***プロローグ
青藍色の朝に溶けるように、涙が溢れる。
早朝5時半。
すすり泣く声を殺し、音を立てずにドアを閉めた。
起きてしまえば、貴方の中の私が他人に戻ってしまうのが怖くて、起こしたくなかったんだ。まだ私の夢を見ていて欲しい。
静かな住宅街の中を、ほろほろと涙を流しながら駅までの道を歩く私は、まるで魔法の解けたシンデレラみたいだ。
その時間は確かにあった。
私の手に残る感触も、温度も、貴方の声も。
魔法が解けたはずなのに、ガラスの靴みたいにそのまま私に残っている。
振り返ってみても、誰もいない路地にいるのは、泣いているひとりの私だけ。追いかけてくる王子様なんていない。
だって、約束したじゃないか。
この夜は一度きりだって。
君が魔法をかけたこのガラスの靴は、脱いで捨てよう。
貴方の家の玄関に置いていくのは、私の淡い未練だけだ。
忘れられない私だけが覚えていよう。
ポロンと鳴ったスマホを取りだして、「いいねされました」と通知の来ているマッチングアプリをアンインストールする。
──サヨナラ。
見上げた空の青い月が、寂しげに滲んでいた。
***出会い
今日も眠れなかった。
灰青色の光が、カーテンの隙間から朝を告げる。
布団を引っ掴み、頭から暗闇に隠れた。
猫みたいに体を丸めて、膝を抱き抱える。
社会人2年目、後輩もできて忙しさに拍車がかかった。体は疲れているはずなのに、気持ちが許してはくれない。寝ようとすると、言いようの無い感情が底から湧き上がってくる。何度も寝返りを打つが振り払えない。仕事まで1時間でも仮眠出来たら御の字。ふわふわとしている頭で感情を押し殺すように、ギュッと瞼を閉じた。
私はたぶん『寂しがり屋症候群』だ。
もちろん、そんな病気なんてないし、これは私の性格の問題。
そんな性格に、名前をつければ『寂しがり屋症候群』がぴったり。
誰でもいい。誰かにそばにいて欲しい。
夜になると、その不安が私を襲う。
それがあの感情の答えだ。
子供の頃は、ぬいぐるみでよかった。今でも実家に帰れば、くたびれたテディベアが私のベッドを守っている。
でも、大人になった私は『人』を求めるようになった。
ぬいぐるみにはない、体温を求めるようになって一夜限りの大人の関係も経験した。
だけど、満たされない。事が終わってしまえば、男の興味は私から離れてしまうからだ。
愛されたいわけじゃないし、ただ私に寄り添ってくれさえすれば、それで満たされる。
そんな都合のいい関係を求めていた。
枕元に置いたスマホが振動し、ポロンと通知音が鳴る。
布団の中から手を伸ばし、スマホを取ると、ポップアップに『マッチングしました』と表示されていた。
2時間ほど前に、試しに登録したマッチングアプリからの通知だ。
暇つぶしになるかと、興味本位でインストールしたアプリ。寂しさから『人』を求めて登録したものの、やり方がわからずあれこれと検索をかけている途中、ある魅力的なハッシュタグを見つけた。
『#ソフレ募集』
所謂、添い寝フレンドというやつだ。ただ同じ布団で眠るだけ。それ以上はしない。なんて私にピッタリなんだろうと、そのハッシュタグの付いた『人』を片っ端からいいねしていく。夜も深い時間に登録したから、寝てる人も多いだろうなと期待はしていなかったが、私の初めてのマッチングだった。
友達がマッチングアプリで恋人ができたの!と自慢していた理由がよくわかった。簡単なもんだ、今の時代アプリひとつで『人』と繋がれる事実と、この便利さに感嘆の息を漏らした。
「はじめまして」
私は、それだけ送ってスマホを置くとまた目を閉じる。
出社の時間は待ってはくれない。だけど暫くして、ポロンとまた通知が来たから、私はもう眠るのを諦めて布団からモゾモゾと起き上がった。
「はじめまして。えっと、僕は沖島誠二。27歳。」
「私は茂木陽依。24歳です。」
誠二と名乗る彼はシステムエンジニアをしているらしい。
プロフィール写真の印象は好青年と言うフレーズがぴったり。黒髪の爽やかな短髪で優しそうな顔をしている。
「あの⋯⋯貴女のプロフィールの#ソフレ募集ってなんですか?すみません、この手のアプリに不慣れなもので。」
あれ?と不思議に思った。たしかにソフレのハッシュタグを付けた『人』を選んで♡を押したはずだけど⋯⋯。誠二のプロフィールを確認してみると、そのタグはやっぱり付いている。まぁいいかと私は気にせず返信を続けた。
「あぁ、ソフレですか?添い寝フレンドの略。一緒に寝てくれる人を探してるんです。私、夜一人で寝れなくて。って誠二さんのプロフィールにも付いてましたけど?」
「なるほど⋯⋯添い寝ですか!よく分からないまま登録をしてしまって⋯⋯間違えて押したのかな」
(⋯⋯入力中)
彼が何かを入力している時間が焦れったくて、私は高速でフリック入力を続ける。
「添い寝フレンドのルールは簡単です。寂しい夜に一緒に寝るだけ。その先はもちろん禁止。お互いに必要な時に連絡する。ね?簡単でしょ?私はそれを望んでいます」
「そうですね。実は、僕も寝れないので助かります。でも、一度会えませんか?不躾ではありますが、ひとつ僕もお願いしたい事があるんです」
「お願いって?」
なんだろう?
