あなたが地獄で待っている。
「魔王様。クルモア領の殲滅が終わったそうです」
「そうか」
「相変わらず淡白ですわね」
美しく微笑んだ側近の女魔族に、俺は鼻を鳴らした。
人間を殺すことになんの感慨もない。
人間を滅ぼし世界を魔族のものにする、というのが魔王である俺に与えられた役割だ。
そして最終的には勇者に殺される。
それが筋書きだ。実に馬鹿馬鹿しい。
書類作業のために持っていたペンを机に放って、腰掛けていた椅子の背に凭れる。魔王専用の執務室にある椅子は大層丈夫な作りで、俺がどれだけ体重をかけても歪むこともない。
「魔王様がこの世界に召喚されてから、人間の領土への侵略は驚異的なスピードで進んでいます。さすがの手腕ですわ」
「お前達がグズだったんだろう」
「まあ、ひどい」
大して思ってもいなさそうな声色で、くすくすと肩を揺らす。
側近であるリリアは人型の魔族で、見た目には人間とそう変わらないように見える。唯一身体的な特徴は、耳の先が尖っているくらいか。艷やかな赤い髪を後ろで纏め、豊満な体には露出度の高い黒のドレスを纏っていた。蠱惑的な唇には真っ赤なルージュが引かれていて、大層美しい。
リリアに限らず人型の魔族は何故か皆美形ばかりで、長である俺の容姿が一番劣っている。これは卑下ではなく、単なる事実だ。
何故なら俺は、ただの人間だから。
リリアが言った通り、俺はこの世界に召喚された。令和の日本から。
日本で死んだ俺は、気がついたらこの魔王城にいた。
わけがわからない俺に、リリアが説明した。ここは魔王城で、俺は魔王になったのだと。
この世界での魔王とは、よその世界から召喚されるものらしい。その方が、強い力を持つのだと。
魔王として呼ばれるのは、向こうの世界で一度生を終えた者。手段を問わずに目的を果たすだけの冷酷さと残忍さがある者。またそれだけの強い願いがある者。世界を征服した暁には、願いが一つ叶うという。
魔王を倒せるのは勇者のみ。勇者の聖剣で貫かれない限り、煮ても焼いても決して死なないとのことだった。
馬鹿馬鹿しい、と俺は思った。早々に再度死んでやろうと、自分の首を自分でかき切った。
血が吹き出して、一瞬だけ目が眩んだが、それだけだった。血の流れはすぐに止まり、溢れ出した血液は体内に戻り、俺の頭は何事もなかったかのように首の上に収まった。
何度やっても再生する体に、本当に死ねないのだということを思い知った。
もしかしたらここは地獄で、俺は罰を与えられているのかもしれないと思った。
違うということはすぐにわかった。俺が死のうとさえしなければ、他の魔族達は皆俺を敬うし、女達はいくらでもちやほやしてくれるし、金も物も思いのままだった。こんな高待遇な地獄があるか。
そのことに、俺は心底絶望した。
俺は、地獄に落ちたかったのだ。
だから自殺した。色んな宗教で、自殺をすると地獄に落ちるというから。
そんなことをしなくても、俺は地獄行きになるだけのことをしてきたと思うが。
俺はヤクザの下っ端だった。
血と暴力の毎日で、誰かを殴ることも、殴られることもない日など一日もなかった。
盗みもクスリもやった。女も子どももそれ以外も売った。ただ、殺しはやったことがなかった。
そんな俺を半人前だと、あの女は笑った。
あの女は頭の情婦だった。
艷やかな黒髪に、雪のように白い肌、真っ赤な唇は血の色のようだった。どれほどの女の生き血を啜れば、あれほど美しくいられたのか。
実際何人か殺していたんじゃないかと思う。直接自分の手は下していないかもしれないが。
気まぐれに若衆に手を出しては、悋気を起こした頭が見せしめに殺すのを笑って見ていた。
俺もその内の一人でしかなかったように思う。
しかしあの毒婦のような女が、いやに甘えた声で「あんただけは違うのよ」といって細い腕を回してくると、どうしてだかこんな女が頼れるのは自分くらいなのだろうという優越感とともに愛しさを感じた。
いつか殺されるかもしれないと思いながら、それでも俺はあの女と関係を持つのをやめられなかった。
それどころか、殺されてもいいとすら思っていた。
俺達は、どうせ同じ所に落ちるから。
