それは、花散らしの雨が降り注ぐ肌寒い4月のある夜のこと。


「ウチ、くる?」

「うん、行く」


たまたま通りかかった公園で、――野良猫を拾いました。


* * *


わたし、高木優羽(たかぎゆう)は大手商社の営業職で働く25歳の社会人4年目。


上司や同僚に恵まれ、仕事にやりがいを感じている。

プライベートでは、職場の2つ年上の先輩と会社には秘密で交際中。


名前は、(とおる)

同じ営業部で、成績優秀なエースだ。


仕事もプライベートも充実していて、毎日が順調に過ぎていく。


もし1つだけ不満を漏らすとするなら、仕事の事情も理解し、且つ徹のことも知っていてオープンに話せる友達感覚のような人がいないということだ。

「今日会社で〜」というちょっとした愚痴や、「今度徹さんと〜」という惚気をまとめて聞いてほしいときだってある。


そういうときは、いつも“彼”が聞いてくれる。


彼は、数日に一度くらいのペースでふらっとわたしの部屋のベランダにやってくる黒猫だ。

勝手に『クロ』と呼んでいる。


そして、なんでも話せるわたしの話し相手。



クロと出会ったのは3年ほど前。

新社会人として、まだわたしが上京したてのころだ。


その日はいつもの帰り道が工事で通行止めになっていて、仕方なく回り道をすることに。

アプリのマップで家までの経路を調べると、桜見(さくらみ)公園という公園の中を突き進むよう案内された。


家の近くに、その名の通り桜が有名な公園があることは知っていたけど、駅まで行く道からは少しそれているから立ち寄ったことはなかった。

もうお花見のシーズンはとっくに終わっていたため、公園内は閑散としている。


すでに葉桜の桜並木道を歩き、芝生が広がる広場に出た。

ベンチやテーブル、手洗い場が設置されている。


天気のいい休みの日には、ここで家族連れがレジャーシートやテントを広げてピクニックを楽しんでいるのかな。

そんな光景がなんとなく想像できた。


「ニャ〜」


そのとき、暗闇の中から猫の鳴き声が響いた。


キョロキョロと見回すと、街灯に照らされたベンチの陰から1匹の黒猫が現れた。

子猫ではなかったけど、まだ幼さ残る小柄な体だった。


「そんなところにいたんだっ。こんばんは」


わたしは立ち止まって挨拶をした。

ずいぶん前に亡くなってしまったけど、実家で猫を飼っていたから、猫を見かけるとつい足を止めてしまう。


人馴れしているのか、黒猫は逃げることなくベンチのそばにお座りしてわたしを眺める。


「キミ、どこからきたの?おうちは?」


毛並みがきれいだから、一瞬飼い猫かと思った。

でも首輪はしていないし、公園のど真ん中で近くに民家はない。


「野良ちゃんなのかな?1人?」

「ニャ〜」


黒猫は猫なで声で返事をした。


これがクロとの出会い。

そうして、気づいたらクロはわたしの家までついてきていて、その日以来度々マンションのベランダに姿を見せるようになった。


クロは毎日ではなく、数日に一度のペースで気まぐれでベランダに現れる。

きたときには、ガラス窓のサッシを引っかいてお知らせしてくれる。


餌付けをしたわけでもないのに、クロがわたしの部屋に通い続けて3年近くになる。


「聞いて、クロ。実は、今日会社でさ――」


つまらないであろう仕事の話も静かに聞いてくれるクロ。


そのうち――。


「聞いて、クロ!わたし、今日告白されちゃった…!前から気になってた職場の先輩に!クロが話聞いてくれたおかげだよ!」


徹と付き合うことになったことも報告して、クロはわたしのことならなんでも知っている存在に。


そうして、クロと迎える社会人4年目の春が訪れようとしていた。

出会ったころの小柄だった体から、クロはすっかり立派なオス猫へと成長していた。


最近は、缶チューハイ片手にクロと話すのが定番になっている。


クロとは、この数年で良好な関係を築けているとは思っているけど、一度も触らせてもらったことはなかった。

そこは、野良のプライドがあるようだ。