また(⋯⋯入力中)が続く。待つ時間がもどかしい。
寝不足だからか「システムエンジニアをしてるんなら、入力のスピードは早いはずでしょ?早く返事してよ!」なんて悪態をついてしまいそうになる。
誠二は、丁寧に言葉を選んでいるのか返事に時間をかける。この生真面目な文章からもプロフィール写真通りの人柄が伝わってくる。仕方ないか⋯⋯と諦めて彼の返事を待った。
「僕は趣味で小説を書いています。お恥ずかしい話ですが、アイデアに煮詰まっていて。なので僕と出かけてくれませんか?形だけのデート⋯⋯それで構いません。恋人を演じて欲しいのです。もちろんお礼はします。その、ソフレというの⋯⋯僕でよければ」
変わった人だな?と一瞬思ったが、私の頭をよぎった下心を感じるお願いじゃなかった事と、丁寧な文章がよかったのかもしれない。
それに、不思議とこのやり取りに安心を感じている。この人なら一緒に寝ても問題なさそうだ。私は「いいですよ。明後日の土曜日はどうですか?」と、直ぐに返事を送っていた。
***遭逢
東京、青山。
表参道の駅を出て、変わらない景色をぐるりと見渡す。
大学時代に何度も通った場所。
「久しぶりに来たなー⋯⋯」
メッセージのやり取りの中で、待ち合わせ場所はどうしようか?と聞かれた時に、つい慣れた場所を提案した。表参道ならデートの場所としても申し分ないだろうし。
今日は彼の恋人を演じる日。とは言え、私もデートなんていつぶりだろう?久しぶりにちゃんとメイクを施した。服もそれっぽく着飾り、髪も巻いた。だから今、少しだけ浮かれている。
誠二のプロフィール写真を見返して、似ている人はいないかとキョロキョロと辺りを見渡してみる。顔立ちは整っているから、目立つはずなのに。時間を過ぎても似た姿の男性は見当たらない。
ポロンと通知音が鳴り、誠二から「着きました⋯⋯出口に迷ってしまい、どこでしょう?」とメッセージが届いた。
「私はB4の出口を出た所にいます。どちらに居ますか?迎えに行きますので」
「助かります。僕はA3出口を出ました」
「反対側に出ちゃったか⋯⋯」交差点の向こう側の出口を見ると、挙動不審に辺りを見渡す背の高い男を発見した。白いシャツに大きなリュックを背負い、絵に書いたような好青年がいる。それが誠二だとすぐに分かった。
「たぶん、見つけました。そこにいて下さい」
メッセージを送ると、すぐに信号が青に変わり、私は横断歩道に駆け出した。
「あの⋯⋯沖島さん?ですか?」
誠二はスマホを確認しながら「はい!えっと⋯⋯貴女は、茂木さん?ですか」と困り顔で私に尋ねた。
「はい、茂木です。茂木陽依です」
「よかったー。すみません。今日は僕の変なお願いを聞いてもらって。ありがとう」
誠二は緊張していた顔を緩めた。
「いえ、こちらこそ。お互い様です」
「えっと、じゃあ⋯⋯少し歩きましょうか」
さりげなく車道側を歩いてくれる誠二はやっぱり優しく好青年。
今夜の相手がこの人で良かったと、私は胸を撫でおろす。
「茂木さんは、普段は何をしてるんですか?」
「仕事ですか?私は人材系の営業職を⋯⋯」
「えっと、すみません。休みの日は何を⋯⋯?」
「あっ。そっちか⋯⋯カフェを巡ったり映画を見たりですかね。沖島さんは?」
「僕もカフェで本を読んだり、執筆をしたりしてます」
「そうでした!小説を書いてるんですもんね。今日、私は何を演じたらいいんでしょう?彼女を演じて欲しいって言ってたけど⋯⋯」
「実は、ヒロインとの描写が浮かばなくて。僕が疑似体験をすればイメージも湧くかなと思ってお願いをしました。小説は経験と体験の産物だと思っているので」
「なるほど、わかりました。それで、そのヒロインってどんな女の子なんですか?」
「なんか、僕の好きな女性のタイプを聞かれているようで恥ずかしいですね」と誠二は少し照れながら、教えてくれた。
「純新無垢で、太陽みたいな人。その優しい光で、暗い気持ちの僕を照らしてくれる。大丈夫だよ、って安心をくれる人ですね」
「絵に書いたようなヒロインですね。これ、私に務まるかな⋯⋯?」
その純新無垢と言うワードに少しプレッシャーを感じた。
少なからず、純新無垢な女の子はマッチングアプリなんてやってないだろうし。
「気負わないでください、あくまでイメージですから。それに茂木さんは素敵な人です。僕の隣にいるのが勿体ないくらいの。写真よりも、ずっと綺麗です」
誠二は慌てて私を肯定してくれた。
「お世辞が上手いなぁ。じゃあ、呼び方を決めませんか?お互いに苗字で呼び合うのも恋人を演じるにしては変じゃないですか?」
「それもそうですね、えっと、じゃあ⋯陽依ちゃん?」
誠二は顔を赤くしながら、私を陽依ちゃんと呼んだ。それが面白くて私はフフッと笑ってしまう。
「すみません、本当に慣れてなくて⋯⋯」
「ごめんなさい。久しぶりに呼ばれたなぁって。幼稚園以来かも?陽依ちゃんでいいですよ!私は誠二君て呼びますから!いいかな?誠二君」
「はい!それでお願いします」
それから、初めて表参道に来たと言う誠二に、私はいろいろと案内をした。犬のように私に付いてくる誠二が可愛くて、私の心も弾んでいる。お店を覗いたり、服を買いたいと言う誠二の服を選んだりした。私もすっかり、恋人を演じていることを忘れて楽しんでいる。
「陽依ちゃん、少しカフェで休んでいかない?」
「うん!疲れちゃった?」
「ちょっと、小説のアイデアが浮かんだので、忘れないように書き留めておきたいんだ」
「いいよ!じゃあオススメのカフェに案内するよ」
路地を入った所にあるお洒落なカフェ。前々から気になっていたお店で、席もちょうど空いていた。
オープンテラスの席に案内され、向かい合って座ると、さっそく誠二はリュックから筆箱と手帳を取り出した。
「僕はアイスコーヒーを。陽依ちゃんは?好きな物選んでね」
「私は、カフェラテがいいな」
すみませんと店員を呼び、注文を済ますと、誠二はさっそく手帳に何かを書き始めた。チラッと見えた手帳には、びっちりと文字が書かれている。私は疑問に思った。システムエンジニアなら必ずパソコンを持っているはずだ。リュックの大きさで、パソコンをいつも持ち歩いているものだと思っていた。それに、小説なんてパソコンで書いた方が効率がいいのでは?
