「いらっしゃいませ。袋はご利用になられますか​────え、彩月(さつき)?」

淡々とした店員の口調が、突如そうじゃなくなった。その声で名前を呼ばれたのはいつぶりだろう。驚いて顔を上げると、かつての同級生……いや。元彼がいた。

陽莉(ひまり)……くん…?」

喉を通過するその懐かしい響きに懐かしさがぶわっ、と込み上げてきた。

「久しぶりだなー! 会うのいつぶりだ? 成人式で会ったっけ?」

彼は一気に店員の声ではなくなり、無邪気さが残る声を上げた。

「あー、ううん。私、成人式風邪引いて行けなかったから…」

「え、マジ!? 彩月は昔から大事な日に限ってよく風邪引くよなー」

「余計なお世話」

幸いお客さんは私以外いなくて、久しぶりの再会に会話を弾ませていた。

「ってことは、中学卒業して以来か??」

「そうだね、もうそんなに経つんだ…」

現在21歳。
中学卒業ともなると、6年ぶり? くらいの再会ということになる。

私の記憶の中にある最後の彼の姿は、当然ながら今よりももっと幼さが滲んでいる顔立ちだった。まぁ、それは彼の目に映る私にも言えていることだと思うけど。

「今何してんの?」

「大学通ってるよ」

「へぇー、将来何やるとか決まってんの?」

「うん。一応理学療法士になる為に勉強してる」

「理学療法士……!? すげぇー」

「理学療法士がどんな仕事なのか知ってるの?」

案の定彼は困った顔をした。やっぱりね。暫くすると彼は気まづそうに眉をひそめた。

「わり、知らねぇ…けど、なんかニュアンス的にすげぇのは伝わってくる」

「ふふ、何それ。相変わらずだね」

自然と頬が緩んだ。本当変わってないな。そういうとこ。その場のノリとテンションだけで持っていこうとするその感じ。

「なぁ、俺バイトあと10分ちょいで終わるからさ、ちょっと外で待っててくんね? もう少し話そうぜ」

「そうなんだ、うん。分かった」

本当は映画でも観ながら1人で金曜の夜を満喫しようと思っていたけど、元彼との再会によりその予定は一瞬で狂った。
普通は元彼との再会ごときで狂うことなどないんだろう。多分これは彼だからこそ。陽莉くんだからこそ。こうなる展開に違いなかった。こっちの都合なんてお構い無し。明るくて人当たりが良くて、話上手。きっと彼が根っからそういう人間だからだ。

「おまたせ。ごめん、店長に捕まってちょっと遅くなった」

「全然全然。おつかれ様」

「ちょっとうち寄ってかない? すぐ近くなんだ」

「私明日早いんだけど」

「いいじゃんいいじゃん。せっかく会ったんだから。1人で晩酌するより2人の方がいいだろ?」

どうして私が1人晩酌する前提で話してるんだ、この男はと、軽く癪に障らないでもない発言だったけど、21歳女がこんな夜更けに缶チューハイ1本とポテチ1袋というシンプルな買い物をしたのだ。きっと妥当な見解だ。

「まぁ、いいけど……」

渋々、みたいな雰囲気を出したけど本当は、彼との再会に胸が弾んでいる自分がいたりして、割と乗り気だったのだ。

彼とは別れたのは、もう何年も前。
今となっては、もうなんで別れたのか覚えていない。多分ほんのちょっとのすれ違いだったんだと思う。

お互い部活が忙しくして、とか。お互いの時間が上手く合わなくて、とか。思い返せば可愛い理由だ。久々の再会にこうして気まづくなることなく話が出来るんだからきっと私達は世間一般的に見れば円満に別れられたカップルなんだろう。

現に私は今でも時々彼のことを​───────…

人生ではじめての彼氏。
人生ではじめてのキス。
人生ではじめてのそういうこと。

私の‪”はじめて‪”を尽く奪っていったこの男のことを忘れろ、なんて方が無理あると思う。

​────言い訳のように自分を正当化した。

街灯が一定の感覚で灯る夜道を2人並んで歩く。昼間のうちに夏の日差しをたっぷり吸収したアスファルトはこの時間でも僅かに熱気を放っていた。ひとけのない公園を横切り、横断歩道を渡って彼の家に向かう。

