はぁっと口から吐き出した息は、白く染まった。
 真夜中、朝も近いすすきのは、とても静かでいつもの喧騒が嘘のようだ。
 寒さ対策にと着込んだジャンバーが、やけに重たい。

 少し冷えてしまった手を擦りながら、まだちらほらと残るネオンの光の間をすり抜けるように歩く。
 目的地は、ない。

 ただ、寝付けなかった。
 理由はたくさんある。
 仕事がうまくいかないだとか、辞めたいだとか。
 漠然とした未来への不安とか。
 それを見ないように目を逸らしてる自分への、自己嫌悪……。

 色々あるけど、一番大きいのは明日も休みということだった。
 思いつきで家を飛び出してみれば、空は少し白み始めているし、吹き付ける夜風はほんのりと体を冷やす。
 
 それでも秋が近いとは、いえまだ暦の上では夏だ。

──もっと冬だったら、キレイだったかも。

 そんなことを思いながら、カメラに見立てた人差し指で視界を切り取る。
 青白い視界の中に、一人写り込んでしまう。
 四角い世界の中で、瞳と瞳がぶつかった。

 これが映画の始まりだったら、たぶん、鐘の音が鳴り響いてる。
 そんな気がする。
 同い年くらいだろうか。

 少し猫背のひょろっとしたその人は、私の顔を見つめてから逸らすように空を見上げる。
 スーツに、黒縁のメガネ。
 どことなく雰囲気のある人。

 少しずつ近づいてきたその人は、空を見上げたままぽつりと言葉にした。

「……カメラが趣味なんですか」

 彼が一瞬、息を飲む。
 そして、私に焦点を合わせる。
 困ったように眉毛を下げて、表情はどことなく夜の匂いが染み付いていた。
 
 音は聞こえないけど、すぐに頬に描かれる「間違えた」の文字。
 あまりにも分かりやすすぎる表情の変化に、つい笑ってしまう。

「たまたまです」

 はにかみながら返せば、安堵した表情へと変わっていく。
 まるで空模様みたいで、目が離せない。

「早起きしてお散歩ですか?」
「眠れなくて、です」
「そのパターンもあったか」

 手をポンっと叩いた、少し古い動きにまた笑ってしまう。
 不思議で可愛らしい人だな、と思った。

「ご一緒しても?」

 おずおずと尋ねられれば「ノー」は出てこなかった。
 一回頷いて、癖で笑顔を作り出す。
 そのまま彼の顔に焦点を合わせれば、「どうして」という文字が滲んでいた。

 自分でも、言うつもりなかったんだろうな。
 なんて、気づきながら気づかないふりをする。
 どうしてか、私もわからないけど。
 このまま隣にいたい気分だった。

 それでも彼は一度口にしたからか、反故にすることはなく、私の横をゆっくりと歩く。
 ピカピカに磨かれた靴が目に入って、気持ちが少しだけ落ち込む。
 仕事に対して真摯に向き合ってる人なんだろう。
 辞めたい辞めたいと、呟きながら、辞める勇気が出ない私とは違う。
 
 頭の中で話題を、ぐるぐると探す。
 とりあえず、今のところわかってる二人の共通点を口にした。

「寝れなかったんですか?」
「早起きです」
「なんて呼べば良いですか?」
「ヨル」

 単語で区切られて、帰ってくるぶっきらぼうな言葉。
 それが、妙に心地よくて、ついまた笑ってしまう。
 気になっていたことを質問すれば、かすかに笑った声が耳に響いた。

「ヨルさんは、どんなお仕事してるんですか?」
「秘密。えっと、君は?」
「何に対する質問ですか」

 わざとらしく、意地悪に返せば口元に少しだけ浮かぶ笑み。

「君のことは、なんて呼べば良い?」
「じゃあ、アサ」
「じゃあって何」

 ヨルだって、きっと本名じゃないくせに。
 いつのまにか、変わっているタメ口にも嫌な気がしない。
 するりと心の隙間に浸透していくように、隣のヨルの体温が気持ちいい。

「ヨルは、なんでこんな早くに起きたの?」

 急に、タメ口に私も変えてみる。
 ヨルは、嫌そうな素振り一つ見せず、顎に指を当てて考え始めた。

「うーん、何かに導かれたのかもしれない」

 少しロマンチックな言葉に、胸がくすぐられる。
 ははっと渇いた笑い声を出してから、ヨルはじっとりとした視線を私に投げかけた。

「アサはなんで眠れなかったの?」
「今日が終わるのが嫌だった、のかも」
「良い一日じゃなかったんだな。じゃあ」

 ヨルの言葉に、頷く。
 確かに良い一日では、なかった。
 つい、さっきまでは。

「アサは、いつも、眠れないの?」
「今日は本当にたまたま。でも明日お休みだからいいかなって」

 本当にたまたま、だ。
 仕事で珍しくミスをした、とか。
 いつも、頼ってる先輩が風邪でお休みだった、とか。
 理由は色々あるけども。
 眠れずに、夜の街を歩き出したのは、たまたま、だ。