一度でいいから、あのツヤツヤの毛並みのクロをなでてみたい。

そう思いつつも、それで嫌がられて二度と姿を現さなくなったら悲しいので、いつも伸びそうな手を我慢して封じている。


ところが、ある日を境にクロはパタリとこなくなった。


1週間たってもこない、半月たってもこないとなり――。

気づけば、最後にクロの姿を見てから1ヶ月が経過していた。


その間、近所のクロが行きそうな場所や桜見公園にも探しにいったけど、クロは見つからなかった。


――クロ、桜が咲き始めたよ。

今年もベランダから見えるマンションの桜の木をいっしょに眺めながら、夜桜を楽しみたいな。


こんなにも長い間クロが姿を見せないとなると、考えたくはないけれど…少しずつわたしの中で覚悟し始めていた。


だけど…できることなら会いたいよ、クロ。


クロを失って落ち込むわたし。

そんなわたしに、さらに追い討ちをかける出来事が起こる。



就業後、徹にだれもいない会社の屋上に呼び出されたわたし。

そこで、思いも寄らないひと言を発せられる。


「優羽…ごめん。別れてほしい」


* * *


――もう何杯目かはわからない。


わたしは、居酒屋の一番隅のカウンターで1人で芋焼酎を飲んでいた。


プロポーズかもと、一瞬でも期待したわたしがバカだった。

それに、ただの別れ話ならわたしもここまで荒れはしない。


問いただすと、徹はわたしに隠れて浮気していた。

それで、その相手が妊娠して、結婚することになったから別れてほしいと。


そんな話を聞かされたら、わたしはどうすることもできなくて。


「ああ…。はい、そうですか。お幸せに」

としか言えなかった。


徹は一方的に別れを告げ、わたしのもとを離れていった。


徹の前ではすました顔をして話に納得したような振る舞いを見せたけど、それは完全にただの強がり。


消化しきれない思いをこうしてやけ酒で紛らわせている。

それに、明日は休みだから気にしない。


お酒に強い体質に感謝。

かなり飲んだけど、居酒屋を出たあとも一応まっすぐ歩けている。


そのとき、どこからともなくヒラヒラと桜の花びらが1枚降ってきた。

辺りを見回したけど、桜の木は見当たらない。


そういえば、今年はまだちゃんと桜見てないかも。

せっかくだし、夜桜見物にでも行こう。


思い立って、帰宅途中に立ち寄ったのは真夜中の桜見公園。


花見をしていたであろう痕跡はあるけど、すでに終電の終わっている時間のため、公園にはほとんど人はいなかった。


さっきまではふてくされてうつむきがちだったけど、久々に顔を上げると満開直前の桜が視界いっぱい入ってきて、思わず感嘆の声がもれた。


「きれ〜…」


闇夜に浮かぶ桜を見上げる。


そのとき、鼻先になにかが当たった。

指で払うと、それはしずく。


〈夜遅くにかけて、大雨を伴うところもあるでしょう〉


朝の情報番組の合間の天気予報通り、ポツポツと雨が降り出したかと思ったら、一気に雨脚が強くなった。

こんなに帰りが遅くなる予定ではなかったから、傘なんて持っていない。


せっかくの桜なのに、これじゃあこの雨で散ってしまうことだろう。

わたしは名残惜しみながらも、桜並木道を走って抜けた。


とりあえずどこかで雨宿りがしたくて、芝生の広場に出てすぐに目にとまった屋根の下へと駆け込んだ。


「…すごい雨」


天気予報アプリの雨雲レーダーを確認してみると、雨は朝方まで降り続け、今が一番激しく降る時間帯だった。

だけど、あと10分もすれば今よりは雨脚は弱まるようだ。


それまで、一時の雨宿り。

わたしはベンチに腰を下ろした。


徹には振られるし、帰りにこんな大雨にも降られるし。


「ほんと最悪っ…」


踏んだり蹴ったりな1日。

こういう日は、帰ってクロに話を聞いてもらって――。


…そうだ。

クロはもう…いなかったんだ。


そういえば、ここ…。

クロと出会ったところだった。


髪から滴る雨水なのか、それとも涙なのか。

クロのことを思い出して、頬に一筋のしずくが伝った。


