熱いお湯の温もりが、冷えた体に浸透していく。
 朝香の部屋で雨宿りをしている間に、シャワーを借りることにしたのだ。シャワーはいいが着替えがない、と心配したのだが、木田が置いていった服があるからそれを着ればいいよとのこと。
 朝香の部屋に木田の服がある。二人は交際していたのだからそれは当然のことなのだろうが、その事実に理由もなく心がささくれ立った。自分でもよくわからないその感情ごと、熱いお湯で洗い流した。
 浴室から出ると、入れ違いで朝香が浴室に向かう。水音が響いてくると、なんだかそわそわとして落ち着かなかった
 朝香の部屋は、棚の上にガーリーな小物が並んでいて、いかにも女の子らしいものだ。甘くていい香りがしている。それが余計に、女の子の部屋にいるんだと意識させて緊張感を加速させる。
 音がするほうをなるべく見ないようにと、気晴らしにテレビを点けた。
 水音が止んで、朝香が浴室から出てくる。
 濡れたままの髪がうなじに貼り付いていて色っぽい。ブラウスのボタンを上から二つ目まで外していて、胸元がかなりきわどいところまで見えている。「まだ雨止まんね」、と言いながら朝香がドライヤーで髪を乾かし始めた。
 テレビに映っていたのは、昔人気を博した海外の恋愛映画だった。座礁事故を起こして沈みゆく豪華客船の上で、一組の男女が愛を囁きあっている。

「立夏は、乃蒼のことば好いとっちゃろ?」

 沈黙を破ったのは朝香の一言だ。

「そう、だな」

 この間、訊かれてうやむやにした問いの答えだ。ここでまた逃げるのは卑怯だと思うから、正直に答えた。

「でも、まだ告白はしとらんのやろ?」
「ああ、していない」

 情けない話である。でも、なかなか踏ん切りがつかないのだ。

「うち、今日勇から三回も告白された」
「……へえ」
「ねえ、こっち座って」

 朝香がソファーの背に体重を預けた。言われた通りに隣に座る。
 朝香が僕の肩に頭を乗せてきたので、思わず変な声が出てしまった。シャンプーのいい香りがする。朝香は気にしていないのか、そのままの姿勢で語り続ける。

「全部断ったけどね。でも――」
「でも?」
「何度も告白されたら、心が揺れてしまうこともあるかもね。立夏はどげん? うちが何度も告白したら揺れるーと?」
「揺れない」

 迷うことなく即答した。揺れない。揺らがない。揺らぐはずがない。
「そっかあ」と朝香が吐息で笑った。

「『追うよりも追われる愛のほうがいい』とよく聞く。自分を大好きでいてくれる相手と付き合ったほうが、本当は幸せになれるんじゃないかと僕もそう思うんだよね。恋愛において、二人が同じタイミングで好意を持ち合うのは稀なことなのだし。でも……僕は木田みたいに要領良くはできない。僕は冷たい人間なのかもね」

 朝香のことを好きになれたら、きっと楽しいのだろう。朝香もそれを望んでいるのだから、そうしたら丸く収まるのかもしれない。それがわかっていても、彼氏彼女の関係になりたいとは思えなかった。乃蒼に気持ちを伝えるまでは。

「立夏は自分が冷たか人間やて思う?」
「うん」
「そうやろか? 立夏は勇よりずっと優しかて思うけどな」
「どうしてそう思うの?」
「だって、こうしてうちのわがままに付き合うてくれとる」
「そんな、このくらいのことわがままでもなんでもないよ」
「そう? じゃあうちは、もっとわがままな女になることにする」

