「私ね、人魚の末裔なの。」
人生のシメに選んだ、深夜営業をしているチェーン店のラーメン屋で出会った女性が言う。
女性の名前は高木 ネリネ。
真剣な面持ちでラーメンの量を悩んでいたネリネに、意外と具材が腹に溜まるから気をつけた方が良い、とおせっかいを働いた結果。彼女に妙に懐かれ、人気が少ない店内で隣り合ってラーメンを啜ることになった。
「…へえ。珍しいね。」
斉藤 晴一は興味深く、ネリネの虚言に相づちを打つ。
「そう。誰にも内緒にしていたけれど、明日の朝に泡になって消えちゃうから言っちゃった。」
ネリネはいたずらっ子にように笑いながら、ラーメンの丼を傾けてスープを美味しそうに飲んだ。その白く細い喉元が嚥下する動きは生きているが故に美しく、そして色っぽかった。
「おっと…。ふふ、行儀が悪くてごめんね?」
唇の端から垂れそうになるスープを左手の親指の腹で拭い、舐め取る。大丈夫、と晴一は頷いて見せ、ふとあることに気が付く。その薬指には青い石がきらりと輝く、指輪が存在した。どうやらパートナーがいるらしい。
「そういえば、この店の出汁って魚介系だけど。それは構わないの?」
「え?ああ…、共食いだね。」
あっけらかんとネリネは笑った。
「大型魚だって、小魚を食べるでしょ。それと一緒。同族を食べることが禁忌なのって、人間だけよ。」
ネリネは、ごちそうさまでした、と言って両手を合わせた。かと思えば、再びメニュー表を手に取る。
「まだ食べるのかい。」
「杏仁豆腐。迷うなあ。」
どうやらデザートを食べるかで悩んでいるらしい。
たっぷり5分ほど考え込み、結局、ネリネは杏仁豆腐を追加注文した。時刻は軽く午前0時を過ぎている。彼女ほどの年齢だったら体重を気にして節制しそうなものだが、ネリネには迷っても天秤はダイエットに傾かなかったようだ。
「斉藤さんも食べれば良いのに。」
「僕は大盛りでラーメンを食べたから、それで充分なんだけど…。まあ、それも一興か。」
「そうこなくちゃ。」
すみませーん、と朗らかに店員を呼び、彼にも、と道連れにされた。
そして杏仁豆腐が運ばれてくるまでの間、話を続ける機会を得た。
「それで、何だっけ。ああ、そうだ。人魚。」
晴一は冷やを口に含みつつ、有名なアンデルセン童話を思い出していた。
「朝になったら、消えちゃうの?」
「うん。泡になってね。」
随分とネリネは楽観的だ。自身の体が泡になるなんて、随分と恐怖するものだと思うが。
「仕方が無いんだ。ほら、私、魂がないからさ。」
「ふーん。いいなあ。」
ぽとん、と雫が落ちるかのように晴一の本音が漏れた。ネリネは瞳をぱちぱちと大きく瞬かせる。
「本当?本当に、そう思う?」
「え、うん。」
身を乗り出すようにネリネは晴一の顔を覗き込む。
「弾けて消えたら、何も残らないけど。」
「いいじゃん。」
晴一の言葉を聞いて、彼女は何故か嬉しそうだった。
「そうでしょう、そうでしょう。」
そして祈るように両手で口元を隠して、ふふふ、と笑う。「失恋をして、泡になって消えるのは人魚の誉れなんだよ。」
「失恋、したの?」
「そう。命を燃やすような恋だった。」
ネリネは満足そうにため息を吐いて、その恋の愛しさを目色に滲ませながら遠くを見つめる。薬指の指輪は、恋人の名残のようだった。
「僕もそんな恋をしてみたかったな。」
「過去形?」
「そうだね。君と一緒で、明日の朝に死ぬから。」
「そうなの?何故。」
「自殺をしようと思って。」
ネリネは、そっか、と言う。そして。
「じゃ、一緒に逝く?」
また簡単に晴一を道連れにするのだった。

