パトカーと警察官が道を塞いでいて、さっきよりも大学に近づけなくなっていた。規制線を超えた先の路上で救急車が待機している。カメラマンやレポーターなど、テレビ局の関係者と思しき人の姿も見えた。
僕と木田は規制線を超えることはできないが、乃蒼は違う。
乃蒼が規制線をまたいだ。よし、と決意の声を一度落とし、振り返ってこちらに向かって力強く頷いた。乃蒼が大学の敷地内に踏み入っていく。緊張感を漂わせた背中が遠ざかっていく。
「乃蒼、聞こえる?」
『大丈夫。ちゃんと聞こえているよ』
通話状態のスマホから呼びかけると、くぐもった声が返ってきた。
乃蒼の声は姿が見えている者にしか聞こえないはずなのだが、それでも一抹の不安を感じてはいるのだろう。
「現在、警察が犯人に人質を解放するよう説得を試みているようですが、今のところ、人質となっている女子生徒の安否はわかっておりません。現場からは以上です」
緊迫感のある声でニュースレポーターが実況している。騒ぎになっていないので、乃蒼が侵入していったことに誰も気づいていないようだ。
乃蒼の姿が建物の陰になって完全に見えなくなった。
「侵入経路はある?」
『大丈夫。入口は開いている。……人がいる気配はない。まあ、当たり前なんだけれどね』
「気をつけて」
『うん、わかってる』
逃走しやすいように、乃蒼は靴を履いたまま中に入ったようだ。賢明な判断だと思う。
イヤホンの向こう側から、乃蒼が深呼吸する音が聞こえた。『第二講義場が見える場所まできたよ』と声がした。
『廊下の角から覗いて見てる。部屋の前に見張りがいる』
第二講義場は長い廊下の真ん中辺りに入口がある。その廊下に曲がる角の辺りに乃蒼は今いるのだろう。
「一人か?」
『ううん。二人。犯人は三人みたいだから、中に銃を持った別の一人がたぶんいる。朝香はそっちにいるんだろうね』
「気づかれていないか?」
『平気。見張りのうちの一人が廊下を警戒している。もう一人は窓からじっと外の様子を見ているね。……そっか。ここから、二号館の入り口が丸見えなんだ。だから、警官隊も迂闊に近づけていないんだね』
「上の階からの侵入を考えているのかもしれないな」
木田の声に空を仰ぎ見ると、ヘリコプターと複数のドローンが飛んでいた。警察もこれ以上手をこまねいていられないといったところか。
警察の動きが、ニュース映像などで犯人側に筒抜けなんじゃなかろうか。それは、犯人を刺激する結果にならないのだろうか。それとも、そこまでは想定のうちなのだろうか。
「警察が動きを見せるかもしれない。少し急がないといけないかも」
乃蒼を急かしたくはないが、こう伝えるしかなかった。
『どうしよう……。そうだ。ここにある消火器を転がしてみるよ。私が触れているうちは音が出ないと思うけど、私の手から離れたらたぶん音が出るはず』
言うや否や、ガラガラと何かが転がるような音がした。消火器を転がしたらしい。決断が早すぎると、少し心配になる。
そこから一瞬の沈黙。乃蒼の息を呑む音がひとつ。「なんだ、誰かいるのか!」という険しい男の声と足音が混ざって響いた。コツコツと、冷たい足音がイヤホンの向こうで響く。
どうやら、狙い通りに見張りの男をおびき出せたらしい。今のところ、すべて乃蒼の思惑通りに事が進んでいる。
『行くね』と乃蒼の声がした。
「うん」と僕。そして、木田も同じく小さく返事をした。僕も木田も固唾を呑んで、乃蒼の行動を見守っている。
「おい、誰だ? 誰かいるなら返事をしやがれ」と男の怒声が遠く聞こえる。それ以外はなんの音も聞こえてこない。しばらく沈黙が続いた。
『講義場に入るよ』
「ああ」
講義場の光景を想像する。映画館のようにすり鉢状になったフロアに多くの机と椅子が並んでいる。一番奥側の壁に、大きな黒板があるのだ。
『いた。黒板の前に朝香と犯人の男がいる。朝香に銃を突き付けたまま辺りを警戒しているね』
その発言のあとで、乃蒼が小さく息を呑んだ。
「どうした……?」
こちらからの音声は、乃蒼が身に付けているイヤホンからの出力なので聞こえないはずだが、それでも一応小声にした。
『朝香、声出さないで。こちらに気づいていない振りをして』
乃蒼の声で状況を理解した。
朝香が、自分のほうに接近してきた乃蒼の姿に気づいたのだ。目配せやゼスチャーなどで、声を出さないよう乃蒼が朝香に指示をしたのだ。万が一、犯人が乃蒼の存在に気づいた場合、この計画は中止になってしまうから。