――そのとき。


「なにがそんなに最悪なの?」


突然、背後からそんな声が聞こえて肩がビクッと上下した。

同時に、なにかの気配も感じてゆっくりと後ろに目を向けると――。


なんとそこには、わたしを見上げる2つの丸い目が。


「こんばんは、おねーさん」

「…うわぁっ!!」


わたしが座ったベンチの向こう側に人が寝転がっているなんて、だれが想像しただろうか。

フードを被った黒いパーカー姿の男の人に、わたしはとっさに声を上げて立ち上がった。


「驚きすぎだって。幽霊とか化け物じゃないんだから、その反応…ちょっと傷つくなぁ」


その人はもぞもぞと寝袋から出てくると、あくびをしながら起き上がってきた。


「な…なにしてたんですか、…ここで」

「なにって、寝てただけ」

「…は?えっ…、寝てた?」

「うん。ここが今日の宿」


いかにも真面目な顔をして答えるものだから、どうやら…ここのベンチの陰で寝ていたのは本当のようだ。


雨宿りついでに話を聞くと、この春から大学4年生の学生さん。

自分の足で日本縦断をしてみたくて、大きなバックパックを背負って1人旅をしているのだと。


「でも、なにもこんなところで寝なくたって…」

「節約で、なるべくホテルとかには泊まらないようにしてるんだ」


野宿は日常茶飯事のようで、ここは屋根もあって雨も凌げるからいい寝床らしい。


「そういうおねーさんは、こんな時間になにしにここへ?花見の帰りに雨に降られちゃった感じ?」

「まあ…、そんな感じ」


彼はわたしの隣へ座ると、前かがみになって顔をのぞき込んでくる。


「なんか嫌なことでもあった?」


まんまるの目がわたしを捉える。


「えっ…?」

「だってさっき、『ほんと最悪』ってぼやいてたから」

「あ〜…。それは、今日…ちょっといろいろあって」

「…そうなんだ。俺でよかったら話聞くよ?」


その純粋すぎるわたしを見つめる瞳に、思わずドキッとしてしまった。


…ドキッて、なんだ。

公園でたまたま見つけた大学生の男の子相手に。


ふと空を見上げると、ほんのわずかな雨雲の隙間から月が見えた。

雨雲レーダー通り、大雨のピークが過ぎたようだ。


「雨弱まってきたから、わたしは帰るね…!」

「そっか。帰ったらすぐにお風呂に入って、温かくして寝るんだよ」

「ふふっ、お母さんみたい」


わたしはクスッと笑って、小雨の中へ飛び出した。


それにしても不思議な男の子だったな…。


『俺でよかったら話聞くよ?』


よく知りもしない相手なのに、ついポロッと話しそうになってしまった。


突然現れて、いつの間にかわたしの隣に座っていて。

勝手に懐の中に入ってくるような距離感、だけどなぜか嫌じゃない。


まるで、猫みたいだった。


それに、頭からフードを被った黒いパーカーに黒いズボン。

あそこで寝泊まりしているとなると――。


もはやクロそっくり。

クロが人間だったら、彼みたいな感じなのかな。


…いや。

もしかして、クロは人間に生まれ変わったんじゃ――。


気づいたら、もときた道を引き返していた。


『帰ったらすぐにお風呂に入って、温かくして寝るんだよ』


10分ほど言葉を交わしただけのわたしのことを気遣ってくれて。

自分は今夜、雨にさらされながら寒い思いをするというのに。


ベンチの陰から彼の黒いフードを被った頭が見えたときは、どこかほっとした気持ちになった。


「…ねぇ!」

「あれっ?どうしたの、おねーさん?」


引き返してきたわたしに気づいて、彼が驚いて体を起こす。


「やっぱり、わたしの話…聞いてくれる?最悪な今日1日の出来事の」

「うん、いいよ」


彼はベンチに座ると、わたしを促すように隣の席をぽんぽんっとたたいた。

しかし、わたしはそこには座らなかった。


「ここでじゃ…ない」

「ん?」


キョトンとする彼のダボッとしたパーカーの袖を少しだけつまんでこう言った。


「ウチ、くる?」


そう口にした直後、はっとした。


これは…逆ナン?