 朝香が僕の手を取った。そのまま自分の頬に当てると、目を閉じてすりすりと頬ずりをしてくる。彼女の肌の柔らかさが手のひらから伝わってきて、思わず生唾を呑み込んだ。

「うちは、立夏のそげなところを好いとーとよ」

 気まずい沈黙が横たわる。良くない会話の流れだった。
 屋根を叩く雨音がしなくなっていた。雨は小降りになったのだろう。どうにかして帰らなければ、と思い始めた。

「うちはね。立夏への恋心ば諦めとうなか。今日ね、賭けばしとったんだ」
「賭け?」
「そう。今日、もし立夏が迎えに来てくれたら、立夏にうちの初めてばあげようって」
「いや、だって、お前木田と付き合っていたんだろ……?」
「ああ。してないんだよ、あいつとは。あいつさ、うちのことは本当に大事にしてくれとったけん」

 朝香が僕の胸の中に飛び込んでくる。そのまま押し倒されて、馬乗りになられた。

「今日だけでよかけん」
「は? いや、それは……」
「立夏は乃蒼のことが好きやけん無理なんやろ? ばってん、二人はまだ付き合うとらんやろ? なら、問題なかろ? うちは、立夏のことが好きなの。今はまだうちに興味がのうてもよか。お試しで付き合ってみたら、そのうちうちのこと好きになるかもよ?」
「そんなこと言われても困るよ」
「うち、立夏に嫌われとーと?」
「いや、別にそういうわけじゃないけど」
「じゃあ、よかやん。うちを抱いてよ。ね? 立夏の好きにしてよかけん」

 朝香の唇が近づいてくる。僕は顔を背けて逃れた。

「やめてくれ」
「なして?」
「だって……それは……」

 僕は乃蒼が好きだ。だから朝香の気持ちには応えられないし、応えてはいけない。このまま流されていいはずがないんだ。それはわかっているのに一方でうまく拒絶できない。
 ――乃蒼は、いずれ消えてしまうかもしれないんだぞ?
 頭の中で悪魔の囁きがする。
 ――わかっているさ。いずれそうなってしまうのでは? という疑念と恐怖が心の中にあるから、乃蒼に気持ちを伝えられずにいるんだ。どうせ悲しい終わり方になるなら、始まらないほうがお互い傷つかずに済む。
 僕が言葉を濁していると、朝香がにたりと笑った。

「立夏は、好きな子でなくともそういうことできるんやね」
「え?」
「口では嫌がっとっても、体はちゃんと反応しとーばい」

 自分の意思とは無関係に、僕の体はしっかり反応していた。
 腰の上にまたがっている朝香が身じろぎをするたびに、僕の体の中に欲望と切なさとが溜まっていく。
 馬乗りのまま、朝香が顔を近づけてくる。彼女の長いまつ毛が頬に触れるほど近く、そしてそのまま唇が重なった。

「ん……」

 朝香の吐息が唇に触れる。柔らかい唇の感触が伝わってくる。女の子の唇って、こんなに柔らかいのか。

「我慢しないで。楽になってしまえばよかやなか?」

 耳元での囁きが、耳朶をくすぐってむずがゆい。朝香が体を密着させてくる。肌と肌が触れ合って、温かくて気持ちいい。このまま溶け合いたい衝動に駆られる。

「立夏……」

 僕の名前を呼ぶ声が声が色っぽい。頭がくらくらする。理性を総動員して朝香の体を押し返した。

「やめっ」

 朝香の肩を両手で押した。押されながら朝香が僕の手を引いたので、逆に僕が彼女を組み敷く体勢になる。
 朝香は涙目になっていた。しかし、瞳の奥には情欲の炎が灯っているように見えた。頭の中で警鐘が鳴り響く。これ以上はいけないと理性が告げる。それなのに、僕の手は勝手に動き出していた。
 朝香のことは好きだ。魅力的な女性だと思う。
 揺れる短いスカートや、そこから覗く細い足や、思いの外豊満な胸元に、心がかき乱されたことは何度もあった。
 それでも僕は朝香の恋人になることはできない。僕が朝香に対して思う好きと、彼女が僕に対して向けてきている好きとでは、熱量が違うのだ。
 だから交わらない。
 それなのに――。

「うっ……ひっぐ……」

 瞳をそらして、泣き始めた朝香を見ていると、罪悪感で胸が苦しくなる。
 朝香を泣かせているのは僕なんだ。
 僕は朝香の体を抱きしめた。