恋にも賞味期限がある。
その時期を逃せば、どれだけうまくいきそうに見えたって捨て去らなくてはならない時がくる。
賞味期限切れの恋の味は、きっと苦い。
***
LINEを送ったたった15分後、スマホが鳴った。メッセージの通知音ではなく、電話の着信音。
身体がビクッと跳ねて、心臓が体内で揺れたのがわかった。
ディスプレイの『黒住拓真』という文字が、強烈に存在感を示してくる。
――――なんで、電話?
私は戸惑いながらも大きく深呼吸をして、咳払いをしてから通話をタップする。
「はい」
『もしもし美玖? 久しぶり』
耳だけでなく、首筋まで痺れるような甘く低い声。
この声で名前を呼ばれるのが、本当に好きだった。
「うん、久しぶり」
『LINE見たよ。すごいな、東京本社に配属なんて。ずっと夢だったんだもんな。おめでとう』
「うん、ありがとう」
この春、化粧を覚えたての頃から憧れていた外資系化粧品メーカーに運よく就職できた。
日本本社は東京にあるものの、新人研修がたまたま地元の名古屋営業所で行われることが決まっていたため、この3ヶ月間は実家から通勤している。
連日の雨がうっとおしい6月の終わり。私は新人研修終了を間近に控え、半月後には本社勤務となるために東京でひとり暮らしをする予定だ。
久しぶりに電話越しで聞く拓真の美声はなかなかの破壊力だな、なんて懐かしく思っていると、その声が少しだけ険を含んだ。
『引っ越しは2週間後か。……アイツは?』
拓真の言う〝アイツ〟とは……名前を言わなくても誰を指しているのかわかる。
私の元彼である岩橋樹。私と拓真の大学の同級生だ。
「……別れたの、少し前に」
『そう。……大丈夫だった?』
拓真がそう聞いてくれたのは、私が樹とどんな付き合い方をしていたのかを知ってるから。
電話越しにも心配してくれているのが解って、胸がぎゅっと締めつけられた。
「うん、大丈夫だった。もう連絡もとってないよ」
『なら安心した。なぁ、美玖』
「ん?」
『出発までに空いてる日ない? ふたりで会いたい』
低く掠れた声に、はっと息をのむ。
わざわざ拓真に上京すると連絡をしたのは、このひと言を待っていたから。
――――あいかわらず、私はズルい。
拓真が言ってくれるのを待ってばかり。いつも受け身で、自分からは動けない。
臆病な私は、成人しても、大学を卒業しても、就職しても、なにひとつ変わっていない。
「うん、いいよ。私も会いたい」
拓真が誘ってくれたから、やっと私も本音を言える。
待ち合わせの日時を決めて、電話を切った。
静かになったスマホを握りしめ、大きく息を吐く。
「『ふたりで会いたい』って、どうして……?」
直接投げかけられなかった疑問が、ぽろりと口から零れた。
拓真と出かけるのは初めてじゃない。友達と数人で遊んだこともあるし、ふたりで出掛けたこともある。
ただ、それに〝デート〟と名付ける関係性ではなかった。
友達、サークル仲間、親友。どんな言葉を使ってもしっくりこない。
カテゴライズなんてできない。
私にとって拓真は〝拓真〟というカテゴリーだった。
価値観や考え方が近いのがとても心地よくて、一緒にいると素の自分でいられる存在。
だから、私は拓真がとても好きだった。
「ごめん、少し遅れた。美玖、乗って」
冬ならば真っ暗でもおかしくない17時半過ぎ。梅雨の合間に気持ちよく晴れた空はまだ青さを保っていた。
駅のロータリーで待っていると、拓真の運転する白いセダンが目の前でゆっくりと停まった。
高校卒業と同時に免許を取った彼が、従兄弟から格安で譲り受けた車。この車の助手席に乗るのは初めてじゃない。樹と付き合いだす前にも乗せてもらったことがあった。
変わらない車内の内装を見ながら、無意識に彼女の影を探す自分に気づき嫌気が差す。シートベルトに格闘していると、「どんくさ」と笑いながら拓真が覆いかぶさってきた。
――――ち、近い。
背中をシートに沈めて息を詰めているとカチャンと音がして、彼の気配が遠ざかる。
意識しているのを気取られたくなくて、私は窓の外へ視線を逃した。
「どこに向かってるの? え、高速乗った?」
「飯食う前に行きたいところがあるんだ。付き合ってよ」
近場でご飯を食べるだけだと思っていた私は面食らったが、ハンドルを握るのが拓真である以上、口をはさんでも仕方ないと大人しくする。
行きの車内は、お互いの近況報告会だった。
拓真は地元の商社で営業として働いていて、上司からかなり厳しく仕事を叩き込まれているそうだ。
「拓真は営業に向いてそうだよね」
「そうか?」
「人当たりがいいっていうか、人たらし? 拓真と話してたらいつの間にか契約書にハンコ押しちゃう、みたいな」
「人を詐欺師みたいに言うなよ」
彼が眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をする。
「あはは。なんで、褒めてるのに」
対して私は来月から商品企画部に配属となり、念願だった女性の心をときめかせるコスメをつくる仕事に携われるようになるのだ。
「コスメを一から企画するなんて、本当に楽しみ」
「普段のメイクも会社の商品を使ってるのか?」
「うん。大体自社製品かな。社割りも利くし、使い心地とかひと通り試しておきたいから」
「へぇ、さすが。熱心だな」
久しぶりにゆっくり会うと積もる話があるもので、特に気まずい空気もなく以前のままでいられる。
打てば響く会話は楽しくて、どうしても頬が緩む。
この関係性を崩したくなくて、私はずっと勇気を出せず、彼に対する想いを燻らせたまま拗らせているのだ。
――――彼女とは、まだ続いてるのかな。
女の勘とは恐ろしいもので、当時樹という彼氏がいた私をライバルだと認識した拓真の彼女によく睨まれていた。
もちろん私と拓真の間に、なにかあったわけじゃない。
拓真に彼女がいたように、私には樹がいたんだから。
けれど、私が言うのもなんだけど、卒業間際の拓真と彼女の関係はあまり良好には見えなかった。
「拓真、彼女は?」
「あぁ……卒業式以来会ってない」
拓真はなんでもないように言うと、ハンドルをきった。
――――それは、別れたっていう意味? それとも……。
濁された気がするけど、それ以上は聞かない。
こういうところも、私はずるい。
曖昧にした拓真のせいにして、自分は安全なところにいようとする。
複雑な心境の私をよそに、車は目的地に到着する。地元から県を跨いだ大きなフラワーパークだった。
青空に浮かぶ雲が、ほんのりとオレンジ色に染まっている。
「……ここ?」
「うん。ダメだった?」
ここは冬だけでなく夏もイルミネーションが評判で、色とりどりの花々を優しい光が照らし出し、夏夜を幻想的に演出してくれる。この辺りではデートスポットとして有名だ。
いつだったか、拓真が『次の美玖の誕生日に行こうよ』と言ってくれた。
そのたった数カ月後にはお互い恋人がいたから、約束は果たされなかったけど。
――――どうして、今……?
