最終章「ノアの箱庭」

 気の抜けないドライブが続いた。
 高速道路上でそうそう手荒な真似はできないと思うが、してこないとは限らない。追手の姿は見えないが、見落としているだけかもしれない。あらゆる可能性を考慮しなくてはならなかった。
 朝香が時々後ろを確認してくれる。

「追ってくる車の姿はなかばい」
「了解」

 ナビの案内に逆らって、ひとつ手前のインターで降りる。追手がいることを想定しての、念のためのかく乱目的だった。ここでも追尾してくる車はない。大丈夫だろうか。
 料金所をくぐって一般道に入る。目的地へはあと一時間足らずで着くはずだ。
 そのときが近づくにつれ、追手がいるかどうかとは別の心配事で心が満たされるのだった。
 本当に乃蒼はいるだろうか。
 いたとして、僕の声に耳をかたむけてくれるだろうか。
 彼女を元の世界に戻すことはできるのか。
 問題は山積だった。ひとつでも外したら、乃蒼が見る夢で成り立っている――かもしれない――この世界は、ただちに消失してしまう。
「大丈夫だよ」と朝香が言った。
 消失しても構わない、と一瞬思ってしまったことは、墓場まで持っていこうと思う。
 こんな心構えでは、乃蒼は応じてくれないだろうから。

 目的地である道の駅に着いた。時刻は十七時五分。雨はすっかり止んでいた。日は西に強くかたむいて、ぼやけた色の夕日が辺りを照らしていた。僕たち二人の影が、アスファルトの上に長く伸びていた。
 乃蒼がいるであろうコスモス畑は、この道の駅の隣になる。車を駐車場に停め、僕と朝香はゆっくりと歩き始める。道の駅なので、人の姿はわりとある。カップルと思しき男女が特に多かった。
 世界の命運を賭けたイベントが、この場所で起ころうとしているだなんて、よもや誰も思わないだろう。
 道の駅の敷地を出て、コスモス畑まで至る遊歩道に入る。
 夕陽が目に入って眩しい。瞳をすがめると、視界の先でふたつの影が陽炎のようにゆれた。この季節に蜃気楼などありえない。黒いスーツを着た男が二人、遊歩道を塞ぐようにして立ちはだかっているのだった。
「待て」とそのうちの一人が声をかけてくる。薄い色のサングラスの中から、不機嫌そうな目つきで僕を見ている。

「どうしてここに? と言いたいところですが、つけられていたんですね」
「まあ、そういうことだ」

 呼び止めたほうの男には見覚えがあった。乃蒼と一緒に佐賀に行ったあの日、木田さんと一緒にいた男だ。

「そこをどいてください、と言ったところで無駄ですよね?」
「いや? いいぜ、通りな」

 あっさりと道を譲られて面食らう。いったい何を考えているのか。

「このまま進んで哘乃蒼を呼び出せ。そこまでが君の役割だ」
「どういう意味ですか?」
「俺たちには哘乃蒼の姿が見えない。赤外線スコープで見つけることはできるが、人の多い場所では誤認してしまう可能性が高い」

 なるほど。そこで僕に乃蒼と接触を図らせようというのか。そのために僕を待ち伏せていたんだ。
 赤外線スコープの映像では顔がわからない。人が多い場所では、どれが乃蒼なのか判別するのは難しい。万が一誤射でもしたら大事になる。だが、ひと気のない場所におびき出せたなら話は別だ。そこで、僕を利用する。
 はた迷惑な話だ。僕だって、乃蒼を呼べるかどうかわからないというのに。

「俺たちの仲間が離れた場所から銃でこちらを狙っている。哘乃蒼が目の前に来たら手を上げて合図しろ。そこで狙撃してすべてが終わりだ」
「その条件で、僕がはいと言うとでも思いましたか?」
「ほう? まあ、やるやらないは君の自由だが、やらなかった場合、君の友人が一人死ぬことになるぞ? それでもいいのか?」
「卑怯ばい!」

 朝香が声も限りに叫んだ。

「人の命ばなんやと思うとると? 罪のない人間ば殺したら、あんたたちの立場が危ううなるんやなか?」
「それなら心配には及ばない。あの青年なら、その気になれば国家反逆罪として立件することが可能だ。ついでに言うと犯罪者の息子だ。世論はこちらの味方になるだろうさ。それに、どのみちやるしかあるまいて。世界の命運がかかっているんだぞ? このまま放置していたら、この世界は消えてしまうんだぞ?」
「だーれが犯罪者だ。犯罪者はむしろそっちじゃないかい」

