エピローグ

 知らない天井だ、という漫画みたいな台詞を、まさか自分が言う羽目になるとは思わなかった。
 ずっと、夢を見ていた。
 たとえるならば、深海の奥底から日光に照らされている眩い水面を仰ぎ見ているような、穏やかな波間を、目を閉じて仰向けのままでたゆたっているような、そんな感じの夢だった。
 浮き上がったり、沈んだり、絶え間なく何か夢を見ていたと思うのだが、内容はよく覚えていない。
 夢の外側には確かに誰かがいて、手を伸ばせば届きそうな気がするのに、実際には声も手も届かなくて。
 それでも寂しくはなかった。
 そこには確かに彼がいたから。
 彼の気配を、身近に感じられていたから。
 段々と深いところにいた意識が浮上してくる。鼻先が水面に出た。
 そして、私は目覚めた。

 鉛みたいに重たい瞼をむりやりにこじ開ける。目覚めた、という感覚とは少し違った。
 戻ってきたんだと、ある種そう思った。
 最初に見えたのは真四角な白。半分ほどまで下げられたブラインドの隙間から差し込む光がとても眩しい。
 白いそれは天井で、辺りは無機質な白い壁で覆われていて、規則正しく響いている電子音の羅列が鼓膜を叩いて。ここは病院の中なのだと認識が思考に追いつく。
 私は病院のベッドの上にいた。
 病院、という単語が夢の中の光景とつながって、その瞬間、走馬灯みたいにすべてを思い出した。
 そうだ、私は。そうだ私はあの日。
 目が覚めたら私は東京の街にいて。書店で彼と再会して。完成させられなかったあの小説を二人でもう一度書いて。生まれたままの姿で彼と二人で抱き合いながら、彼に気づかれないように、静かに涙を流して切ない夜を超えた。
 ああそうか。

「……帰ってきちゃったんだな」と改めて声がこぼれた。感慨は、なかった。
「乃蒼……?」

 誰もいないと思っていたから、答える声があって驚く。寝ている私の顔を、朝香が覗き込んでいた。

「乃蒼! 目が覚めたと!」

 ガタン、と大きな音が立つほど乱暴に椅子を引いて朝香が立ち上がる。彼女のほうが私よりよほど驚いていた。

「あれ、朝香? どうしてここにいるの?」
「なんでやなか! 乃蒼、あんた大変やったんやけんね!」
「あ、うん。なんとなくわかっている」
「わかっとーって……? なして……?」
「ねえ、朝香? 今って何日?」
「目が覚めて、最初にする質問がそれ?」

 呆れる、という感情を体現した声で朝香が苦笑する。

「ま、ばってんしょうがなかか。ええと、それで今日の日付だっけ? 今日は一月の三日ばい。……ってこげんこと言いよー場合やなかや……! まずは乃蒼のお母さんと看護師さんに、乃蒼が目覚めたことば報告しなくっちゃ!」

 大変、大変と、慌ててナースコールを押そうとした朝香の手を取った。

「大丈夫。私は落ち着いているから。いくつか、私の質問に答えてほしいの」
「……」

 少し長めの思考時間。

「……まあ、顔色は良さそうだしね。体はいたって健康なんに、なして目覚めんとかとみんなが首ばかしげるくらいやったんだしね。……今すぐどげんかなるわけやなかか」

 これまでを説明してくれるみたいなその台詞で、自分がどういった状況下にいたのかなんとなく察しがついた。まずはひとつずつ答え合わせをしていこう。

「私はバス事故に遭って、それから今までずっと眠り続けてきた」
「そうばい」
「バス事故があった日から、一年と二ヵ月が経っている」
「そうばい」

 朝香が少し驚いた顔になる。

「バス事故のとき、私を守って立夏が死んだ。そうなんだよね?」

 ここで朝香が口ごもった。驚きと困惑が半々くらいの顔になる。
 発言をためらう時間の長さが、暗に肯定を示していた。

「答えにくい質問をしてごめんね。でも大丈夫だよ。ちゃんとわかっているから。真実を受け入れる覚悟ならちゃんとできているから」

 一拍間を置いてから、「そうばい」と朝香がこれまでで一番沈痛な顔で頷いた。

「立夏は、乃蒼ば守ってあの日死んだ。出血がひどうて、ただちに病院に搬送されたけど助からんかったんだ」
「うん」
「立夏が守ってくれたっちゃ。乃蒼ん命ば。うちも正直辛かったばってん、乃蒼が生きとってくれただけでも嬉しかばい」
「ごめんね。朝香も立夏のことが好きだったのに、守ってあげられなくて」

 朝香が目を見開いた。ひゅう、と息を吸い込んでから、どうして、ともどかしくなるくらいのかすれ声で言った。

「なしてそのことば知っとーと? うち、乃蒼にそんなこと一言も言うとらんのに。……それだけやなかばい。なしてそんなにいろいろなこと把握しとーと……?」
「夢を見ていたの」
「夢?」
「ここではない別の世界で私は暮らしていて、そこには立夏がいて朝香もいるの。そこで三人で小説を書いて、楽しく暮らしているの。そういう夢」

 なにそれ、と朝香が首をかしげる。

「並行世界みたいなもんなんやろうか? 創作物ん中でよう出てくるみたいな」
「そうだね。そんな感じだと思うよ」
「ふうん。長か夢ば見よったんだ。……あれ、乃蒼。頭ん上に何か付いとー」
「え?」

