「お部屋は、こちらでございます」
「おい、サキ。これはどういうことだ?」
「ええ、ええ! 若さまが、お部屋の準備は任せると、仰ったではないですか!」
「えっと……わたしは、どこでも大丈夫ですので……」

 休む部屋にと案内された場所は、とても美しい部屋だった。襖には控えめながら麗しい花の絵が描かれており、床の間には活けた花が、違い棚には香炉や壺などが飾られている。家具は机のほかになく、部屋の真ん中に布団が一組敷いてあった。

 そしてこの部屋は、十夜の寝室と廊下を挟んで向かいだという。
 十夜は、険しい目つきでサキに言う。

「客室を用意したんじゃなかったのか」
「伊織さまには、このお部屋こそがふさわしいですよ!」
「あの……。ご迷惑をおかけして……すみません……。わ、わたし、使用人室でも、構いません……」

 おずおずと伊織が言うと、十夜は、はっとした顔になり、

「……いや。大丈夫だ。自由に使ってくれ」
「と、十夜さま……。わたし、あの、今晩泊めていただけるだけで、本当に感謝しています……。どなたかのお部屋でしたら、わたし……」

 十夜は、頭を掻いた。

「……問題ない。誰も使っていない部屋だ。ただ、ここは……。伊織嬢には迷惑ではないか?」
「い、いえ……?」
「……そうか。なら、この部屋を使ってくれ」
「は、はい……っ」

 十夜が部屋に入ったので、伊織も続く。
 豪華すぎて不安なこと以外は、特に問題はない。そもそも、布団を用意してくれるだけでも、本当にありがたい……。
 伊織は、深々と頭を下げた。

「あ、あの……。改めて、助けていただいて、ありがとうございます……」
「別に。当然のことだ」

 十夜がなんでもないことのように言うものだから、伊織は素直に感心した。

「……十夜さまは、誰にでも優しいお方なんですね。こうして、わたしなんかも助けてくださるなんて……。普段からこのような慈善活動をされているなんて、尊敬いたします……」
「ゆっくりしていってくれ」
「はい」
「……うふっ」

 サキの口から笑い声が漏れ、伊織は振り返った。

「うふふふ! 若さまがこのように人を――それも女性の方を連れてこられたのは、初めてなんですよ!」
「……え……?」
「……うるさいぞ。お前はもう出て行け」

 そう言って十夜は頭を掻いた。クールな表情が、少し崩れているように見える。

「はいはい。ではまた朝に。若さま、明日の資料はお部屋へ置いておきます」
「ああ。あとで部屋へ戻る」
「おやすみなさいませ、若さま、伊織さま」

 サキが、部屋から出て行く。
 足音が遠ざかると、十夜は、「はぁ」と息を吐いた。

「十夜さま……?」

 十夜は、伊織の髪を掬って、言った。

「俺は、誰でもは拾ってこない 。……ただ、どうしようもなく、お前を連れて帰りたくなっただけだ」
「……っ」

 伊織の頬が、簡単に赤くなる。

 あの時の――湖での出来事を思い出す。
 昏い湖を見ていたら、なんだかもう全てがぼんやりして。冷たい水は冷たいままで、夜風も冷たくて、すべてが寒くて、嫌になった。このまま沈んでしまってもいいだろうかと、そんなことが頭をよぎった。
 そんな時、突然声が聞こえて――。
 月夜に佇む十夜さまの姿は、なんだかとても神々しく見えて。
 彼はまっすぐ湖に飛び込んできて、それが、まるで、――光のような気がしたのだ。

「……なんだ? 熱でもあるのか?」
「……!  え、えっと……」

 すっと十夜の手が伊織の額に触れて、心臓がドキッと跳ねる。
 彼の大きな手と、長い指、……それらがわたしのおでこに……。

「……っ」
「ん? また熱が上がったか?」
「…………」

 伊織は、ドキドキする鼓動を抑えられないでいた。


 そうして、ふたりがそのまま一緒にいると、
 バン! と、窓になにか小さいものがぶつかった音がした。

(……な、なんだろう……?)

 伊織は、音がした廊下の方を見る。

「……ちょっと見てくる」
「は、はい……」

 十夜が立ち上がり、さっと障子を開ける。廊下の窓ガラスに、細長い白い紙が張り付いていた。窓を開けると、それはふわりと宙に浮き、家の中へと入ってきた。
 廊下に着地すると、細長い紙は蛇腹折りになり――。カサカサと音を立てながら、しゃくとり虫のように歩き出した。

 蛇腹折りの小さな式神。
『巳』――()(ぬま)家の(へび)(しき)(がみ)だ。巳沼家の人間が作るこれは、遠くにいる相手と、連絡を取ることができた。映像の受け渡しはできない。音声のみの会話が可能であった。
 窓からやってきた蛇式神は、十夜へ仕事の話をしに来たようだった。

