「帰ってこない…」
もう23時になるのに、珍しく休日に出かけたと思ったら彼氏が帰ってこない。
駅から近くにあるアパートで、彼氏と同棲している。
私の家にいつの間にか一緒に住むようになって、もう半年は経つ。
休日は普段、一緒に家にいることが当たり前のようになっていて、出かける時は一言声をかけてから出かけるというのが、私の家のルール。
このルールは、私が決めたもの。
ご飯を作る時間をなるべくアツアツの出来たてを食べてもらうために、帰る時間を把握するためだ。
今日は21時に帰ってくるはずなのに、いまだかえってこない。
もうそろそろ終電の時間帯だ。
ガチャという音を立てて玄関のドアが開いた。
帰ってきた彼氏は、何事も無かったかのように「ただいま」と言った。
「おそいよ、何時だと思ってんの?なにしてたの?」
彼氏が食べたがってて作った今日の晩御飯の肉じゃがは、すでに冷えきっていた。
ラップに水滴が付いていて、ぱっと見ただけじゃ何が入っているかは分からない。
「飲みに行ってた、高校の時の後輩と」
嫌な予感がした。
後輩なんて話今日まで聞いたこと無かった。
「それって女の子じゃないよね?」
嫌な予感の正体は、隠し事だった。
「女だよ」
彼氏が私じゃない女の子と、飲みに行った。
この事実は、私が何を言おうが変わらない。
夜遅くに終電で帰ってきてくれただけマシなのかもしれない。
「なんで?なんでなの、2人きりで飲みに行くなんて何考えてるの?」
彼氏には、距離感が掴めないというか、していい事と悪いことの区別がつかないらしい。
「だめなんて思わなかったから言ったのに」
ダメなことってわかってたら、隠してるつもりだったの?
「まず聞いてって言ったよね?距離感が分からないって、一緒に向き合っていこうって話したばかりじゃん」
なんで分からないかな。
私のわがまま?
ただ私は、先に報告してくれたらまだ許せたよ。
「悪いと思わなかった」
私が束縛しても、彼氏が辛くなるだけなのは分かってる。
私が何言っても、価値観の違いなんて直すべきものじゃないのも分かってる。
それでも、私は嫌だった。
「そっか…私に毎回言うの疲れちゃった?」
私は聞いた。
自分の行動を制限されたら、誰だって嫌になるよね。
「そういうわけじゃないけど」
じゃあどういうわけ?
頭ではわかってるのに、収まりがつかなかった。
「じゃあ、別れよっか」
あーあ、言っちゃった。
別れようなんて思ってもないのに。
「それ本気で言ってんの?」
後に引けないよ。
「本気、だよ?」
またこうして嘘をつく。
どうなってもしらないよ、私。
ほんとに別れちゃうよ。
「頭冷やしてくる」
意外にも彼は冷静だった。
タバコとライターをカバンから取り彼はベランダに出た。
タバコを吸わないと冷静になれない彼は、ある意味私と違って、自分の機嫌を取れるものがあるだけマシなのかもしれない。
勢いに任せて言うだけ言って、後々後悔してるのは、私の悪いとこだろう。
「私も、頭冷やさなきゃな」
そう言って私は冷蔵庫に入れていた作り置きの麦茶を手に取った。
カーテンの隙間から見えるベランダは、暗闇ではなく街頭に照らされていた。
少しでも希望があるなら、本当は話し合いがしたい。
そう思いながらコップに氷を入れて、麦茶を入れる。
「なにしてんのかな、ほんと」
飲みながら、私は考える。
こんな喧嘩がしたい訳じゃないのに。
彼が他の女の子と飲みに行くからだ。
それも黙ってだよ?
そりゃ頭にくるよ。隠さないでよ。
私のこと大事じゃないのかなって思うよ。
何言われても、許せる気がしなかった。
私の心が狭いのかな
お茶を飲んでいると、彼が戻ってきた。
彼は私の前に正座で座り込むと、口を開いた。
「俺が悪かったと思ってる、だから…」
だから?なに。
ゆるしてくれってこと?
