出したのよ。湿った洋服はクリーニングに出して、好きな柄を売店で選んで。彼の着流しもそれで調達したらしく、さも当然のような流れだった。
白地に降る青の線を縫うように、金魚が泳ぐ。黄色の帯を彼が締めてくれた。なんだかヘンというか不思議な人。これを着付ける部屋やクリーニングの仕上がり時間とか、何気ない調子で尋ねただけで、予想以上の答えが返ってくる。“交渉”をするというよりも――自動扉のように立つだけで先が開く。なんだかそれが当然、みたいな錯覚をしてしまうのよね。かくいうあたしも、なんだか心地よい流れに身を任せたい気分になっていた。ひとつ大きな傘の下肩触れ合って。
梅雨どき、日本の初夏は雨が多くてでも日が長く、空の底にはまだ目に眩いオレンジ色が沈んでいた。溶けきらない夜を紫色に透かして、まるでこのブルー・ムーンのカクテルのよう。
夜はカクテルも出す洒落たカフェ。海を望むバルコニーテラスのテーブルは、雨音に耳を澄ませる特等席だ。内陸にはない悪戯さで、生あたたかな風が時折り息を吹きかけて髪をくすぐる。
『子供の頃から奔放で』なんて言われる性格からか、身の回りではレディ扱いに飢えていて、だからちょっと背伸びをしてメニューでぱっと目についたアルコールを読み上げた。大人の女性だなんて虚勢は張らないけど、あたし、成人しているのよ。事実としてね。
わぁ、とでも運ばれてきたグラスに小さな歓声を漏らしてしまったから、仕方なくごまかし笑いをする。小さな三角のグラスに夏のもやをくぐらせ冷えた夜をそそいだような、ヴァイオレット。
乾杯、と同じグラスを傾けた手を返してそのまま口へと流し込む。
ああ目に止まったのは偶然なんかじゃなかったのね。
立ちくらんでしまいそうな強く甘いスミレの香りに誘なわれ、バニラで優しく包んでレモンの爽やかさを舌に残す……ブルームーン、青い月なんて見たことないけれど、でも見上げたのだっていつぶりかしら。
「ひと月に二度目の満月が見えたなら、それは青い……青い幸運だ」
瞳を見つめて言われたら、誰だって心臓が跳ねる。そうよね? 度が強いのよね。体がカッと熱くなったのは。なんなのこの色っぽいムードは。特に確信的なことは言ってないのに。そうよね? ただ由来を口遊んだだけで、別にあたしの瞳に掛けたわけじゃない。囁くように低く甘い男性の声だったとしても。そのグラスが傾く様を覗き見る。こくりと喉が動く。オリエンタルな着流し姿にカクテルグラス。外国人の方がむしろ多く若者は少ない中で悠然と。天地がないまぜになったようなくらりとした酩酊を覚える。月のない夜の瞳は映したものを全て塗り潰してくれるかしら。あなたはだあれ。あたしはだあれ。
――ジェーン・ドゥ
――ジョン・スミス
そうね。
「ねぇ、ジョン……泊まるところがなくて、困っているの」
日本の夜は湿っていて、あつくて、甘くて酔う。
目覚めてみれば跡形もなく、ハンガーには皺ひとつないブラウスとスカートが掛かっていた。
デスクにはエーデルワイスの小さな花束と、メモには公用語でよい休日を、と。
嘘みたいに晴れた朝日はいつもより高く昇っていて、ホテルをでて、クロワッサンを食んで、タクシーに乗って帰った。丁度その分の紙幣を入れていたみたい。必要になるとでてくることもあるから、ポケットって不思議ね。
今回ばかりはお咎めを覚悟していたんだけど、深く深く、ため息をつかれただけだった。
言いたいことはたくさんあるけれど――とにかく、話は終わったことで、無事で、よかったと、表情なり言葉なり身振りの概要はそう。それにしても一国の王女が一晩姿を消して、人を探しに出したりはしなかったのかしらん。と質してみたくもなるけど、どの口が蒸し返すのか、ということよね。問題ない――その通りでございましたが、とマダムは自分に言い聞かせるように絶え間なくぶつぶつ言っていて、訊きづらくもあったし。
