先週妻が死んだ。
 膵臓に癌が見つかってからはあっという間だった。
 日に日にやつれていく妻にしてやれることは何もなかった。
 最期の言葉は『ごめんね』だった。
 何もできない上に、謝らせてしまった後悔が重く心にのしかかる。
 幸いと言っていいのか分からないが、もう苦しむことはないと安心したのか、死に顔は穏やかだった。
 妻とは高校生の時からの付き合いだ。
 享年二十五。
 社会人になってすぐに結婚したものの、二人の生活はあまりにも短かった。

   ◇

 葬儀も済み、がらんとした部屋に一人。
 入院した日からずっとそうだったのだから今さらなのに、この先もこんな人生が続くのかと思うと、冷たい床の上で膝を抱えてしまう。
 結婚以来二人の食卓だったガラステーブルは湖のように寒々としていて、ぬるくなった強い酒のグラスが水たまりに溺れている。
 テーブルの向こうにはいつも笑顔があった。
 思えば、生きているうちに見せられるだけ見せておきたいと無理にでも笑っていてくれたのかもしれない。
 だから俺は、妻の体が病にむしばまれていることに全然気がつかなかったのだ。
 沈黙の臓器と言われる膵臓は癌の進行が速く、また、治療も難しいとされる。
 なぜ、どうして……。
 何の持病もなく、まだ若かったのに。
 寂しさもむなしさも怒りも、どこにぶつけていいのかわからない。
 何もない壁に向かって投げかけてみても、吸い込まれるばかりで返事はない。
 自分を責めるために、自らを罰するために、同じ質問を繰り返す。
 帰ってくるわけないと分かっているのに、今この瞬間、ドアが開いて『ただいま』と姿を見せるんじゃないかと顔を上げてしまう。
 だが、そこにあるのは閉ざされたままの扉だ。

   ◇

 それでも会社へ行く。
 俺は生きていかなければならないのだ。
 一人でも。
 受け入れたくなくても、受け止めなければならない。
 立ち止まりたくても、歩き続けなければならない。
 泣きたくても、泣いては……いけないのか?
 車窓から差し込む朝の光が目にしみる。
 満員電車の扉に押しつけられながら、社会人としての理性がかろうじて涙腺を締め上げている。
 列車がビルの谷間に入って日陰の窓が鏡になった。
 そこに映る俺の顔はゆがんでいる。
 無様な姿を見せまいと必死に頬を引きつらせている。
 早く慣れなければ。
 この現実に。
 これから俺はずっと一人で生きていかなければならないんだ。
 俺以外の乗客はみなスマホに夢中で他人に関心など抱かない。
 泣いても泣かなくても結局俺は一人だ。
 電車が再びビルの谷間を抜けると、ゆがんだ顔が光に溶けていく。
 窮屈な満員電車に耐えているふりをしながら俺は必死に涙をこらえていた。

