光陰矢の如しということわざがあるが、僕には時の流れが緩やかに感じられていた。
 良い意味ではない。あまりにも、何もなくてだ。
 自分が生きている理由を見い出せずにいた。何をしていても気が乗らなくて、夢中になることができなかった。
 木田や朝香が、僕を気遣って時々飲み会に誘ってくれた。参加こそするものの、僕はずっと上の空だった。気晴らしに新しい恋でもしたらどうだと木田が勧めてくれたが、そういった気分にはなれなかった。煮え切らない僕の態度に、木田も朝香もやきもきしていただろう。自分でも良くないと自覚しながら、気持ちを切り替えられずにいた。
 僕はずっと、乃蒼のことを引きずっていた。
 人との出会いは一期一会。出会いの先に必ず別れがあるように、人は、誰とでもずっと一緒にはいられない。そうしてみな、喪失に慣れていかなくてはならないのだ。
 それがわかっていてなお、気持ちが前に向かなかった。
『だらしないよ』と乃蒼に言われている気がした。
 むしろ、本当に言ってもらえたほうが良かった。
 乃蒼がいなくなったこの部屋で、部屋の空気が少し冷たく感じられるそのたびに、触れた肌の温もりを思い出すそのたびに、胸が強く痛んで僕は人知れず涙するのだった。

 季節は移ろい、十月下旬となっていた。乃蒼の命日である、十一月三日が近づいていた。
 十月は、秋が本格的に深まっていく季節だ。遠くに見える山野は燃えるような赤に色づき、大学に至る途中にある銀杏並木は、一面の黄金色になっていてちょうど見頃だった。気候が良く、秋晴れになる日が例年であれば多いのだが、今年はとても雨が多かった。今週の頭から降り始めた雨は、今日も変わらず降っていた。
 銀色の雨を降らせる空を見上げてふと思う。

 ――まるで乃蒼が泣いているようだと。


 傘を差し、秋風をしのぐようにコートの襟を立ててアパートまでの道を急ぐ。
 迎えてくれる人がいなくなった部屋に戻り、コートを脱いでハンガーにかけた。
 寒い。手も心もかじかんでいる。温もりを求めてインスタントのコーヒーを淹れた。
 気晴らしのためだけにテレビを点け、流れてきたニュースの音を聞き流しながら日中のひと時を過ごしていた。
 ピンポン。
 そのとき唐突にドアチャイムの音が鳴る。
 来訪者に心当たりはない。しいて言えば朝香だろうか、と思いながら玄関を開けると、立っていたのは木田さんだった。

「珍しいことがあるもんですね。僕に何か用ですか?」
「あるからこうして来ている」
「確かに。愚問でしたね。わざわざ遠いところご足労をいただきましてありがとうございます。……上がります?」
「そうだな」と言って木田さんは無遠慮に上がり込んできた。
「適当に座っていてください。コーヒーでも飲みますか? 今ちょうど淹れたところだったんですよ」
「よろしく頼むよ」

 コーヒーを二人分準備してテーブルの上に置いた。
 乃蒼がいなくなってから、部屋の中はまた少しずつ散らかり始めていた。床の上に散らばっていた洗濯物を部屋の隅に寄せた。

「それで? 改まってまたどうしたんですか? 僕は、乃蒼の姿を見ることがもうできないのだから、なんのお役にも立てませんよ? そのような僕に、頼みたいことでもあるんですか?」
「そうだ、ある」

 彼女は迷いなく頷いた。あまりの即答に少し身構えてしまう。

「むしろ、これは君にしか頼めないことだ」
「僕にしか?」

 まったく意味がわからなかった。今さら僕に利用価値があるとは思えないが。

「哘乃蒼が現れそうな場所に心当たりはないか?」

 胃の奥がどろり、と重苦しくなるみたいな不快感があった。腹の奥底を覗き見られたような気分だった。

「ありますね。いくつか候補がありますが、その中でもここじゃないか、と強く思う場所がひとつあります」
「ほう?」

 木田さんが身を乗り出してくるが、ただし、と先手を打ってくぎを刺しておく。
 おそらく期待にはそえられないのだから。

「どうにもなりませんよ。僕が行ったところできっと乃蒼は姿を見せない」

 乃蒼にはそれだけの覚悟がある。彼女は僕の側を離れることで、僕に忘れられようとしているのだから。あるいは、僕のことを忘れようとしているのだから。
 どちらでも、同じか?