「誠二君、パソコンで書かないんだね。ほら、システムエンジニアのお仕事ってプロフィールに書いてあったし。パソコンの方が早いんじゃない?」
「あぁ、そうだね。今、実は休職中なんだ。それに僕は忘れっぽいので⋯⋯」と誠二は寂しく笑った。
無心に文字を書き続ける誠二を、そっと見守る。
私がカフェラテを飲み終わる頃、誠二はパタンと手帳を閉じた。
太陽が、空をオレンジ色に染め上げていく。
誠二は空を見上げ「夕日が綺麗だね。空が忘草色をしてる」なんて事をポツリと呟いた。
「ワスレグサ?勿忘草じゃなくて?」
「忘草もあるんだ。藪萱草って言うオレンジ色の花。万葉集にも何作か詠まれた歌があるんだよ。僕の好きな花です」
「へー、調べてみようかな⋯⋯」
スマホを取り出す私を「それは、明日。僕がいない時に!」と誠二は慌てて止めた。理由は分からなかったが、何か恥ずかしい理由でもあるのか?と思い、スマホをしまう。
「でも、いい色ですね。忘草色」
「優しい色ですよね。あっ、もういい時間です。陽依ちゃん!そろそろ、行きましょうか」
忘草色の夕日を浴びながら、誠二は「手を握って歩きませんか?」
そう言って、掌を上に向けて差し出してきた。
「うん、いいよ」
私は左手をそっと重ねる。
優しい温度が、私の温度と混ざり合う。
誠二は大きな手で優しく握り返してくれた。
今日、私はこの人の隣で眠る。
──あぁ⋯⋯なんて安心するんだろう。
君は、どんな顔をしてるんだろう?
私より背の高い誠二の横顔を見上げると、その視線に気がついた誠二は優しく微笑む。
「陽依ちゃん、どうしたの?」
その優しい声に、ドキドキとしてしまう。
「なんでもない、です」
「変なの⋯⋯こっち見てたじゃん」
「何でもないってば!」
疑似恋愛で、恋人を演じたはずなのに。
なんで、心がずっと騒がしいんだろう。
***千夜一夜
「どうぞ、上がって」
「おじゃまします」
物が少なく、小綺麗に整頓された部屋。
几帳面な彼の性格が伺える。置いてあるインテリアのセンスも私好みで居心地がいい。
誠二は添い寝の場所に、「ホテルとかだと、僕が落ち着かないから」と言って自分の部屋を提供してくれたのだ。
「ソファーに座ってて」と言われて、私はひとり腰を下ろす。
目の前のローテーブルの上に、クリップで留られた原稿用紙の束を見つけた。これが例の小説か。部屋に入ってきた誠二に「これが、書いてる小説?」と尋ねた。
「あ!ごめん出しっぱなしだったね!邪魔ならどけていいから」
「ううん、ねぇ読んでもいい?」
「ごめん。まだ未完成だから⋯⋯」
「えー。じゃあ、完成したら読ませてね!私だって協力した作品なんだから!いいでしょ?」
「⋯⋯そうだね。僕は先にシャワー浴びてくるよ。陽依ちゃんはゆっくりしてて。喉乾いたら冷蔵庫の適当に」
「わかった!ありがとう」
誠二がシャワーを浴びている間、いけないと思いつつも机に残された小説をパラパラと読んだ。見るなと言われると、余計に見たくなる。それに今は、誠二の事をよく知りたいと言う好奇心の方が、罪悪感より勝っている。
その小説は、余命宣告を受けた男の切ない恋の話だった。
「君を忘れるのが、怖いんだ」
最後のページに書かれた主人公の台詞。
「僕はよく、忘れっぽいので⋯⋯」
誠二もそう言っていた。
理由は分からない。だけど、なぜか胸騒ぎがした。
見てはいけないものを見てしまったかも、と今度は罪悪感が私を支配する。きちんと原稿の束を元に戻し、私は平然を装った。
「陽依ちゃんも、シャワーよかったら。簡単に掃除はしたけど⋯⋯」
新しいバスタオルを持って、誠二が戻ってくる。
濡れた髪をわしゃわしゃと拭くその姿に、つい見蕩れた。
「陽依ちゃん?」
「へっ!?あ、シャワー、お借りします」
これ以上見てはいけないと、慌ててバスルームに逃げ込んだ。
正直、誠二は私の好みの男性だ。年上で優しいし。
もし、本当に彼女になれたら、眠れない夜とも卒業できるだろうな。
たぶん、私はそれくらい彼に惹かれ始めている。
持参したパジャマに着替えて部屋に戻ると、ドリップされたコーヒーの香りが部屋に満ちていた。
「いい香り⋯⋯」
「コーヒーは趣味で。毎日の楽しみなんです」
コーヒーミルで豆を挽く誠二の前には、本格的な道具がずらりと並んでいる。
「座って待ってて」と言われ、先にソファーに座っていると、誠二はコーヒーをマグカップに注ぎ、私の隣に座った。
「陽依ちゃん、甘いのが良ければ使って!ハチミツが意外と合うんだよ。入れようか?」
「じゃあ、多めに!」
誠二はハチミツを3周ほど掛回すと、スプーンでくるくると混ぜる。甘い香りが、ふわりとふたりを包んだ。
「今日はありがとう。お陰でイメージが湧きました」
「私も楽しかったです。誠二君でよかった。実はマッチングアプリなんて初めて使ったんです」
「本当に?僕もです!」
「もう辞めてもいいかなって思ってるけど」
「どうして?」
「それはね⋯⋯」
──だって、誠二君に出会えたから。
私の気持ちが悟られてしまったのか、誠二は私の言葉を遮るように、意外な一言を口に出した。
「この夜は一度だけにしませんか?」
「えっ?どうして⋯⋯?」
瞬間的に「寂しいよ!」と口に出そうになった。
寂しがり屋症候群の私の言葉じゃなく、本心の言葉だ。
好きだから寂しい。
もう、会えなくなるのは寂しい。
「僕は、今日だけと決めていたので。すみません」
誠二は一点をじっと見つめ、重たい声でそう言った。
それ以上の理由は言わなかった。
固まってしまった私に、あの優しい笑顔で「でも、今日は陽依ちゃんのそばに居ますから。安心して眠ってください」と言う。