戻ってきた分刻みのスケジュールをこなして、でもいつもより疲労を少なく感じた。暗記を思い出せなくなる緊張を鎮痛剤ですませずに、そのときは自分の考えをスピーチしてもなんとかなるかな、と楽観して。ジェーン・ドゥはいたんだから。
日本はいかがでしたか、と最後に問われたとき、あたしの目は会場の隅に控えたある外交官書記官に釘付けだった。そのまま真っ直ぐに見つめて答えたの。
「ありがとう、とても楽しかったわ――忘れられないくらい」
どこから偶然じゃなかったの? でもまた会えるならいいわ。
王女としてツケを払ってあげる。バイバイ、ジョン・スミス。
よい休日を。
石煉瓦の橋の上で車は小魚の群れのように規則正しく過ぎていき、歩く人は機械仕掛けのように半円を描いて避けていく。白いブラウスを肌に張り付け、刻一刻濃くなっていく萌葱色のスカートを穿いた乙女はオルゴールのように歌う。そこにスーツを着た若い男性が現れて、ゼンマイを止めた。メロディの途中できっと止まないように。
なのであたしは運命に観念して嘯いた。
「ジェーン・ドゥ」
すると彼も答えたの。
「ジョン・スミス」
かくしてあたし、小国の王女と訪問国の見知らぬ日本人は出会った。お互い、偽名でね。
…… 。
自国で? もちろん傘をさすわ。理由のひとつはいたって単純。お金がなかったの。だってそんなの持つ必要ないから。でもコンビニエンス・ストアで傘を手にいれるには通貨が必要なことも知っている。何不自由なく用意もできたわ――ほんの出来心で迎賓館を抜け出していなければね。国賓としての自覚はないのかって? 人間何時間まで寝ずに耐えられるかっていうのがあるでしょ……では人間何日間分刻みのスケジュールに耐えられるでしょう……ええ、そんなの日常だという人はごまんといるんでしょうね。ただあたしが徹底的に飽きてしまった。それだけが問題。ごめんなさい。
ああそうだもっといい例えを思いついたわ。きぐるみってあるでしょ、たとえばあの……伏字にすると***ー・マウス。常に分刻みのスケジュールでショーにでずっぱり、手を振りたえず感じよく笑いかけ、一生あのテーマパークと着ぐるみから出られないキャラクターになったとしたら……たぶん絶望すると思うのよ。それで、人目をはばかって着ぐるみから抜け出したらきっとあたしのようにジェーン・ドゥ、男ならジョン・スミスと名乗るってもんだわ。つまり“名無しの権兵衛”をね。
と、ずっとあたしはひとり頭の中で喋っていたの。向こう風とエンジン・走行音で声はかき消されるしわりかし舌を噛みそうになるほど体が振れるのね、バイクって。殆ど怖いからと、滅多にない機会だから前の背中にぎゅっとしがみついていた。暗色のスーツはしっとり濡れてより色濃く、ヘンな男だとは思ったけど既に確信に変わっていた。傘の意味は? スーツでバイク。大型の。まあこれもあたしの思惑通りといえばその通り。日本人って勤勉で実直、規則を重んじるって聞いたわ。あと日和見主義……そんなステレオタイプで見ちゃいけないって分かってるけどまあ、橋の上で歌う変人への対応を見る限り傾向はそれを裏付ける感じね。で・まあ、悪いとは思ったのよ。もしこんな面倒に巻き込むとするなら、良心の呵責が薄れるような変人がいいかな、てね。
「銭湯だ、レディ・ジェーン」
連れてこられたのはリョウゴクのそんな場所。“銭湯”がジャパネスク文化だとは知っていたけど、施設は新しく現代風で、殆どスパと変わらないものだった。裸もまぁ知人がいないなら恥はかき捨てね。こちらのサウナも裸だし。