頭が老いた女を手元に置いておくわけがない。美しい盛りを過ぎたら、あれもまたクスリ漬けにでもされて、下げ渡されてマワされた挙句に殺されるだろう。
クスリ漬けにするのは、何も嫌がらせではない。情婦は多かれ少なかれ情報を握っているから、思考を破壊しておく必要がある。
それに、何もわからずに幸せな夢を見たまま死ねた方が、女にとっても幸福なことだ。どれほど乱暴に扱われても、愛しい男に抱かれる幻を見ながら死んでいけるなら、極道に関わった者としてはマシな方だ。
女と違って、俺はきっとろくな死に方をしない。長く生きられないだろうとも思っていた。
だから俺は密かに、先に死んだら女を待っていてやろうなどと思っていた。
頭から捨てられ、組の者達にゴミのように扱われて、ぼろぼろになったあの女を、今度は俺が笑ってやろうと。
笑って、お前のような女には俺程度が似合いだと。
そう言ったら、あの女はどんな顔をするのか。それを考えると、楽しさすら覚えていた。
しかし先に死んだのは、女の方だった。
死因は実に馬鹿馬鹿しかった。背中から刺されたのでも、組の抗争でもなんでもない。ただの交通事故だ。
俺は別の車に乗っていたから、頭とあの女が乗っていた車がひっくり返るのを見ていた。
現場は騒然となり、慌ただしく動き回る他の組員に目もくれず、俺は女に駆け寄った。
女は辛うじて意識があったが、もう声を発することも難しい状態だった。
誰に聞かれるかもわからないのに、俺は女に向けて最期の言葉を叫ぼうとした。
その瞬間、女の唇が震えたのを見て、俺は動きを止めた。何一つ見逃さないように、聞き逃さないように、瞬きも呼吸も止めて集中した。
――地獄で、待ってる。
声にならない声で囁いて、女はいつものように笑った。こんな時でさえ、女の笑みは美しかった。
血と泥に塗れ、半分潰れたような状態でも美しくいられる化け物。きっと地獄の責め苦を受けても、美しく笑って見せるに違いない。
そうだろうとも。この女は必ず地獄に落ちる。それだけのことをしてきた。
そして俺も地獄に落ちる。
あなたと同じ所に。
いつかなど待ってはいられない。
俺はいつまででもあの女を待っている心積もりだったが、あの心変わりしやすい女が律儀にいつまでも三途の川の畔で石でも積んでいるとは思えない。
きっと地獄の鬼でさえあっという間に誑かし、他人の六文銭でも奪っていることだろう。
あの女の気持ちが変わってしまう前に、俺は地獄に行かねばならなかった。
だから俺は自殺した。過去の罪と自刃の罪で、すぐにでも地獄に行けると思った。
だというのに、死んだはずの俺が目覚めたのは、気が狂ったとしか思えない異世界とやらだった。
死ぬこともできない俺は、当初リリアに当たり散らした。理由は単純だ。俺に魔王になれと言ってきたのが、この世界の説明をしたのが、リリアだったから。矛先を向けやすかった。
彼女は俺の側近であり、世話係でもあるという。だったら下の世話もしろと、俺はリリアを乱暴に扱った。
目障りな赤い髪を引っ掴んで無理やりモノを咥えさせた時は食い千切られても構わないというつもりだったのに、彼女は恍惚とした顔で舌を伸ばした。
ぞっとした。
真っ赤なルージュを引かれた唇が弧を描くと、何故だかあの女が重なった。
あの女はこんな風に俺に服従したりしない。そうは思うのに、リリアを支配しているのは間違いなく俺のはずなのに、まるで手玉に取られているような奇妙な感覚があった。
その感覚が不快ではないことが、更に俺を苛立たせた。
何をしてもしなくても、俺が魔王であり、勇者が俺を殺しに来ることは変わらない。
それがわかった俺は、魔王らしく悪逆の限りを尽くすことにした。
元々極道者だ、今更痛む良心もない。罪を重ねれば重ねるほど、地獄への道も近くなる気がした。
魔族の行う侵略行為は、国家的な思惑があるわけではない。大義名分のある戦争でもない。ただ、人間が目障りだから排除する。本能的な行動に近い。各々が勝手気ままに振る舞い統率が取れなくなると、集団行動に長けた人間の方が有利になるため、一応魔王を頂点とした【魔王軍】という組織の体裁があるだけだった。
魔族の間では、力の強さが全て。単純な武力なら、魔王である俺が一番強い。だから魔族は俺に従う。けれど別に力にものを言わせて恐怖で従わせているわけではない、それなりに人望はある。魔族の欲求を抑圧せず、自由にさせているからだ。