ドクンと鼓動が速く脈打ち、そわそわと落ち着かない。
すると、拓真が腕時計を見て頷いた。
「よし、なんとか間に合ったな」
「なにが?」
「いいから、行くぞ」
そう言って強引に連れられて来たのは、園内の中央にある展望台。
地上45メートルの高さまでゆっくりと上っていき、頂上では360度回転するため余すことなく絶景を楽しめる、らしい。
「……なんの嫌がらせ?」
「あ、そっか。高いとこだめなんだっけ」
しれっと言う素振りに、忘れていたわけではないと確信する。
「大人2枚」
「わ、ばかっ」
さっさとチケットを購入して展望デッキへ乗り込む拓真を、思いっきり不貞腐れた顔で睨んでやる。
「そんな不細工な顔すんな。これ終わったら次は違うとこ行くから」
引き返してきた拓真は、私の手をとってデッキに再度乗る。
「この展望台から富士山が綺麗に見えたら、願い事が叶うんだって」
「……願い事?」
高所恐怖症な私には、素晴らしい景色も上空45メートルまで上昇した半透明な展望デッキに乗って見れば地獄になる。
私は拓真に手を握られたまま、ぎゅっと目を閉じていた。
「見ないの?」
「見ないよ。……怖いもん」
「せっかく綺麗なのに。ほら、空が青色から茜色に染まってく」
目を瞑っていても眩しく感じる強い光が、私を責め立てているように感じた。
「拓真は、なにか願い事があるの?」
「そりゃあね」
それ以上、会話はない。
ただ、ずっと繋いでいた手に徐々に力が込められていく意味に、気付かないふりをした。
10分の空中遊泳の末、やっと地上に降り立つ。
拓真がどうしてここに私を連れて来たのか、この10分の間に富士山を見ることができたのか、やっぱり私は聞かなかった。
フラワーパークを出た私たちは夕食を済ませると、カラオケやボーリング、スポーツ施設が一緒になったアミューズメントスポットに向かった。
手元の時計は21時を指している。私も拓真も「そろそろ帰る?」とは言わなかった。
「なにからする?」
「最近身体動かしてないし、片っ端からやっていこうよ」
「じゃあテニスからな。ハンデは?」
「いらないよっ」
お互い負けん気が強くてすぐ熱くなる性格なため、遊びとわかってても白熱するのが私たち。
テニスにバスケのフリースロー、バッティングにサッカーのゴール対決を終えた頃には、ふたりとも結構な汗が滲んでいた。
「はぁ、疲れた……。明日、絶対筋肉痛になるよー」
「明日じゃなくて明後日だったりして」
「ちょっと、やめてよ。まだ22歳なんだから」
以前のような軽口を言い合いながら笑い合う。
こういう些細なやりとりが、本当に楽しくて大好きだった。
「喉乾いたな。そこでなんか飲み物買うか」
私たちが座ったベンチの後ろ側に自動販売機があり、その奥にアーチェリー場が見える。
「ねぇ拓真、あれで勝負しよう。負けた方がドリンク奢りね」
「アーチェリーか、いいね。飲み物と、学生時代の恥ずかしい暴露話ひとつ追加で」
「よぉし、受けて立つ!」
ひとり5本矢を射て、一番中心に近く当てた方を勝者とすることにした。
1本目はお互い的にも当たらず、2本目も仲良く的の一番外側。
「だぁー、くそっ!」
「あぁー、今の惜しかったね」
フェンス越しに本気で悔しがっている拓真を見て、思わず笑みが零れた。
ふと学生時代を思い出す。
私が自分の気持ちに気付いたのは、大学1年の終わり頃。
大学から一緒に帰る電車の中で、拓真が同じサークルの先輩に告白されたと相談されたのがきっかけだった。
拓真が他の誰かのものになる。そう考えたら胸が痛くて苦しくて、これは恋なんだと自覚した。
『美玖は俺がその先輩と付き合ったらどう思う?』
『どうって……その先輩のこと好きなの?』
『いや。でも、それでもいいって言われてる』
『ふーん』
『好きじゃないのに付き合うなんて失礼じゃない?』なんて言った私の言葉が彼にどう届いたのかわからないけど、拓真は先輩の告白に断りを入れたらしい。
後日、それを本人から聞いてほっとした顔をしてしまい、咄嗟に俯いて『そっか』と零すだけで拓真の顔が見られなかった。
今回は断ったけど、次は……?