──そうだ。私たちはお互いの寂しさを埋めるだけの存在。お互いの利害が一致しただけで今日ここにいる。浮かれてたのは私だけだったのかな。
私の手の中で、コーヒーのマグカップがゆっくりと冷めていた。
セミダブルベッドの端と端で、仰向けで横になる。
間にぽっかりと空いた空間が、嫌に虚しい。
見慣れない天井をボーッと見つめ、会話をすることも無く少しの時間が過ぎた頃、私はこのモヤモヤとする寂しさを振り払いたくて、またあの安心感を求めた。
「ねぇ、誠二君、手、繋いでもいい?」
「うん。いいですよ」
理解しようと思っても、難しい。
だってこの手の温度は私に安心をくれるんだ。
離したくない。
「誰かが傍に居てくれるって、安心するんだね」
誠二は優しくそう言った。
「⋯⋯うん。そうだね」
──やっぱり後悔したくない。君の傍に私が居たいんだ。
私は手を繋いだまま、体を横に向けて誠二を見つめた。
誠二は顔だけこっちを向けて、驚いて私を見つめる。
「陽依ちゃん?」
「私、明日も明後日も、誠二君に会いたいよ!ごめん。今夜だけなんて無理だ」
「⋯⋯ごめん」
「私、本当に彼女になったら迷惑ですか?」
誠二は少し考えた後に、寂しそうな笑顔を作った。
「理由をちゃんと言わないのは失礼だよね。本当は言いたくなかったんだ。今日が楽しかったから。僕は休職中だって言ったのを覚えてる?」
「⋯⋯うん。覚えてるよ」
「僕は脳に腫瘍があって。先が長くないかもしれない。手術が難しい場所で、記憶がね⋯⋯寝て目が覚めると断片的に消えてることが多くて。だから、小説もパソコンじゃなくて手帳に。パスワードを忘れたら見返せないだろ?手帳なら何度も見返せる」
「嘘⋯⋯それって」
瞬間的に、さっきの小説を思い出した。
あれは誠二が主人公の小説だったんだと理解した。
驚きのあまり、返事が出来ない私に誠二はそのまま話を続ける。
「手術も難しいって諦めてた。だけど、最近言われたんだ。新しい治療法なら、手術が可能かもしれないって。希望が見えた。まだ生きれるかもって。でもさ、同時に怖いんだ。術後に記憶が消えてしまう可能性もあるって。起きて全部忘れてたら⋯⋯そう思うと、最近は寝るのも怖くなって。だから明日、僕は陽依ちゃんを忘れてるかもしれない。だから今夜だけ。そうしたいんだ」
「そんな⋯⋯」
それ以上の言葉が見つからなかった。
衝撃的な事実に、私は頭が真っ白になったのだ。
そして、思い出す。誠二が何を求めていたのか。
──純新無垢で、太陽みたいな人。その優しい光で、暗い気持ちの僕を照らしてくれる。大丈夫だよ、って安心をくれる人。
今夜。私はまだ、君のヒロインだ。
私は覚悟を決めた。今夜だけ。今夜だけだ。
君のための彼女でいてあげよう。
「大丈夫だよ。私が忘れない。誠二君が居た事。それに素敵な人だってことも。私が忘れない。だから安心して。私は生きてて欲しいよ。誠二君には、生きてて欲しい。手術も、きっと上手くいく」
「ありがとう、陽依ちゃん」
「誠二君が眠れるまで。私は傍に居るから。今日だけ。ちゃんと傍に居るから。だから安心して眠ってね」
「うん。ありがとう」
誠二は静かに眠ってしまった。
私はそっと誠二の髪を撫でる。
愛おしくて、愛おしくて、何度も撫でた。
寂しい。
だけど、この寂しさは違う。
寂しがり屋症候群の正体は、恋をしたい自分だった。
誰かを愛したい自分だったのかもしれない。
今日、私は恋をした。
ジェットコースターみたいな恋だった。
猛スピードで、一瞬で、あと少しで終わってしまう。
それが寂しいのだ。
もしも忘れられてしまうなら、明日、彼に「君は誰?」と言われてしまうなら、彼が目覚める前にサヨナラしよう。
『私がいた』と君の記憶に印をつけて。
私は寝ている彼の唇に、そっと自分を重ねた。
「さよなら、誠二君。会えてよかったよ」
青藍色に染まる部屋の中を、静かに出ていく。
もう、二度と来ることは無いだろう。
***エピローグ
あの一夜から、しばらく。
平然と普通の日常が戻ってきて、忙しない日が続いている。私は相変わらずだ。そしてあの恋の気持ちは、波が引くように落ち着いていった。
ひとつ変わったのは、彼の影響か私は本を読むようになったこと。寝れない夜は本を読んで過ごす。
不思議と気持ちが落ち着いて、前よりは寝れるようになった。
悲しい別れにはなってしまったけど、私はちゃんと覚えている。貴方がいた日を。
ある日。
書店で本を選んでいると、懐かしい名前が目に止まった。新刊のコーナーの隅に、その本はあった。
『ワスレグサ。沖島誠二』
徐に本を手に取り、パラパラと巡る。
「君を忘れるのが、怖いんだ」
あの台詞だ。
この先を私は知らない。
まずは、誠二が生きているとわかったこと。小説を出版できたことが嬉しかった。
物語には続きがある。
ゆっくりと、その先のページを捲る。
セミダブルベッドの上で、僕は彼女に別れを告げた。
彼女の手の温もりの安心に甘えて、自分勝手な我儘になることは出来なかった。君を忘れてしまったら、僕が耐えられないからだ。それに、君に悲しい思いはして欲しくない。
彼女は優しく僕にこう言った。
「今日だけ。ちゃんと私は傍にいるから。だから安心して眠ってね」
僕は目を閉じた。
彼女は優しく僕の髪を撫でる。何度も、何度も。
僕は寝たフリを続けた。
寝てしまえば、忘れてしまうかもしれない。
嫌だ。
この夜を、忘れないように。
君を、忘れないように。
僕は必死に意識をつなぎとめる。
ふわり、と。
僕の唇に柔らかな君がそっと触れた。
「⋯⋯さようなら」
バタンと閉まるドアの音を聞いて、僕は目を開けた。