俺は侵略のための指示はしたが、人間に対する行動に制限はかけなかった。国家間の戦争であれば決して許されない凄惨な殺戮も拷問も略奪も強姦も、全て許容した。おかげで人間側の魔族に対する憎悪は凄まじい。その分、勇者に対する期待も高まっていく。早くあの極悪非道な魔王を屠れ、と。
それでいい。早く殺しに来い。
俺は一刻も早く、あの女の所に行かねばならない。
大勢殺した俺を、今度は一人前だと言って笑ってくれるだろうか。それとも。
「――魔王様?」
耳元で聞こえた声に、思考の世界に飛んでいた意識が引き戻される。
いつの間にかリリアが肩に手を置いて、至近距離で微笑んでいた。
「どうなさいましたか? ぼんやりされて」
「別に」
「他の女のことを考えていたでしょう」
甘ったるい声色に、俺は眉を顰めた。他の、女。
「調子に乗るなよ」
リリアの腕を乱暴に掴んで、執務机の上に押し倒す。
机の上の物をどけなかったので、リリアの背中の下で書類がぐしゃぐしゃに潰れた。放り出したペンも刺さったかもしれない。
けれど俺は一切の気遣いを見せず、リリアの腕を机に縫い留めて、冷たい目で見下ろした。
「俺はお前ら魔族の女なんか、女だと思っちゃいない」
「まあ、ひどい。さんざん女として使っておいて」
「使える形はしているからな。道具は使うものだろう」
跡が残るほど強い力で、リリアの細腕を握る。
だというのに、リリアは痛みに呻くことも逃れようとすることもせず、俺から視線を逸らさずに微笑んでいる。
ちりちりと、胸の奥が疼く。まただ。なんなんだこいつは。魔族の女ってのはイカれてるのか。
舌打ちをして、リリアの服を裂く。別に拘束なんかしなくとも、こいつは逃げたりしない。白い足を持ち上げて、ろくに前戯もせずに、ただ自分の欲を吐き出すためだけの乱暴な行為を無理やり進める。
一方的に犯されているというのに、リリアは甘い声で喘いだ。被虐趣味なのだろうか。
こうしたことは初めてじゃない。今まで何度だってひどい扱いをしてきているのに、リリアは一度だって嫌がったことも泣いたこともない。普通の女ならとっくに精神が壊れているだろう。
「変態なんだな、お前」
蔑むように吐き捨てた俺に、リリアは濡れて光る真っ赤な唇を、にぃと吊り上げた。
「魔王様は、常にご自分が女を抱いているとお思いなのでしょう」
繋がったまま俺の首に腕を回して、耳元に唇を寄せる。
「女も、男を抱けるのですよ。貴方が気づいていらっしゃらないだけ」
とろりと粘度のある声を耳に流し込んで、そのまま耳朶を食む。
――やめろ。
その口を塞ぎたくて、俺はリリアの唇に噛みついた。
キスと言えるような甘い行為ではない。ただ、もう一言も彼女の言葉を聞きたくなかった。
流し込まれた声が鼓膜にべたべたと貼りついて取れない。
人は、誰かのことを忘れる時、声から忘れていくのだという。
嫌だ。リリアの声が、耳に残るのは。
あの女の声を、忘れてしまう。
あんなにも強烈な女を忘れることなど、決してないだろうと思っていたのに。
リリアを犯す度に、声が、肌が、匂いが、上書きされていくようで。
だったらやめればいい。主導権は全て俺にあり、この行為は俺の方からしなければ成り立たない。
それがわかっていて、どうしてか俺はリリアを犯すことをやめられなかった。
俺にとって女は、あの女だけ。他の全ては代替品。
そのはずだ。そのはずだった。そうでなければならなかった。
忘れたくない。約束した。地獄で再び会うのだと。
そのためだけに魔王だなんて馬鹿馬鹿しい仕事をやってきた。そうでなければ、俺は何のために。
「わたくしは、決して魔王様をお一人にはいたしませんわ」
リリアの声に、はっとした。思わず歯を食いしばった時に、唇を離してしまっていた。
これ以上喋らせてはならない、と思ったが、リリアが次の言葉を紡ぐ方が早かった。
「地獄の底までお供いたします」
蛇のように絡められた腕を、解くことはできなかった。
地獄の底から、白い腕が伸びている。
こちらへおいでと誘っている。
その先に待つのが誰なのか。