「ところで何か買ったの?」

彼の手元に視線を落とすとコンビニの袋が握られていた。どうやら自分のバイト先のコンビニで何か買ってきたようだ。

「んー? チューハイとポテチののりしお。彩月がうすしおだったから」

彼はそう言うとカサカサと豪快に音を立てながら袋を掲げた。確かに袋越しにうっすらポテトチップスのパッケージが見える。

「別に私の真似しなくても、サラミとかイカの揚げたやつとかでも良かったのに」

「えー? とか言いながら好きだろ? ポテチ」

「まぁ…好きだけど」

一時期何故かポテトチップスに激ハマリしていた時期があった私。そういえばあの頃だっけ? 彼と付き合ってたの…。てか覚えてたんだ。

「彩月って家この辺だっけ? 引っ越した?」

「あぁ、ううん。今もまだ実家暮らししてる。今日は大学の友達の家に遊びに行ってて、その帰りだよ」

「あ〜、なるほど。俺いっつもこの時間にシフト入ってるけど大体見慣れた客ばっか来るからさ、彩月が来た時珍しく若い女の子入ってきたなーって思ったんだよ」

「あはは、そっか」

友達の家から駅に向かう途中、コンビニの灯りが目に入って引き寄せられるみたいにフラッと、立ち寄った。私にしては珍しく思いつきの行動だった。その場の気分とかテンションにはいつも流されない私だけど今日は少しだけ流された日だった。

外出して同級生に会ったことなど今まで1度もなかった私にとって、地元でもなんでもないこの地で元彼と会う、なんてすごい確率だと思う。

時刻は21時過ぎ。
昼間の喧騒はすっかり夜の闇に呑まれていて、辺りには私達の話し声だけが響いていた。

「背、すごい伸びたね」

「あー、高校の時めっちゃ伸びたんだよ」

「そうなんだ」

会話のテンポも。その声も。全部懐かしさが込み上げてくる。だけどあの頃よりもだいぶ身長が伸びた彼を見上げる首の角度だけは何だか新鮮な気持ちでちょっとぎこちない。昔はちょっと顎を上げるだけで簡単に目が合ったのにね。

「彩月は相変わらずちっこいなー」

あはは、と私が中学時代だいぶ惚れ込んだ笑顔を浮かべた彼。彼は無遠慮に手のひらを私の頭の上に、ぽん、と置いた。

「悪かったですね、チビで」

私はその手を振り払う。昔から同級生の中でも際立って低い私の低身長はこうして彼に散々からかわれてきた。その度に私もこうして振り払うのがお決まりの流れだった。

5分くらい歩いたところで彼の家に到着した。新しくも古くもない、小さな2階建てのアパート。今はここに住みながら大学とバイトを往復する日々を送っているらしい。

「どうぞ」

「お邪魔します」

ガサツで。豪快で。大雑把(おおざっぱ)

そんな彼が元カノと言えど客人にスリッパを出す、ということはしなかった。

「ちょっと洗面所借りるね」

「あぁ」

洗面所で手を洗ってリビングに行くと彼がコンビニで買ったものをテーブルの上に並べていた。どこに座ったらいいか分かんなくて適当にソファに腰掛けると隣に彼もやってきた。

肩がちょんと軽く触れる。

中学3年の夏。受験前に当時彼が住んでいた実家で親御さんが旅行に行っていた日があった。私たちはその日。陽莉くんの家で​───────…

瞬時に照れくさくてむず痒い想い出が蘇って慌てて頭を振った。

パーティ開けされたポテトチップスがテーブルの上に置かれていた。油っこくて、香ばしい匂いがプンプンと鼻腔をくすぐる。無許可で私の買ったうすしおも既に開封されていた。

「「乾杯」」

コツン、と缶先を合わせ、互いに慣れた手つきで缶を開ける。ほんのり香るレモンの味が口いっぱいに広がっていき、喉を通過してそのまま体内に流れ込んでいく。

お互いお酒を飲める年齢になったんだな、とこの時初めて実感した。

1年前、20歳の誕生日を迎えた時。大学終わりにスーパーでビールを買って家で1人で飲んでみたけど、呆気ないものだった。お酒を飲める年齢になったんだな、なんて感情1ミリも湧いてこなかったものだ。ていうかあまり美味しくなくて半分以上捨てちゃったっけ。

