翌日。出勤してこないロキを心配し、同僚が部屋を訪ねてきた。インターホンを鳴らしても返事がないので不振に思い、大家さんにマスターキーで開けてもらった。
「誰もいない……」
 そのことを帰ってから上層部に報告すると、オーディンは組んでいた腕を解いて呟いた。
「ロキめ、脱走したな」
「ええ!?」
 その場にいた全員が驚いた。
「しかし、ロキはエリートですぞ。脱走など……」
 トールが困惑気味に反論する。
「実は先ほど、グールヴェイグの夫から連絡があってな。彼女が離婚届を置いて出て行ったそうだ。おそらく、ロキと駆け落ちしたのだろう」
 オーディンは、軍人のロキと科学者のグールヴェイグが一緒にいる場面を何度も見ている。珍しいわけではないが、それがあまりにも多くて不審に思っていたのだ。
 さらに、防犯カメラでロキの部屋にグールヴェイグが入っていくのを何度か確認していた。すぐに追及しなかったのは、軍がテュルフング・ボムを完全に掌握できるまで時間がかかったからだ。
「ここまではスムーズだったがな」
「オーディン、どうするんですか?」
 バルドルが尋ねた。この男はアスガルドの外交官で、政治に大きく関わっている。彼もまた、ある事件によって北欧神話の神として名を残すことになる。この脱走劇で懸念していたのは、テュルフング・エネルギーの技術が他国に流れることだ。技術は国境を簡単に越えられるため、周辺国が同じテュルフング・ボムを開発することが心配だったのだ。
「追っ手を出すぞ。連れ戻すか、それができなければ殺害しろ」

 オーディンから冷徹な命令が下された時、ロキとグールヴェイグはスカンジナビア半島の西にいた。レンタカーを借りて脱走して半日。そろそろ軍も気付くころだ。今日のうちにはロキの軍籍も剥奪されるかもしれない。そうなると、軍人専用の電子決済などができなくなる。あとは先に引き出してきた現金が頼りとなるのだ。
「できれば夕方までには着きたいなあ」
 のんきな口調とは裏腹に、ロキは焦っていた。オーディンのことだ、追っ手には精鋭を差し向けるだろう。しかし、港から民間船に乗り込んでしまえば戦闘機で追いかけてきても手出しができない。夕方の6時発の船に間に合わなかったら、翌朝の8時が始発だ。それまで、グールヴェイグを護りながら追っ手をかわすことに自信がなかった。
 現在午後4時。6時の出港までぎりぎりといったところだ。
「ロキ、いざとなったら私を殺して」
「は?」
「私に脅されたことにして投降すれば、あなたは助かるかもしれないわ」
 冗談じゃない。そんなこと言って信用するオーディンではない。そもそも、そんな中途半端な気持ちで脱走などしない。
 ふと、太陽の光が遮られた。雲がかかったのか?
「え……」
 雲ではなかった。ロキたちが走る車には、十字型の陰がかかっていたのだ。
「スレイプニルか!!」
 上を見上げて視認した後、ロキはハンドルを切った。次の瞬間、アバリスの矢が炸裂した。
「きゃあっ!!」
「しっかりつかまってな!!」
 戦闘機で車を撃つなど卑怯この上ない。何とかかわしているが、車のボディ数カ所に被弾している。エンジンやタイヤを撃たれて動きを封じられるのも時間の問題だ。
「このままじゃやばいな……」
 そう思ったロキは、崖に向かって車を走らせた。
(一か八か……)
 狭い崖の下に行けば戦闘機は入ってこられない。その代わり、車も無事では済まないだろう。しかしロキに迷いはない。
「うおおおおおお!!」
 車は狭い崖の下に飛び落ちていった。