俺にはもう、わからなかった。
「魔王様。クルモア領の殲滅が終わったそうです」
「そうか」
「相変わらず淡白ですわね」
美しく微笑んだ側近の女魔族に、俺は鼻を鳴らした。
人間を殺すことになんの感慨もない。
人間を滅ぼし世界を魔族のものにする、というのが魔王である俺に与えられた役割だ。
そして最終的には勇者に殺される。
それが筋書きだ。実に馬鹿馬鹿しい。
書類作業のために持っていたペンを机に放って、腰掛けていた椅子の背に凭れる。魔王専用の執務室にある椅子は大層丈夫な作りで、俺がどれだけ体重をかけても歪むこともない。
「魔王様がこの世界に召喚されてから、人間の領土への侵略は驚異的なスピードで進んでいます。さすがの手腕ですわ」
「お前達がグズだったんだろう」
「まあ、ひどい」
大して思ってもいなさそうな声色で、くすくすと肩を揺らす。
側近であるリリアは人型の魔族で、見た目には人間とそう変わらないように見える。唯一身体的な特徴は、耳の先が尖っているくらいか。艷やかな赤い髪を後ろで纏め、豊満な体には露出度の高い黒のドレスを纏っていた。蠱惑的な唇には真っ赤なルージュが引かれていて、大層美しい。
リリアに限らず人型の魔族は何故か皆美形ばかりで、長である俺の容姿が一番劣っている。これは卑下ではなく、単なる事実だ。
何故なら俺は、ただの人間だから。
リリアが言った通り、俺はこの世界に召喚された。令和の日本から。
日本で死んだ俺は、気がついたらこの魔王城にいた。
わけがわからない俺に、リリアが説明した。ここは魔王城で、俺は魔王になったのだと。
この世界での魔王とは、よその世界から召喚されるものらしい。その方が、強い力を持つのだと。
魔王として呼ばれるのは、向こうの世界で一度生を終えた者。手段を問わずに目的を果たすだけの冷酷さと残忍さがある者。またそれだけの強い願いがある者。世界を征服した暁には、願いが一つ叶うという。
魔王を倒せるのは勇者のみ。勇者の聖剣で貫かれない限り、煮ても焼いても決して死なないとのことだった。
馬鹿馬鹿しい、と俺は思った。早々に再度死んでやろうと、自分の首を自分でかき切った。
血が吹き出して、一瞬だけ目が眩んだが、それだけだった。血の流れはすぐに止まり、溢れ出した血液は体内に戻り、俺の頭は何事もなかったかのように首の上に収まった。
何度やっても再生する体に、本当に死ねないのだということを思い知った。
もしかしたらここは地獄で、俺は罰を与えられているのかもしれないと思った。
違うということはすぐにわかった。俺が死のうとさえしなければ、他の魔族達は皆俺を敬うし、女達はいくらでもちやほやしてくれるし、金も物も思いのままだった。こんな高待遇な地獄があるか。
そのことに、俺は心底絶望した。
俺は、地獄に落ちたかったのだ。
だから自殺した。色んな宗教で、自殺をすると地獄に落ちるというから。
そんなことをしなくても、俺は地獄行きになるだけのことをしてきたと思うが。
俺はヤクザの下っ端だった。
血と暴力の毎日で、誰かを殴ることも、殴られることもない日など一日もなかった。
盗みもクスリもやった。女も子どももそれ以外も売った。ただ、殺しはやったことがなかった。
そんな俺を半人前だと、あの女は笑った。
あの女は頭の情婦だった。
艷やかな黒髪に、雪のように白い肌、真っ赤な唇は血の色のようだった。どれほどの女の生き血を啜れば、あれほど美しくいられたのか。
実際何人か殺していたんじゃないかと思う。直接自分の手は下していないかもしれないが。
気まぐれに若衆に手を出しては、悋気を起こした頭が見せしめに殺すのを笑って見ていた。
俺もその内の一人でしかなかったように思う。
しかしあの毒婦のような女が、いやに甘えた声で「あんただけは違うのよ」といって細い腕を回してくると、どうしてだかこんな女が頼れるのは自分くらいなのだろうという優越感とともに愛しさを感じた。
いつか殺されるかもしれないと思いながら、それでも俺はあの女と関係を持つのをやめられなかった。
それどころか、殺されてもいいとすら思っていた。
俺達は、どうせ同じ所に落ちるから。