今の距離感が楽で、ずっとこんな風に過ごしていたかったけど、いつか彼女が出来るかもしれない。
むしろ今まで彼女がいなかったのが不思議なくらいだ。
大学の女子の中で1番距離が近いと思っていたのはうぬぼれではない。それくらい一緒に過ごす時間が長いという自負があったし、もしかしたらという淡い期待もあった。
――――もしも拓真が、告白してくれたら。
嫌われてはいないだろうけど、恋愛対象として想われているかは確信が持てない。
だから自分から告白はできず、彼からのアクションを待っていた。
そんな臆病者の私に、容赦ない現実が突きつけられる。
梅雨真っ只中のある雨の日。
『拓真くんと付き合い始めたの。だから今までみたいにあんまり馴れ馴れしくしないで』
睨むように〝彼女〟からそう言われ、頭が真っ白になった。
その時はショックでしばらく彼の顔も見られず、眠れない日が続いた。
だから……断りきることが出来なかった、樹の告白を。
拓真には『好きじゃないのに付き合うなんて失礼じゃない?』なんて言ったくせに、私は樹の『いつか忘れさせてみせる』という言葉に揺れ、彼を受け入れた。
樹は初めは優しかったし、拓真を忘れることが出来ると思った。
愛情表現を惜しまない彼のそばにいるのは、自分の女としての価値を認められている気分だったし、単純に好かれているのが嬉しかった。
私なりに、彼を好きになろうと努力した。
だけど……無理だった。
樹は、私が拓真を好きだと気付いていた。
サークルで拓真と顔を合わせるのも気に入らない様子で、徐々にタバコやお酒の量が増え、大学に来ない日も増えた。
サークルに出た後に樹に会うと、浮気の痕跡がないかを確認するかのようにめちゃくちゃに抱かれ、時には殴られることもあった。
でも私は、周囲からどれだけ別れるべきだと忠告されても別れようとは思わなかった。
樹を受け入れたのは自分自身。彼が怠惰になっていくのを間近で見ていて、今私が手を離したらこの人はどうなるんだろうという責任感と同情のみで一緒にいた。
私はずるい。
私の心は、本当はずっと拓真を求めていたのに……。
「ゴチになりまーす」
結局アーチェリー対決は私の勝利で幕を閉じた。
アイスココアを買ってもらい、満面の笑みを彼に向ける。
「ふふっ。拓真に勝てたなんて気分いいな」
「俺も黄色に刺さったんだけどなぁ」
ベンチに浅く腰掛けた拓真が天を仰ぐのを、クスクスと笑った。
「じゃんけんで先攻選んで正解だった。あれ見てたら負けてたもん」
「先にど真ん中当てられたら後攻は辛いな」
自分で買ったコーラを飲みながら、拓真は感心したように言う。
「美玖は本当に負けず嫌いだよな」
「まぁ、そうだね」
「そのせいで一見気が強そうに見えるけど、実はそうじゃない。弱いくせに強がりで、なんでもこなせるくせにどこか自分に自信がなさげで。そういうアンバランスさが見ててほっとけなかった」
ほっとけない。
そんなふうに思われていたなんて、はじめて知った。
「勉強もサークルも手を抜かずに全力で、就活も第1希望をバシッと決めて。でもその影でめちゃくちゃ努力してるのも知ってる。そういうところ、本当に尊敬する」
突然告げられた褒め言葉に耐えきれず、私は彼から目を逸らして俯いた。
「……何、急に」
「暴露話の前フリだよ。褒められるとすぐ照れちゃって。かーわいいの」
「ちょっ、ばかにしてるでしょ! 前フリなんていらないから早く話してよ、拓真の恥ずかしい暴露話っ」
「うん……俺さ」
ベンチで隣り合って座る近い距離で、ただ真っすぐに見つめられる。
その眼差しがあまりに熱くて、肌がじりじりと焼けついていく気がした。
コクン、と喉が鳴ってしまったのに、どうか気づかないで。
「俺、ずっと……美玖が好きだったよ」
甘く響く拓真の声につられ、俯いていた顔を上げた。
穏やかに微笑む彼の顔を、じっと見つめ返す。
――――心のどこかで、ずっと思ってた。
そうだったらいいなって。
1年生の頃から、ずっと思ってた。
サークルの先輩に告白されたって相談された時も。
一緒にフラワーパークに行こうって誘われた時も。
樹から心身ともにボロボロにされる私を見て、別れろって怒ってくれた時も。
その理由が〝私を好きだから〟だったらいいなって思ってた。
――――大好きで、焦がれて、臆病ゆえに置き去りにしてきてしまった恋の末路。
それは『好きだった』という過去形の告白を受け止めることなのかもしれない。
ずるい私が前に進むために、乗り越えなくてはならない罰のようなもの。
「……今さら、言わないでよ。男らしくないなぁ」
空気を変えるため、必死に笑おうとした声が震えた。
それに気付いたはずの拓真は私の意図を汲んで一緒に笑ってくれたけど、話題を変えることはしなかった。
「だよな。でもあの展望台で告白しようと思ってチケット用意してたのに、お前首にキスマークつけて大学来んだもん。誘えなかったよ」
「彼女いた人がよく言うよ」
「美玖があいつと付き合いだしたから、自棄になったんだよ。……正直、後悔してる」
どういうこと?
彼女から拓真と付き合い出したって聞いたから、私は樹と……。
そこまで考えて、私は息をのんだ。
――――まさか、嘘……だった?
彼女ができたと拓真本人の口から聞いたのは、夏休みが明けたあとだった。
私が樹を受け入れた時はまだ拓真は私を好きで、本当はフラワーパークに誘ってくれようとしていたってこと……?
それなのに私は彼女の牽制を真に受けて、楽な方へと逃げた。
自分は好きだと言えないから、拓真は好きだと言ってくれないから、好きだと言ってくれる人のところへ逃げたんだ。
弱い自分が嫌で、ずるい自分が情けなくて、じわりと涙が込み上げる。
「ま、もう時効だよな」
思考が過去に引き摺られる私を、現実に呼び戻す拓真の言葉。
コーラを飲み干した紙コップをくしゃっと握りつぶす彼を見て、恨めしい気持ちが込み上げる。
時効というのなら、どうして今さらそんなこと言うの。
私が東京に行けば、もう会わなくなるから?
賭けの罰ゲームに暴露話と言い出したのはどうして?
まさか、初めから負けるつもりだった……?