それとも、逆…お持ち帰り?


…ううん、違う違うっ。


こんな雨の降りしきる肌寒い真夜中。

たまたま出会った猫のような彼が、この冷たい地面の上で横になって夜を明かすと聞いて、そのまま知らなかったことのように自分だけ帰宅するのはなんだか忍びなかったから…。


雨宿りしにウチにきたら?…というだけで。


…そう!

わたしは、寒さで凍える野良猫を拾おうとしているだけ!


だからこれは、逆ナンでもなんでもない…!


なんとか正当化しようと、必死に自分自身に言い聞かせた。


勢いで言ってしまったものの、よくよく考えたら出会ったばかりの酔っぱらいの女について行くほど、彼も無防備ではない。

言ったそばから恥ずかしくなってしまった。


『ごめん、やっぱり今のは忘れて』


そう言って、前言撤回しようとしたとき――。


「うん、行く」


ふと、そんな言葉が聞こえた。


「…へ?」


予想もしていなかった彼からの返事に、わたしの口からまぬけな声が漏れた。


「そっ…そんな簡単に決めていいもの?知らない人の家だよ…?」

「気にしないよ。こういうの、べつに初めてじゃないから」


…あ、そうなんだ。


「それに俺、この人ならついていっても大丈夫かどうか、なんとなくわかるんだよね」


突拍子もないことを口走ってしまった自分が恥ずかしくて、わたしの中ではなんとも言えない気まずい空気が流れていると思っていたけど、そんなことはなかった。

彼のほうが年下なのに、わたしの恥を笑うどころかやさしく包みこんでくれる。


「わざわざ引き返してきてくれたんだから、おねーさんは悪い人じゃない。そうでしょ?」

「…“おねーさん”じゃない」

「あっ…、ごめん。さっきから馴れ馴れしかったよね」

「――優羽」


わたしは、ぽつりとつぶやいた。


「わたしの名前は、優羽。“おねーさん”じゃないよ」


それを聞いて、彼の口角が上がった。


「優羽ちゃんねっ」


ちゃん付けで呼ばれてドキッとした。


職場ではもちろん名字で呼ばれ、徹からは『優羽』。

『優羽ちゃん』なんて呼ばれたのは、いつぶりだろうか。


「あなたは…?なんて名前?」

「…俺?俺は『クロ』。周りからはそう呼ばれてる」


それを聞いて、思わず目の奥がじんと熱くなった。


彼はクロが人間になった姿なんじゃないかと、そんなバカバカしいことを一瞬考えたけど――。

本当にそうなのではないだろうか。


目の前で無邪気に笑うクロを見て思った。


* * *


帰宅するとすぐに、クロをお風呂場へと向かわせた。

クロが上がったあとにわたしも入って、そこでようやくほっとひと息つく。


暗がりのあの公園で見たときも、整ったかわいらしい顔をしているなとは思っていたけど、お風呂でサッパリしたクロの顔はさらに際立っていた。

“美男子”というのは、こういう人のことをいうのだろう。


ダイニングチェアに腰掛けたクロの前に、湯気が立つマグカップを差し出した。

中をのぞき込むクロ。


「ホットミルク?」

「うん。ちょうどコーヒー切らしてて…」

「ううん、うれしい。ありがと」


クロはふわりと頬をゆるめて微笑むと、そっとマグカップを両手に持った。


「あったかい」


やわらかい笑みをこぼしながら、ゆっくりと口を近づけるクロ。


「あちっ…!」


しかし、すぐに顔を離した。

どうやら、猫舌のようだ。


そんなところも猫みたいで、飽きずに見ていられる。


「そういえば、どうして日本縦断なんてしようと思ったの?」


わたしは、猫背の状態でダイニングチェアに座るクロの向かいに腰をかけた。