頭が老いた女を手元に置いておくわけがない。美しい盛りを過ぎたら、あれもまたクスリ漬けにでもされて、下げ渡されてマワされた挙句に殺されるだろう。
クスリ漬けにするのは、何も嫌がらせではない。情婦は多かれ少なかれ情報を握っているから、思考を破壊しておく必要がある。
それに、何もわからずに幸せな夢を見たまま死ねた方が、女にとっても幸福なことだ。どれほど乱暴に扱われても、愛しい男に抱かれる幻を見ながら死んでいけるなら、極道に関わった者としてはマシな方だ。
女と違って、俺はきっとろくな死に方をしない。長く生きられないだろうとも思っていた。
だから俺は密かに、先に死んだら女を待っていてやろうなどと思っていた。
頭から捨てられ、組の者達にゴミのように扱われて、ぼろぼろになったあの女を、今度は俺が笑ってやろうと。
笑って、お前のような女には俺程度が似合いだと。
そう言ったら、あの女はどんな顔をするのか。それを考えると、楽しさすら覚えていた。
しかし先に死んだのは、女の方だった。
死因は実に馬鹿馬鹿しかった。背中から刺されたのでも、組の抗争でもなんでもない。ただの交通事故だ。
俺は別の車に乗っていたから、頭とあの女が乗っていた車がひっくり返るのを見ていた。
現場は騒然となり、慌ただしく動き回る他の組員に目もくれず、俺は女に駆け寄った。
女は辛うじて意識があったが、もう声を発することも難しい状態だった。
誰に聞かれるかもわからないのに、俺は女に向けて最期の言葉を叫ぼうとした。
その瞬間、女の唇が震えたのを見て、俺は動きを止めた。何一つ見逃さないように、聞き逃さないように、瞬きも呼吸も止めて集中した。
――地獄で、待ってる。
声にならない声で囁いて、女はいつものように笑った。こんな時でさえ、女の笑みは美しかった。
血と泥に塗れ、半分潰れたような状態でも美しくいられる化け物。きっと地獄の責め苦を受けても、美しく笑って見せるに違いない。
そうだろうとも。この女は必ず地獄に落ちる。それだけのことをしてきた。
そして俺も地獄に落ちる。
あなたと同じ所に。
いつかなど待ってはいられない。
俺はいつまででもあの女を待っている心積もりだったが、あの心変わりしやすい女が律儀にいつまでも三途の川の畔で石でも積んでいるとは思えない。
きっと地獄の鬼でさえあっという間に誑かし、他人の六文銭でも奪っていることだろう。
あの女の気持ちが変わってしまう前に、俺は地獄に行かねばならなかった。
だから俺は自殺した。過去の罪と自刃の罪で、すぐにでも地獄に行けると思った。
だというのに、死んだはずの俺が目覚めたのは、気が狂ったとしか思えない異世界とやらだった。
死ぬこともできない俺は、当初リリアに当たり散らした。理由は単純だ。俺に魔王になれと言ってきたのが、この世界の説明をしたのが、リリアだったから。矛先を向けやすかった。
彼女は俺の側近であり、世話係でもあるという。だったら下の世話もしろと、俺はリリアを乱暴に扱った。
目障りな赤い髪を引っ掴んで無理やりモノを咥えさせた時は食い千切られても構わないというつもりだったのに、彼女は恍惚とした顔で舌を伸ばした。
ぞっとした。
真っ赤なルージュを引かれた唇が弧を描くと、何故だかあの女が重なった。
あの女はこんな風に俺に服従したりしない。そうは思うのに、リリアを支配しているのは間違いなく俺のはずなのに、まるで手玉に取られているような奇妙な感覚があった。
その感覚が不快ではないことが、更に俺を苛立たせた。
何をしてもしなくても、俺が魔王であり、勇者が俺を殺しに来ることは変わらない。
それがわかった俺は、魔王らしく悪逆の限りを尽くすことにした。
元々極道者だ、今更痛む良心もない。罪を重ねれば重ねるほど、地獄への道も近くなる気がした。
魔族の行う侵略行為は、国家的な思惑があるわけではない。大義名分のある戦争でもない。ただ、人間が目障りだから排除する。本能的な行動に近い。各々が勝手気ままに振る舞い統率が取れなくなると、集団行動に長けた人間の方が有利になるため、一応魔王を頂点とした【魔王軍】という組織の体裁があるだけだった。
魔族の間では、力の強さが全て。単純な武力なら、魔王である俺が一番強い。だから魔族は俺に従う。けれど別に力にものを言わせて恐怖で従わせているわけではない、それなりに人望はある。魔族の欲求を抑圧せず、自由にさせているからだ。