いや、中止になるだけならまだいい。最悪二人の命が危険に晒されてしまう。
息苦しい沈黙が続く。
なんの音も聞こえてこない。
乃蒼は今、犯人との彼我の距離を慎重に詰めているのだろうか。銃を奪うにしろ、朝香を救出するにしろ、犯人のすぐ側まで行かなくてはならないのだから。
状況がわからないのが、余計に緊張感を加速させる。
一瞬の間を置いて、「わあああああああ!」と誰かの大声が響いて、続いて物々しい声がイヤホン越しに聞こえてきた。
「なんだ? あの女どこに行きやがった!」
銃を持っている犯人の男の声だろうか。
『今だ!』乃蒼の声がした直後、何か重い物が落ちる音。それから複数人のざわめきが聞こえてくる。
おそらく、犯人の一瞬の隙をついて、乃蒼は朝香の手を取って逃げることに成功したのだ。朝香の姿が消えたことに驚いた犯人が騒ぎ立て、それを聞いた二人の男が廊下から講義場に戻ってきた。そういったところか。
あとは逃走するのみだ。二人は無事だろうか。そう思った直後に炸裂音がした。『きゃあ!』と小さな悲鳴がイヤホン越しに響いた。
「おい! どうした!」
思わず大きな声が出てしまったが答える声はない。代わりに聞こえたのは取り乱しているような男たちの声だ。何を言っているかはわからない。また炸裂音。音がこもっていて判別しにくいが銃声だろう。今度は悲鳴は聞こえなかった。
「おい。何があったんだ。返事をしろ」
今度は声量を抑えて呼びかけるがやはり何も聞こえない。物音ひとつしない。嫌な汗が僕の額を流れた。乃蒼と朝香はどうなったんだ?
僕から状況を聞いた木田が「くそったれが」と悔しそうに毒づく。僕も同じ気持ちだった。また銃声。誰かの足音。それだけが聞こえる。イヤホンの向こうからはそれだけだ。乃蒼も朝香も応答しない。なんの反応もないのだ。まさか撃たれたのか?
木田がもう一度「くそ」と呟く。焦りばかりが募っていく。どうやって規制線を超えるかと考え始めたそのとき、報道陣が集まっている方角がやにわに騒がしくなった。
「何が起きた?」
「人質が解放されたみたいだぞ!」
「どうやって?」
マスコミ関係者たちと野次馬とが混ざり合って規制線ぎりぎりに殺到していく。警察官らと押し問答になっている。
良かった……。最悪の事態は免れたのか? 「良かった」と木田もホッとしたように胸を撫でおろしている。いや、まだだ。乃蒼と朝香の安否を確認するまでは安心できない。
――とここで、通話が繋がったままなのに気がついた。
「もしもし、乃愛?」と呼びかけてみる。
『もしもし? あ、立夏?』
良かった、と言おうとして、それが朝香の声であることに気づいた。木田の電話で応対しているのは、乃蒼ではなく朝香だった。
「たった今、人質だった女子生徒が解放されたようです! 警官隊が二号館の内部に突入していきます!」
報道のレポーターが声高に叫んでいる。張り詰めていた辺りの空気が、弛緩するのを感じた。だが、僕はまだ完全には安堵しきれない。
「警官隊が、犯人たちを取り押さえたようです!」
人質がいなくなってしまえば、もうあとは多勢に無勢だった。大学の二号館に突入した警官隊によって、三人の犯人は間もなくして取り押さえられた。
こうして、大学を舞台にした立てこもり事件は無事解決した。
「良かった。無事だったんだな、朝香。それで、乃蒼は?」
警察から事情聴取をされているのだろう。朝香の応対はこのあたりから途切れ途切れになった。
『さっきまでそこにおったんよ。……そっちに行っとらんと? ほんとに? おかしかねぇ』
ようやくしっかりと対応してくれた朝香の声を、僕はうまく処理できずにいた。「乃蒼ちゃんはどうしたんだ?」という木田の声にも、うまく答えられずにいた。
朝香は無事だった。だが、彼女の側に乃蒼はいないと言うのだ。
乃蒼と心を通わせることができていたから、大丈夫なのだと思ってしまった。
二人で過ごす日々が、いつまで、どういったかたちになるかはわからないけれど、まだしばらくは続くのだと安堵していた。
僕の考察は、明らかにひとつ足りていなかったのだ。
おそらく乃蒼は、自分の意志で、自分の姿を視認されないようにコントロールすることができる。
『ダメだ。危なすぎる。万一、犯人のいずれかが、乃蒼の姿を視認できていたらどうする?』と僕が懸念を示したとき、『それはないよ』と即答したのがその証左。彼女には、自分がそうできるとの確信があったのだ。
乃蒼は、自分の意思で朝香の前から姿を消した。