   ◇

 つきあうきっかけは数学だった。
 俺たちの高校は英語と数学の授業が進学コース別編成になっていて、彼女とは数学だけ同じクラスだったのだ。
『ねえ、宿題やってきてある?』
 話しかけられると思ってなかった俺は声が出ずにただうなずくのが精一杯だった。
『解説のここのところね、どうしてこうなるのか分かる?』
 数学の宿題は副教材の問題集で、略解だけでなく詳細な解説もついているけど、自力で理解できないところはどうしても出てくるものだ。
『ああ、これは途中の計算が省略されてるんですよ。この式を展開した結果が①の右辺と同じになるじゃないですか。だから、そこに代入できるってことになるんで、さらに続きを計算するとこうなるわけ……です』
『ああ、そうなんだ。そこをちゃんと書いておいてくれないとダメだよね』
『数学の解答って、分かってる人が作ってるから、苦手な人がつまずくところが分からないんだろうね』
『そうそう、そうなのよ』
 いかにも、いいこと言うじゃないといった感じにうなずきながら手をたたく。
『説明上手だよね。先生より分かりやすいよ』
『それほどでも』と、とっさに謙遜したものの、内心では拳を振り上げていた。
 すごくかわいい女子がいるとまわりが彼女のことを噂していたのは知っていたけど、勉強以外に取り柄のない俺は空気みたいな存在だったし、それまでずっとヒマラヤ山脈の奥地に咲く高嶺の花だと思っていたのだ。
 だから話ができただけでも奇跡だったし、お世辞にしてもまさか褒められるなんて、エベレストの頂上から世界を見下ろしたような気分だった。
 しかも、それ以来彼女は授業前に分からないところを俺に聞くようになっていた。
『なんでおまえが』と、男子連中にはどつかれたけど、俺は彼女にどんな質問をされても答えられるようにますます念入りに準備をした結果、つねに数学は満点で学年末に表彰までされたのだ。
 ただ、終わりが来ることは覚悟していた。
 進級して選択科目が変われば、会う機会がなくなる。
 俺はただ、彼女にとって都合のいい勉強相手に過ぎないのだから。
『えぇ、そんなふうに思ってたの?』
 つきあうようになって打ち明けたら彼女に笑われた。
『そのわりには大胆だったよね』
 そう、俺は終業式の後、下校する大勢の生徒たちが立ち止まって息をのむ中、堂々と彼女に交際を申し込んだのだった。
『好きです。つきあってください』
 自信もなかったけど、ためらいなどなかった。
 ダメならそれはしかたがないけど、何もせずに終わらせるのはもっと嫌だった。
 どんな話もいつだって笑って聞いてくれたから、俺は正直に自分の気持ちを伝えることができたんだ。

   ◇

 幸せだったんだよ。
 こんな俺でも生きている価値があるってことを彼女は教えてくれたんだ。
 彼女を喜ばせることが俺の生きがいで、彼女を笑わせることが俺の楽しみで、『おいしいね』の一言のために料理を作り、『ありがとう』のために花を飾り、俺の頭の中は常に彼女のことでいっぱいで、二人で過ごす時間の積み重ねとともに薄れるどころか、ささいな日常が輝きを増していくばかりだった。
 間違いなく、俺は幸せだったんだ。

   ◇

 酒量ばかりが増えていく。
 元々弱いくせに、妻のいない部屋で見切り品の弁当をつつく寂しさから逃げたくて、仕事帰りに何軒も梯子するようになっていた。
 どれほど浴びたかも何を食って吐いたかも覚えていない。
 最終電車に乗り込んだ俺は雑巾のようにシートにもたれ、揺れるがままに眠りに落ちていた。
 気がつけば俺は醤油の香りがする街に運ばれていた。
「お客さん、終点ですよ。降りてください」
 一人車内に残っていた俺に声をかけると車掌さんが去っていった。
 馬鹿だな、終着駅まで乗り過ごしちまったのかよ。
 漫画のような千鳥足で電車から転がり出ると、背中でドアが閉まった。
 日付はとっくに変わっていた。
 折り返しの電車なんて朝までない。
 駅前は醤油樽に突き落とされたみたいに真っ暗だった。
 なんだよ。
 日本有数の漁港があるっていうのに、何もないじゃないかよ。
 港へ続く商店街の道は広いものの、無表情なシャッターが並ぶばかりでタクシー乗り場は空っぽだ。
 深夜営業のファミレスやカラオケ屋もないし、コンビニすら見当たらない。
 ぼろくてもいいからどこかにビジネス旅館とかないだろうか。
 あたりを見回していたら、フェンスの向こう、俺がさっき降りた終着駅のホームの先に別のホームがあるのが目に入った。
 ここからさらに岬へと続く小さなローカル電鉄だ。
 俺は思わず、フェンスにしがみついていた。
 レトロな車両が一両、夜の底にたたずんでいる。
 それを見つけた瞬間、俺の目から涙がこぼれ落ちた。
 熱い滴がぼたぼたと頬を流れ落ちていく。
 ――二人で来たんだよな。
 妻となる彼女との初めてのデートはこの小さな電車で行ける岬の灯台だったのだ。
 導かれたのか。
 俺を呼んだのか。
 何も、こんな時間に呼び出すこともないじゃないかよ。
 朝までどうしろって言うんだよ。
 ふらつく足取りのまま、俺は細い線路に沿って歩き始めた。

