『次いつ会える?』


 LINEの画面を開いて、五秒見つめたあとにすぐ閉じた。
 二日前に送ったのに既読すらつかないそれを見ても、もうため息すら出てこない。
「ばかみたい……」

 こんなことは初めてじゃなくて、もう何度もあるのに。
 通知ひとつないLINEを開くのなんて無意味なのに。
 それでも指は止まらない。
 画面を開いては落胆して、それをまた閉じる。
 そんな行動をむやみに繰り返す。
「ばかみたい……」
 自分への二度目の言葉が、闇に溶けて消えていった。






 彼氏の(ひろ)との出会いは大学のとき。
 と言っても、特別よく喋る間柄とか仲が良かった、というわけでは決してない。

 わたしは前の方の席で、仲が良かった友達と講義を受ける比較的真面目なタイプ。
 一方宏はというと、講義室の一番後ろの席で友達と固まって喋っていたり、お菓子を食べたり……。
 とても真面目とは言い難いタイプだった。

 学部が同じだから顔と名前を知っている。
 互いの認識なんて、それくらいだったと思う。

「さっきの講義のノート取っとらん? 貸してほしいんやけど」

 独特な訛りでそう話しかけられたのは本当に突然で、前期の試験期間に入った七月の暑い日だった。

「えっと……、なんでわたし?」

 彼に話しかけられる理由も、ノートを貸す義理もなかったからそう聞いた。

「俺の周り全員アホやから、誰も講義聞いてないんよ。ノートもとっとらんし。望月(もちづき)さん、毎回真面目に講義でとるやろ? 後ろから見えるし。だから借りられんかなーと思って」

 その言葉には正直絶句した。
 ……大学って、親にお金払って通ってるんじゃないの?
 親に申し訳ないと少しは思わないのだろうか。
 ノートもとっていない、って。
 講義を受けたくはないけれど、卒業する単位はほしい、ということなんだろう。
 ますますこの人にノートを貸す義理なんてないじゃん、って断ろうとした時だった。

「……前から望月さんのこと、かわいいなって思ってたんやって。話しかける口実、な。……でも、ノートはまじで貸してくれん?」

「ノートは貸せないけど……、いまコピー取るなら」

 そんなおちゃめな彼の言葉にほだされたのがわたしの運の尽きだと、いまなら思える。
 LINEだけ交換したけれど、それきり別に彼からアクションがあるわけじゃなく、「ああ、かわいいって言ったのが、ノートを借りるための本当の口実か」とがっかりさせられたものだ。
 もちろん、そのときは何事も起こらずに、そのまま大学生活は終わった。
 第一希望の会社から内定をもらえて、社会人生活も二年目に入った二十四歳のときだった。

 『久しぶり! 元気? 今度飯でもいかん?』

 そんなLINEが、彼から届いたのは。

 わたしたちが通っていた大学は神奈川にあって、わたしは長野から、彼は石川から。
 それぞれ大学に通うためにアパートを借りて一人暮らししていた。
 彼は卒業後、石川には戻らずに横浜に残り、わたしは実家のある長野へと出戻りしていた。
 いわゆる、Uターン就職だ。

 長野に戻ったといっても実家じゃなく、会社に近いアパートを借りて一人暮らしをしている。
 東京へは、何度も遊びに行っていた。
 ちょうど週末もテーマパークに行く予定で有給を申請してたから、わたしの中にはあのときのことがよみがえって……。

 『今週末の夕方からなら』

 と返事をした。

 そのときは彼氏もいなかったし、もしかしたらいい出会いになるかも?なんて、期待した気持ちで。
 彼とは、わたしの思惑通り、付き合うことになった。

「大学のときかわいいって思ってたのは嘘じゃないねんて。望月さん、Uターンするってきいとったから。アタックできんかったんよ」

 それがいいわけか、ほんとのことなのか、わたしにはわからない。
 けど、そういわれたときにうれしかったことだけは覚えてる。






 深夜二時。
 一向につかないスマホの既読。
 こんなのいつものことだからと、しきりにスワイプしていた指をやっと止めた。
 真っ暗な部屋の中、スマホの灯りだけ頼りに冷蔵庫へとおもむき扉を開けば、並んでいるのは何本かの冷えたビールと炭酸水。
 こんなの別に自分の好みじゃないけれど、いつでも数本は冷蔵庫の中でキンキンに冷やされている。
 もう一か月以上は手をつけていないそのうちの一本を、もういいか、と思い手に取った。
 ベッドの縁に座ってプルタブを引いたら、プシュっという小気味のいい音で空いた缶ビール。