「あ、初めて飲んだけどこれ美味しい」

今日はちょっと冒険したい気分で、普段あまり飲まないメーカーのやつを買ってみたけど当たりだったみたい。

「あーほんとだ」

ポテトチップスだけじゃなくてチューハイも私の真似して同じものを購入した彼。初めてみたいなリアクションをするもんだから尋ねてみる。

「え? それ飲むの初めてなの?」

「そうだよ? え、なんかおかしい?」

「いや、なんかコンビニ店員は全種類制覇してるもんだと……」

「はは、なんだよそれ。んなわけねぇだろ」

ここへ来て‪”‬初めて‪”‬を共有出来たことがなんだか…昔に戻れたみたいで嬉しかった。大人になるにつれて、経験が増えていくにつれて、‪”‬初めて‪”‬はだんだん少なくなっていく。

20歳を超えた辺りで私は、もう一通りの経験を詰んだいい大人なのだと感じ始めていた。それは人によっては喜ばしいことかもしれないけど私にとっては少し寂しいことだった。‪

”‬はじめて‪”‬で溢れかえっていたあの頃を思い出しては若干の寂しさが心に吹き荒れていく気がしていたのだ。

彼が身を乗り出してポテトチップスを手に取る。まず口に運んだのは、のりしおの方。あんまり、ノリが付いていないやつだった。

あぁ、そうだ……そうだった。

彼は……、ポテトチップスの味があまりついてないやつを率先して食べてくれるような人だったな。

「彩月は今なんかバイトしてんの?」

「うん、してるよ」

「おぉー、どこ?」

「どこでしょう」

「えー」

こっちが思う以上に真剣考えてくれているようで彼はうーん、と唸りながら顔を(しか)めた。

「本屋、とか? 彩月昔から本好きだったろ? それにデートの度に『ちょっと本屋寄っていい?』って言われてたし」

「……っ、そんなこと、とっくに忘れてると思ってた……」

「びっくりした? 意外と記憶力いいんだよ、俺」

自慢げにドヤ顔を繰り出す彼。

「で、どう? 当たってる?」と詰め寄ってきたので「うん。当たり」と返した。

「マジ!? 俺すごくね!?」

このクイズに正解出来るのは、きっと世界中で彼だけなんだろうな。

それからは彼が部屋の奥から中学の卒業アルバムを取り出してきたので一緒に眺めた。ゆっくりとページを捲って、思い出話に花を咲かせていく。

「こいつ今保育士目指してんだって」とか。
「今度結婚するんだって」とか。

かつての同級生の‪”‬今‪”‬を聞いてみんなそれぞれ自分の人生を生きているんだな、と感じた。

学生時代は‪”‬学校‪”‬が全てだった。卒業を経てそれぞれ社会に飛び込んでいったみんなは、もう‪学校が全てじゃない。それぞれ大切にしたいものや、守りたいものとかも出来て。夢も膨らんで。きっと頑張っているんだろう。

一通り目を通した卒アルを閉じると彼が懐かしむようにポツリ、と言った。少し顔が赤い。酔いが回ってきているのかもしれない。

「俺中学の時さ、彩月のことめっちゃ好きだったんだよな」

「…っ」

突然の告白に言葉が出てこなかった。

「な、何突然……」

「いやー、なんかこうやって制服着てる自分見るとあの頃の気持ちも一緒になって思い出しちまってさ。あー、そういやめっちゃ好きだったなーって」

卒アルを閉じて、真っ先に蘇ってきた感情が中学時代私に抱いていた好意だなんて。自らの頬が紅潮していくのを感じた。照れているのかもしれない。でも酔いのせいかもしれない。

