木田に指定された店に到着すると、奴は店内の座敷席で待っていた。

「こっちだ」

 手招きをされて、靴を脱いで座敷に上がる。大人が四人くらいで満席になりそうな小さな個室だった。見るからにへべれけの朝香と木田がいた。座布団が四つあるので、さっきまでもっと人がいたのかもしれない。
 木田はゆったりとした七分袖のシャツに黒のパンツを合わせている。悔しいがやはりこいつの見た目は様になっている。
 一方で、ブラウス×パンツルックでコーデした朝香はというと、だいぶ飲んだのか、気持ち良さそうに寝息を立てている。木田の膝に頭を乗せて。
 なんでこんなに無防備なの? と呆れてもしまう。

「お前、朝香に何したんだよ」
「待て待て、濡れ衣だって。俺は何もしていない。こいつが勝手に飲んで、勝手に酔いつぶれただけだ」

 それはそうと離れろよ、と言おうとしてやめた。店で喧嘩をするなんてバカらしい。あとで朝香に余計な心配をかけさせたくないし。

「朝香に妙なことをしていないだろうな?」
「妙なことってなんだよ? 本当に何もしていないって」

 朝香は気持ちよさそうに寝ているし、着衣の乱れもない。どうやら、木田が言っていることに嘘はなさそうだ。まあ、朝香はあまり酒癖がよくないからな。

「そっか。疑って悪かった。それで? 僕はなんでここに呼び出されたわけ?」
「朝香を、家まで連れていってほしいんだよ」
「なんで僕が?」
「だって、君は朝香の恋人だろう? たとえそれが方便であったとしても」
「嘘だって気づいてたのか?」
「ああ、やっぱり」

 木田が少し目をすがめた。

「君はカマをかけると、すぐにぼろを出すんだな」
「――余計なお世話だ」

 なんだよ。最初から気づいていたのか。人の悪い奴だ。

「本当は、俺が朝香を家まで送って行っても良かったんだけれど、こいつ、何がなんでも君に送ってもらいたいって駄々をこねるからさ」
「僕に?」
「そう。電話で呼び出して、三十分以内に長濱君が来たら私の勝ちねって」
「勝ちってどういう意味?」

 なんの勝負事かわからず首をかしげた。「ま、詳しい事情はあとで朝香から直接聞いてくれ」と木田はお茶を濁した。

「そんなわけで、頼むわ」

 なんだかずいぶんと面倒なことに巻き込まれた気がする。
 寝ている朝香を置いてはいけないし、閉店時間が迫っているようで、あまり長居はできなさそうだ。仕方なく「わかった」と了承し、朝香を起こすことにした。

「おーい、帰るぞー」

 朝香の頬をぺしぺしと叩いたが、まったく反応がない。外まで運ぶの手伝うよ、という木田の声に、不本意だが頷くほかない。

 店の前で木田と別れ、朝香をおんぶして歩き出した。朝香は乃蒼ほどじゃないが小柄なので、大して重くはない。今日の服装がミニスカートじゃなくてパンツなのが幸いだ。ひと目をこれといって気にせずに済む。
 少しだけ路地を進めば大きい通りに出る。そこでタクシーを拾っても良いのだが、このまま歩くことにした。歩きでも、朝香のアパートまでならたぶん十五分くらいで着くのだから。
 居酒屋の前に自転車を置いてきてしまった。
 面倒だが、明日か明後日にでも取りにこよう。
 入口に提灯(ちょうちん)のかかった飲み屋の入口が路地の奥に見える。二次会の会場を目指しているのか、連れだって歩くサラリーマンたちの姿が見えた。
 ゆっくりと、朝香をあまり揺らさないように気をつけながら歩いた。背中で朝香がもぞもぞと動くたびに、背負い直したりしながら黙々と歩いた。

「あれ? ここどこ? あれ、勇は?」

 そのとき耳元で朝香の声がした。起きたのか。

「さっき店の前で別れたよ。……目が覚めた?」
「ああ~そっか~」

 呑気な声で言ってから、朝香が短く息を吸った。

「……あ、ごめん。本当に来てくれたんやなあ。うち重かろ?」

 今自分が置かれている状況をようやく理解した、とそういった感じの反応だった。本当にしょうがない奴だ。

「人を呼びだしておいてそれはひどいんじゃないの? もっと先に言うべきことがあるでしょう? 朝香様」

 からかい半分に笑うと、朝香が頭をかきむしる気配がした。

「そうやなあ。ありがとう。本当に来てくれるとは思うとらんかった」
「重いよ」
「……? ひどかっ。今その質問に答えなしゃんな」
「ははは」
「そこは嘘でも、軽すぎておんぶしとーことに気づかんかった、て言うところやなかと?」