   ◇

 告白したあの日、『こちらこそよろしくお願いします』と頭を下げた彼女は、起き直ると、いきなり俺の手を引いて走り出した。
 ――ちょ、え?
『一緒に来て』
 いつもの帰りとは反対方向の電車に乗り、一時間以上ぎこちない会話をなんとかつないでたどり着いたのが終点のこの街だった。
 そして彼女は、終点のさらに先を指さして俺の手を引いた。
『あれに乗って、灯台に行くの』
 それはまだ動くのが不思議なほど昔の車両だった。
 実際、波乗かよというほどの揺れで、動き出した瞬間から、俺は酔ってしまわないかと気が気ではなかった。
 終業式で平日の午後だったからか、俺たち以外に乗客はいなかった。
 地元の学生ですら利用しない隠れ家のような電車は、付き合いたての高校生カップルにはありがたいことだけど、赤字なのが明らかだった。
『貸し切りだね』
 俺が苦笑しながらそうつぶやいたら、彼女が車内ポスターを指さした。
 地元の醤油を使った煎餅の広告だ。
『申し訳ないから、帰りにお土産にお煎餅買っていこうね』
 と、その時だった。
 シートから腰を浮かせて彼女が窓を指さす。
『見て見て、ほら、キャベツ!』
 海でも見えたのかと思ったら、沿線に広がっていたのは一面のキャベツ畑だった。
『ね、行ってみよ』
 ――え?
 次の駅に止まると彼女は俺の手を引いてホームに降り、去りゆく電車を見送ると、キャベツ畑の道へと入っていった。
 収穫時期なのか、開いた葉っぱに囲まれた中心にごろりと丸い玉が収まったキャベツは、それ自体が大皿に盛られた豪華な宴会料理のようだった。
『おいしそうだねぇ』と、歩幅をキャベツの間隔に合わせながら跳ねるように進んでいく。
『キャベツ好きなの?』
 うん、と満面の笑顔が返ってくる。
『キャベツはね、軽くお湯に通してサラダで食べるのが好き』
『生じゃないんだ。サラダじゃなくても、とんかつの付け合わせで千切りキャベツが出るよね』
『キャベツって生だと少し苦みがあるじゃない。ほんのちょっとだけね、お湯に通すと甘くなるのよ。それにドレッシングをかけるといろんな味が楽しめるでしょ。フレンチでもイタリアンでも中華でも、胡麻だれもいいかな。あ、黒酢タマネギなんか最高だよね』
 そんなふうに夢でも見ているかのような表情で話す彼女の横顔を、俺はずっと眺めていたいと思った。
 ちなみに、結婚して初めての食卓に俺が出した料理はもちろん『軽茹でキャベツのサラダ~五種類のドレッシングを添えて~』だった。
 途中下車した俺たちは、キャベツ畑からそのまま歩いて灯台へ向かった。
 灯台のある岬は日本で一番早く初日の出が拝める場所として有名な観光地で、平日でも車やツアーバスで来たお客さんがそれなりにいたけど、年配の人や外国人ばかりで、デートっぽい高校生は俺たちだけだった。
『みんな電車では来ないんだね』
 青空に映える白亜の塔を見上げながら彼女がつぶやいた。
『ここの階段はね、九十九段あるんだって』
 ――え、登るの?
 あからさまに顔に出てしまって、彼女がニヤける。
『もしかして、高いところ苦手?』
『いや、そんなことないよ』
 急な階段なのに、彼女がスカートなのが気になっただけだ。
 すると、彼女は鞄からジャージの下を取り出した。
『じゃーん、準備万端、スカートの下にこれを履くから大丈夫だよ』
 どうも思春期男子の動揺はダダ漏れだったらしい。
『ちょっと期待しちゃった?』
『そんなことないけど』と、ごまかした俺の顔を潮風が冷ましていく。
 ていうか、スカートの下にジャージって、女子高生のオシャレとは何なんだろうか。
 彼女に背中を押されつつ階段を上る間、俺はそっちの方が気になっていた。
 ご丁寧に段数が表示された階段をカウントダウンしながらてっぺんまで登り切る。
 俺の後ろから顔を突き出した彼女が肩越しに指さした。
『わあ、ほら、まん丸だよ。地球が見える』
 ぐるりと見渡す水平線が緩やかなカーブを描き、舞い上がる潮風にあおられた彼女の髪がなびく。
 柵につかまりながら灯台の壁に沿って展望台を回ると、海の反対側にはさっき歩いてきたキャベツ畑が見えた。
 プワンと、電車の警笛が耳に届く。
 傾きかけた春の日差しに目を細めながら彼女がポンと手をたたいた。
『じゃあ、帰ろっか』
『え、もう?』
 俺はてっきり、日没の海を眺めていくものだと思っていたのだ。
 すると、彼女は肩をすくめながら顔にかかる髪をかき上げた。
『夜遅くにこわいお父さんが待つ家まで彼女を送り届ける勇気が君にありますか?』
 俺は鼻の頭を掻くしかなかった。
 灯台近くの駅からローカル電鉄に乗って漁港の街まで戻ると、家に向かう乗り換えの電車はもうホームに止まっていた。
 ドア横のシートに二人並んで腰掛けると、かすかに醤油の香りが漂ってきた。
『あっ!』と、彼女が声を上げた。『お煎餅買うの忘れた』
 ああ、そう言えば。
 気づいた時はもう帰りの電車は動き出していた。
『また今度来ようね』
『宿題だね』と、俺は彼女の目をしっかりと見てうなずいた。
 車窓から差し込む夕日に照らされて彼女の頬が赤く染まる。
『こうやって、また来たい場所がこれからもどんどん増えるといいね』
 思いつきを実行に移す行動力と、うまくいかなかった結果も次の楽しみに変える心の余裕。
 行き当たりばったりの彼女にはいつも振り回されていたけど、俺だってそれが楽しくてしかたがなかったんだ。