杏仁豆腐をするりと簡単に食べ終えて、会計を済ませた二人は店を出る。深夜の国道沿いは、車の流れも緩やかだ。季節は12月。冬。店内で温められた肺に、すっきりとするような空気感だった。ひゅっと口笛を吹くような風に、海の香りが混じっている。
「朝まで、どうしようか。」
近くに24時間営業の店がないか、スマートホンで調べながら晴一は隣に立つネリネに問う。
「あ、あそこでいいんじゃない?」
ネリネが無邪気に指差した先には煌々とした光を灯す、いわゆるラブホテルがあった。時々、田舎にはこういったホテルが突然に情緒なく存在する。
「…いいけど。」
世間一般的に何をするところかわかってる?と目で訴えると、何故かネリネは自慢げに胸を張った。
「大丈夫!性行為、つまりセックスをするところでしょ。」
「知らないのかと思った。」
「私、そんなに初心に見える?」
「うっかりすれば、ね。」
晴一の言葉にネリネは、ふは、と吹き出した。
「おもしろい。もう処女じゃないんだよ。」
「もっと恥じらいを持ちなさい。」
呆れたように大きなため息を吐き、晴一は歩き出した。
「じゃあ…、入ってみる?」
「ええ、行きましょう。いつまでもこんなところじゃ、体が凍えちゃうわ。」
先を行く晴一を追い越して、ネリネはまるでスキップを踏むかのように軽やかだ。
彼女に手を引かれ、程なくしてラブホテルの前に立つ。料金表を見るに、都会と比べて随分とリーズナブルなようだった。立地条件の差か。
自動ドアをくぐったフロントには、客室と料金が掲載された写真パネルがあった。パネルは電工で光り、一目で空室がわかる仕様になっていた。意外にも使用中の部屋が多いことに驚く。
「皆、飢えてるのね。」
「生々しいな。」
クスクスと笑い、どこにする、と二人囁きあう。
「この部屋は楽しそうだけど、落ち着かないわ。」
「ここだとベッドが丸くて寝にくそうだね。」
そして結局、一番シンプルに見える部屋に落ち着いた。チェックインを済ませ、晴一とネリネはエレベーターに乗り込む。
「…。」
沈黙の時間が流れたが、何故かその方が彼女の気配を色濃く感じられた。ふと、晴一の乾いた手の先にネリネの指が触れる。薬指をピンポイントにきゅっと握られて、その手のひらをしっかりと握り返す。冷たい手で、自分の体温で温まっていくのを感じた。
そういえば、魚は人間の体温で火傷をすると聞いたことがある。そっと小柄な彼女を見下ろすと、頬が緩み、口角が上がっている事に気が付いて安心した。
そして、ポーンと小気味良い音が響いて、目的の階数に到着する。降り立ったホテルの廊下は静かでひっそりとしていた。防音はしっかりしているようだ。
やがて選んだ部屋の前に立ち、カードキーを使って扉を開ける。室内はふかふかとする毛足の長い絨毯が敷かれていて、足音が全くしない。ネリネはコートを着たまま、広々としたベッドにダイブする。
「うわー、ふっかふか!」
はしゃぐネリネを横目に、晴一は上着をハンガーにかけて壁に吊す。
「服、しわになるよ。」
「いいよ、別に。ね、見て。この部屋にして良かったでしょ。」
ネリネが寝転びながら指差す方向には、大きな水槽が置かれていた。中には海藻がゆらりと揺れて、水の循環する音が静かに響いている。世話が大変なのだろう、魚は一匹もいない。
ベッドサイドで膝を抱えて、ネリネは懐かしそうに水槽を見つめている。晴一も彼女の隣に腰掛けた。
「楽しそうだね。」
「ん?うん、そうだね。楽しいよ。」
ところで、とネリネは言葉を紡ぐ。
「このスイッチってさ、何だろうね?」
サイドテーブルの上には、遠隔用のリモコン式のスイッチがあった。
「弄ってみれば?何かが壊れることもないだろうし。」
「そうする。」
手のひらに納まる程度の小ささのスイッチを、ネリネは躊躇なく押す。カチッと音が立ち、一瞬。水槽の灯りが消えて、大きな鏡のような役割を果たした。
「ははあ、なるほど。」
晴一は一人、合点がいったように頷く。
「え、何?」
きょとんと目を丸くして、首を傾げていたネリネが晴一に問うた。
「これ、自分たちのセックスを見るための装置だよ。」
鏡になった水槽に姿を映す行為は時に人を客観視させ、それによる羞恥を煽るのだろう。
「えー、それって冷めない?」
ネリネは冷静になるタイプのようだ。
「どうだろうね。」
「確かめてみようよ。」
「…さっきから疑問だったんだけど、僕たちってセックスをするの決定なのか?」
「むしろ、しないの?」
二人で見つめ合うこと数秒。晴一がため息を吐くことで、沈黙は解除された。
「もっと自分を大事した方が良いよ。」
「私は人魚だから、欲に忠実なだけ。」
彼女曰く、人魚は野生の生き物と同じで寝たいときに寝て、食べたいときに食べるらしい。
「人間に比べると、随分と怠惰に見えるかな?」
「…君は、どうして人魚なんだ。」
「難しい質問をするなあ。じゃあ、あなたはどうして人間なの?」
まるでシェイクスピアの劇のようなことを言う、とネリネは笑った。
「でもね、証拠もあるのよ。ほら、人は空を飛ぶ夢をよく見るって言うじゃない。」
「うん。」
「私は夢の中でも空を飛べない。でも、代わりに水の中で自由に呼吸をすることができるの。」
青い光のカーテンをくぐり、白い水底の砂をなぞる。無重力の体は軽く、どこまでも泳いでいけるらしい。
うっとりと陶酔するように、ネリネは言う。
「夢の中、だよね。」
「? そうよ。」
「…ふーん。」
晴一は上半身を倒して、ベッドに沈んだ。確かにスプリングが効いていて、気持ちが良い。
「え、ねえ、ちょっと!寝ちゃうの?」
微睡むように目蓋を閉じる晴一を見て、ネリネが慌てたように声をかける。
「んー…。ちょっとだけ。」
「ええー!?」
ネリネが晴一の肩を叩いて抗議するが、その振動はさらに眠気を誘うのだった。