 頬をきゅっとつねられる。どうやら怒っているらしい。

「女の子でも人間なんだから、そんなに軽いわけないでしょ。誰かの命を背負うってのはそういうことだ」

 ふと、乃蒼の姿が脳裏に浮かんだ。朝香も同じことを考えたのか、会話がそこでいったん途切れた。
 車のヘッドライトが通り過ぎていく。疑問に思っていることは、うやむやにせずに訊いておかなければダメだよな。

「三十分以内に僕が来たら勝ちってどういうこと?」

 ああ、とバツが悪そうな顔で朝香が笑った。
 ダブルデートみたいな形で木田に飲み会に誘われた。いい加減に断らなければ、と思っていた頃合いだったので、付き合うのは無理だときっぱりそう伝えた。すると、乃蒼と僕との一件を木田が伝えてきた。相手になんてされていないぞ、とでも言いたげに。ヤケ酒でもなかったが、その言い方に苛々して勢いで飲み過ぎてしまう。送っていくよと木田が提案してくれたのだが拒絶した。電話をして僕に来てもらうと。
 たいしてお前のことを好きなわけでもない男が、迎えに来るわけないだろと反論されたので、なら、三十分以内に僕が来るかどうかで賭けをした。
 かいつまんで言うと、そういった顛末だった。

「なるほど。それで僕は呼び出されたわけか。それはそうと、なんで自分で電話しなかったの」
「そのへんからいまいち記憶がのうて」

 これには苦笑いするしかなかった。案の定の酒癖の悪さだった。

「巻き込んでしもうたみたいでなんかごめんね。あ、もう平気やけん歩くばい」
「実際、巻き込んだけどね。いや、平気だからこのままでもいいけど? それともおんぶされているの恥ずかしい?」

 遠巻きにこっちを見ているであろう人の視線をいくつか感じていた。

「恥ずかしか……ばってん、立夏が平気だって言うなら甘えてしまおうかな」
「了解」
「そげんして優しくされたら、女の子は勘違いしてしまうんだぞ」

 甘い囁きが、背中から聞こえた。

「勝手に勘違いすんな。女の子が困っていたら、助けるのが男ってもんだろ」
「そげなん、さらって言うてしまうあたりがなんかずるい」
「なあ。もしかして木田って、そんなに悪い奴じゃない?」
「あれ? 木田のこと嫌いなんじゃなかったと?」
「嫌いだよ。嫌いだけどさ、君があんだけ酔いつぶれていたなら、普通はあのまま家とかホテルに連れていくもんでしょ。それなのに、律儀に僕を呼び出すなんてさ」

 乱暴するのが目的であれば普通はそうする。そうしない時点で、目的が別のところにあるってことだ。
 いけ好かない奴だけど、妙なところで紳士的だと思ってしまった。

「ああ、そりゃね、あいつの目的はうちの体やないからばい。勇は、去年まで付き合うとったうちの元カレなんや」
「なんだよ……全然知らなかった」
「立夏には言うとらんかったけんね」

 まさか元カレだったとは。なら、付きまとっていたというよりは、復縁したがっていた、と言ったほうが適切だ。それなら木田にとって、朝香の恋人を演じていた(特に演じてもいないが)僕の存在は目障りでしかない。これまでの諸々が腑に落ちた。
 朝香と木田が交際を始めたのは、昨年の春とのこと。朝香と乃蒼が知り合うよりも前の話だ。付き合い始めた当初から、木田は女癖が悪かった。元々モテるタイプなのだろう。朝香と付き合い始めてからも、複数の女と交際していた。
 そのような男に、二股野郎呼ばわりされたのか。理不尽すぎるだろ。

「浮気をされていることは正直腹ただしかった。でも、本当に愛しとーとはうちだけばい、うちが一番たい、て言うてくれとったけんね。それば支えにしてしばらくの間は我慢できとったと」