アルコールがそばにあると便利だ。いつもよりも口が少しばかり軽くなるのも、どこからか込み上げる身体の熱も、全部擦り付けられる。

歯止めが外れていくのも、全部……

「私も好きだったよ。すごく」

少し身を乗り出して、手に持っていた缶チューハイをテーブルに置いた。あの頃の記憶はもう随分と色褪(いろあ)せて、淡い思い出になりつつある。

でも彼と付き合っていた半年は他よりもどこか彩度が濃かった。‪”‬初めて‪”‬ばかりだったからだろうか。濃くて。濃くて。とにかく濃くて。未だ色褪せる気配1つない。

彼と別れた後、もし私が他の誰かと付き合って彼との思い出全て上書きしていたら何が違ったのかもしれない。けど私の人生で‪”‬彼氏‪”‬という存在は陽莉くんただ1人だけ。少しでも、彼との思い出を忘れることなど、難しいのだ。

「だから……告白してくれた時、ほんとに嬉しかった」

告白は彼からだった。すごく計画性があったように思う。朝、登校して下駄箱を見たら【放課後校舎裏来てください】 って書かれた1枚の紙切れが入っていた。差出人は書かれてなかったけど、その丸っこいゴツゴツした字で、分かってしまった。放課後に校舎裏って……ベタだなぁ、と思った。もはや確定演出だった。

いつも詰めが甘くて。少し抜けてる。
きっと将来彼女にプロボーズする時は上手く決まらないんだろう。そんな感じの人だった。

でも一緒に居るとすごく楽しくて。居心地がよくて。アルコールなんてなくてもいつも身体がほわほわしていた気がする。

「あはは、照れるな。この話」

「そっちから振ったんでしょ?」

「まぁ、確かにな」

プシュ、と彼がもうひと缶開ける音が響いた。

「え、もうそれ飲んだの?」

「飲んだ」

「はや」

彼が新たに口をつけたのは、さっきとは違うメーカーのやつだった。さっき‪一緒に”‬はじめて‪”‬を共有したやつじゃなくて、私が知らないちょっとアルコール濃度が高い大人なやつ。なんだか置いてかれたみたいで少しだけ寂しい気持ちが泳ぐ。

彼の喉仏が上下に動くのをボー、と見ていた。昔から子供っぽいな、って感じるところはいっぱいあったけど、そのでっぱった喉仏を見るとちゃんと男の子なんだな、っていつも感じていた。

‪”‬昔‪”‬が色鮮やかに小さなアパートの一室に蘇っていく。当時彼が隣にいた私の不慣れな恋心も、視線の動かし方も。何もかも。そんな自分に歯止めをかけたくて何となく部屋の中を見回した。テレビ。ソファ。マット。モノトーンで統一された部屋はまさに必要最低限って感じだ。

「何ジロジロ見てんだよ、人の部屋を」

「はぁ? ジロジロなんて見てないし」

意地悪そうに笑みを浮かべる彼に少しだけムキになって返した。彼の前だといつも無性に照れくさくって、どうしてかムキになっちゃう自分も健在だった。

パチ……と。

直後。なんの前触れもなく彼と目が合う。

「な、なに??」

おそるおそる尋ねると彼はゆっくりと口を開いた。

「なんか、懐かしいなって。この感じも」

「……」

2人の距離は互いの肩幅ほど。少し腰を浮かせば簡単に彼とキスが出来てしまう。

って、私何考えて​────

その時だった。
唇に柔らかくて暖かな感覚が走る。突然の出来事に私の身体はピクリとも動かなくなった。硬直は続く。

何年ぶりだろう。泣きたくなるほど懐かしくてあまじょっぱい。青春ど真ん中にいたあの頃の自分が静かに宿っていく。

やがてゆっくりと唇が離されて、彼は照れたように笑みを浮かべた後、言った。

「流石に歯は当たんねぇな」と。

「ふふっ、流石に」

きっと今私達は同じ出来事に思いを馳せていた。


​────付き合って1ヶ月。

あの日は朝から遊園地デートに行っていた。夕日が登り始め、辺りがオレンジ色に染まりかけていく最中で乗った観覧車。あの時もすごくベタな展開だった。進行方向に横並びに座って。観覧車が頂上にたどり着いた時。どちらからともなく唇を合わせたんだ​───────…

