教員たちの避難誘導に従って、僕たちは速やかに大学の外に出た。
 大学の敷地を取り囲むように等間隔に警官が配置されていて、誤って一般人が敷地の中に入らないよう規制線が張られていた。辺りには人だかりができていて、騒然とした空気が満ちていた。
 この大学の敷地内には、一号館から九号館まで、学生寮や運動場などを含めて九つの建物がある。犯人が立てこもったのは、二号館にある第二講義場だ。犯人は三人。いずれもこの大学の男子学生らしい。生徒が集まり始めていた講義場の中に発煙筒が投げ込まれ、混乱している講義場の中に犯人の男たちが侵入。所持していたナイフと銃で周囲の人間を脅し、近くにいた女子生徒を人質にして立てこもった。幸い、今のところ怪我人は出ていない。二号館の中にいた人間は、混乱しながらも全員が建物の外に逃げた。
 現在二号館の中にいるのは、犯人と人質になっている女子生徒のみだ。武装した警官隊が二号館を取り囲んでいるが、犯人は武器を所持しているため、ただちに踏み込むことはできない。人質を危険に晒すわけにはいかないのだから。
 さまざまな憶測が飛び交っていた。犯人たちが所持していた銃は本物か? 本物だとしたら、その入手経路は? 立てこもっている男らの個人情報を、警察が割り出しているところだ。犯人の動機は、小耳に挟んだところによると、就職予備校化する大学のあり方や、社会にはびこっている差別に対する抗議デモであって、イジメで大学を中退した人物が犯人の中にいるらしい、とのことだが真偽はわからない。犯罪者の心理状態など、理解したいとも思わないが。

「くそっ……」

 走り回っていることで、息が乱れる。日頃の運動不足を、呪う羽目になっていた。
 立てこもっている学生たちと、警察のトップとの交渉が行われていた。犯人たちに投降を呼びかけても反応はなく、人質を盾にして沈黙を続けている。立てこもりは一時間以上にわたって継続されていた。
 その均衡はいつ崩れるのか。
 人質となった女子学生は無事なのか。
 予断を許さない状況が続いていた。
 多くの人たちが、規制線の外で状況が動くのを待っている。しかし、僕たちには悠長に構えていられない事情があった。

「朝香いたか?」
「ダメだ。見つからない」
「こっちにもいなかったよ」

 僕が声をかけると、木田と乃蒼が首を振った。
 朝香と、連絡がつかないのだ。
 チャットアプリでメッセージを送ってみたが既読が付かなくて、最悪の事態が胸を過った。そこで僕たち三人で手分けをして捜すことにしたのだが、どれだけ駆けずり回っても見つからないのだ。

「まさかと思うけど人質になっている? ……電話をかけるわけにもいかないしね」

 乃蒼はすでに顔面蒼白だ。彼女が言う通りだ。もし朝香が人質になっているとしたら、迂闊に電話はかけられない。着信音を鳴らすことで、犯人を刺激する結果になったとしたら最悪だ。

「朝香――! くそっ……どうしたらいいんだ」
「人質になっている女子生徒って誰だよ? 名前とかわかってないのか!」

 木田の怒鳴り声がした。警備にあたっている警察官の一人に、木田がつかみかからんという勢いで突っかかっていた。

「なんだね君は? 危ないから下がっていなさい。度が過ぎると公務執行妨害になるぞ」
「なんだって構いませんよ。人質になっているのは俺の友だちかもしれないんです。これが黙っていられますか!」
「……君の友だちかもしれない? それは本当なのか?」

 木田のこの声を聞いて、警察官の顔色と態度が変わった。

「今はまだはっきりとしたことは言えません。ですが、さっきからその友だちの姿が見えないし連絡がつかなくなっているんですよ!」
「……ちょっと待ってなさい」

 携帯無線機を懐から出して、その警察官がどこかと連絡を取り始める。「はい、はい」と相槌を打つ声が何度か響く。
 固唾を飲んで見守っていると、やがて警察官の口から一人の女性の名が語られた。

「これはまだ確定している情報ではないが……事件発生時に講義場にいた人物の証言によると、人質になっている女子生徒の名は瀬野朝香ではないかと見られている。……君が言っている友だちというのは、この女子生徒で合っているか?」

 心臓がどくんと跳ねた。一度大きく跳ねた心臓が、そのまま強いビートを刻み始める。
「合っています」と沈痛な面持ちで木田が頷いた。

   *

 大学の敷地から少し離れた場所の路上で、僕たちは相談をしていた。

「警察官たちの動きがさっきよりも慌しい。突入する準備をしているんじゃないかと」

 僕が推論を述べると、「朝香はどうなるんだよ」と木田が顔を真っ赤にして憤った。

「人命が第一だろうが。万が一があったらどうするつもりなんだ」
「そりゃそうだ。突入する準備をしているだけのことだろう。突入するタイミングについては、警察だって慎重になってはいるだろう」
「くそっ……。代われるものなら、俺が人質を代わってやるのに」

 歯がみしている木田の横顔を見ながら、やはり彼のことを少し誤解していたようだと思う。彼が朝香を想う気持ちは間違いなく純粋だ。愛情表現がうまくないというか、要領が悪いだけのことで。

「こんなときになに笑ってるんだ」
「すまん。なんでもない」

 とはいえ、どうしたらいいのか。指を咥えて見ているしかない状況はなんとも歯がゆい。

「ちょっと、考えがあるんだけど」

 乃蒼が僕の腕をつかんできた。その指先に込められた力は強く、痛いほどだ。「どうしたの?」と僕は乃蒼と目線を合わせた。

「私になら、どうにかできるかもしれない。他の人に姿を視認されない、私にだったら」
「いや、だがそれは」

 可能性は確かにある。乃蒼の姿は僕ら以外には見えていない。
 乃蒼になら、犯人に気取られることなく講義場の奥まで侵入することも可能だろう。だが――。

「ダメだ。危なすぎる。万一、犯人のいずれかが、乃蒼の姿を視認できていたらどうする?」

 それこそ、万事休すだ。

「それはないよ」

 予想外に強く否定されてたじろぐ。何を根拠にそんなこと。

「木田君。私にスマホを貸してくれない? あとで必ず返すから」
「……いいけど。どうするつもりなんだ?」
「私の考えなんだけれど――」

 乃蒼の姿が見えない相手には、乃蒼の所有物も同時に見えないのだと調べがついている。存在が認識できないので、乃蒼の声も聞こえない。
 それを利用するの、と乃蒼が語る。
 決意のこもった彼女の瞳には、僕の姿が映っていた。

「イヤホンを使って立夏と通話をしながら、私が二号館の中に入る。第二講義場にうまく潜入できたら、何か物音を立てて犯人の注意を引く。犯人が銃を置いて様子を見にきたなら銃を奪って。朝香の側から犯人が離れたなら、朝香の手を引いて退避する。――どうかな、この案?」

 そうか。乃蒼が触れたものは見えなくなるのだから、朝香と手をつなげば彼女の存在を消してしまえる。その手法でなら、二人で逃げるのも容易だ。

「よく考えたものだな。それならいけるかも」
「本気かよ」と青ざめた顔で木田が難色を示す。
「本気だよ。どうせ一度失った命。惜しくなんかないよ」

 自信たっぷりに胸を張って宣言してみせた乃蒼の姿が、頼もしくも儚くも見えた。