 ドスの効いた女性の声がして振り向くと、いつの間にやってきたのか、スーツ姿の女性が腕を組んで仁王立ちしていた。
「木田さん!」と朝香が彼女の名を呼ぶ。
 元、特殊情報処理研究室所属の研究員、木田妙子その人だった。

「わたしはね、未来のある若者の命を守るために動いてんの。世界の命運だかなんだか知らないが、お国の意思とやらに考えなしに従って、二人の若者の命を奪おうとしているあんたらとは違うの」
「木田さん。あんた、今頃になってのこのこと現れて、何勝手なこと言ってるんですか。哘乃蒼を始末しなかったら、世界がどうなるのかあんたにだってわかっているんでしょう?」
「ああ、知っているさ。哘乃蒼を殺さなかったら、この世界は消失するかもしれないとね。だがしかし、哘乃蒼を殺したら、この世界にいる彼女は確実に死ぬ」
「だったら」
「だったら、なんだい?」

 じろりと木田さんが男性を睨んだ。男が少し気圧される。すでに組織の人間ではない木田さんにいまだ敬語を使っているところを見るに、彼は木田さんに頭が上がらないのだろう。
 染みついた長年の癖は、なかなか抜けないものだ。

「こんなもの、トロッコ問題ですらないんだよ。一人の命を取るか、世界を取るか、一見したらこの二者択一だ。だが、本当にそうなのかい?」
「なに言ってんですか。そうじゃないですか!」
越智(おち)。よく考えな。哘乃蒼を撃ったら、彼女は確実に死ぬ。失われた魂は、そのとき本当に並行世界にいる彼女のところに戻るのかい?」
「……それは」

 何かを言い返そうとして、越智と呼ばれた男が口ごもる。

「もうひとつ質問だ。哘乃蒼をこのまま放置しておいて、並行世界にいる彼女が死んだとする。そうしたら、この世界は本当に消えるのか? 根拠は?」
「……」

 再びの沈黙。どちらも憶測でしかない。やってみなければわからないという側面を持っているからだ。

「未来のことなんて、誰にもわからないのさ。わからないのなら、もうひとつ手を打ってみようじゃないか。ここにいる彼に賭けてみようじゃないか。哘乃蒼を説得して元の世界に戻せたなら、それで万事うまくいくんじゃないか?」
「ですが! それだってうまくいくかわからないでしょう? どういった結果になるのかさえ!」
「当たり前だろ、そんなもん」

 何を当たり前のことを言っているんだとばかりに、木田さんが彼の発言を切り捨てる。

「最初からわかっていただろう? 向こうの世界にいる哘乃蒼が、この世界の命運を握っているんだってことはさ。わたしらは彼女の手のひらの上にいる存在だ。それを認めて、いい加減に覚悟を決めな。男だろ? ……なあ、長濱君」
「はい」
「何分待てばいい?」

 考えた。
 乃蒼を呼んで、彼女を説得して納得させるまでの所要時間を瞬時に計算する。

「三十分ください。それで絶対になんとかします」
「オーケー。だそうだ。待ってやろうじゃないか。世界の命運を切り開いていくのは、いつだって若者なんだよ。この世界の命運とやらを、彼らに託してみようじゃないか。どうだい? 三十分待ってくれるか?」

 越智さんは後頭部をがりがりとかきむしったあと、懐からスマホを出してどこかと通話を始める。ややあって、「わかった」とぼそり呟いた。

「三十分だけ時間をやる。それでダメなら、予定通り哘乃蒼を狙撃する」

 木田さんがニヤリと口元をゆがめた。夜の帳が下りてきた景観の中で、彼女の瞳が力強く輝いた。

「頼んだぞ、長濱君。やれるな?」
「やります」と僕は頷いた。
「この場所をわたしに教えてくれたのは勇だ。彼にあとで感謝を伝えてやってくれ。まあ、そのせいで? いらぬ輩までこの場所に誘導してしまったわけだけれどね」

 尾行されていたのは、僕ではなく木田さんだったのかもしれない。だが、今はそれはどっちでもいいこと。振り返ってもそこに道はない。道は未来にしかないのだ。
 ばし、と木田さんに背を叩かれ一歩踏み出した。
 振り返ると朝香と目が合う。彼女に向かって頷いた。

「行ってくる」
「頑張れ立夏。うちが、ここでちゃんと見とるけん」