とってもいい気持ちだったわ。雨と汗でじっとり湿った肌には格別。炭酸だの薬湯だの打たせ湯だの、数は多いし岩盤浴まであるし……これは男女混合だったけど裸でないのはいいわね。なんといっても清純なうら若き乙女だもの。
そうして綺麗さっぱりして、横目で見ながら右マエの館内着を着て、のんびり出て行ったのよね。入浴後のリラックス・スペースまでいくつかあって、畳の間を見渡したときに見つけた。
着流しの……浴衣姿。実にくつろいで文庫本を読み耽っている。あたしはすたすたと歩いて行って横にすとんと腰を降ろした。そしてよくよく顔を覗く。外は霧雨で移動はヘルメットを被っていて、若い男という以外の情報はなかったはずだから。
整髪剤の落ちた髪は心なし目にかかり、瞳と同じ鴉の濡羽のような黒だ。頭ひとつ抜けた長身に、東洋とも西洋ともつかず離れずただ言えるのは精確に整った顔立ち。
《ハーフ?》
《クォーターらしい》
思わず自国語で呟くと、思わぬことにその言語で答えが返ってきた。顔をとくとく見てても素知らぬふりだったのに、ようやく本を閉じた。ただキリがよかっただけかもしれない。
《まぁ、じゃああなたのおじいさまかおばあさまが》
《いいや、言語は趣味なんだ》
そう? 彼は困ったように笑ったけど――
あたしがこう早合点するのも無理はない。自国語というのはとてもマイナーなのだ。ややこしいんだけど自国の公用語でもなく、それに訛りを加えた通俗語だ。
俄然親近感が湧いた。小国の王女、というのは謙遜ではなくて、都市程度の広さと言ったら分かりやすいだろうか。知り合いの知り合いは知り合いの知り合い、と言っても過言ではない。ああ、経済・文化の面でなんら引けを取らないのでおみくびりなく。
ただ、まあ……
『クォーターらしい』
これ以上突っ込むのは野暮ってものよね。あたしだって特に大きな秘密を今抱えているわけだし。
「そう。それで……助けてくださってありがとう、“ジョン”。あたし、とても困っていたの」
このフェア精神を言外に伝えるべく、あえて英語に戻って言った。
「役立ててよかった。もう送ろうか?」
「うーん、そう、ね……」
そもそもを言うと橋の上で旅情と孤独に耽ったら、つまり時間にして一・二時間もしたら戻るつもりだったのだ。黄昏時から夕食前に。供も付けずに行方をくらますなんて、本来許されるわけはないんだけど、あたしは昔からの“跳ねっ返り”で、実はちょくちょく脱出癖がある。そうして越えちゃいけないラインっていうのをわきまえているので、王族剥奪なんてことにはならずに呆れられるくらいで済んでいる。
“ディナーは大使館で会食を……明日の出立前に朝はスピーチと記者会見、それから……”
むせ返る香水の匂いと共にマダムの早口スケジュールが頭を巡る。あ、あ、早再生をし過ぎて何を言っているの――要は今帰れば
「カフェに寄りたいわ」
口をついて出たのは真逆の言葉、思わず眉を八の字にして訂正する「だけど――」
「ツケでいい」
からかうようにくすりと彼は笑うから、「よかった」なんて返しちゃった。
それで浴衣を着て街に繰り出したのよ。湿った洋服はクリーニングに出して、好きな柄を売店で選んで。彼の着流しもそれで調達したらしく、さも当然のような流れだった。
白地に降る青の線を縫うように、金魚が泳ぐ。黄色の帯を彼が締めてくれた。なんだかヘンというか不思議な人。これを着付ける部屋やクリーニングの仕上がり時間とか、何気ない調子で尋ねただけで、予想以上の答えが返ってくる。“交渉”をするというよりも――自動扉のように立つだけで先が開く。なんだかそれが当然、みたいな錯覚をしてしまうのよね。かくいうあたしも、なんだか心地よい流れに身を任せたい気分になっていた。ひとつ大きな傘の下肩触れ合って。