   ◇

 月のない夜空に満天の星。
 足元は闇に沈んで何も見えない。
 灯台の光に導かれるように、俺は線路沿いを歩き続けた。
 プワン。
 警笛の空耳に驚いて振り向くと、闇の奥にぼんやりとした明かりが浮かび上がった。
 カタンカタン。
 レールがリズムを刻み始める。
 ――まさか。
 こんな時間に?
 小さな光がだんだん膨らんでいき、闇に慣れた目がくらむ。
 カタンカタン、カタンカタン。
 ――間違いない。
 軽やかなリズムと共に追い越していったローカル電鉄を俺は夢中で追いかけた。
 物置小屋のような駅舎の前で、見覚えのある制服姿の女子高生が手招きしている。
 ――どうして?
 それは知り合った頃の妻だった。
「早く!」
 ――待ってくれ。
 なんとか間に合って電車に駆け込んだとたん、白い光に包まれ、俺は思わず目をつむった。
 再び目を開けると、車窓にはあの日のキャベツ畑が広がっていた。

   ◇

 俺たちは二人並んでロングシートに座っていた。
 貸し切り電車は波乗りのように揺れ、車窓は流れているのに、キャベツ畑の風景が延々と続いている。
 路線全体でも片道二十分なのに、次の駅にすらまだ着かない。
 彼女は明らかにあの時の彼女なのに、俺の方は二十五のままで、設定だけ高校生のゴリ押し俳優みたいで気恥ずかしい。
 黙っている俺の顔を彼女がのぞき込む。
「どうして、泣いてるの?」
 指摘されるまで、頬が濡れていることにまるで気がつかなかった。
 歩きながら俺はずっと迷子の子供みたいに泣いていたらしい。
 俺は高校生の彼女に過酷な未来を伝えた。
「へえ、私、死んじゃうんだ」
 あまり興味のないアニメのネタバレを聞かされたような反応だった。
「ごめんな。気づいてやれなくて」
「君は全然悪くないでしょ」
 ――だけど……。
 言いかけた俺の言葉を、彼女が人差し指を立ててさえぎった。
「たぶん、本人だって、そんなに深刻な病気だなんて思ってなかったんじゃないかな」
「そうなのかな」
「しかたのないことってあるでしょ」
 ――だけど……。
 何を言われても、『だけど』という言葉が口を突いて出てしまう。
 だけど、その先には続きの言葉なんかないんだけどな。
 どうしたら良かったのかなんて、俺にも分からないんだから。
 医者でもないし、超能力者でもない。
 俺にできることなんて何もなかったんだからさ。
 運命なんて、どうにかしたところで変えられるようなものではないんだもんな。
 窓の外に広がるキャベツ畑に目を細めながら彼女がつぶやく。
「人生が長さで決まるなら不幸かも知れないけど、私はそうは思わないな」
「じゃあ、なんで、最期の言葉が『ごめんね』だったんだよ」
 責めるつもりなんかなかったのに、語気が荒くなってしまった。
 それがまた後悔の念を呼び起こす。
 彼女は首をかしげながら寂しげな笑みを浮かべた。
「幸せな瞬間だけ切り取って置き去りにした私はずるい人だよね。だから『ごめんね』なんじゃないのかな」