「ー…、」
ゆっくりと瞼を持ち上げる。晴一は深呼吸を繰り返した。時刻は深夜3時を少し、過ぎたぐらいだった。見慣れない天井に少し戸惑い、そして流れるシャワーの音に気が付いた。
首を動かして流水音の気配を探ると、ネリネがシャワーブースにいた。耳を澄ませば、彼女の鼻歌が聞こえる。それは今年の春に流行ったドラマの主題歌だ。小さな歌声は可憐だが、微妙にリズムが外れていた。
人魚なのに歌が苦手なのか、と微笑ましく思い、晴一は小さく笑ってしまった。
「あ!やっと起きた!」
シャワーのコックが捻る音が響き、水の音が止まると元気よくネリネが扉を開けた。ブースから出てきた彼女の姿は、裸体だった。
白い肌が眩しく、その肌の上を転がるように水の雫が伝う。程良くついた脂肪が健康的な印象を与え、手足が長く、まるで子鹿のようなしなやかさだった。
肩にタオルだけを掛けて、腰に手を当て怒っている。
「レディを無視して寝るとは何事だ!」
「レディが素っ裸なのは問題ないのか?」
起き上がった晴一はバスローブを手に取って彼女に近づき、ネリネの裸を隠すように包んだ。
「ごまかされないぞ、ジェントルマンめ。」
貶しているのか、褒めているのかよくわからない言葉を吐きつつ、ネリネの機嫌は些か良くなったようだ。
晴一はネリネの髪の毛がまだ濡れていることに気が付き、洗面所からドライヤーを取って戻ってくる。
「ほら、風邪引くから。」
ネリネをベッドに座らせると、晴一はドライヤーのスイッチを入れて風の温度を確認した。
「乾かしてくれるの?」
晴一が頷くと、ネリネはふふふと笑って喜んだ。
「何だか、お姫さまみたいな気分。」
「僕はトリミングしてる気分だよ。」
彼女の髪の毛は量が多く、完全に乾かすには骨が折れるらしい。確かに豊かな黒髪は美しかった。
「…ねえ、聞いてもいい?」
晴一がドライヤーの風の音にかき消されても良いと思いながら呟いた声量を、ネリネの耳は拾う。
「なあに。」
「君はどんな王子さまに恋をしたの。」
ネリネの髪の毛を一房、耳にかける。くすぐったかったのか、彼女はぴくりと肩を震わせた。
「私の王子さまはね、腎臓が悪かった。」
ネリネは自分の腹を撫でるように、そっと手で触れた。さっき見た彼女の裸体にあった、桃色の傷痕を思い出す。特に気にしていなかったが、その痕がネリネの王子さまに関係してることを察する。
「だから、私の腎臓を一つあげたの。」
「ふーん。」
ドライヤーの温風を、冷風に変える。
「と言うことは、旦那さんだったのか。」
確か、生体腎移植をするには親族である必要があったはずだ。晴一は勝手に物語を補填して、頷く。
「ううん。兄。」
「ん?」
風の音でネリネの声が聞こえづらく、一回、スイッチを切る。
「この指輪ね、彼がくれたんだ。」
ネリネは自らの左手を天井の照明にかざす。青い石の色が光に透けて、一瞬薄くなる。
「あの頃が、一番しあわせだったなあ。」
光を掴むように、ぎゅっとかざした手のひらを握る。
「人間って、弱い生き物よね。」
形のよい頭蓋骨が、俯く。そして、
「ごめん。」
晴一は彼女を背後から抱いた。ネリネは泣いていた。その小さな体から表面張力を破り、彼女の悲しみが零れ出ているようだった。
「…、っ。」
声もなく、耐えるようにネリネは涙を流す。晴一の抱きしめる腕に、ぽつ、と降り始めの雨のような涙が落ちた。温かかった。
「…はあ。」
鼻が詰まったように、苦しそうに呼吸をする。
「大丈夫?」
「うん。」
一頻り泣き、ネリネは手渡されたティッシュで鼻を啜った。
「私、あなたのことも聞きたい。どうして、明日死ぬの?」
「…自分から聞いておいて、自らのことを話さないのはフェアじゃないよな。」
晴一は困ったように頭をかく。ネリネは黙って、彼の言葉を待っている。
「職場を辞めさせられたんだ。」
「リストラってこと?」
「それならまだ、吹っ切れるかな。」
未だに、この感情を整理することができない。
「仕事の先輩に告白されて、断ったんだ。」
心臓が嫌な軋みを立てる。
「…その腹いせかな。セクハラをされたと、会社の上部に訴えられた。」  
憧れて、入った会社だった。転職が珍しくない昨今で、生きがいだった。やり甲斐も感じていた。
「冤罪だ。僕は何もしていない。…誰も、信じてはくれなかったけれど。」
冷や汗が出て、落ち着けようとして握った拳が震えた。その手に、ネリネは自らの手を重ねてくれる。
「つらかったねえ。」
よしよしと晴一の気を落ち着けるように、ネリネは手を撫でた。その労りが、妙に心にしみた。
「ごめんね。」
「? 何故、謝るの?」
「王子さまを亡くした君に対して、僕が死にたい理由がこんな話で。」
ネリネは瞳を大きくぱちぱちと瞬かせた。
「あなたが死にたいほどつらい話なんでしょ。理由に善し悪しもないわ。」
「そうかな。」
「そうだよ。」
互いに、弱い部分をさらけ出したゆえの親密さが増していた。晴一とネリネはベッドに寝転んで、手を繋ぎながら天井を見つめた。時にはセックスをせず、ラブホテルで寝るのも中々乙な物だと思う。
「ねえ、キスをしてもいい?」
ネリネがふと思い出したかのように、提案をする。
「んー…?」
晴一は再び眠くて、堪らなくて、返事がおろそかになってしまった。それでも構わないとばかりに、ネリネは言葉を紡ぐ。
「人魚の肉を食べると不老不死になるって言うでしょ?でも、さすがに私、痛いのは嫌だからさ。だから、唾液だけでも交換しよ。」
長生きしてね、と呟いたネリネの声が聞こえ、そして唇に柔らかい感触が残った。