次から次へと溢れてくる疑問をひとつも言葉に出来ないまま、買ってもらったアイスココアと共に喉に流し込んだ。
だって、これは罰だから。
どれだけ苦しくても、泣きたくても、縋りつきたくなったとしても、ひとり静かに受け止めなくてはならない、臆病者への罰。
「よし、そろそろ帰ろっか」
滲んだ涙が乾いたのをこっそり指で確認してから、私は笑って言った。
今度は声も震えなかったし、拓真も同じように笑って頷いてくれた。
もう23時を回っていて、周りもかなり人が少ない。
「ごめん、ちょっとお手洗い」
ごみ箱に紙コップを捨ててトイレに立ち寄り、軽くメイクを直す。
――――ウォータープルーフのマスカラでよかった。
自社製品のよさを再認識しつつトイレを出ると、拓真の姿がない。
辺りを見回すと、少し遠くで私を手招きしているのが見えた。
「美玖、最後にこれ見てから帰ろう」
「個室プラネタリウム? うん、いいけど」
少し戸惑った私をよそに、拓真は個室プラネタリウムなるものに設定を入力し始めていた。
小さなドーム型の機械に入ると、そこは4畳ほどのスペースに6席のシートしかない小規模なもので、なるほど『個室プラネタリウム』かと納得した。
「さっきなにを入力してたの?」
「ああ、空を選べるんだって。『夏の空』『冬の空』『今日の空』『あの日の空』4つの中から決められたんだ」
「へぇ。どれ見るの?」
答えを聞く前にビーっと大きな音が鳴り響き、同時に徐々に暗くなる。シートを倒し見やすい角度にして小さなドームを見上げた。
しばらくすると、低めの聞き取りやすい男性のアナウンスが聞こえてくる。
『本日はようこそ、2021年7月20日の空の旅へ。約10分間、現実を忘れ宇宙を感じてみましょう』
――――3年前の、私の誕生日……。
シートから頭を上げないまま、目だけで隣の席を見る。
拓真も姿勢は変わっていないけれど、その瞳にはドームの星ではなく私を映している。
なんて甘やかな罰だろう。
賞味期限が切れているとわかっているのに、その恋の欠片を少しだけ囓る。
これはきっと、あの日のやり直し。
拓真にとって、未練を断ち切るための最後の儀式。
この時間が過ぎ去れば、きっと泣きたくなるほど苦くなるのはわかってた。それでも、今だけは……。
やがてどちらからともなく、自然に手が重なった。
「疲れたなら寝てもいいよ。着いたら起こすから」
「ん、ありがと」
真夜中だけど、眠気なんてまったくない。
ただ行きとはまったく違う車内の雰囲気に耐えきれず、「うん」と返事をして寝た振りをすることに決めた。
拓真もきっとわかっている。
私たちは、もうどうにもならない。
これは賞味期限切れの恋。
三年前に置き去りにしたせいで、ずっと燻らせてしまっていた。
たぶん、私たちは似すぎている。
臆病なところも、ずるいところも。
私が樹を受け入れたのも、拓真が彼女と付き合いだしたのも、誰のせいでもない。ただお互いが臆病でずるかっただけ。
あのフラワーパークの展望台のジンクス。
拓真は『展望台から富士山が綺麗に見えたら、願い事が叶う』と言っていたけれど、本当は違うんだって、私は知っている。
〝想い合うふたりで乗り、一緒に富士山を見ることができれば幸せになれる〟
3年前から知っていた。
だから高いところが怖くても、目をつぶりながらでも一緒に乗った。
富士山が見えたなら、その時だけ目を開けようと。
でもあの10分間、拓真はなにも言わなかった。
今日はあんなに晴れてたのに。
空は茜色に染まっていたけれど、まだ明るくて視界ははっきりしていたのに。
拓真はなにも言わなかった。
「……く、美玖。もう着くよ」
いつの間にか、本当に眠ってしまっていたらしい。
「今日はありがとな、遅い時間まで付き合ってくれて」
「ううん、こっちこそ」
「じゃあ、向こうでも頑張って」
「うん。拓真も」
停車したものの、車から降りられない。
もう終わってしまう。
何も始まらなかった私の恋が、今度こそ、本当に。
「久しぶりに拓真に会えて嬉しかった」
「うん」
「あの、さ……」
「ん?」
「……次は、お互い時効前に言おうね」
私の言葉に、拓真は目を丸くする。
「私も、次は言いたい。過去形じゃなくて、そう思った瞬間に」
強がりな私は、結局それしか言えない。
すると、彼は切なそうに眉尻を下げて笑った。
「そうだな、俺も。もうこんな思いはごめんだわ」
「うん」
そう笑い合ったきり、互いに押し黙った。
本当に、私はどうしようもない。
この期に及んで、まだずるい自分から抜け出せないなんて。
賞味期限の切れた恋だとか、臆病者への罰だとか、もっともらしいことを言って自分を納得させようとしていたけれど、本当は……。
『遠距離恋愛でも頑張れるか?』
『今夜だけでいい。一緒にいよう』
そんなドラマか漫画のようなセリフを期待して、うまく言葉を紡げない。
それなのに、結局そんな自分の心の内を晒す度胸もない。
「美玖?」
その低く甘い声で呼ばれるのは、きっとこれが最後。
拓真はもう、私を〝過去の恋〟にカテゴライズしてしまった。
あのプラネタリウムで、手を繋いだ瞬間に。
「……ううん、なんでもない。元気でね」
「あぁ。美玖も」
車を下りて、無理やり口角を上げて手を振るとゆっくりと歩き出す。
わかっていたのに。
賞味期限切れの恋を齧ったら、苦しくなるってわかっていたはずなのに。
どれだけ待っても、私の背中を引き止める声は聞こえない。
惨めさ、情けなさ、拓真への想い、色んな感情がぐちゃぐちゃになって、ぽろぽろと涙が溢れた。
――――今夜だけ。
今夜だけは、弱くてずるい自分を許してあげよう。
たくさん後悔して、思いっきり泣こう。囓ってしまった未練だらけの恋心を消化できるように。
いつか本当に、『次』が来るその日まで。
振り返ると、もう彼の車は見えない。
そこには弱さもずるさも包み込むような宵闇だけが広がっていた。
Fin.