「…………」

 敷き布団の上に座って、伊織はその様子を眺めていた。
 ぼわんとしたスピーカー越しのような声がして、

「……つまりですよ? 十夜さん。それって、鬼の痕跡ってことですか?」
「おそらく、そうだ。姿は見えなかったが」

 十夜が返答している。
 十夜の前の床には、先ほどの白い紙――蛇式神があって、そこから男性の声が聞こえていた。

 伊織は、少し離れた位置で、その話を聞いていた。

(そうだ、お父さまが言っていた……。昨日の会合は、近頃でるっていう、鬼の話だったって……)

 伊織は鬼を見たことがなかったが、退治は困難を極めるという話は知っていた。十夜と巳沼の話を聞いていると、どうやら十夜が森にいたのは、鬼の警戒のための見回りだったらしい。
 十夜は手短に報告して、会話を切り上げる。

「今は他の九頭竜が見回っている。……ああ、大丈夫だ。引き続き手配してくれ」
「了解です。……ところで十夜さん。そこに誰かいません? なんかいつもと違って人の気配がします――」

 ぐしゃ。十夜は、蛇式神を潰した。
 けれど、声はまた聞こえた。
「もしかして、女――」
 ぐしゃ。
「藪蛇――」
 ぐしゃ。
 声は、ようやく聞こえなくなった。蛇式神が、スゥーと虚空に消えていく。

 十夜は、伊織の方に向き直った。

「すまない。仕事の話をここでしてしまった」
「た、……大変ですね……」
「いや。これも、九頭竜家の務めだからな」
「九頭竜家の……」

 伊織は、十夜の顔を見つめた。彼は、一見涼しい顔をしている。しかし、梨々子の話によれば、今夜だけでなく昨夜も見回りにでていたはずだ。
 伊織は、おずおずと話しかけた。

「あの……。お、お疲れさまです……。えっと、その……。十夜さまも、お休みになってください……」
「いや、俺は……大丈夫だ」
「――え?」
「俺は――あまり寝なくても大丈夫なんだ」

 十夜はそう言うが、伊織にはそうは思えなかった。

「で、でも……。横になるだけでも……あの……いいって、聞きますし……」
「まあ、そうは言うが……」
「あの、目を瞑るだけでも、起きているよりは、きっとよろしいかと……」
「……わかった。やってみよう」

 十夜は頷くと、部屋の壁に寄りかかるように座り込む。そして、腕組みをすると、そのまま目を閉じた。

「…………」
「…………」

 十夜が静かになってしまったので、伊織も黙っていた。
 彼は、さすがに寝たわけではないようだ。目を瞑って体を休ませる、格好だけだ。こんなことで――それも客人の部屋で座ったままという――そんな状況で、休めるとは思えなかった。

(わ、……わたしが、言っちゃったから、わざとここで……)

 客室で目を瞑るなど、普通ならしないだろう。――伊織の言葉を受けて、しばらく目を瞑ってくれる演技だろうか。
 寝たふりをする十夜に、伊織は近付いた。

「…………」

 近付いても、十夜は目を開けない。
 目を閉じていても、凜々しいお顔。()()(たま)のような髪。閉じられた目の長いまつげが美しい。その端整な顔立ちの中に、ほんの少し、疲労の影が見えた気がして。

「…… おつかれ、なんですね……」

 伊織は、十夜にそっと布団をかけると、そばにぺたんと座った。

(十夜さま……)

 十夜は、相変わらず目を瞑ったままだ。そんな彼の顔を見ると、伊織は、なんだか不思議な――ふわふわとした気持ちになった。


 十夜さま、十夜さま、夢みたいです。
 あの時――湖でわたしを助けてくれた時、本当に、光みたいだって、思ったんです……。
 あなたに抱えられたときの体温が温かくて、わたし、涙が出そうでした。
 死ぬのはやっぱりまだ怖くて、温かなご飯は嬉しくて、温かなお風呂も嬉しくて、人と話すことは少し楽しくて、だから、だから――…… 。

「ありがとう、ございます……」

 十夜さまが、よく眠れますように――。

 伊織は小さく微笑むと、そう祈った。
 その時。
 組んだ手のひらから、ぽぅ……と、光が発生し、

「……え?」

 伊織が状況を理解するより早く――ふたりの間に暖かな色の光が広がった。



 翌朝。
 伊織はぼうっとしたまま、緩やかに目を覚ました。どうやら、座ったままの体勢で、寝てしまったようだ。

「うぅん……。あれ……?」

 いつの間にか、体に布団が掛けてあった。
 それに、なんだか、とっても温かい。
 ――これは、布団のぬくもり? ううん。もたれている柱が、温かいんだ。
 なんだか、心地良くって、まだ夢の中みたい……。

「起きたか」

 耳元に直接、十夜の声が降ってきて、伊織の頭はすぐに覚醒した。
 すぐ隣に十夜が座っていて、伊織は彼に寄りかかって眠っていたらしい。

「えっ!? とっ……! 十夜さまっ……!?」
「俺の肩は、よく眠れたか?」
「はっ……わ……ぁぁ……」

恥ずかしすぎて、声にならない。

(と、十夜さまといっしょに眠っていただなんて……! ど、どうして……!?)
 伊織は思わず、両手で顔を覆った。