俺は侵略のための指示はしたが、人間に対する行動に制限はかけなかった。国家間の戦争であれば決して許されない凄惨な殺戮も拷問も略奪も強姦も、全て許容した。おかげで人間側の魔族に対する憎悪は凄まじい。その分、勇者に対する期待も高まっていく。早くあの極悪非道な魔王を屠れ、と。
それでいい。早く殺しに来い。
俺は一刻も早く、あの女の所に行かねばならない。
大勢殺した俺を、今度は一人前だと言って笑ってくれるだろうか。それとも。
「――魔王様?」
耳元で聞こえた声に、思考の世界に飛んでいた意識が引き戻される。
いつの間にかリリアが肩に手を置いて、至近距離で微笑んでいた。
「どうなさいましたか? ぼんやりされて」
「別に」
「他の女のことを考えていたでしょう」
甘ったるい声色に、俺は眉を顰めた。他の、女。
「調子に乗るなよ」
リリアの腕を乱暴に掴んで、執務机の上に押し倒す。
机の上の物をどけなかったので、リリアの背中の下で書類がぐしゃぐしゃに潰れた。放り出したペンも刺さったかもしれない。
けれど俺は一切の気遣いを見せず、リリアの腕を机に縫い留めて、冷たい目で見下ろした。
「俺はお前ら魔族の女なんか、女だと思っちゃいない」
「まあ、ひどい。さんざん女として使っておいて」
「使える形はしているからな。道具は使うものだろう」
跡が残るほど強い力で、リリアの細腕を握る。
だというのに、リリアは痛みに呻くことも逃れようとすることもせず、俺から視線を逸らさずに微笑んでいる。
ちりちりと、胸の奥が疼く。まただ。なんなんだこいつは。魔族の女ってのはイカれてるのか。
舌打ちをして、リリアの服を裂く。別に拘束なんかしなくとも、こいつは逃げたりしない。白い足を持ち上げて、ろくに前戯もせずに、ただ自分の欲を吐き出すためだけの乱暴な行為を無理やり進める。
一方的に犯されているというのに、リリアは甘い声で喘いだ。被虐趣味なのだろうか。
こうしたことは初めてじゃない。今まで何度だってひどい扱いをしてきているのに、リリアは一度だって嫌がったことも泣いたこともない。普通の女ならとっくに精神が壊れているだろう。
「変態なんだな、お前」
蔑むように吐き捨てた俺に、リリアは濡れて光る真っ赤な唇を、にぃと吊り上げた。
「魔王様は、常にご自分が女を抱いているとお思いなのでしょう」
繋がったまま俺の首に腕を回して、耳元に唇を寄せる。
「女も、男を抱けるのですよ。貴方が気づいていらっしゃらないだけ」
とろりと粘度のある声を耳に流し込んで、そのまま耳朶を食む。
――やめろ。
その口を塞ぎたくて、俺はリリアの唇に噛みついた。
キスと言えるような甘い行為ではない。ただ、もう一言も彼女の言葉を聞きたくなかった。
流し込まれた声が鼓膜にべたべたと貼りついて取れない。
人は、誰かのことを忘れる時、声から忘れていくのだという。
嫌だ。リリアの声が、耳に残るのは。
あの女の声を、忘れてしまう。
あんなにも強烈な女を忘れることなど、決してないだろうと思っていたのに。
リリアを犯す度に、声が、肌が、匂いが、上書きされていくようで。
だったらやめればいい。主導権は全て俺にあり、この行為は俺の方からしなければ成り立たない。
それがわかっていて、どうしてか俺はリリアを犯すことをやめられなかった。
俺にとって女は、あの女だけ。他の全ては代替品。
そのはずだ。そのはずだった。そうでなければならなかった。
忘れたくない。約束した。地獄で再び会うのだと。
そのためだけに魔王だなんて馬鹿馬鹿しい仕事をやってきた。そうでなければ、俺は何のために。
「わたくしは、決して魔王様をお一人にはいたしませんわ」
リリアの声に、はっとした。思わず歯を食いしばった時に、唇を離してしまっていた。
これ以上喋らせてはならない、と思ったが、リリアが次の言葉を紡ぐ方が早かった。
「地獄の底までお供いたします」
蛇のように絡められた腕を、解くことはできなかった。
地獄の底から、白い腕が伸びている。
こちらへおいでと誘っている。
その先に待つのが誰なのか。
俺にはもう、わからなかった。