その時期を逃せば、どれだけうまくいきそうに見えたって捨て去らなくてはならない時がくる。
賞味期限切れの恋の味は、きっと苦い。
***
LINEを送ったたった15分後、スマホが鳴った。メッセージの通知音ではなく、電話の着信音。
身体がビクッと跳ねて、心臓が体内で揺れたのがわかった。
ディスプレイの『黒住拓真』という文字が、強烈に存在感を示してくる。
――――なんで、電話?
私は戸惑いながらも大きく深呼吸をして、咳払いをしてから通話をタップする。
「はい」
『もしもし美玖? 久しぶり』
耳だけでなく、首筋まで痺れるような甘く低い声。
この声で名前を呼ばれるのが、本当に好きだった。
「うん、久しぶり」
『LINE見たよ。すごいな、東京本社に配属なんて。ずっと夢だったんだもんな。おめでとう』
「うん、ありがとう」
この春、化粧を覚えたての頃から憧れていた外資系化粧品メーカーに運よく就職できた。
日本本社は東京にあるものの、新人研修がたまたま地元の名古屋営業所で行われることが決まっていたため、この3ヶ月間は実家から通勤している。
連日の雨がうっとおしい6月の終わり。私は新人研修終了を間近に控え、半月後には本社勤務となるために東京でひとり暮らしをする予定だ。
久しぶりに電話越しで聞く拓真の美声はなかなかの破壊力だな、なんて懐かしく思っていると、その声が少しだけ険を含んだ。
『引っ越しは2週間後か。……アイツは?』
拓真の言う〝アイツ〟とは……名前を言わなくても誰を指しているのかわかる。
私の元彼である岩橋樹。私と拓真の大学の同級生だ。
「……別れたの、少し前に」
『そう。……大丈夫だった?』
拓真がそう聞いてくれたのは、私が樹とどんな付き合い方をしていたのかを知ってるから。
電話越しにも心配してくれているのが解って、胸がぎゅっと締めつけられた。
「うん、大丈夫だった。もう連絡もとってないよ」
『なら安心した。なぁ、美玖』
「ん?」
『出発までに空いてる日ない? ふたりで会いたい』
低く掠れた声に、はっと息をのむ。
わざわざ拓真に上京すると連絡をしたのは、このひと言を待っていたから。
――――あいかわらず、私はズルい。
拓真が言ってくれるのを待ってばかり。いつも受け身で、自分からは動けない。
臆病な私は、成人しても、大学を卒業しても、就職しても、なにひとつ変わっていない。
「うん、いいよ。私も会いたい」
拓真が誘ってくれたから、やっと私も本音を言える。
待ち合わせの日時を決めて、電話を切った。
静かになったスマホを握りしめ、大きく息を吐く。
「『ふたりで会いたい』って、どうして……?」
直接投げかけられなかった疑問が、ぽろりと口から零れた。
拓真と出かけるのは初めてじゃない。友達と数人で遊んだこともあるし、ふたりで出掛けたこともある。
ただ、それに〝デート〟と名付ける関係性ではなかった。
友達、サークル仲間、親友。どんな言葉を使ってもしっくりこない。
カテゴライズなんてできない。
私にとって拓真は〝拓真〟というカテゴリーだった。
価値観や考え方が近いのがとても心地よくて、一緒にいると素の自分でいられる存在。
だから、私は拓真がとても好きだった。
「ごめん、少し遅れた。美玖、乗って」
冬ならば真っ暗でもおかしくない17時半過ぎ。梅雨の合間に気持ちよく晴れた空はまだ青さを保っていた。
駅のロータリーで待っていると、拓真の運転する白いセダンが目の前でゆっくりと停まった。
高校卒業と同時に免許を取った彼が、従兄弟から格安で譲り受けた車。この車の助手席に乗るのは初めてじゃない。樹と付き合いだす前にも乗せてもらったことがあった。
変わらない車内の内装を見ながら、無意識に彼女の影を探す自分に気づき嫌気が差す。シートベルトに格闘していると、「どんくさ」と笑いながら拓真が覆いかぶさってきた。
――――ち、近い。
背中をシートに沈めて息を詰めているとカチャンと音がして、彼の気配が遠ざかる。
意識しているのを気取られたくなくて、私は窓の外へ視線を逃した。
「どこに向かってるの? え、高速乗った?」
「飯食う前に行きたいところがあるんだ。付き合ってよ」
近場でご飯を食べるだけだと思っていた私は面食らったが、ハンドルを握るのが拓真である以上、口をはさんでも仕方ないと大人しくする。
行きの車内は、お互いの近況報告会だった。
拓真は地元の商社で営業として働いていて、上司からかなり厳しく仕事を叩き込まれているそうだ。
「拓真は営業に向いてそうだよね」
「そうか?」
「人当たりがいいっていうか、人たらし? 拓真と話してたらいつの間にか契約書にハンコ押しちゃう、みたいな」
「人を詐欺師みたいに言うなよ」
彼が眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をする。
「あはは。なんで、褒めてるのに」
対して私は来月から商品企画部に配属となり、念願だった女性の心をときめかせるコスメをつくる仕事に携われるようになるのだ。
「コスメを一から企画するなんて、本当に楽しみ」
「普段のメイクも会社の商品を使ってるのか?」
「うん。大体自社製品かな。社割りも利くし、使い心地とかひと通り試しておきたいから」
「へぇ、さすが。熱心だな」
久しぶりにゆっくり会うと積もる話があるもので、特に気まずい空気もなく以前のままでいられる。
打てば響く会話は楽しくて、どうしても頬が緩む。
この関係性を崩したくなくて、私はずっと勇気を出せず、彼に対する想いを燻らせたまま拗らせているのだ。
――――彼女とは、まだ続いてるのかな。
女の勘とは恐ろしいもので、当時樹という彼氏がいた私をライバルだと認識した拓真の彼女によく睨まれていた。
もちろん私と拓真の間に、なにかあったわけじゃない。
拓真に彼女がいたように、私には樹がいたんだから。
けれど、私が言うのもなんだけど、卒業間際の拓真と彼女の関係はあまり良好には見えなかった。
「拓真、彼女は?」
「あぁ……卒業式以来会ってない」
拓真はなんでもないように言うと、ハンドルをきった。
――――それは、別れたっていう意味? それとも……。
濁された気がするけど、それ以上は聞かない。
こういうところも、私はずるい。
曖昧にした拓真のせいにして、自分は安全なところにいようとする。
複雑な心境の私をよそに、車は目的地に到着する。地元から県を跨いだ大きなフラワーパークだった。
青空に浮かぶ雲が、ほんのりとオレンジ色に染まっている。
「……ここ?」
「うん。ダメだった?」
ここは冬だけでなく夏もイルミネーションが評判で、色とりどりの花々を優しい光が照らし出し、夏夜を幻想的に演出してくれる。この辺りではデートスポットとして有名だ。
いつだったか、拓真が『次の美玖の誕生日に行こうよ』と言ってくれた。
そのたった数カ月後にはお互い恋人がいたから、約束は果たされなかったけど。
――――どうして、今……?