「そんな簡単に許せないよ、私は」
私、そんなに軽い女だと思われてる?
ごめんなさいのたった一言で、許して貰えるって思われてる?
「うん、だから…別れよう俺たち」
…えっ?
「いま、なんて…」
頭に入らなかった。
私の聞き間違い?
「別れよ」
私たち、こんな喧嘩で終わっちゃうの?
「なんで、やだ」
私がワガママ言うから?
私が束縛するから?
私がいけないの?直したらいいの?
「許さなくていいから、俺が出てけばいいだろ、ここはお前の家だから、俺が沢山迷惑かけたな、悪い」
荷物を持って出てこうとする彼に、私はしがみついた。
「置いてかないでっ…」
依存してたのは、私だけだった。
彼はずっと私の家にいて、私が家事をして、何でもしてあげてた。
そんな彼は、1人でも生きていける覚悟があるんだ。
「ごめん」
彼はそのまま出ていった。
終電もない0時に出ていった。
私はもう、このワンルームに1人。
だからもう終わりなんだ。
そう感じた。
冷めきった肉じゃがのラップを、外した。
「頑張って作ったのに」
そう呟くと、気持ちが込み上げてきて泣いていた。
私は、毎日料理を作っていたけれど、本当は料理下手だ。
インターネットで料理のレシピを検索して、いつも頑張って作っていたつもり。
彼が『美味しい』と言いながら口に運ぶ姿を見ると、仕事してから無理して作った体は、緊張が解けた。
自然と私も料理作るの頑張ろうって、美味しい物食べてもらおうって思えてた。
彼がいてくれるから頑張れてたのに。
冷えた肉じゃがを箸で口に運んでみるものの、味が分からなかった。
一緒にいるから美味しかったんだと気づいた。
私の料理は、美味しいとは言えなかった。
私ばかりわがままを言って、迷惑かけてたのは私だ。
束縛ばかりして、鬱陶しいと思ってたはず。
私の不安は、どれだけ束縛しても消えなかった。
きっと自分自身に自信が無いからだ。
どうしても自分に自信が持てなくて、彼を縛ることで補っていた部分も、彼が私の決めたルールを破ることで、自分の自信もまた失っていった。
美味しいと言ってくれていた彼の優しさが伝わって、胸が苦しくなった。
もう彼がここに戻ることは無いだろう。
頭を冷やすために入れた麦茶のコップは、残っていた氷がとけてただの水になっていた。
戻ることは無いとそう分かっているのに、体はいつものように次の日を迎えた。
私は彼が戻ってくるかもしれないと思って、晩御飯を作った。
“今日はいつ帰って来れるかな?”
気付けばいつものようにメールを送っていた。
“今日は、ホワイトシチューだよ”
帰ってくることは無いと頭ではわかっているのに、体は言うことを聞かなかった。
──────ピコン──────
メールの通知音がなった。
彼からのメール。
開くのが怖かった。
開こうとしても、見るのが怖くなって中々勇気が出ず、50分が経過していた。
私は、思い切ってメールを開いた。
“合鍵、ポスト入れといたから”
あぁ、もう本当に終わりなんだ。
たった一夜で、関係が終わってしまった。
一緒にご飯を食べるだけで幸せなんだって。
私は、幸せだったんだと今になって思い知った。
私が子供だったよ。
教えてくれたのは、彼だ。
彼がいてくれたから、今こうして理解することが出来た。
価値観が変わる瞬間って、こうやって訪れるんだなと認識した。
──私は彼に最後のメールをした。
“ありがとう、幸せでした。お元気で”
そう送った。
彼はきっと、私が泣いていると思ってる。
無理して送ってると思ってる。
そうじゃない、少しだけ、本当に少しだけ、大人になれた気がした。
前を進むために、私は明日も頑張る。
ありがとう、幸せな瞬間を。