 ところが、木田は朝香の友人にまでちょっかいを出した。朝香に内緒でその子をデートに誘おうとしたらしいのだ。「うちの友だちに手を出すってどげなことと?」と問いただすと、悪びれることもなく言い訳に終始した。そこで一気に熱が冷めた。

「でも、別れるきっかけになったのは誕生日ばすっぽかされたことのほうかな。このときも言い訳ばっかりしてね。うちの誕生日ば忘れとったのも嫌やったけど、女の子ば物としてしか見とらんからそうなんやろうか? て思うたらもう無理ばいと感じた。そこで、うちから別れようって言うたと」
「なるほどね」
「しかもうちと別れたあとで、乃蒼にまで興味ば示したし」
「えっ!? それは本当なの?」
「うん。まあ……乃蒼に彼氏がおるかどうかって訊かれただけなんやけどね。やけん、乃蒼は立夏と仲がよかよと伝えといたんだ」

 だからか。木田が僕と乃蒼の関係を疑っていた理由がわかった。

「じゃあ、木田の奴は元から僕のことも乃蒼のことも知っていたのか。……あいつ、乃蒼の姿が見えているらしいんだ。知ってる?」
「知っとーばい。勇には乃蒼の姿が見えとるみたい。彼女の姿ばこの間目撃したとかで、なして乃蒼が生きとーったい? て聞かれたけん簡単に説明はしといたばい」

 なんだよ。そこまで把握していたのか。なら、なおさらあんな言い方をされる必要はなかったんじゃないのか? 貧乏くじを引かされた気分だ。

「僕、木田に二股野郎だって罵倒されたんだよ。乃蒼がうちに居候している事実を知っているんだったら、そうじゃないってことくらいわかっていただろうに」
「そうやったんだ。ごめんね。……おおかた、わざとやったんやろうね。うちが立夏のことば好きなのは知っとったけん、その分強う当たったんやなかかなと」

 乃蒼のことを気にかけている人物にだけ彼女の姿が見える。この認識でやはり正しいんだろうな、と答え合わせができた気はした。
 女にだらしないし、性格悪いし、個人的にもあいつは大嫌いだけど、朝香のことを好きなのだけは本当なんだろうなと思った。思っていても、気持ちを言葉にできずにいる僕からしたら、木田の行動力は眩しくも羨ましくもあった。

「朝香は、もう木田のことなんとも思っていないの?」

 沈黙が数秒流れた。

「思うとらんばい。思うとらんからこそ、うちは立夏のことが好きになったんやし」
「そうだよな。うん」

 そこで会話は完全に途切れた。
 無言で歩き続けているうちに雨が降り出した。
 空が暗くなったと感じてからそれはすぐのことで、瞬きをしている間にどんどん雨脚が強くなってきた。一寸先が見えないような大粒の雨が滝のように降ってきた。
 僕も朝香も傘を持っていない。悠長におんぶして歩いている場合じゃない。天気予報と全然違うじゃないかと悪態をつきながら、二人で懸命に走った。
 朝香の部屋があるアパートに着くと、外部階段の屋根の下に逃げ込んだ。
 見上げた空は、墨をぶちまけたみたいな漆黒だ。威嚇してくるみたいに次々と稲妻がひらめいて、朝香が短く悲鳴を上げた。

「止みそうにねえなあ」
「やなあ。立夏、全身びしょ濡れだよ?」
「そういう朝香こそ」

 朝香が着ている白いブラウスはしっとりと濡れていて、肌に貼りつくことで下着がくっきりと透けて見えていた。
 それに気づいて慌てて顔をそらした。

「濡れたままじゃ風邪ひくやろ。……うちの部屋、寄ってく?」

 外はいまだバケツをひっくり返したような土砂降りだ。寂しく家で待っているであろう乃蒼の姿が一瞬頭に浮かぶ。もし、この雨の中強行軍で帰って、僕まで風邪をひいたらどうなる? 二人で寝込んでしまったら、乃蒼の看病どころじゃない。それだけは避けなくてはならない。
 女の子の部屋に上がり込むのに抵抗はあるが、ここは彼女の厚意に甘えておくべきか。
 ちょっとだけ。そう、雨が止むまでの間だけ。
「悪い。ちょっとだけ雨宿りさせてもらうわ」と呟くと、伏し目がちに朝香が頷いた。