ドクンと鼓動が速く脈打ち、そわそわと落ち着かない。
すると、拓真が腕時計を見て頷いた。
「よし、なんとか間に合ったな」
「なにが?」
「いいから、行くぞ」
そう言って強引に連れられて来たのは、園内の中央にある展望台。
地上45メートルの高さまでゆっくりと上っていき、頂上では360度回転するため余すことなく絶景を楽しめる、らしい。
「……なんの嫌がらせ?」
「あ、そっか。高いとこだめなんだっけ」
しれっと言う素振りに、忘れていたわけではないと確信する。
「大人2枚」
「わ、ばかっ」
さっさとチケットを購入して展望デッキへ乗り込む拓真を、思いっきり不貞腐れた顔で睨んでやる。
「そんな不細工な顔すんな。これ終わったら次は違うとこ行くから」
引き返してきた拓真は、私の手をとってデッキに再度乗る。
「この展望台から富士山が綺麗に見えたら、願い事が叶うんだって」
「……願い事?」
高所恐怖症な私には、素晴らしい景色も上空45メートルまで上昇した半透明な展望デッキに乗って見れば地獄になる。
私は拓真に手を握られたまま、ぎゅっと目を閉じていた。
「見ないの?」
「見ないよ。……怖いもん」
「せっかく綺麗なのに。ほら、空が青色から茜色に染まってく」
目を瞑っていても眩しく感じる強い光が、私を責め立てているように感じた。
「拓真は、なにか願い事があるの?」
「そりゃあね」
それ以上、会話はない。
ただ、ずっと繋いでいた手に徐々に力が込められていく意味に、気付かないふりをした。
10分の空中遊泳の末、やっと地上に降り立つ。
拓真がどうしてここに私を連れて来たのか、この10分の間に富士山を見ることができたのか、やっぱり私は聞かなかった。
フラワーパークを出た私たちは夕食を済ませると、カラオケやボーリング、スポーツ施設が一緒になったアミューズメントスポットに向かった。
手元の時計は21時を指している。私も拓真も「そろそろ帰る?」とは言わなかった。
「なにからする?」
「最近身体動かしてないし、片っ端からやっていこうよ」
「じゃあテニスからな。ハンデは?」
「いらないよっ」
お互い負けん気が強くてすぐ熱くなる性格なため、遊びとわかってても白熱するのが私たち。
テニスにバスケのフリースロー、バッティングにサッカーのゴール対決を終えた頃には、ふたりとも結構な汗が滲んでいた。
「はぁ、疲れた……。明日、絶対筋肉痛になるよー」
「明日じゃなくて明後日だったりして」
「ちょっと、やめてよ。まだ22歳なんだから」
以前のような軽口を言い合いながら笑い合う。
こういう些細なやりとりが、本当に楽しくて大好きだった。
「喉乾いたな。そこでなんか飲み物買うか」
私たちが座ったベンチの後ろ側に自動販売機があり、その奥にアーチェリー場が見える。
「ねぇ拓真、あれで勝負しよう。負けた方がドリンク奢りね」
「アーチェリーか、いいね。飲み物と、学生時代の恥ずかしい暴露話ひとつ追加で」
「よぉし、受けて立つ!」
ひとり5本矢を射て、一番中心に近く当てた方を勝者とすることにした。
1本目はお互い的にも当たらず、2本目も仲良く的の一番外側。
「だぁー、くそっ!」
「あぁー、今の惜しかったね」
フェンス越しに本気で悔しがっている拓真を見て、思わず笑みが零れた。
ふと学生時代を思い出す。
私が自分の気持ちに気付いたのは、大学1年の終わり頃。
大学から一緒に帰る電車の中で、拓真が同じサークルの先輩に告白されたと相談されたのがきっかけだった。
拓真が他の誰かのものになる。そう考えたら胸が痛くて苦しくて、これは恋なんだと自覚した。
『美玖は俺がその先輩と付き合ったらどう思う?』
『どうって……その先輩のこと好きなの?』
『いや。でも、それでもいいって言われてる』
『ふーん』
『好きじゃないのに付き合うなんて失礼じゃない?』なんて言った私の言葉が彼にどう届いたのかわからないけど、拓真は先輩の告白に断りを入れたらしい。
後日、それを本人から聞いてほっとした顔をしてしまい、咄嗟に俯いて『そっか』と零すだけで拓真の顔が見られなかった。
今回は断ったけど、次は……?