梅雨どき、日本の初夏は雨が多くてでも日が長く、空の底にはまだ目に眩いオレンジ色が沈んでいた。溶けきらない夜を紫色に透かして、まるでこのブルー・ムーンのカクテルのよう。
夜はカクテルも出す洒落たカフェ。海を望むバルコニーテラスのテーブルは、雨音に耳を澄ませる特等席だ。内陸にはない悪戯さで、生あたたかな風が時折り息を吹きかけて髪をくすぐる。
『子供の頃から奔放で』なんて言われる性格からか、身の回りではレディ扱いに飢えていて、だからちょっと背伸びをしてメニューでぱっと目についたアルコールを読み上げた。大人の女性だなんて虚勢は張らないけど、あたし、成人しているのよ。事実としてね。
わぁ、とでも運ばれてきたグラスに小さな歓声を漏らしてしまったから、仕方なくごまかし笑いをする。小さな三角のグラスに夏のもやをくぐらせ冷えた夜をそそいだような、ヴァイオレット。
乾杯、と同じグラスを傾けた手を返してそのまま口へと流し込む。
ああ目に止まったのは偶然なんかじゃなかったのね。
立ちくらんでしまいそうな強く甘いスミレの香りに誘なわれ、バニラで優しく包んでレモンの爽やかさを舌に残す……ブルームーン、青い月なんて見たことないけれど、でも見上げたのだっていつぶりかしら。
「ひと月に二度目の満月が見えたなら、それは青い……青い幸運だ」
瞳を見つめて言われたら、誰だって心臓が跳ねる。そうよね? 度が強いのよね。体がカッと熱くなったのは。なんなのこの色っぽいムードは。特に確信的なことは言ってないのに。そうよね? ただ由来を口遊んだだけで、別にあたしの瞳に掛けたわけじゃない。囁くように低く甘い男性の声だったとしても。そのグラスが傾く様を覗き見る。こくりと喉が動く。オリエンタルな着流し姿にカクテルグラス。外国人の方がむしろ多く若者は少ない中で悠然と。天地がないまぜになったようなくらりとした酩酊を覚える。月のない夜の瞳は映したものを全て塗り潰してくれるかしら。あなたはだあれ。あたしはだあれ。
――ジェーン・ドゥ
――ジョン・スミス
そうね。
「ねぇ、ジョン……泊まるところがなくて、困っているの」
日本の夜は湿っていて、あつくて、甘くて酔う。
目覚めてみれば跡形もなく、ハンガーには皺ひとつないブラウスとスカートが掛かっていた。
デスクにはエーデルワイスの小さな花束と、メモには公用語でよい休日を、と。
嘘みたいに晴れた朝日はいつもより高く昇っていて、ホテルをでて、クロワッサンを食んで、タクシーに乗って帰った。丁度その分の紙幣を入れていたみたい。必要になるとでてくることもあるから、ポケットって不思議ね。
今回ばかりはお咎めを覚悟していたんだけど、深く深く、ため息をつかれただけだった。
言いたいことはたくさんあるけれど――とにかく、話は終わったことで、無事で、よかったと、表情なり言葉なり身振りの概要はそう。それにしても一国の王女が一晩姿を消して、人を探しに出したりはしなかったのかしらん。と質してみたくもなるけど、どの口が蒸し返すのか、ということよね。問題ない――その通りでございましたが、とマダムは自分に言い聞かせるように絶え間なくぶつぶつ言っていて、訊きづらくもあったし。
戻ってきた分刻みのスケジュールをこなして、でもいつもより疲労を少なく感じた。暗記を思い出せなくなる緊張を鎮痛剤ですませずに、そのときは自分の考えをスピーチしてもなんとかなるかな、と楽観して。ジェーン・ドゥはいたんだから。
日本はいかがでしたか、と最後に問われたとき、あたしの目は会場の隅に控えたある外交官書記官に釘付けだった。そのまま真っ直ぐに見つめて答えたの。
「ありがとう、とても楽しかったわ――忘れられないくらい」
どこから偶然じゃなかったの? でもまた会えるならいいわ。
王女としてツケを払ってあげる。バイバイ、ジョン・スミス。
よい休日を。