追いかけようとベッドから飛び起きたが、勇気がなかった。自分が言ったんだ。「今夜だけ」と。
僕は、僕は意気地のない男だ。
しんと静まりかえる部屋の寂しさから逃げるように、窓を開けて、僕は青藍色の空を見上げた。
僕の啜り泣く声だけが部屋に響いている。
空の色に染まる青い月だけが、僕の気持ちを知っていた。
あとがきにこう書かれている。
ワスレグサ。
藪萱草の花言葉は「一夜の恋」
あの日、恋をした貴女へ。
僕のいちばん好きな花を贈ります。
青藍色の朝に溶けるように、涙が溢れる。
早朝5時半。
すすり泣く声を殺し、音を立てずにドアを閉めた。
起きてしまえば、貴方の中の私が他人に戻ってしまうのが怖くて、起こしたくなかったんだ。まだ私の夢を見ていて欲しい。
静かな住宅街の中を、ほろほろと涙を流しながら駅までの道を歩く私は、まるで魔法の解けたシンデレラみたいだ。
その時間は確かにあった。
私の手に残る感触も、温度も、貴方の声も。
魔法が解けたはずなのに、ガラスの靴みたいにそのまま私に残っている。
振り返ってみても、誰もいない路地にいるのは、泣いているひとりの私だけ。追いかけてくる王子様なんていない。
だって、約束したじゃないか。
この夜は一度きりだって。
君が魔法をかけたこのガラスの靴は、脱いで捨てよう。
貴方の家の玄関に置いていくのは、私の淡い未練だけだ。
忘れられない私だけが覚えていよう。
ポロンと鳴ったスマホを取りだして、「いいねされました」と通知の来ているマッチングアプリをアンインストールする。
──サヨナラ。
見上げた空の青い月が、寂しげに滲んでいた。
***出会い
今日も眠れなかった。
灰青色の光が、カーテンの隙間から朝を告げる。
布団を引っ掴み、頭から暗闇に隠れた。
猫みたいに体を丸めて、膝を抱き抱える。
社会人2年目、後輩もできて忙しさに拍車がかかった。体は疲れているはずなのに、気持ちが許してはくれない。寝ようとすると、言いようの無い感情が底から湧き上がってくる。何度も寝返りを打つが振り払えない。仕事まで1時間でも仮眠出来たら御の字。ふわふわとしている頭で感情を押し殺すように、ギュッと瞼を閉じた。
私はたぶん『寂しがり屋症候群』だ。
もちろん、そんな病気なんてないし、これは私の性格の問題。
そんな性格に、名前をつければ『寂しがり屋症候群』がぴったり。
誰でもいい。誰かにそばにいて欲しい。
夜になると、その不安が私を襲う。
それがあの感情の答えだ。
子供の頃は、ぬいぐるみでよかった。今でも実家に帰れば、くたびれたテディベアが私のベッドを守っている。
でも、大人になった私は『人』を求めるようになった。
ぬいぐるみにはない、体温を求めるようになって一夜限りの大人の関係も経験した。
だけど、満たされない。事が終わってしまえば、男の興味は私から離れてしまうからだ。
愛されたいわけじゃないし、ただ私に寄り添ってくれさえすれば、それで満たされる。
そんな都合のいい関係を求めていた。
枕元に置いたスマホが振動し、ポロンと通知音が鳴る。
布団の中から手を伸ばし、スマホを取ると、ポップアップに『マッチングしました』と表示されていた。
2時間ほど前に、試しに登録したマッチングアプリからの通知だ。
暇つぶしになるかと、興味本位でインストールしたアプリ。寂しさから『人』を求めて登録したものの、やり方がわからずあれこれと検索をかけている途中、ある魅力的なハッシュタグを見つけた。
『#ソフレ募集』
所謂、添い寝フレンドというやつだ。ただ同じ布団で眠るだけ。それ以上はしない。なんて私にピッタリなんだろうと、そのハッシュタグの付いた『人』を片っ端からいいねしていく。夜も深い時間に登録したから、寝てる人も多いだろうなと期待はしていなかったが、私の初めてのマッチングだった。
友達がマッチングアプリで恋人ができたの!と自慢していた理由がよくわかった。簡単なもんだ、今の時代アプリひとつで『人』と繋がれる事実と、この便利さに感嘆の息を漏らした。
「はじめまして」
私は、それだけ送ってスマホを置くとまた目を閉じる。
出社の時間は待ってはくれない。だけど暫くして、ポロンとまた通知が来たから、私はもう眠るのを諦めて布団からモゾモゾと起き上がった。
「はじめまして。えっと、僕は沖島誠二。27歳。」
「私は茂木陽依。24歳です。」
誠二と名乗る彼はシステムエンジニアをしているらしい。
プロフィール写真の印象は好青年と言うフレーズがぴったり。黒髪の爽やかな短髪で優しそうな顔をしている。
「あの⋯⋯貴女のプロフィールの#ソフレ募集ってなんですか?すみません、この手のアプリに不慣れなもので。」
あれ?と不思議に思った。たしかにソフレのハッシュタグを付けた『人』を選んで♡を押したはずだけど⋯⋯。誠二のプロフィールを確認してみると、そのタグはやっぱり付いている。まぁいいかと私は気にせず返信を続けた。
「あぁ、ソフレですか?添い寝フレンドの略。一緒に寝てくれる人を探してるんです。私、夜一人で寝れなくて。って誠二さんのプロフィールにも付いてましたけど?」
「なるほど⋯⋯添い寝ですか!よく分からないまま登録をしてしまって⋯⋯間違えて押したのかな」
(⋯⋯入力中)
彼が何かを入力している時間が焦れったくて、私は高速でフリック入力を続ける。
「添い寝フレンドのルールは簡単です。寂しい夜に一緒に寝るだけ。その先はもちろん禁止。お互いに必要な時に連絡する。ね?簡単でしょ?私はそれを望んでいます」
「そうですね。実は、僕も寝れないので助かります。でも、一度会えませんか?不躾ではありますが、ひとつ僕もお願いしたい事があるんです」
「お願いって?」
なんだろう?