無論互いに人生で初めてのキスだった為、不慣れだった。ふに、と唇に柔らかな感触があったかと思いきやすぐにコツ、と歯がぶつかった。そのおかげでいい雰囲気は台無し。「下手くそ過ぎない?」ってお互いを(ののし)りあってお腹を抱えて笑ったっけ。

元彼と初キスの話題でまた笑い合えるなんて思ってもみなかった。大半の元カップルはそうそう出来ない話だろう。

……きっと酔いのせい。

今のキスも。こんな話題で盛り上がれるのも。
酔いのせいに決まってる。自分に言い聞かせるように心の中で何度もそれを反芻した。

「なぁ、彩月…」

後頭部に添えられた手にグイッ、と力がこもる。そのままいとも簡単に引き寄せられて、また唇にさっきと同じ感覚が走る。操られるように何度も角度を変えて。触れて。彼の手が私の胸元に伸びていく。

そして1つ。また1つと上からボタンが外されていく。私達もう大人だし。「ちょっとうち寄ってかない?」って言われた時から少し覚悟はしてた。

大人は時々…、アルコールやその場のノリ、勢いに呑まれて、たかが外れることがある。私達も例外ではなかったみたい。身体がゆっくりとソファに押し倒されていく。でも私は​───────…

「…ダメだよ」

顔を背ける。たまとま視界に入ったテレビ画面に反射する私達を見つめながら言った。彼の身体を押しのけて、ソファから起き上がる。

多分……

1秒でも長く私の‪”‬はじめて‪”‬が詰まった‪”‬彼の隣‪”‬に居座っていたかった。その延長線上で、あともう少しその場のノリに身を任せてしまえば、私達はきっと始まっていたと思う。

私は、お酒は弱い方だけどこのくらいの制御は出来る。嫌な大人になりたくはなかった。

「私、帰るね」

今ならきっと上手いこと引き返せる気がした。

「バイバイ。陽莉くん」

相変わらずキミはいつもどこか抜けてるね。
詰めが甘いっていうか。なんていうか。

……まぁ、そんな所も好きだったんだけどさ。

「お幸せに」


女の子家に招くなら、その気なら……。

ちゃんと隠してよ。

洗面所に置いてある2つ分の歯ブラシも。
台所に置いてあるペアのマグカップも。

ちゃんと……私の目の届かない所に置いていて欲しかった。

ガチャ、と彼の家の鍵を開けて外へ出る。引き止められることはなかった。きっと彼も私と同じことを考えてた気がする。

‪”‬ 今 な ら ま だ 引 き 返 せ る ‪”‬

と。

まだ唇に暖かな感覚が鮮明に残っていた。

乱暴に。乱雑に。唇に手の甲を押し当てながら、アパートの階段を駆け下りる。視界が歪んでて、ひどくぼやけてたから手探りで手すりに掴まって下まで降りた。

ストン、と地面に足が着地した時。心の中にむなしさが()(すさ)んだ。

何……ちょっと期待したんだろ。私…

唇の隙間をぬって、しょっぱいものが口の中に入り込んでくる。いつの間にか頬がびちゃびちゃだ。

「……もういい大人なんだし、考え無しに行動するのやめなよ」

不貞腐(ふてくさ)れたように地面を睨みながら1人ポツリ、と呟いた。その言葉をぶつけたい相手は今ここにいない。跳ね返るようにして、その言葉は少し遅れて私自身に降りかかる。

私もか。

乾いた笑みが落ちた。

家上がってすぐ分かってたのにね。


ねぇ…

陽莉くん。

私がポテトチップスにハマってたことも。

本が好きだったことも。

なんでそんなよく覚えてるの……?

中学時代の元カノのことなんか、綺麗さっぱり早く忘れてよ。

「お幸せに」と言えただけ、誰か褒めて欲しい。

家に帰ろう。

別れてどれだけ時間が経っても。
‪”‬初恋の人”‬ってなかなか忘れられないみたいだ。

少し甘くて切ない。
そんな夜から逃げるようにして、私は馬鹿みたいに眩しいライトが灯る電車に乗り込んだ。


涙がポロポロ溢れるのも。

決して彼に未練があるとかそんなんじゃない。


きっと全部、酔いのせい。


【終】