 私の頭に朝香が手を伸ばしてきて、髪の毛に付いていたらしい()()をつまみ上げる。それは、小さなピンク色の花びらだった。

「桜? いや、違うね。コスモスの花びらかな? どうしてこげん物がここに? 今は冬なのに」

 次の瞬間、私の心の中で思い出と記憶とがざわめいた。鮮烈に。色鮮やかに。
 さまざまな声が、私の体の表面に浮き上がってくる。
「もう一度小説を書こう」「乃蒼、もう消えるなんて言うなよ」「僕もだよ。僕もずっと乃蒼のことを考えていた。この二日間だけじゃない。もしかしたら、君と出会ったあの日からずっと」「この先、乃蒼にどんな運命が降りかかってくるかわからないけれど、どんなことがあっても僕が側にいる。側に……いてほしい」

 ――「ずっと前から好きでした」

 それらの声は、自分でも戸惑いを覚えるほどに鮮明な響きで、彼を愛おしく思う気持ちも、彼に会いたいと思う気持ちも、それが夢の中の記憶だったとは信じられないくらいにありありと思い出せた。今、ここにあるみたいに。
 いつの間にか私の頬には涙が伝っていた。自分でも気づかないうちに涙を流していた。ぽろりぽろりと流れ落ちる涙に朝香が目を丸くしている。それでも私の涙は止まらなかった。
 私は、彼の声を覚えている。
 夢じゃないと思う。
 夢なんかじゃない、と思う。
 これが夢であってたまるものかと強く思う。
 あの世界はあるんだ。私が忘れない限りはずっと。

「朝香。私のスマホどこ?」

 涙を拭うと、ベッドの上に上体を起こしながら血相を変えて叫んだ。
 今、私がやらなければならないことは。

「えっと、スマホ? ここにあるばってん」
「貸して」

 キャビネットの上から朝香が取り上げたスマホを、いささか乱暴にふんだくった。

「ばってん、おおかた一度解約していると思うばい?」
「いいの。ネットを見るわけじゃないから」

 つなぎ止めなくてはならない。あの世界の記憶を忘れないように。
 記さなくてはならない。あの世界に確かに私がいたと、後世に伝えるために。
 それが、今私がやるべきことで私の役割だ。

「乃蒼、なにやっとーと?」
「小説、書いてるの」
「今そげんことばしとる場合やなかやろ。まずは体ば休めな」

 戸惑いを露わにして、朝香が今度こそナースコールを押した。「はい、はい」と彼女が向こうの声に返事を繰り返す。

「そんな余裕はないよ。たぶんこれは一分一秒を争うことだから」
「意味わからんと」
「ねえ、朝香?」
「……うん?」
「時々、こうして私の側にいてくれていたんだよね? ありがとう」
「……水臭か。友だちなんやけん当たり前じゃ」

 もうすぐ、医師と義母さんが病室にやってくるのだろう。
 義母さんがきたら、伝えたいことがいくつかあった。
 あの世界でのこと。
 それから、私の大切な人の話。

 事故があったあの日、バスの中で意識が途切れる間際、血にまみれた手で私の手を握りながら彼はこう言った。
「僕のことは忘れていい」と。「自分のことを責めないで」と。
 ごめんね、それはできないよ。
 あのとき、私は立夏に生きていてほしいと強く願った。私の願い事を神様が聞き届けてくれたのか、それとも、私と立夏の願いが奇跡を起こしたのかそれはわからない。気がついたら私はあの世界にいて、立夏は生きていた。こんな不思議なことがあるのかと思った。夢みたいだと思った。夢ならいっそ覚めないでくれと願った。
 でも、やがてわかったの。
 私はいつまでもこの場所にはいられないってことが。
 だから思った。私がいるうちに、ふぬけてしまった立夏を立ち直らせて、それを見届けてから消えようと。
 立つ鳥跡を濁さず。
 未練を残したくなかったから、自分の気持ちを伝えるつもりはなかったし、そこまで長居をするつもりもなかった。私のことは忘れて前を向いてほしいと、()()そう思っていたんだ。
 でも、それは本心ではなかった。それを見透かしていたのか、立夏は私にこう言った。
 私のことを絶対に忘れないと。
 嬉しかったよ。そこで私は、自分の本心に気づくことができたんだよ。
 私は立夏のことを忘れない。忘れたくない。私のことを忘れてほしくない。私がいなくなったそのあとで、私と過ごした日々の記憶を一生消えない傷として心に刻み込んでほしい。時々はその傷が、痛んでほしい。
 古傷が傷んだら、私のことを思い出してほしい。
 そのとき私も、同じように君のことを思うから。
 まるで呪いみたいだね、と自嘲しそうになってしまう。
「結婚してほしい」と言われたときは、正直驚いちゃった。バス事故に遭ったあの日、私がどういった覚悟を抱いていたのか、君には筒抜けだったんだね。
 絆が強くなればなるほど、別れるときの痛みが強くなる。痛みが強くなるからこそ、怖くて最後の一歩を踏み出せずにいた。でもそれは間違いで、この痛みこそが、その人を大事に思っている証なのだと今は思う。
 ずっと痛くて、ずっと温かい。
 そう、これでいいのだ。
 私たちは忘れてはならない。その上で、私たちは決別をしなくてはならないのだ。さようなら、と。
 ずっと愛しています。
 さようなら。
 さようなら――。
 三度目のさようならで、視界が強く滲んだ。
 彼のことで涙を流すのは、これを最後にしようと私は思う。
 大丈夫だよ。もう、泣かないから、と。
 あの世界でのことを忘れないように、記憶しておこうと思う。
 あの世界の記憶が風化しないように、記録しておこうと思う。
 この物語にもし名前をもし名前を付けるとしたら、タイトルは、「ノアの箱庭」しかないなって思うんだ。
 なかなか洒落ていると、思わない?

 そのとき、病室の扉が開いて、義母さんが顔を出した。
 私は笑顔でこう答えた。

「ただいま、お母さん」と。


 ノアの箱庭~Noah's Ark Garden~ 了