また(⋯⋯入力中)が続く。待つ時間がもどかしい。
寝不足だからか「システムエンジニアをしてるんなら、入力のスピードは早いはずでしょ?早く返事してよ!」なんて悪態をついてしまいそうになる。
誠二は、丁寧に言葉を選んでいるのか返事に時間をかける。この生真面目な文章からもプロフィール写真通りの人柄が伝わってくる。仕方ないか⋯⋯と諦めて彼の返事を待った。
「僕は趣味で小説を書いています。お恥ずかしい話ですが、アイデアに煮詰まっていて。なので僕と出かけてくれませんか?形だけのデート⋯⋯それで構いません。恋人を演じて欲しいのです。もちろんお礼はします。その、ソフレというの⋯⋯僕でよければ」
変わった人だな?と一瞬思ったが、私の頭をよぎった下心を感じるお願いじゃなかった事と、丁寧な文章がよかったのかもしれない。
それに、不思議とこのやり取りに安心を感じている。この人なら一緒に寝ても問題なさそうだ。私は「いいですよ。明後日の土曜日はどうですか?」と、直ぐに返事を送っていた。
***遭逢
東京、青山。
表参道の駅を出て、変わらない景色をぐるりと見渡す。
大学時代に何度も通った場所。
「久しぶりに来たなー⋯⋯」
メッセージのやり取りの中で、待ち合わせ場所はどうしようか?と聞かれた時に、つい慣れた場所を提案した。表参道ならデートの場所としても申し分ないだろうし。
今日は彼の恋人を演じる日。とは言え、私もデートなんていつぶりだろう?久しぶりにちゃんとメイクを施した。服もそれっぽく着飾り、髪も巻いた。だから今、少しだけ浮かれている。
誠二のプロフィール写真を見返して、似ている人はいないかとキョロキョロと辺りを見渡してみる。顔立ちは整っているから、目立つはずなのに。時間を過ぎても似た姿の男性は見当たらない。
ポロンと通知音が鳴り、誠二から「着きました⋯⋯出口に迷ってしまい、どこでしょう?」とメッセージが届いた。
「私はB4の出口を出た所にいます。どちらに居ますか?迎えに行きますので」
「助かります。僕はA3出口を出ました」
「反対側に出ちゃったか⋯⋯」交差点の向こう側の出口を見ると、挙動不審に辺りを見渡す背の高い男を発見した。白いシャツに大きなリュックを背負い、絵に書いたような好青年がいる。それが誠二だとすぐに分かった。
「たぶん、見つけました。そこにいて下さい」
メッセージを送ると、すぐに信号が青に変わり、私は横断歩道に駆け出した。
「あの⋯⋯沖島さん?ですか?」
誠二はスマホを確認しながら「はい!えっと⋯⋯貴女は、茂木さん?ですか」と困り顔で私に尋ねた。
「はい、茂木です。茂木陽依です」
「よかったー。すみません。今日は僕の変なお願いを聞いてもらって。ありがとう」
誠二は緊張していた顔を緩めた。
「いえ、こちらこそ。お互い様です」
「えっと、じゃあ⋯⋯少し歩きましょうか」
さりげなく車道側を歩いてくれる誠二はやっぱり優しく好青年。
今夜の相手がこの人で良かったと、私は胸を撫でおろす。
「茂木さんは、普段は何をしてるんですか?」
「仕事ですか?私は人材系の営業職を⋯⋯」
「えっと、すみません。休みの日は何を⋯⋯?」
「あっ。そっちか⋯⋯カフェを巡ったり映画を見たりですかね。沖島さんは?」
「僕もカフェで本を読んだり、執筆をしたりしてます」
「そうでした!小説を書いてるんですもんね。今日、私は何を演じたらいいんでしょう?彼女を演じて欲しいって言ってたけど⋯⋯」
「実は、ヒロインとの描写が浮かばなくて。僕が疑似体験をすればイメージも湧くかなと思ってお願いをしました。小説は経験と体験の産物だと思っているので」
「なるほど、わかりました。それで、そのヒロインってどんな女の子なんですか?」
「なんか、僕の好きな女性のタイプを聞かれているようで恥ずかしいですね」と誠二は少し照れながら、教えてくれた。
「純新無垢で、太陽みたいな人。その優しい光で、暗い気持ちの僕を照らしてくれる。大丈夫だよ、って安心をくれる人ですね」
「絵に書いたようなヒロインですね。これ、私に務まるかな⋯⋯?」
その純新無垢と言うワードに少しプレッシャーを感じた。
少なからず、純新無垢な女の子はマッチングアプリなんてやってないだろうし。
「気負わないでください、あくまでイメージですから。それに茂木さんは素敵な人です。僕の隣にいるのが勿体ないくらいの。写真よりも、ずっと綺麗です」
誠二は慌てて私を肯定してくれた。
「お世辞が上手いなぁ。じゃあ、呼び方を決めませんか?お互いに苗字で呼び合うのも恋人を演じるにしては変じゃないですか?」
「それもそうですね、えっと、じゃあ⋯陽依ちゃん?」
誠二は顔を赤くしながら、私を陽依ちゃんと呼んだ。それが面白くて私はフフッと笑ってしまう。
「すみません、本当に慣れてなくて⋯⋯」
「ごめんなさい。久しぶりに呼ばれたなぁって。幼稚園以来かも?陽依ちゃんでいいですよ!私は誠二君て呼びますから!いいかな?誠二君」
「はい!それでお願いします」
それから、初めて表参道に来たと言う誠二に、私はいろいろと案内をした。犬のように私に付いてくる誠二が可愛くて、私の心も弾んでいる。お店を覗いたり、服を買いたいと言う誠二の服を選んだりした。私もすっかり、恋人を演じていることを忘れて楽しんでいる。
「陽依ちゃん、少しカフェで休んでいかない?」
「うん!疲れちゃった?」
「ちょっと、小説のアイデアが浮かんだので、忘れないように書き留めておきたいんだ」
「いいよ!じゃあオススメのカフェに案内するよ」
路地を入った所にあるお洒落なカフェ。前々から気になっていたお店で、席もちょうど空いていた。
オープンテラスの席に案内され、向かい合って座ると、さっそく誠二はリュックから筆箱と手帳を取り出した。
「僕はアイスコーヒーを。陽依ちゃんは?好きな物選んでね」
「私は、カフェラテがいいな」
すみませんと店員を呼び、注文を済ますと、誠二はさっそく手帳に何かを書き始めた。チラッと見えた手帳には、びっちりと文字が書かれている。私は疑問に思った。システムエンジニアなら必ずパソコンを持っているはずだ。リュックの大きさで、パソコンをいつも持ち歩いているものだと思っていた。それに、小説なんてパソコンで書いた方が効率がいいのでは?