この日、乃蒼は僕の前からいなくなったのだ。
*
僕と木田は規制線を超えることはできないが、乃蒼は違う。
乃蒼が規制線をまたいだ。よし、と決意の声を一度落とし、振り返ってこちらに向かって力強く頷いた。乃蒼が大学の敷地内に踏み入っていく。緊張感を漂わせた背中が遠ざかっていく。
「乃蒼、聞こえる?」
『大丈夫。ちゃんと聞こえているよ』
通話状態のスマホから呼びかけると、くぐもった声が返ってきた。
乃蒼の声は姿が見えている者にしか聞こえないはずなのだが、それでも一抹の不安を感じてはいるのだろう。
「現在、警察が犯人に人質を解放するよう説得を試みているようですが、今のところ、人質となっている女子生徒の安否はわかっておりません。現場からは以上です」
緊迫感のある声でニュースレポーターが実況している。騒ぎになっていないので、乃蒼が侵入していったことに誰も気づいていないようだ。
乃蒼の姿が建物の陰になって完全に見えなくなった。
「侵入経路はある?」
『大丈夫。入口は開いている。……人がいる気配はない。まあ、当たり前なんだけれどね』
「気をつけて」
『うん、わかってる』
逃走しやすいように、乃蒼は靴を履いたまま中に入ったようだ。賢明な判断だと思う。
イヤホンの向こう側から、乃蒼が深呼吸する音が聞こえた。『第二講義場が見える場所まできたよ』と声がした。
『廊下の角から覗いて見てる。部屋の前に見張りがいる』
第二講義場は長い廊下の真ん中辺りに入口がある。その廊下に曲がる角の辺りに乃蒼は今いるのだろう。
「一人か?」
『ううん。二人。犯人は三人みたいだから、中に銃を持った別の一人がたぶんいる。朝香はそっちにいるんだろうね』
「気づかれていないか?」
『平気。見張りのうちの一人が廊下を警戒している。もう一人は窓からじっと外の様子を見ているね。……そっか。ここから、二号館の入り口が丸見えなんだ。だから、警官隊も迂闊に近づけていないんだね』
「上の階からの侵入を考えているのかもしれないな」
木田の声に空を仰ぎ見ると、ヘリコプターと複数のドローンが飛んでいた。警察もこれ以上手をこまねいていられないといったところか。
警察の動きが、ニュース映像などで犯人側に筒抜けなんじゃなかろうか。それは、犯人を刺激する結果にならないのだろうか。それとも、そこまでは想定のうちなのだろうか。
「警察が動きを見せるかもしれない。少し急がないといけないかも」
乃蒼を急かしたくはないが、こう伝えるしかなかった。
『どうしよう……。そうだ。ここにある消火器を転がしてみるよ。私が触れているうちは音が出ないと思うけど、私の手から離れたらたぶん音が出るはず』
言うや否や、ガラガラと何かが転がるような音がした。消火器を転がしたらしい。決断が早すぎると、少し心配になる。
そこから一瞬の沈黙。乃蒼の息を呑む音がひとつ。「なんだ、誰かいるのか!」という険しい男の声と足音が混ざって響いた。コツコツと、冷たい足音がイヤホンの向こうで響く。
どうやら、狙い通りに見張りの男をおびき出せたらしい。今のところ、すべて乃蒼の思惑通りに事が進んでいる。
『行くね』と乃蒼の声がした。
「うん」と僕。そして、木田も同じく小さく返事をした。僕も木田も固唾を呑んで、乃蒼の行動を見守っている。
「おい、誰だ? 誰かいるなら返事をしやがれ」と男の怒声が遠く聞こえる。それ以外はなんの音も聞こえてこない。しばらく沈黙が続いた。
『講義場に入るよ』
「ああ」
講義場の光景を想像する。映画館のようにすり鉢状になったフロアに多くの机と椅子が並んでいる。一番奥側の壁に、大きな黒板があるのだ。
『いた。黒板の前に朝香と犯人の男がいる。朝香に銃を突き付けたまま辺りを警戒しているね』
その発言のあとで、乃蒼が小さく息を呑んだ。
「どうした……?」
こちらからの音声は、乃蒼が身に付けているイヤホンからの出力なので聞こえないはずだが、それでも一応小声にした。
『朝香、声出さないで。こちらに気づいていない振りをして』
乃蒼の声で状況を理解した。
朝香が、自分のほうに接近してきた乃蒼の姿に気づいたのだ。目配せやゼスチャーなどで、声を出さないよう乃蒼が朝香に指示をしたのだ。万が一、犯人が乃蒼の存在に気づいた場合、この計画は中止になってしまうから。
いや、中止になるだけならまだいい。最悪二人の命が危険に晒されてしまう。
息苦しい沈黙が続く。
なんの音も聞こえてこない。
