潮風が吹いていた。
小波が白い肌に触れる。岩のごつごつしたところに足を乗せると近くにヒトデがへばりついていた。
遠くの沖の方でサーファーが大きな波を待っていた。
砂浜では子供連れの家族がテントを貼って海水浴を楽しんでいた。
今年は海の家でイカ焼きがおすすめらしい。宣伝旗が反対向きになって風になびいている。
フリルのワンピースに帽子をかぶり、ビーチサンダルを履いて、滄溟(そうめい)を眺めていた。
心が落ち着く。目をつぶって潮音(ちょうおん)を感じた。

学校や街の雑踏から逃げ出して、海という自然の音に心安らいでいる。

「愛香、そんなところにいるとクラゲに刺されるぞ」

 両手に冷えたラムネの瓶を両手に持って千晃先生は言った。スラックスズボンをたくし上げ、明らかに海の男の恰好ではない。ワイシャツにネクタイまでつけている。なんで着替えないで来たのだろうと疑問に思う。

「……先生こそ、なんでそんな恰好で」
「いいだろう。別に。なんとなく自然の流れでこの恰好になった。職業病かもしれないな」
「え? 今日って学校行かなかったんだよね。平日だし、ずる休み?」
「……永遠のずる休み?」
 
 千晃先生は、ニカッと歯を見せて笑う。ラムネの瓶を一本愛香に渡す。

「もしかして、学校辞めた?」
「さーてどうでしょうか」

 砂浜にレジャーシートを敷いていた千晃先生は、座って海を眺めた。

「嘘でしょう?!」
「嘘じゃない。本当」
「え、どういうこと? おちょくってる?」
「俺、やめたわ」
「は?! 学校退職したってこと?」
「いやぁ、まさか俺がこういう状況になるとは思わなかったわ。ドラマみたいで驚いている」

 予想外な展開で笑いがとまらない千晃先生は、天を仰いで寝っ転がった。日差しが眩しかった。愛香は、全身が固まって動揺を隠しきれていなかった。千晃先生は腕を目元に乗せてぼーっとする。暑くて汗がしたたり落ちるが、気にもしない。風が強く吹いてパタパタとレジャーシートが動いた。海沿いでは砂遊びをする子供たちがきゃきゃ盛り上がっている。おしゃれな水着を着て、豊満な胸をアピールする女性たちもいた。愛香は、どんな景色を見ても何だかこれからどうするのかが心配になってしまう。

「何、考えてる?」
「……先生、本当にそれで良かったの?」
「俺が好きでこの道を選んだ。いいだろ、別に」
「私もこれで良かったの?」
「誰に聞いてるんだよ。お前が決めろよ」
「……そうだよね。うん。それは分かってるけどもまだ考えが落ち着かない」
「同じ穴のむなじだろ?」
「……先生、それを言うなら同じ穴の(むじな)でしょう」

 ぷっと吹いて笑ってしまう。愛香は笑いが止まらなくなって、涙が出た。
 教師としての屈辱感が満載だった。穴があったら入りたい気持ちになる。千晃先生は、腕で目を隠したまま何も言わなくなった。

 波が激しくなってきて、レジャーシートにまで押し寄せて来た。

「あ、大変。濡れちゃう!」

 慌てて、シートを移動させようと思った愛香はその場で転んだ。砂まみれになり、スカートのすそが少し濡れた。

「……なにやってるんだよ」

 踏んだり蹴ったりで、愛香は先生の手を借りて起き上がる。なんだかんだ言って今の状態は海でのデートじゃないかとㇵッと気づいた。急に恥ずかしくなる。パッと引っ張られた手を離した。今さらなのに顔を赤くする。ここにいるのは愛香と千晃先生2人。ほかにお客さんはいるけど、まったく知らない地域の人。この空間は誰にも邪魔されないはずなのにどうしてドキドキして罪悪感が残るんだろう。だめだという気持ちが強く感じる。千晃先生は、愛香の頭をポンポンと優しくなでた。
眼鏡が太陽の光で反射する。どんな目をしているかわからない。表情を確認できない。ずるいなと感じる。こちらは裸眼のままでそのまま見えてしまう。恥ずかしすぎる。本当はそばにずっといたい。誰にも邪魔されたくない。頬を赤くしたまま、先生の左腕を引く。

「先生、私は一緒にいていいんですか」
「……ああ」

 大きかった波がゆっくりと優しく(さざなみ)になっていく。空気を読んでくれる海に感謝したい。

 足元では小さな蟹がゆっくりと横に歩いて砂の中に潜っていった。