 ――ずるくなんかないよ。
 一番つらかったのは君だろ。
 ずるいわけないじゃないかよ。
 と、その瞬間、電車がトンネルに入った。
 ――え?
 平坦なキャベツ畑を走る路線にトンネルなんかあるはずないのに。
 いったいどこを走っているんだろう。
 暗い窓には俺たち二人の姿が映るだけで何も見えない。
 窓に映る俺に向かって語りかけるように、まっすぐ対面を見つめながら彼女がはっきりと言った。
「私のことは忘れてね」
 窓の中の彼女の目を見つめて俺は答えた。
「絶対忘れないよ。忘れられるわけないだろ」
「だけど、それじゃ……」
 その言葉に、今度は俺が人差し指を立てた。
「何度でも告白するよ。生まれ変わっても絶対に君を探しに行く。同じ運命に何度打ちのめされたって、必ず立ち上がって追いかける。だから……だから、いいだろ?」
 返事はない。
 トンネルの壁に反響した轟音が俺たちの沈黙を埋めている。
 背後で光が点滅している。
 俺たちは同時に振り向いた。
 それは回転する灯台の明かりだった。
 電車はいつの間にかトンネルを抜けて夜の線路を走っていた。
 暗闇をつらぬく灯台の光を見つめているうちに、ふと気がつくと、俺たちはほほ笑み合っていた。
 俺はあの日と同じ気持ちを彼女に伝えた。
「こちらこそよろしくお願いします」
 あの日と同じ答えに涙のダムが崩壊する。
 ――いいんだよ。
 泣いたって、いいんだよ。
 忘れようなんて、いくら頑張ったって無理なんだから。
 もうすぐ夜が明ける。
 二人の時間に終わりが来る。
 ここの日の出は日本一早いんだ。
 ゴトリと列車が揺れる。
 妻が俺の肩に頭をのせる。
「ねえ、こうしてていい?」
 ――ああ、いいよ。
 寄りかかった妻の手が膝の上の俺の手に重なる。
 ――いつまでも、このままで。
 揺りかごのようなリズムに耳を傾けながら俺たちはおたがいのぬくもりを確かめ合っていた。

   ◇

 愛することに終点なんかない。
 だから俺は前を向いて生きていく。
 ――だけどさ。
 たまには振り返ってもいいだろ。
 だって、俺は一人じゃないんだからさ。
 君はいつだってそこにいてくれるんだろ。

   ◇

 夜の終着駅は朝の始発駅。
 漁港の朝は早いのか、時が固まっていた駅前も活気に満ちあふれている。
 ――あ、そうだ。
 宿題を忘れるところだった。
 お土産を買っていかなくちゃ。
 売店の棚には煎餅の袋が、蒸気機関車にくべる石炭みたいに山積みで置かれていた。
「これを売らないと電車が動かせないんで必死なんです」
 醤油の街のローカル電鉄を動かす燃料ということか。
 都心へ向かう始発電車がホームに入ってくるのを待つ間、俺はひとかけらの煎餅を口に入れた。
「しょっぱいでしょ」
 漁港の汽笛に紛れて妻の声が聞こえた。
 ――潮のせいだよ。
 朝の光をまとった白い風が俺の頬を乾かしていった。