 まばらに歩く人たちは、私たちを避けるかのように私たちの横をするりと通り抜けていく。
 まるで、二人だけの世界みたいで幻想的だ。
 ちらちらと消えかかっている街灯すら絵になっている。

「ヨルはこのあとお仕事?」
「あ、いや」
「スーツを着てるからてっきり……」
「服を選ぶのが苦手なんだ」

 なんとなく、しっくりと来る。
 それにスーツが楽というのもわかる。
 だから、私も休日はワンピースや、セットアップなど考えなくていい服ばかり着てしまう。

「まさか、こんな出会いがあるとは思わなかったけど」
「私も。まさか、誰かと夜の散歩をするとは思わなかった」

 くすくすと笑って答えれば、ヨルは真剣な声色で呟く。

「人との出会いは、わからないものだね」
「そうだね。でも、こんなの滅多に無いと思うよ」
「僕が間違えて話しかけたのがきっかけだしな」

 やっぱりあれは、間違えて声に出してたんだ。
 最初に気になっていた仕事の話に戻そうとすれば、ヨルは優しく首を横に振る。

「仕事、教えてくれないの」
「嫌いじゃないけど、仕事をしていない時くらい考えたくない」

 ヨルの言葉に、無性に嬉しくなってしまった。
 ヨルみたいに、仕事に真剣に向き合ってそうな人でもそう思うのか。
 少しだけ、心が軽くなったのがわかった。
 
 木々の向こうに、ネオンの光が見えて、センチメンタルな気分になった。
 きっと今この視界を切り取れば、レトロな映画のワンシーンみたいになる気がする。
 そう思いながら、また、四角で視界を切り取る。
 カメラを始めるのも良いかも、なんてうっすら思い始めてしまった。

「なんだか、映画みたいだ」

 私が考えていたことと、まったく同じ言葉に、頬が緩む。
 ヨルの淡々とした声も相まって、雰囲気がある。
 
「私も思ってました」
「じゃあ、映画みたいに賭けをしないか?」

 たぶん、想定してる映画がだいぶ古い、洋画な気がするけど。
 突っ込むのは、無粋かな。
 想定できる賭けに、笑いながら頷く。

「また、次会った時連絡先教えてよ」

 想定より軽い賭けの内容に、つい口を挟んでしまった。
 
「そんなんでいいんですか?」
「そんなんって何」
「付き合ってーとか、結婚してくれーとか」
「初対面の人に何を」

 くすくすと笑うヨルの顔には、最初に見た陰鬱な影はもう無かった。
 一瞬だけ悩んだあと、ヨルは私に右手を差し出す。
 首を傾げてヨルの方を見つめれば、ぽつりと言葉を口にした。

「でも、それもありかもと思ってね」
「え」
「次会ったら、結婚してくれますか?」

 差し出された右手に、私の手を重ねる。
 そして、緩んだ唇は、勝手に答えを告げていた。
 
「いいよ」

 どうせ会えないだろうとか、実現されないだろうなんて気持ちは一ミリもなくて。
 本当に、そうなったら良いなと思った。
 だから、ヨルの小指と、自分の小指を絡める。

「約束」

 繋いだまま上下に揺らして、二人で見つめ合った。
 先ほどから一緒に歩いていたのに、今、初めて顔を認識した気がする。
 深い夜みたいな瞳の色に、吸い込まれそうだった。
 
「果たされるのかな」

 不思議そうに動いた唇が、青白く、寒そうにしていた。
 ヨルはそのまま、手を下ろす。
 小指はしっかりと繋がれたまま。
 
「そうなったら、良いなって思ってる」
「僕も」
「たった数分、話しただけなのにね」

 繋がれた私とヨルの小指は目的地もない散歩が、終わるまで繋がれたままだった。
 大通公園に到着した瞬間、ヨルは小指を離す。
 ヨルの目的地だと気づいて、私はさようならを口にした。
 
「じゃあ、さようなら」

 また、があるかはわからない。
 賭けをした癖に、私は懐疑的に捉えていた。
 でも、ヨルは約束を確かめるように、私に微笑みかける。
 
「会えたら、結婚しよう」

 私もその賭けを、信じてみようか。
 大きく頷いて、プロポーズの言葉を考えてみる。
 簡単には思いつかないから、提案だけにした。
 
「じゃあ、その時はとびきりのプロポーズします」
「しますなんだ」
「だって、ヨルはそういうタイプじゃないでしょ」

 たった数分間の二人の世界。
 たった数個の言葉。
 それなのに、ヨルのことが何故かわかった気がした。
 このままバイバイをするには、惜しい。
 そんな気持ちが、胸の中で小さく波打つ。

「そうだね、じゃあまたねアサ」

 当たり前のようにヨルは、またねと口にした。
 
「次こそは、本名でも教えてね、ヨル」
「アサもね」

 繋いだ小指を離して、手を振る。
 ヨルの背中を見送りながら、また指の四角でヨルを切り取った。

<了>