「かもしれないがな。ところが、そう悠長なことを言ってもいられなくなった」

 コーヒーカップに口をつけて、「なかなか美味いじゃないか」と木田さんが笑う。

「ありがとうございます。……で? どういう意味ですか?」
「ここ数日、雨が続いているのを知っているな?」
「ええ、もちろん」

 今週の頭から降り出した雨は、今日も降り続いていた。そこまで強い雨にはなっていないが、日本列島を雨雲がすっぽりと包み込んでいる状況らしく、今しばらく雨が続くらしいのだ。いずれ、土砂災害に警戒が必要になるかもしれません、と先日テレビのニュースキャスターが報じていた。
 どうして今その話を? いや、まさか?

「降り続いているこの雨が、乃蒼と関係しているとでも言うのですか?」
「結論から言うとそう思っている。我々は哘乃蒼がいなくなってから、並行世界にいる彼女の体の変化を慎重に見てきた。今週、雨が降り出してからのことだ。彼女の脳波の動きがかなり弱くなった」
「それは、どういうことですか?」

 質問を返したものの、頭の中ではひとつの仮説が組みあがっていた。
 そうなってほしくない。認めたくない。最悪の仮説が。

「落ち着いて聞いてほしい。これはまだ仮説に過ぎない。我々は、この世界にいる哘乃蒼は、並行世界にいる彼女が作り出した思念体――あるいはそういった類のものだとこれまで思ってきた」

 はい、と頷く。実際僕もそうだと思っていた。並行世界にいる本物の彼女が生み出した存在であると。自身が見る夢の中で、自由に動き回るための器みたいなものであると。

「だが、違っているのではないか、との意見が出た。哘乃蒼の肉体と魂が分離することで、二人になっているのではないかと」
「……分離している?」

 頭の中で情報を整理していく。
 ということは、真の乃蒼が生み出した存在であることに相違はないが、むしろ一人の人間が二つに分かれた状態であると。そういうことか?

「では、二人の乃蒼は元々一人であると。それが、分かれている時間が長くなってきたことによって、彼女の存在そのものがこの世界から消えようとしていると?」
「ご明察。君は頭がいいな」

 乃蒼が、ずっとこちらの世界に縛られていることによって、向こうの世界の乃蒼に影響が出てくるであろうことは、多少なりとも想定できていた。だが――そうか、文字通りの一心同体なのか。だとしたら、二人が分かれた状態でいること自体が特異なことなのだ。乃蒼の存在を、忘れてしまう人が出てきたのは、そのせいかもしれない。
 君は、僕がいない場所で、一人でひっそりと消えていこうと考えているのか?

「だとしたら、まずいじゃないですか。早く彼女を見つけ出して元の体に戻してあげないと」

 このままにしてはおけない。なるべく早く、乃蒼を向こうの世界に戻さなくては――乃蒼が死んでしまう。

「そういうことだ。協力してくれるか?」
「そういうことなら喜んで。――で? どうしたらいいんですか?」

 木田さんの指示を仰いだ。ところが、ここで彼女は不自然に間を置いた。懐からタバコを出して火を点ける。気持ちを落ち着かせるみたいに肺いっぱいに煙を吸いこんで、そして吐いた。
 どうして、ここで口ごもるのか……?

「本来であれば、研究室の威信をかけてわたしが全面的にバックアップするよ、と啖呵を切りたいところだったんだけどねぇ……」
「ん……どういうことですか?」

 何やら話の雲行きが怪しくなってきた。

「今日、仕事をやめてきたんだ」

 今日の晩御飯はカレーだから、みたいなノリで言うものだから、面喰って言葉に詰まる。

「は? ……はあっ!? どういうことなんですか。じゃ、じゃあ、木田さんはもうこの一件とは無関係じゃないですか。一体全体、本当になんの目的があってここに来たんですか?」

 本当にわからない。話がまぜっかえされすぎていて、もうよくわからない。

「わたしと、研究室の考えに相違が出てしまったからだよ。わたしは、どうにかして哘乃蒼を確保するべきだと進言していた。どうやって元の体に戻すかはわからないが、まず確保するのが先であると」
「はい」