「誠二君、パソコンで書かないんだね。ほら、システムエンジニアのお仕事ってプロフィールに書いてあったし。パソコンの方が早いんじゃない?」
「あぁ、そうだね。今、実は休職中なんだ。それに僕は忘れっぽいので⋯⋯」と誠二は寂しく笑った。
無心に文字を書き続ける誠二を、そっと見守る。
私がカフェラテを飲み終わる頃、誠二はパタンと手帳を閉じた。
太陽が、空をオレンジ色に染め上げていく。
誠二は空を見上げ「夕日が綺麗だね。空が忘草色をしてる」なんて事をポツリと呟いた。
「ワスレグサ?勿忘草じゃなくて?」
「忘草もあるんだ。藪萱草って言うオレンジ色の花。万葉集にも何作か詠まれた歌があるんだよ。僕の好きな花です」
「へー、調べてみようかな⋯⋯」
スマホを取り出す私を「それは、明日。僕がいない時に!」と誠二は慌てて止めた。理由は分からなかったが、何か恥ずかしい理由でもあるのか?と思い、スマホをしまう。
「でも、いい色ですね。忘草色」
「優しい色ですよね。あっ、もういい時間です。陽依ちゃん!そろそろ、行きましょうか」
忘草色の夕日を浴びながら、誠二は「手を握って歩きませんか?」
そう言って、掌を上に向けて差し出してきた。
「うん、いいよ」
私は左手をそっと重ねる。
優しい温度が、私の温度と混ざり合う。
誠二は大きな手で優しく握り返してくれた。
今日、私はこの人の隣で眠る。
──あぁ⋯⋯なんて安心するんだろう。
君は、どんな顔をしてるんだろう?
私より背の高い誠二の横顔を見上げると、その視線に気がついた誠二は優しく微笑む。
「陽依ちゃん、どうしたの?」
その優しい声に、ドキドキとしてしまう。
「なんでもない、です」
「変なの⋯⋯こっち見てたじゃん」
「何でもないってば!」
疑似恋愛で、恋人を演じたはずなのに。
なんで、心がずっと騒がしいんだろう。
***千夜一夜
「どうぞ、上がって」
「おじゃまします」
物が少なく、小綺麗に整頓された部屋。
几帳面な彼の性格が伺える。置いてあるインテリアのセンスも私好みで居心地がいい。
誠二は添い寝の場所に、「ホテルとかだと、僕が落ち着かないから」と言って自分の部屋を提供してくれたのだ。
「ソファーに座ってて」と言われて、私はひとり腰を下ろす。
目の前のローテーブルの上に、クリップで留られた原稿用紙の束を見つけた。これが例の小説か。部屋に入ってきた誠二に「これが、書いてる小説?」と尋ねた。
「あ!ごめん出しっぱなしだったね!邪魔ならどけていいから」
「ううん、ねぇ読んでもいい?」
「ごめん。まだ未完成だから⋯⋯」
「えー。じゃあ、完成したら読ませてね!私だって協力した作品なんだから!いいでしょ?」
「⋯⋯そうだね。僕は先にシャワー浴びてくるよ。陽依ちゃんはゆっくりしてて。喉乾いたら冷蔵庫の適当に」
「わかった!ありがとう」
誠二がシャワーを浴びている間、いけないと思いつつも机に残された小説をパラパラと読んだ。見るなと言われると、余計に見たくなる。それに今は、誠二の事をよく知りたいと言う好奇心の方が、罪悪感より勝っている。
その小説は、余命宣告を受けた男の切ない恋の話だった。
「君を忘れるのが、怖いんだ」
最後のページに書かれた主人公の台詞。
「僕はよく、忘れっぽいので⋯⋯」
誠二もそう言っていた。
理由は分からない。だけど、なぜか胸騒ぎがした。
見てはいけないものを見てしまったかも、と今度は罪悪感が私を支配する。きちんと原稿の束を元に戻し、私は平然を装った。
「陽依ちゃんも、シャワーよかったら。簡単に掃除はしたけど⋯⋯」
新しいバスタオルを持って、誠二が戻ってくる。
濡れた髪をわしゃわしゃと拭くその姿に、つい見蕩れた。
「陽依ちゃん?」
「へっ!?あ、シャワー、お借りします」
これ以上見てはいけないと、慌ててバスルームに逃げ込んだ。
正直、誠二は私の好みの男性だ。年上で優しいし。
もし、本当に彼女になれたら、眠れない夜とも卒業できるだろうな。
たぶん、私はそれくらい彼に惹かれ始めている。
持参したパジャマに着替えて部屋に戻ると、ドリップされたコーヒーの香りが部屋に満ちていた。
「いい香り⋯⋯」
「コーヒーは趣味で。毎日の楽しみなんです」
コーヒーミルで豆を挽く誠二の前には、本格的な道具がずらりと並んでいる。
「座って待ってて」と言われ、先にソファーに座っていると、誠二はコーヒーをマグカップに注ぎ、私の隣に座った。
「陽依ちゃん、甘いのが良ければ使って!ハチミツが意外と合うんだよ。入れようか?」
「じゃあ、多めに!」
誠二はハチミツを3周ほど掛回すと、スプーンでくるくると混ぜる。甘い香りが、ふわりとふたりを包んだ。
「今日はありがとう。お陰でイメージが湧きました」
「私も楽しかったです。誠二君でよかった。実はマッチングアプリなんて初めて使ったんです」
「本当に?僕もです!」
「もう辞めてもいいかなって思ってるけど」
「どうして?」
「それはね⋯⋯」
──だって、誠二君に出会えたから。
私の気持ちが悟られてしまったのか、誠二は私の言葉を遮るように、意外な一言を口に出した。
「この夜は一度だけにしませんか?」
「えっ?どうして⋯⋯?」
瞬間的に「寂しいよ!」と口に出そうになった。
寂しがり屋症候群の私の言葉じゃなく、本心の言葉だ。
好きだから寂しい。
もう、会えなくなるのは寂しい。
「僕は、今日だけと決めていたので。すみません」
誠二は一点をじっと見つめ、重たい声でそう言った。
それ以上の理由は言わなかった。
固まってしまった私に、あの優しい笑顔で「でも、今日は陽依ちゃんのそばに居ますから。安心して眠ってください」と言う。
──そうだ。私たちはお互いの寂しさを埋めるだけの存在。お互いの利害が一致しただけで今日ここにいる。浮かれてたのは私だけだったのかな。
私の手の中で、コーヒーのマグカップがゆっくりと冷めていた。