「俺、今まで見える範囲の世界でしか生きてこなかったんだよね」


聞くと、クロはいわゆる親が敷いたレールの上をこれまで走ってきて、今の大学も親に言われたから入ったと。

卒業後は親の会社で働くことが決まっている。


そんなとき、ふと考えたそうだ。

見える範囲の世界だけしか知らなくていいのだろうか、と。


そうしてクロは、大胆にも1人で日本縦断することを決めた。


「知らないところで知らない人と出会って。もちろん、出会う人すべてがいい人とは限らないけど、初めて自由に自分の足で歩いたような気がした」


そんなクロの旅ももうすぐ終わりを迎えるという。

ここからクロの家までは、それほど遠くはなかった。


「俺の話はそんな感じ。次は優羽ちゃんの番」

「…え〜…、わたしは…」


話を聞いてほしくて家に連れてきたというのに、クロの壮大な人生観を聞かされたあとでは、わたしの話なんてちっぽけに感じてしまう。


「やっぱり今日は遅いし、もう寝よ」


ベッドに行って、掛け布団をめくる。


「クロはここ使って」

「え?優羽ちゃんは?」

「わたしは床で寝るから」

「ダメだよ、そんなの!俺が床で寝るよ」

「お客さまを床で寝かせるわけにはいかないよ。だから、気にしないでベッドを――」

「…じゃあ、いっしょに寝よ?」


振り返ると、わたしの手首を握ったクロがキョトンとしたおどけた表情で見つめていた。


「でもっ…」

「大丈夫。こういうの、べつに初めてじゃないって言ったでしょ」


クロはそのままわたしの手を引くと、ベッドへと(いざな)った。


「それに、ほら。こうするとあったかい」


背中を向けて横になるわたしを後ろから抱きしめるクロ。


「優羽ちゃん、いい匂いする」


クロは頬を擦りつけるように、わたしの首筋に顔を埋める。


この仕草はクロと同じだった。

喉をゴロゴロと鳴らしながら、わたしの足元に甘えるようにして頬を擦りつけてきたっけ。


…クロが帰ってきた。


うれしくて、うっすらと目に涙がにじんだ。


「クロ…、聞いてくれる?」


いつの間にか、わたしは今日の出来事をクロに語っていた。


「…そっか。それはつらかったね」

「うん…」

「でも、よくがんばったね」

「うん…」

「泣きたいなら…、泣いてもいいんだよ?」


思い返すだけで怒りのほうが勝って、涙なんて出るはずないと思っていた。

でもクロのその言葉に、わたしはクロの胸を借りてわんわんと泣いた。


いい年した大人だけど、相手が年下だとか関係なく、恥も忘れて。

そんなわたしをクロはただ黙って頭をなでてくれていた。

 
たくさん泣いて、もう流れる涙もなくなって、ようやく気持ちが落ち着いてきた。


ふと見上げると、わたしを見下ろすクロの丸い2つの目。

わたしは、その瞳に吸い寄せられるようにして顔を近づけると――。


そっと唇にキスをした。


その直後、我に返る。


完全に雰囲気に飲まれていた…。

わたしってば、一体なにを。


恥ずかしさで布団を頭から被って潜ってしまったわたしを見て、クロがクスッと笑う。


「優羽ちゃん、かわい」


…もう、また女の子扱い。


わたしより年下のクロだけど、きっと経験はクロのほうが上。

じゃないと、突然キスされたというのにこんな平然としていられるはずがない。


「もしかして…、この1人旅の間に…わたしみたいな女の人の家に泊まったことあるの?」


こんなことを聞いて、なんの意味があるのだろう。

頭ではわかっているけど、実はずっとモヤモヤしていた。


「うん、あるよ」


ほら…、やっぱりあるんだ。

わかりきっていたことなのに、どうしてわたしは落ち込んでいるのだろう。