「まっず……」

 思いきって多めに一口飲んだら、後悔した。
 思いのほかまずかった。
 苦くて、そのうえに炭酸なんて。
 わたしのきらいなものを詰め込みました、って感じ。
 ……いつも宏は、こんなものをおいしそうに飲んでたのか。

 残ったビールをもう飲む気にはなれなくて、だけどもったいないからとそのまま冷蔵庫へと押し戻した。
 口直しにアイスでも、と冷凍庫を開けたら一週間前に買った豚のブロック肉を発見した。
 ちょうどいい。
 明日、ビール煮にでもすればいい。
 ついでにちょっと手の込んだ料理でもしよう。
 たまには、自分のために。




 目が覚めたら、LINEが来てるのに気が付いた。
 『今日の夜こっち来れん?』
 ……なんかセンサーでもついてるの?
 まるで見計らったかのようなタイミングで届いたそれに、思わず苦笑いを漏らした。
 今日は昨日残した缶ビールと豚のブロック肉で、ちょっと手の込んだひとりお家ご飯でもしようと思ってたのに。

 ……だけど、そう今日は。
 卓上カレンダーに目を向けると、ちょうど今日の日付の部分に遠慮気味に書かれたハートマークが目に飛び込む。
 そう、今日は。
 宏との一年目の記念日だ。

 遠距離恋愛だというのに、毎日連絡を取り合っていたのは最初の一ヶ月。
 それからは連絡も次第に減って、わたしが送ったLINEに既読がつくのは遅いと三日かかることもある。
 大手自動車メーカーに勤めている宏は営業職で、帰宅の時間がまちまちで、疲れて連絡が遅くなることがあると聞いていた。
 だから、最初の頃は頑張って連絡をくれていたのだと思う。
 ……それもいまは、わたしをいいように繋ぎ止めておくための餌だった、と疑うようになってしまったけど。

 二十五にもなると、やっぱり考えるのは結婚のことだった。
 社内のひとは、社内のひと。
 恋愛対象にはどうしても見れなくて、そうするとわたしの出会い必然と、アプリとか結婚相談所とか、友達の紹介とか、そういうものに限られる。
 いまさら新しいひとを見つける気にもなれなくて、わたしは宏にしがみついている。
 だって、宏は連絡が遅い以外、別に相性も悪くないし、それなりに好きだったから。

 宏を逃したら婚期が遅れる。
 そう思ってわたしは、もう少し会いたいとか、連絡がほしいとか、宏の負担になることは言わないようにしていた。

 だからこんな急な連絡でも、会いに行かなきゃと思うわけで。
 たまに会うからおいしいものを食べてほしい、と思うわけで。
 ……自分の為だけに作ろうと思っていた"ちょっといいごはん"を宏のために作ろうと、急いで準備に取り掛かった。







 長時間煮込めば煮込むほど肉の繊維がほぐれて柔らかくなっておいしくなるからと、宏からの連絡を受け取ってすぐに料理の準備をしたけれど。
 あれもこれもと準備をしていればあっという間で、わたしが乗る予定の新幹線の時間はすぐそこまで迫って来ていた。

「やばい、やばい……っ! コートと、マフラーと……」

 ひとりでそんなふうにぶつぶつ言いながら荷物のチェックをしていると、いつにもまして存在感を増している棚の上の紙袋に目が留まった。
 会えないかもしれないとわかっていても、プレゼントを準備していた。
 そんなに高くはないけれど、五万のSEIKOの腕時計。
 その紙袋と料理の入った保冷バッグをひっつかみ、雪がちらちら降る十六時、家を飛び出した。

 十六時二十五分発の新幹線に乗れば東京へは十八時頃に着く。
 十七時には会えるからと言われていたから、どうせなら早めに着いて待っていようと思ったんだ。
 待ち合わせはいつも東京駅で、適当な居酒屋でご飯を食べて、適当なホテルに入る。
 それがいつもの流れだった。

「……宏、もしかして記念日のこと覚えててくれたのかな」

 いつもいつも連絡は遅いけど。
 会うのも月一だけど。
 それが今日だと思うと、心はかなり浮足立った。

 もしかして、結婚の話もされるかも……?

