(どうして……)
あの後――居間を出た伊織はタオルで顔を拭き、――しかし拭いても拭いても顔が濡れるものだから、耐えきれずに家を飛び出した。
外出許可は尋ねない。
伊織は裏山に背を向けて、街の方へと駆けていった。
羊垣内家は街のはずれの高いところ――山の入り口に大きな敷地を構えている。
「…………」
本当は、このあと裏山で水を汲みたかった。井戸水より綺麗な水を手に入れて、それで呪符を早く書けるようにしようと思った。
けれど。
(無意味……なんだ)
(梨々子が結婚したら、わたしは家を追い出されてしまう。……そうなると、わたしはどうなるんだろう……)
伊織は走りながら考えた。
能力が低いわたしは、他の十二支の家からも求められないだろう。庶民と結婚させられるのか、あるいは――文字通り家から追い出して、そのまま、か――……。
「……っ」
……ありえそうで、嫌になった。
伊織は目をつぶった。
(どうしてわたしばっかり……)
妹は、望まれた姿で生まれてきた。父に似た髪色、継母に似た顔立ち。父と同じ能力を持ち、――父より強い能力になると言われている。華やかな容姿で、縁談も上手くいっている。
(一方わたしは……)
死んだ母に似た容姿。それが一層、継母の不興を買う。父と同じ能力をもつこともできず、家も継ぐことはできない。
最初は、妹と同じように訓練を受けていた。しかし、伊織の呪符は光らなくて――父と、同じ能力は授かっていないと分かるや、見限られて――そのままだ。
(家族が並んでいるのを見て、――わたし抜きで、三人だけで家族として完成されてて……――わたしは、この家にいらないんだって、……ようやく気づいたの……。……でも、気付きたくなんかなかった……)
――考えがまとまらずぐるぐるしていると、
「きゃ……っ」
ずっ。と膝が地面にこすれて、
伊織は膝から転んだことに気がついた。
「あ……」
履いていた下駄の鼻緒がちぎれたのだ。それは草藪に転がっていった。
「……もう片方は……? どこ……?」
探しても見つけられない。
伊織は、鼻緒のちぎれた片方の下駄だけを持って、足袋で歩き出した。
街を目指していたはずなのに、いつしか闇雲に走っていたようだ。
(ここ、どうだろう……)
どうも見知らぬ土地に立っていて、伊織は道に迷ってしまったようだった。
なんだか無性に泣きたくなって、
(道で誰かに見られるのは、恥ずかしい……)
伊織は木立に入る。木の陰にうずくまって、体を震わせた。
そうして気が付けば、――夜になっていた。
「あ……」
辺りが暗くなったことに気付いた伊織は、慌てて立ち上がった。
(さすがに、帰らないと……。……)
勝手に家を飛び出して、なにをされるか分からないが――しかし、それでも、伊織には他の選択肢が思い浮かばなかった。
(……こんなにされても。結局は、家に帰っちゃうのが、嫌だな……)
伊織は拳を握ったが、すぐに力なくぶらりとさせた。
道のすぐそばの木立に入ったはずだ。少し歩いてみれば、道に出るだろう。
伊織は歩いてみることにする。
「暗くて、何も見えない…………」
夜の森は暗く、ここは森の中で、木々しかない。
何の虫だか分からない虫の声が合唱している。
歩く度に枝などが足袋を貫通し、
「痛っ……」
伊織は顔をしかめながら進んでいった。
しばらく歩いてみても、道には出なかった。
(……迷っちゃったみたい……)
森の道に慣れていないこともあり、伊織は擦り傷を増やしながら歩いていた。
しかし、
(……もう、いっそ。このままでいいのかも……)
森を抜けると、違う街に出られるような気がして。――実際は頭京内のままのはずだが――伊織はそのまま森を歩いていった。
しばらく歩いていくと、ふと木々がはっきりとわかる方角があり、
「あっち、なんだか明るい……」
伊織はそちらに向けて歩き出した。
「わぁ……」
やがて、森は開け――湖に出た。背の高い木々に囲まれた、まあるい湖。その水面は、夜なので黒く光っている。
こんな夜にお月様は満月で、煌々と明るく輝きながら、湖にその姿を映している。
「綺麗……」
伊織は、湖の縁に近付いた。
さきほどまであんなに鳴いていたはずの虫の声は聞こえない。妙にシンとした静けさの中で、伊織は立っていた。
ふと見ると少し先――湖の傍には、なにやら立て看板があり、近付いてみる。
「……『水深深し。立ち入るべからず』………………」
伊織は、看板の文字を読み上げながら、つぅ――と指でなぞった。
「…………」
なんだか、魅力的な呪文のようだった。
伊織は、昏く光る湖をもう一度見る。
幻想的だった。
母はいない。父は自分に厳しく、無関心。継母にはいじめられ、腹違いの妹には馬鹿にされて、使用人のように働かせられて……。
(こんな綺麗な場所で、――死ねたなら)
伊織はゆっくりと湖の中に足を踏み入れた。
ちゃぷん、と足を水に入れる。
服は着たままだ。脱ぐと、なんだか寒いような気がしたのだ。これから水に入ろうというのに、おかしな話だ。足袋の中に水がじゅわりと染みこんだ。三月の夜の水は冷たく、足がじんじんと痛む。
ちゃぷん、もう一歩、進む。
夜風がビュウと吹いて、伊織の長い髪を揺らした。
「…………」
人生は、なるようにしかならない。
伊織は常々そう思って生きてきた。
自分の力でどうにか出来ることは少なすぎて、手の届く範囲はあまりにも狭い。反論や反抗をしたところで、敵わないし、叶わない。
決定事項の事柄を、今さら自分がなにか動いたからといって、どう変わるでもない。いつもそうだった。
台風がすぎさるのを待つ雑草のように、日々を過ごしていくしかなくて。
でも、それさえ、もう耐えられないのなら。
(そう、だから、もうどうにもならない……。家に帰ったところで、またわたしは……どうせ、……。…………)
だから、これで、いい。
ざぶりざぶりと、伊織は足を進める。
この先の水深は看板の通り、深そうだ。
伊織は下半身まで水に浸かった。
その時だった。
「何をしている!」
「……っ!?」
背後から声をかけられて、伊織の心臓はドキリと跳ねた。こわごわと、後ろを振り返る。
湖を囲む木々の間――岩肌の崖のようになっている箇所が一部あり、その上に人がひとり、立っていた。
(男の……人……?)