「…じゃあ、そこで――」


やだ…、聞きたくない。


「その女の人と――」


聞きたくないのにっ…。


「そういう関係になったこともあるの…?」

「ないことも…、ないね」


心臓がギュッと握り潰されたかのように苦しかった。

この痛みは、一体なに――。


「これでも一応男だし、相手が求めてきたら…ね。でも、俺から手を出すことはないから安心して」

「なにそれ…。じゃあ、わたしが『して』って言ったら…?」

「しないよ」

「…どうして。言ってることが違うじゃない」

「だって、こんなボロボロの優羽ちゃんを抱けるわけないじゃん。それに、そんなことで今の優羽ちゃんの心の傷を癒せるわけでもないから。そんなの虚しいだけでしょ?」


クロはそう言って、わたしをやさしく抱きしめた。

そのやさしさがカラカラに渇ききったわたしの心に沁みて、ぽろりと涙が流れた。


「クロ…、もうどこにも行かないで」

「急にどうしたの、優羽ちゃん…?」


わたしはクロの顔を見上げた。


「…クロがね、似てるの。前にウチによくきてくれた黒猫のクロと。いなくなっちゃったんだけど、雰囲気や仕草がそっくりで…」

「そうなんだったんだ。じゃあ、今日は俺のこと、そのクロと思っていいよ。俺は、勝手にいなくなったりしないから」


クロのその言葉に安心したのだろうか――。

わたしはいつの間に眠っていた。



翌朝。

ゆっくりと目を覚ました、わたし。


夢に、黒猫のクロが出てきた。

この部屋のベランダで、これでもかというくらい甘えてきて――。


「クロ…!」


慌ててガバッと起き上がる。

なんだか嫌な予感がして隣に目を向けると、そばで寝ていたはずのクロがいなかった。


若干の二日酔い状態のまま、よろよろと玄関へ向かう。

そこに、クロの靴はなかった。


「…嘘つき」


わたしはその場に力なくへたり込む。


『勝手にいなくなったりしないから』って言っていたのに。

みんな…、わたしの前からいなくなる。


目の奥が熱くなり、きゅっと唇を噛みしめた。

――そのとき。


ドアの向こうから物音がしたかと思ったら、ゆっくりとドアが開けられた。

朝日が反射して、ドアの隙間から差し込む白い廊下のまぶしさに目を細めていると――。


「あれ?優羽ちゃん、どうしたの?」


そこにいたのは、小さなレジ袋を手に提げたクロだった。


「…クロ!どこに行ってたの!」

「お腹が空いて、目が覚めて…。だから、下のコンビニに朝ごはんを買いに行ってたんだけど…」


なんだ…、そうだったんだ。

わたしはてっきり、知らない間に出ていったのかと…。


「どこかに行っちゃったのかと思った…」

「心配させちゃってごめんね。でも一応、リュックは置きっぱなしなんだけど」


よく見たら、昨日と同じ場所にクロのバックパックが置いてあった。


「…ほんとだ。ごめん、わたしの早とちりだったね」

「俺のほうこそ、なにも言わずに出ていってごめんね。あまりにも優羽ちゃんが気持ちよさそうに寝てるから、起こすのがもったいなくて」


クロは、眉を下げて微笑む。


「俺は優羽ちゃんの元カレや黒猫のクロみたいに、勝手にいなくなったりしないから。昨日言ったでしょ。俺は、優羽ちゃんだけのクロだよ」


そう言って、クロはわたしを後ろから包み込むようにして抱きしめた。



昨日は危うく人生で一番最悪な1日を送るはずだったけど、ひょんなことから野良猫を拾ったことでわたしの運命が大きく変わった。


気まぐれ、だけど甘えん坊で、猫舌で猫背で。

そんなクロとの不思議な出会いがきっかけで、わたしの中でなにかが始まろうとしている。



Fin.