 なんて、淡い期待を抱いて、今日のふたりのために作った料理とプレゼントを持って、寒い改札外で待っていたのに。
 ……それなのに。

 十七時を過ぎても、宏は現れない。
 待ち合わせに遅れることはあったけど、それでも連絡はくれていたのに。
 今日はその連絡すらもない。

 連絡、してみようか……。
 宏の邪魔にならないようにと、無駄な連絡は控えていた。
 でも、今日くらいはいいだろう。

 ただ仕事で遅れているだけなら、いい。
 事故とかじゃなければ、全然いい。
 いつもはかけない電話を、勇気を出して宏にコールした。
 冷たくなった手はかじかんで、痛かった。

『……しずか? 待って、ごめん、電話しようと思ってたんよ。仕事長引きそうで、会えるの九字過ぎそうやわ。悪いけど適当にどっか時間潰してて』

 電話の向こうから聞こえた声は、やっぱりと思ったけど少しだけ慌てていた。
 彼の声は電話の向こうの喧騒に紛れて聞こえにくい。

「……わかった。待ってるね」

 わたしはさみしい気持ちを押し殺して、でも待っていれば会えるんだからと、快く宏に「仕事頑張ってね」と伝えた。

 電話を切った手が震えているのは、寒さだけのせいじゃない。
 そう思う。



 夜九字を回っても、宏からはなんの連絡もなくて、わたしは時間を潰すために入った漫画喫茶でひたすら漫画を読んでいた。
 遅くなるのはいつものこと。
 商談が長引いてるんだから、しょうがない。
 ……でも、こんなに遅くまで?
 そう思ったことはこれまでに何度かあるけれど。
 ……今日は、今日だけは。
 どうしても宏を信じたかった。



 宏から連絡が来たのは、二十二時手前になってからのことだった。

『ごめん! いま向かってるんやけど!』


 ……もう、いい加減待ちくたびれた。
 何冊読んだかわからない漫画の山を横に電話を出たら、宏の焦った声が聞こえてきた。
 声は相変わらず、夜の喧騒に紛れて聞こえた。

「……連絡もなくて、心配したんだけど」

 想像したよりずっと不貞腐れた声が出た。
 ……だって、一年記念日だよ?
 もしかしたらプロポーズされるかも、って期待もしててさ。
 料理も頑張って作って、プレゼントだって用意したんだよ?

 ……それなのに、こんなに待ちぼうけになるなんて。
 まるで、宏とわたしの温度に差があるって、突き付けられたみたい。
 ひとこと寂しかった、心配してた、って言えばよかったのかもしれない。
 けど、わたしの中は宏への文句でいっぱいだった。


『はあ……。俺、いままで仕事してたんやけど。そんな機嫌悪い中会いたくないわ』


 ちょっとでも宏がわたしを気にかけてくれさえすれば、わたしの気持ちはまあるくなったかもしれない。
 でも、電話の向こうから聞こえてきた宏の声は冷たかった。
 その言葉に、さすがにわたしもかちんとくる。

「だって、ずっと待ってたんだよ!? 長野から時間かけて会いに来てさ……! それなのに、会いたくないって、」
『もうええわ、別れよ。俺ら』

 ひどくない?と続けようと遮った宏の言葉はあまりにも突飛で、焦った。
 だって、だって……!
 そんなの、ひどすぎるじゃん……。


 いい逃げみたいに切られた電話をかけ直すけど、それきり繋がらない。
 なんで、なんで、なんで……っ?
 たった一回、文句を言っただけじゃん……。
 あまりにも急なことに、どうしても冷静にはなれなかった。


 『いままでありがとう。ホテル取ったから、今日はそこに泊まって帰ってほしい。俺の名前言えば入れるようにしてるから』


 宏からのさいごのLINEは、ホテルのURLつきの、そっけないものだった。







 こんな簡単に終わるんだ。
 理解の追いつかないまま、傍らに置いてある冷え切った料理と、プレゼントに視線を向けた。

「……っ、」

 その瞬間、ぽろぽろと時間差で涙があふれて来た。
 こんなに尽くしてきたのに……、こんな簡単に終わるんだ。


 普段わたしの為に何かしようと努力のひとつもしないのに、こんなときだけ、泊まるところの予約してURLまで送ってくるんだ……。

「……ばっかみたい」


 パソコンの画面の光だけがついた薄暗い狭い部屋の中。
 自分のためだけの料理になった、今日の為だったはずのちょっといいごはんを、わたしは一口、また一口と口へ運んだ。


「……しょっぱい」

 おいしくできたはずなのに。
 自分の涙で味付けし直されたそれは、失恋の味にふさわしいと、そう思った。