セミダブルベッドの端と端で、仰向けで横になる。
間にぽっかりと空いた空間が、嫌に虚しい。
見慣れない天井をボーッと見つめ、会話をすることも無く少しの時間が過ぎた頃、私はこのモヤモヤとする寂しさを振り払いたくて、またあの安心感を求めた。
「ねぇ、誠二君、手、繋いでもいい?」
「うん。いいですよ」
理解しようと思っても、難しい。
だってこの手の温度は私に安心をくれるんだ。
離したくない。
「誰かが傍に居てくれるって、安心するんだね」
誠二は優しくそう言った。
「⋯⋯うん。そうだね」
──やっぱり後悔したくない。君の傍に私が居たいんだ。
私は手を繋いだまま、体を横に向けて誠二を見つめた。
誠二は顔だけこっちを向けて、驚いて私を見つめる。
「陽依ちゃん?」
「私、明日も明後日も、誠二君に会いたいよ!ごめん。今夜だけなんて無理だ」
「⋯⋯ごめん」
「私、本当に彼女になったら迷惑ですか?」
誠二は少し考えた後に、寂しそうな笑顔を作った。
「理由をちゃんと言わないのは失礼だよね。本当は言いたくなかったんだ。今日が楽しかったから。僕は休職中だって言ったのを覚えてる?」
「⋯⋯うん。覚えてるよ」
「僕は脳に腫瘍があって。先が長くないかもしれない。手術が難しい場所で、記憶がね⋯⋯寝て目が覚めると断片的に消えてることが多くて。だから、小説もパソコンじゃなくて手帳に。パスワードを忘れたら見返せないだろ?手帳なら何度も見返せる」
「嘘⋯⋯それって」
瞬間的に、さっきの小説を思い出した。
あれは誠二が主人公の小説だったんだと理解した。
驚きのあまり、返事が出来ない私に誠二はそのまま話を続ける。
「手術も難しいって諦めてた。だけど、最近言われたんだ。新しい治療法なら、手術が可能かもしれないって。希望が見えた。まだ生きれるかもって。でもさ、同時に怖いんだ。術後に記憶が消えてしまう可能性もあるって。起きて全部忘れてたら⋯⋯そう思うと、最近は寝るのも怖くなって。だから明日、僕は陽依ちゃんを忘れてるかもしれない。だから今夜だけ。そうしたいんだ」
「そんな⋯⋯」
それ以上の言葉が見つからなかった。
衝撃的な事実に、私は頭が真っ白になったのだ。
そして、思い出す。誠二が何を求めていたのか。
──純新無垢で、太陽みたいな人。その優しい光で、暗い気持ちの僕を照らしてくれる。大丈夫だよ、って安心をくれる人。
今夜。私はまだ、君のヒロインだ。
私は覚悟を決めた。今夜だけ。今夜だけだ。
君のための彼女でいてあげよう。
「大丈夫だよ。私が忘れない。誠二君が居た事。それに素敵な人だってことも。私が忘れない。だから安心して。私は生きてて欲しいよ。誠二君には、生きてて欲しい。手術も、きっと上手くいく」
「ありがとう、陽依ちゃん」
「誠二君が眠れるまで。私は傍に居るから。今日だけ。ちゃんと傍に居るから。だから安心して眠ってね」
「うん。ありがとう」
誠二は静かに眠ってしまった。
私はそっと誠二の髪を撫でる。
愛おしくて、愛おしくて、何度も撫でた。
寂しい。
だけど、この寂しさは違う。
寂しがり屋症候群の正体は、恋をしたい自分だった。
誰かを愛したい自分だったのかもしれない。
今日、私は恋をした。
ジェットコースターみたいな恋だった。
猛スピードで、一瞬で、あと少しで終わってしまう。
それが寂しいのだ。
もしも忘れられてしまうなら、明日、彼に「君は誰?」と言われてしまうなら、彼が目覚める前にサヨナラしよう。
『私がいた』と君の記憶に印をつけて。
私は寝ている彼の唇に、そっと自分を重ねた。
「さよなら、誠二君。会えてよかったよ」
青藍色に染まる部屋の中を、静かに出ていく。
もう、二度と来ることは無いだろう。
***エピローグ
あの一夜から、しばらく。
平然と普通の日常が戻ってきて、忙しない日が続いている。私は相変わらずだ。そしてあの恋の気持ちは、波が引くように落ち着いていった。
ひとつ変わったのは、彼の影響か私は本を読むようになったこと。寝れない夜は本を読んで過ごす。
不思議と気持ちが落ち着いて、前よりは寝れるようになった。
悲しい別れにはなってしまったけど、私はちゃんと覚えている。貴方がいた日を。
ある日。
書店で本を選んでいると、懐かしい名前が目に止まった。新刊のコーナーの隅に、その本はあった。
『ワスレグサ。沖島誠二』
徐に本を手に取り、パラパラと巡る。
「君を忘れるのが、怖いんだ」
あの台詞だ。
この先を私は知らない。
まずは、誠二が生きているとわかったこと。小説を出版できたことが嬉しかった。
物語には続きがある。
ゆっくりと、その先のページを捲る。
セミダブルベッドの上で、僕は彼女に別れを告げた。
彼女の手の温もりの安心に甘えて、自分勝手な我儘になることは出来なかった。君を忘れてしまったら、僕が耐えられないからだ。それに、君に悲しい思いはして欲しくない。
彼女は優しく僕にこう言った。
「今日だけ。ちゃんと私は傍にいるから。だから安心して眠ってね」
僕は目を閉じた。
彼女は優しく僕の髪を撫でる。何度も、何度も。
僕は寝たフリを続けた。
寝てしまえば、忘れてしまうかもしれない。
嫌だ。
この夜を、忘れないように。
君を、忘れないように。
僕は必死に意識をつなぎとめる。
ふわり、と。
僕の唇に柔らかな君がそっと触れた。
「⋯⋯さようなら」
バタンと閉まるドアの音を聞いて、僕は目を開けた。
追いかけようとベッドから飛び起きたが、勇気がなかった。自分が言ったんだ。「今夜だけ」と。
僕は、僕は意気地のない男だ。
しんと静まりかえる部屋の寂しさから逃げるように、窓を開けて、僕は青藍色の空を見上げた。
僕の啜り泣く声だけが部屋に響いている。
空の色に染まる青い月だけが、僕の気持ちを知っていた。
あとがきにこう書かれている。
ワスレグサ。
藪萱草の花言葉は「一夜の恋」
あの日、恋をした貴女へ。
僕のいちばん好きな花を贈ります。