夢すら見ないほどの睡眠を貪っていたが、ふとした瞬間に泡が弾けるような意識の浮上を感じた。
「…ネリネ?」
隣を見て、彼女がいないことに気が付いた。
「…。」
部屋を見渡しても、ネリネの気配がない。一応、財布を確認するも何もマイナスにはなっていなかった。
いっそのこと、だまされていたなら良かったのに。
置いて行かれたという苦い思いを噛みしめるように、チェックアウトする支度を始める。
「ん?」
青く輝く、ベッドを映す水槽にメモが貼られていることに気が付いた。そっとメモを剥がし、そこに綴られた文章に目を通す。

晴一。
私の王子さまはね、死んでいないの。ただ、私が関係性に耐えきれなくなって、家を出ただけ。
私の物語こそ、晴一の理由に及ばないわ。

「…なんだ、良かったじゃないか。」
晴一は笑みを零す。彼女の好きな人が存在する、というだけで万々歳だ。
続きを読む。

私、晴一を好きになるかも。だから、死なないでね。
泡になる代わりに、私の魂を置いていくね。

「…。」
ネリネの魂。
それは、水槽の底に沈んでいた。
青い石の指輪。王子さまから貰った物。
「バカだな…。宝物だろうに。」
晴一の瞳の縁に、涙が一粒浮かんだ。指の腹で拭って、舐めると海の味がした。
わがままな人魚姫のために、生きるのも悪くない。
「そういえば、」
晴一は、スマートホンで調べて、昨日のラーメン屋に電話をかける。
「もしもし、求人募集のポスターを見てお電話したのですが…。」