【小高塾】と筆文字で書かれた木製の看板をじっと見つめて中に入る。数十名の生徒が座れる机と椅子が並べられていた。席は満席になるくらいの塾は繁盛していた。小学生から高校生まで受け持っている。時間は平日に夕方1時間と夜に2時間で分けて授業をしていた。模擬試験のポスターが掲示板に張り出されていた。教室内をじろじろと愛香は眺める。その後ろを暁斗は追いかける。千晃は、外で紙タバコを吸っていた。中に入ろうとしない。通うことのない愛香に見せても商売にならないだろうなとも思っていた。

「結構、広いね。綺麗だし。ボロボロかと思った」
「そ、そんな、どんなイメージよ」
「いや、先生の実家が少しボロボロのところあったから、築年数がね」
「あぁー、そういうことか。塾するんだから新しくするでしょ」
「そりゃ、そうなんだけどね。千晃先生ってケチだからさ」
「そうかなぁ、最近は羽振りいいよ? 俺が見てる限りでは」
「……えー、ずるい」
「ずるいって、俺は先生の恋人か?」
 少し頬を膨らませて、機嫌悪くなった。冷や汗をかいて、手に負えないなあと感じた暁斗は、千晃を呼びに行く。まだタバコを吸い終わっていない。シャツのすそをひっぱられて、教室の中に移動する。

「おい、引っ張るなよ」
「いいから、先生、白崎と話しなって。俺、隣の駄菓子屋行ってるから」
 背中をどんっと押された千晃は教壇に体がぶつかった。ホワイトボードに変な絵を描き始めた愛香の隣に近づいた。

「何、書いてるんだよ」
「ちいかわの栗まんじゅう」
「よく描けるなぁ。俺も描くか」

 突然始まるイラスト教室みたいだった。横目で2人の様子を見ながら、暁斗は静かに立ち去った。3分もかからずに着く駄菓子屋で商品を物色した。

「先生、画伯だね」
 イラストを描くのは苦手な千晃は、犬を描いたのか猫を描いたのか、はたまたラクダを描いたのかわからない動物になっていた。

「だろ? 不思議な生き物だな」
「オリジナルティ溢れてていいね」
「キーホルダー作ったら売れるか?」
「いや、無理かな。それは」
「なんだよ。ゆるキャラでいけるだろ」
「……どうかなぁ?」
 愛香はそう言いながら絵を描く。千晃は横で保護者のような目線で見つめる。

「仕事、うまくやってるのか」
「……? 仕事? うん、そうだね。まぁまぁ、調子いい感じ。お金ためて、ほら、腕時計買ったんだ。可愛いっしょ」
「お? ブランドだな。土星のマーク」
「え、先生、よく知ってるね。女の人の好きなブランドなのに……」
「昔の彼女も同じブランド好きだった。財布買ってってねだられたからな」
「……元彼女?」 

 ちょっと顔を伏せて、残念そうにする。悲しむことを言ってしまったかなと、千晃は、愛香の頭にそっと触れて撫でた。

「泣くなよ」
「泣いてないです」
「……そう」
 小さな声で話す愛香をぎゅっとハグをした。要求してないのに、不本意で抱きしめられることに違和感を持つ。

「ごめんな、こんな生活させて……」
「え?」
「本当なら、愛香だって高校卒業して大学行って、就職してって道があったかもしれないのに……俺が阻害してしまったと後悔してるよ」
「……先生」
 愛香は千晃の背中に腕をまわして、顔を体に触れて、横を向いた。

「私、後悔なんてしてないよ。後悔する暇があったら、未来を変えることを考えるから。あ、言ってなかったんだけど、私、看護師免許を取ろうと思ってるんだ」
「……そうか。俺よりも考え方が大人で良かったよ。俺の方が子供みたいだ。看護師?」
 千晃は、愛香の首の後ろで手を組んで顔を見つめた。愛香は顔を緩めた。

「お母さんの背中見て生きて来たから、私も看護師になりたいなって。今、独学で勉強してるよ。通信制の高校で卒業検定受けようと思ってる。安心して、人生やり直しはいくらでもできるから」
「……それってお母さんから言われたのか?」
「ううん。自分で決めたの。自分自身で考えたんだ。まだお母さんに言ってない。お金貯めて、看護学校通うつもり」
「そっか。成長したな。愛香。俺は、お前に惹かれた意味が今わかった気がしたよ」
「??? 何の話」
「いや、何でもない。あ。おはぎ食べるって話どうなった? あいつ、暁斗はどこだ」
「先生、待って!!」

 外に出ようとした体を後ろから抱きしめた。体が硬直して動かない。

「少しこのままでいい?」

 どこからか風が吹きすさぶ。千晃は後ろにしがみつかれたまま動かなかった。背中に感じる愛香のぬくもりがあたたかった。後ろを振り返り、髪をかきあげてそっと顔を近づけた。お互いに目を閉じてキスをした。2人は頬を赤くして手を握った。何も言わなくても言おうとしていることが分かった気がした瞬間だった。