 人命が第一だ。それは理解できる話だ。

「ところが、研究室のトップはそうじゃなかったんだよ。この世界を堅持するのが先決であると。そのためには多少の犠牲はいとわないと」
「犠牲って……なんの話ですか?」
「元の体に戻せるかどうかはわからない。ただ、このままにしておけば、魂と肉体が離れていることが影響して哘乃蒼の命は尽きる。そうなった場合、彼女が見ている夢によって維持されているかもしれないこの世界は崩壊してしまう。そうなる可能性は非常に高い」
「ええ、そうですね」

 すべては推論だ。しかし同時にかなり確からしい推論だ。

「であるならば、こちらの世界にいる哘乃蒼を排除して、強制的に魂を向こうの世界の体に戻したほうがいいだろうと、そういう結論を出したんだよ。彼らはな」
「な……!」

 コーヒーカップを持つ手が震えそうになる。何とか抑えつけてテーブルに下ろす。そのまま両手で肘を掴むように持った。

「はっきり言おう。哘乃蒼を見つけ次第狙撃して殺す。それが研究室のトップが出した判断だ」

 何を言われたのかわからなかった。脳が理解するのを拒んでいた。
 なら、仕事を辞めるしかないじゃないの……と木田さんが苦々しい顔で毒づいた。

「最初の頃の話とだいぶ違うじゃないですか。第一、乃蒼を殺すことで、本当に魂が元の世界に戻るとの確証はあるんですか?」
「あるわけがない」
「魂が戻ったとき、それをきっかけとして乃蒼が目覚めたなら? そういった可能性は論じているんですか?」
「もちろんしたさ。だが、状況が状況だ。根拠がない話には耳を貸してもらえなかった。研究室の人間は、より可能性が高いほうに賭けているだけだ。だからわたしは仕事を辞めた。君のところにこうして情報をもらしにきた。研究室の人間より先に、哘乃蒼を確保しろと告げるために」

 木田さんがまたタバコをくわえた。フィルターにふっと息を吹きかけて、それからライターで火を点ける。その吸い方はどこか手慣れたものだった。

「事情はわかりました。でも、彼らに乃蒼を見つけて射殺することってできるんですか? だって、姿が見えないじゃないですか」
「赤外線カメラだよ」
「ああ、そうか……!」

 乃蒼は認識できない人間には見えない、触れないという特性を持っているが、そこに存在しているのは確かなのだ。触れられなくても、彼女は熱を発している。であるならば、熱を検知できる赤外線カメラやスコープを用いれば、乃蒼の姿は捉えることができる。
 そうなれば……射殺することは可能だ。

「くそっ……。こちらには赤外線カメラなんてないんですよね?」
「残念ながらない。そういう点ではこちらのほうが不利だとも言える」

 どちらにしても、赤外線カメラで仮に乃蒼の姿を見つけられたとしても、乃蒼がこちらに心を開いてくれない限り、元の世界に戻すことはできないだろう。
 なら、どのみち万事休すだ。やはり、彼女を説得できなければ僕らに勝利はないのだと、そう思えた。

「わかりました。だから僕なんですね? こんな悪条件で乃蒼のために動く人間なんて僕しかいないし、彼女を説得できるのもきっと僕しかいない」
「そういうことだ。だから君にしか頼めないと言った」
「ずっと考えていたんです。乃蒼がこの世界にやって来たのは、なんらかの未練があったからなんじゃないかと。その未練を解消できたなら、彼女を元の世界に戻してやれるんじゃないかと」
「へえ? それは興味深い考察だ。それで? その未練とやらに心当たりは?」
「あります」
「頼もしいじゃないか。それでこそだ」
「やります。やりますから、僕を連れていってください。絶対に、乃蒼を説得しますから」

 オーケーその意気だ、と木田さんが笑った。
 それともうひとつ。
 乃蒼がもし姿を現すとしたら、なんとなく今日ではないかという気がしていた。
 今日は、十一月三日だから。

「本当はわたしが自分の車で君を連れていく、と言いたかったんだが、まあこのような事情でわたしはお尋ね者になった。ちょっとその任には適さない」
「はあ? じゃあ、どうしたらいいんですか?」
「というわけで、代役を準備した」

 その人物の名前を聞かされて、僕は目を丸くした。
 マジかよ。ほんとなのかよ。それで大丈夫なのかよ。でも――。
 やるしかない。

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