今の距離感が楽で、ずっとこんな風に過ごしていたかったけど、いつか彼女が出来るかもしれない。
むしろ今まで彼女がいなかったのが不思議なくらいだ。
大学の女子の中で1番距離が近いと思っていたのはうぬぼれではない。それくらい一緒に過ごす時間が長いという自負があったし、もしかしたらという淡い期待もあった。
――――もしも拓真が、告白してくれたら。
嫌われてはいないだろうけど、恋愛対象として想われているかは確信が持てない。
だから自分から告白はできず、彼からのアクションを待っていた。
そんな臆病者の私に、容赦ない現実が突きつけられる。
梅雨真っ只中のある雨の日。
『拓真くんと付き合い始めたの。だから今までみたいにあんまり馴れ馴れしくしないで』
睨むように〝彼女〟からそう言われ、頭が真っ白になった。
その時はショックでしばらく彼の顔も見られず、眠れない日が続いた。
だから……断りきることが出来なかった、樹の告白を。
拓真には『好きじゃないのに付き合うなんて失礼じゃない?』なんて言ったくせに、私は樹の『いつか忘れさせてみせる』という言葉に揺れ、彼を受け入れた。
樹は初めは優しかったし、拓真を忘れることが出来ると思った。
愛情表現を惜しまない彼のそばにいるのは、自分の女としての価値を認められている気分だったし、単純に好かれているのが嬉しかった。
私なりに、彼を好きになろうと努力した。
だけど……無理だった。
樹は、私が拓真を好きだと気付いていた。
サークルで拓真と顔を合わせるのも気に入らない様子で、徐々にタバコやお酒の量が増え、大学に来ない日も増えた。
サークルに出た後に樹に会うと、浮気の痕跡がないかを確認するかのようにめちゃくちゃに抱かれ、時には殴られることもあった。
でも私は、周囲からどれだけ別れるべきだと忠告されても別れようとは思わなかった。
樹を受け入れたのは自分自身。彼が怠惰になっていくのを間近で見ていて、今私が手を離したらこの人はどうなるんだろうという責任感と同情のみで一緒にいた。
私はずるい。
私の心は、本当はずっと拓真を求めていたのに……。
「ゴチになりまーす」
結局アーチェリー対決は私の勝利で幕を閉じた。
アイスココアを買ってもらい、満面の笑みを彼に向ける。
「ふふっ。拓真に勝てたなんて気分いいな」
「俺も黄色に刺さったんだけどなぁ」
ベンチに浅く腰掛けた拓真が天を仰ぐのを、クスクスと笑った。
「じゃんけんで先攻選んで正解だった。あれ見てたら負けてたもん」
「先にど真ん中当てられたら後攻は辛いな」
自分で買ったコーラを飲みながら、拓真は感心したように言う。
「美玖は本当に負けず嫌いだよな」
「まぁ、そうだね」
「そのせいで一見気が強そうに見えるけど、実はそうじゃない。弱いくせに強がりで、なんでもこなせるくせにどこか自分に自信がなさげで。そういうアンバランスさが見ててほっとけなかった」
ほっとけない。
そんなふうに思われていたなんて、はじめて知った。
「勉強もサークルも手を抜かずに全力で、就活も第1希望をバシッと決めて。でもその影でめちゃくちゃ努力してるのも知ってる。そういうところ、本当に尊敬する」
突然告げられた褒め言葉に耐えきれず、私は彼から目を逸らして俯いた。
「……何、急に」
「暴露話の前フリだよ。褒められるとすぐ照れちゃって。かーわいいの」
「ちょっ、ばかにしてるでしょ! 前フリなんていらないから早く話してよ、拓真の恥ずかしい暴露話っ」
「うん……俺さ」
ベンチで隣り合って座る近い距離で、ただ真っすぐに見つめられる。
その眼差しがあまりに熱くて、肌がじりじりと焼けついていく気がした。
コクン、と喉が鳴ってしまったのに、どうか気づかないで。
「俺、ずっと……美玖が好きだったよ」
甘く響く拓真の声につられ、俯いていた顔を上げた。
穏やかに微笑む彼の顔を、じっと見つめ返す。
――――心のどこかで、ずっと思ってた。
そうだったらいいなって。
1年生の頃から、ずっと思ってた。
サークルの先輩に告白されたって相談された時も。
一緒にフラワーパークに行こうって誘われた時も。
樹から心身ともにボロボロにされる私を見て、別れろって怒ってくれた時も。
その理由が〝私を好きだから〟だったらいいなって思ってた。
――――大好きで、焦がれて、臆病ゆえに置き去りにしてきてしまった恋の末路。
それは『好きだった』という過去形の告白を受け止めることなのかもしれない。
ずるい私が前に進むために、乗り越えなくてはならない罰のようなもの。
「……今さら、言わないでよ。男らしくないなぁ」
空気を変えるため、必死に笑おうとした声が震えた。
それに気付いたはずの拓真は私の意図を汲んで一緒に笑ってくれたけど、話題を変えることはしなかった。
「だよな。でもあの展望台で告白しようと思ってチケット用意してたのに、お前首にキスマークつけて大学来んだもん。誘えなかったよ」
「彼女いた人がよく言うよ」
「美玖があいつと付き合いだしたから、自棄になったんだよ。……正直、後悔してる」
どういうこと?
彼女から拓真と付き合い出したって聞いたから、私は樹と……。
そこまで考えて、私は息をのんだ。
――――まさか、嘘……だった?
彼女ができたと拓真本人の口から聞いたのは、夏休みが明けたあとだった。
私が樹を受け入れた時はまだ拓真は私を好きで、本当はフラワーパークに誘ってくれようとしていたってこと……?
それなのに私は彼女の牽制を真に受けて、楽な方へと逃げた。
自分は好きだと言えないから、拓真は好きだと言ってくれないから、好きだと言ってくれる人のところへ逃げたんだ。
弱い自分が嫌で、ずるい自分が情けなくて、じわりと涙が込み上げる。
「ま、もう時効だよな」
思考が過去に引き摺られる私を、現実に呼び戻す拓真の言葉。
コーラを飲み干した紙コップをくしゃっと握りつぶす彼を見て、恨めしい気持ちが込み上げる。
時効というのなら、どうして今さらそんなこと言うの。
私が東京に行けば、もう会わなくなるから?
賭けの罰ゲームに暴露話と言い出したのはどうして?
まさか、初めから負けるつもりだった……?