夜空に輝く満月のもとに立つ人の姿は、――なんだか神々しく見えた。
月明かりを背にしたその姿は、
「今助けに行く!」
と叫ぶと、俊敏な足取りで岩肌を降りる。
そしてそのまま躊躇もなく湖の中へザブザブと入ってきた。勢いよく、水しぶきがあがる。
それは、端整な顔立ちの青年だった。歳は二十代前半、艶やかな黒髪は夜の中でも美しく、青い瞳は宝石のようだ。
「…………っ」
伊織はびくりとして、一歩後ずさる。
真剣なまなざしとともに水に入った青年の姿は美しく、月明かりに照らされた白い肌、すっと通った鼻筋、キリとした眉、顔に散った水しぶき、そのすべてが鮮烈で、そのすべてから伊織は目が離せなかった。
そのまま彼がどんどんどんどん伊織に近付いてきて、そうしてついには伊織の体を抱き上げたものだから――体が持ち上がってはじめて伊織は我に返り、目を丸くした。
「ひゃ……っ」
「大丈夫か?」
「…………っ」
青年の顔が近く――その顔があまりにかっこよかったものだから、伊織ぽうっとすることしかできない。
がっしりとした腕に、温かな体温を感じる。彼の手に触れられている肩は、妙に熱い。
「……とにかく、岸へ」
青年は伊織を抱き上げたまま、岸へと戻った。
湖は、また元の水のさざめきを取り戻していた。虫の声も再び聞こえる。
「こんな夜に、なぜ湖なんかに入っていたんだ」
「え……あ……」
地面に下ろされた伊織は、そう聞かれて返答に詰まる。
「………………えっと……。……わ、わたし……。…………」
湖の魔力はもう、ない。自らの意志で入水したことを思い出し、伊織は体をぶるりと震わせた。
(わたし、自分で……死ぬことを考えちゃったんだ……。……今湖を見ると、もう、怖い……)
湖は昏い水をたたえたまま、たゆたっている。
ここで彼に話をすることはすなわち、羊垣内の評判に影響するかもしれない……。
「えっと…………」
伊織は言葉に詰まり、もごもごとなにかを言いかけてはやめた。
……こんなに返事が遅ければ、もう彼は自分を見限って置いていってしまうだろう――皆のように。伊織はそう思ったが、しかし彼は伊織を見たままずっと黙って、次の言葉を待っていた。
(…………)
伊織はちらりと彼の顔を仰ぎ見た。
青年は、伊織の言葉を待っていた。
(もし、全部話してしまえたら……)
「わたし……その……」
しかし、伊織はぐっと言葉を飲み込んだ。
(ううん。初対面の方に、なにを言おうとして……。わたしが、羊垣内の人間とは言わないようにしなきゃ――)
仮にも、羊垣内は十二支の家の一員で、国内での地位がある。
自分が話してしまうことで、羊垣内の評判が落ちるかもしれない。
……自分の言葉によって、世間が動いてしまうことはなんだか怖い。
だから、
「…………あの、わたしは……その……み、水浴びしてて……」
「…………」
伊織の明らかな嘘に、青年は眉をひそめた。
(あ、あ――。や、やっぱり、無理が、あった……)
いたたまれなくなって、伊織はうつむいた。
しかし、次に彼からでた言葉は、意外なものだった。
「羊垣内が、お前をそうさせているのか?」
「……へっ……?」
彼の顔を――見る。
彼のまなざしは真剣な色をしていて、伊織の心はドキリと跳ねた。
(今――なんて……?)
「俺は九頭竜十夜。さあ、立て。行くぞ」
(……え?)
「く……くずりゅう……」
「そうだ」
「あ、あなたが……」
青年は――九頭竜家次期当主・九頭竜十夜は伊織の手を引き、歩き出した。