乃蒼は今、犯人との彼我の距離を慎重に詰めているのだろうか。銃を奪うにしろ、朝香を救出するにしろ、犯人のすぐ側まで行かなくてはならないのだから。
状況がわからないのが、余計に緊張感を加速させる。
一瞬の間を置いて、「わあああああああ!」と誰かの大声が響いて、続いて物々しい声がイヤホン越しに聞こえてきた。
「なんだ? あの女どこに行きやがった!」
銃を持っている犯人の男の声だろうか。
『今だ!』乃蒼の声がした直後、何か重い物が落ちる音。それから複数人のざわめきが聞こえてくる。
おそらく、犯人の一瞬の隙をついて、乃蒼は朝香の手を取って逃げることに成功したのだ。朝香の姿が消えたことに驚いた犯人が騒ぎ立て、それを聞いた二人の男が廊下から講義場に戻ってきた。そういったところか。
あとは逃走するのみだ。二人は無事だろうか。そう思った直後に炸裂音がした。『きゃあ!』と小さな悲鳴がイヤホン越しに響いた。
「おい! どうした!」
思わず大きな声が出てしまったが答える声はない。代わりに聞こえたのは取り乱しているような男たちの声だ。何を言っているかはわからない。また炸裂音。音がこもっていて判別しにくいが銃声だろう。今度は悲鳴は聞こえなかった。
「おい。何があったんだ。返事をしろ」
今度は声量を抑えて呼びかけるがやはり何も聞こえない。物音ひとつしない。嫌な汗が僕の額を流れた。乃蒼と朝香はどうなったんだ?
僕から状況を聞いた木田が「くそったれが」と悔しそうに毒づく。僕も同じ気持ちだった。また銃声。誰かの足音。それだけが聞こえる。イヤホンの向こうからはそれだけだ。乃蒼も朝香も応答しない。なんの反応もないのだ。まさか撃たれたのか?
木田がもう一度「くそ」と呟く。焦りばかりが募っていく。どうやって規制線を超えるかと考え始めたそのとき、報道陣が集まっている方角がやにわに騒がしくなった。
「何が起きた?」
「人質が解放されたみたいだぞ!」
「どうやって?」
マスコミ関係者たちと野次馬とが混ざり合って規制線ぎりぎりに殺到していく。警察官らと押し問答になっている。
良かった……。最悪の事態は免れたのか? 「良かった」と木田もホッとしたように胸を撫でおろしている。いや、まだだ。乃蒼と朝香の安否を確認するまでは安心できない。
――とここで、通話が繋がったままなのに気がついた。
「もしもし、乃愛?」と呼びかけてみる。
『もしもし? あ、立夏?』
良かった、と言おうとして、それが朝香の声であることに気づいた。木田の電話で応対しているのは、乃蒼ではなく朝香だった。
「たった今、人質だった女子生徒が解放されたようです! 警官隊が二号館の内部に突入していきます!」
報道のレポーターが声高に叫んでいる。張り詰めていた辺りの空気が、弛緩するのを感じた。だが、僕はまだ完全には安堵しきれない。
「警官隊が、犯人たちを取り押さえたようです!」
人質がいなくなってしまえば、もうあとは多勢に無勢だった。大学の二号館に突入した警官隊によって、三人の犯人は間もなくして取り押さえられた。
こうして、大学を舞台にした立てこもり事件は無事解決した。
「良かった。無事だったんだな、朝香。それで、乃蒼は?」
警察から事情聴取をされているのだろう。朝香の応対はこのあたりから途切れ途切れになった。
『さっきまでそこにおったんよ。……そっちに行っとらんと? ほんとに? おかしかねぇ』
ようやくしっかりと対応してくれた朝香の声を、僕はうまく処理できずにいた。「乃蒼ちゃんはどうしたんだ?」という木田の声にも、うまく答えられずにいた。
朝香は無事だった。だが、彼女の側に乃蒼はいないと言うのだ。
乃蒼と心を通わせることができていたから、大丈夫なのだと思ってしまった。
二人で過ごす日々が、いつまで、どういったかたちになるかはわからないけれど、まだしばらくは続くのだと安堵していた。
僕の考察は、明らかにひとつ足りていなかったのだ。
おそらく乃蒼は、自分の意志で、自分の姿を視認されないようにコントロールすることができる。
『ダメだ。危なすぎる。万一、犯人のいずれかが、乃蒼の姿を視認できていたらどうする?』と僕が懸念を示したとき、『それはないよ』と即答したのがその証左。彼女には、自分がそうできるとの確信があったのだ。
乃蒼は、自分の意思で朝香の前から姿を消した。
この日、乃蒼は僕の前からいなくなったのだ。
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