次から次へと溢れてくる疑問をひとつも言葉に出来ないまま、買ってもらったアイスココアと共に喉に流し込んだ。
だって、これは罰だから。
どれだけ苦しくても、泣きたくても、縋りつきたくなったとしても、ひとり静かに受け止めなくてはならない、臆病者への罰。
「よし、そろそろ帰ろっか」
滲んだ涙が乾いたのをこっそり指で確認してから、私は笑って言った。
今度は声も震えなかったし、拓真も同じように笑って頷いてくれた。
もう23時を回っていて、周りもかなり人が少ない。
「ごめん、ちょっとお手洗い」
ごみ箱に紙コップを捨ててトイレに立ち寄り、軽くメイクを直す。
――――ウォータープルーフのマスカラでよかった。
自社製品のよさを再認識しつつトイレを出ると、拓真の姿がない。
辺りを見回すと、少し遠くで私を手招きしているのが見えた。
「美玖、最後にこれ見てから帰ろう」
「個室プラネタリウム? うん、いいけど」
少し戸惑った私をよそに、拓真は個室プラネタリウムなるものに設定を入力し始めていた。
小さなドーム型の機械に入ると、そこは4畳ほどのスペースに6席のシートしかない小規模なもので、なるほど『個室プラネタリウム』かと納得した。
「さっきなにを入力してたの?」
「ああ、空を選べるんだって。『夏の空』『冬の空』『今日の空』『あの日の空』4つの中から決められたんだ」
「へぇ。どれ見るの?」
答えを聞く前にビーっと大きな音が鳴り響き、同時に徐々に暗くなる。シートを倒し見やすい角度にして小さなドームを見上げた。
しばらくすると、低めの聞き取りやすい男性のアナウンスが聞こえてくる。
『本日はようこそ、2021年7月20日の空の旅へ。約10分間、現実を忘れ宇宙を感じてみましょう』
――――3年前の、私の誕生日……。
シートから頭を上げないまま、目だけで隣の席を見る。
拓真も姿勢は変わっていないけれど、その瞳にはドームの星ではなく私を映している。
なんて甘やかな罰だろう。
賞味期限が切れているとわかっているのに、その恋の欠片を少しだけ囓る。
これはきっと、あの日のやり直し。
拓真にとって、未練を断ち切るための最後の儀式。
この時間が過ぎ去れば、きっと泣きたくなるほど苦くなるのはわかってた。それでも、今だけは……。
やがてどちらからともなく、自然に手が重なった。
「疲れたなら寝てもいいよ。着いたら起こすから」
「ん、ありがと」
真夜中だけど、眠気なんてまったくない。
ただ行きとはまったく違う車内の雰囲気に耐えきれず、「うん」と返事をして寝た振りをすることに決めた。
拓真もきっとわかっている。
私たちは、もうどうにもならない。
これは賞味期限切れの恋。
三年前に置き去りにしたせいで、ずっと燻らせてしまっていた。
たぶん、私たちは似すぎている。
臆病なところも、ずるいところも。
私が樹を受け入れたのも、拓真が彼女と付き合いだしたのも、誰のせいでもない。ただお互いが臆病でずるかっただけ。
あのフラワーパークの展望台のジンクス。
拓真は『展望台から富士山が綺麗に見えたら、願い事が叶う』と言っていたけれど、本当は違うんだって、私は知っている。
〝想い合うふたりで乗り、一緒に富士山を見ることができれば幸せになれる〟
3年前から知っていた。
だから高いところが怖くても、目をつぶりながらでも一緒に乗った。
富士山が見えたなら、その時だけ目を開けようと。
でもあの10分間、拓真はなにも言わなかった。
今日はあんなに晴れてたのに。
空は茜色に染まっていたけれど、まだ明るくて視界ははっきりしていたのに。
拓真はなにも言わなかった。
「……く、美玖。もう着くよ」
いつの間にか、本当に眠ってしまっていたらしい。
「今日はありがとな、遅い時間まで付き合ってくれて」
「ううん、こっちこそ」
「じゃあ、向こうでも頑張って」
「うん。拓真も」
停車したものの、車から降りられない。
もう終わってしまう。
何も始まらなかった私の恋が、今度こそ、本当に。
「久しぶりに拓真に会えて嬉しかった」
「うん」
「あの、さ……」
「ん?」
「……次は、お互い時効前に言おうね」
私の言葉に、拓真は目を丸くする。
「私も、次は言いたい。過去形じゃなくて、そう思った瞬間に」
強がりな私は、結局それしか言えない。
すると、彼は切なそうに眉尻を下げて笑った。
「そうだな、俺も。もうこんな思いはごめんだわ」
「うん」
そう笑い合ったきり、互いに押し黙った。
本当に、私はどうしようもない。
この期に及んで、まだずるい自分から抜け出せないなんて。
賞味期限の切れた恋だとか、臆病者への罰だとか、もっともらしいことを言って自分を納得させようとしていたけれど、本当は……。
『遠距離恋愛でも頑張れるか?』
『今夜だけでいい。一緒にいよう』
そんなドラマか漫画のようなセリフを期待して、うまく言葉を紡げない。
それなのに、結局そんな自分の心の内を晒す度胸もない。
「美玖?」
その低く甘い声で呼ばれるのは、きっとこれが最後。
拓真はもう、私を〝過去の恋〟にカテゴライズしてしまった。
あのプラネタリウムで、手を繋いだ瞬間に。
「……ううん、なんでもない。元気でね」
「あぁ。美玖も」
車を下りて、無理やり口角を上げて手を振るとゆっくりと歩き出す。
わかっていたのに。
賞味期限切れの恋を齧ったら、苦しくなるってわかっていたはずなのに。
どれだけ待っても、私の背中を引き止める声は聞こえない。
惨めさ、情けなさ、拓真への想い、色んな感情がぐちゃぐちゃになって、ぽろぽろと涙が溢れた。
――――今夜だけ。
今夜だけは、弱くてずるい自分を許してあげよう。
たくさん後悔して、思いっきり泣こう。囓ってしまった未練だらけの恋心を消化できるように。
いつか本当に、『次』が来るその日まで。
振り返ると、もう彼の車は見えない。
そこには弱さもずるさも包み込むような宵闇だけが広がっていた。
Fin.