何も分からない。笑顔になるきっかけも、怒っちゃうきっかけも。
 みんなは当たり前にあるものが私には何一つ、存在しなかった。

       * * *

 だから、みんなに合わせたんだ。でも、その度に自分が醜く思えてきちゃって。私って、ほんとにみんなと同じ人間なのかなって、思うようになった。
 ……そうとなれば、無理にでも何かを求めちゃうのは─────普通なことでしょ……ッ?

「おい、黒川、ちょっと待てって!!」
 そう言って、追いかけてくる朝陽くんの声が背中越しに聞こえる。
 なんで、どうして朝陽くんがいるの??あぁ、そうか。あのLINE、朝陽くんに繋がったんだ。
 助けに来てくれたんだね。
 ……でも、なんでだろう。全部が全部、真っ黒に見えて、胸の中がぐるぐるして仕方がない。
「────おい……ッ!!」
 チャプン、と水の揺れる音が聞こえる。
 蒸し暑い空気に触れていた足は、次第に冷えていく。
 靴に入り込む海水が気持ち悪い。
 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……ッ。
 次第にそれは胃液として喉元まで上がってきた。
「──────真夜!!!!」
「ッ、」
 その瞬間、急に腰辺りが暖かくなった。
 冷えた下半身とは裏腹に、背中には何かの温もりを感じた。
「しっかりしろ、真夜ッ……。」
 耳の後ろで息を荒げる朝陽くんの声が聞こえる。
「ごめ、なさッ……。違うの、知りたくて……。自分がちゃんとした人間だって知りたくて……ッ。ごめんなさい、ごめんなさい……。気持ち悪い、。だって、あの人は私の求めてることを見つけてくれるって言ってくれて……、でもなんだか気持ち悪くなって……。あぁ、ごめんなさい、私のために相談に乗ってくれるって言ったのにごめんなさい……。朝陽くんを巻き込んでごめんなさい……。……違う、こんなの私じゃないッ……、私はどこ……ッ。ねぇ……、気持ち悪い、穴の空いた心がドロドロ溶けていくみたい……。痛い、苦しい……、寂しいよぉ……。」
 私は、震える声を振り絞って謝罪した。次第に涙がこみ上げ、しゃくりを上げる。
「真夜、大丈夫、大丈夫だから。息吸って、深呼吸して。ちゃんと呼吸をして。」
「朝陽、くん……。」 
 その時、私は朝陽くんに振り返った。腰に伝わる温かさは、私が今、朝陽くんの腕に包まれているからだとわかった。
「なにがあったんだよ、ちゃんと説明しろって。」
 汗をかいて湿気た肌が、服越しに伝わった。
 あぁ、なにか言わないと……。
「……今日急に告白されて、返事は待ってて言ったのに、さっきの人はしつこいくらい付き纏って来るから……。相談に乗らせてくれたらもう辞める、って言ってくれたから……。」
「は、だからお前はこんな時間にアイツと家を抜け出したって?」
 張り上げられる声に、私は言葉が出なかった。
「ばか言ってんじゃねぇぞお前。お前、男はめんどくせぇ生き物つったの誰だよ、わかってたんじゃねぇのかよ。」
「だって、周りにはみんながいて……、視線が鋭くて……」
 そうだ、あの時。あの期待してニヤけた目。あれが光を失った時。……私は生きた心地がしなくなる。
「マジ意味わかんねぇ……。好きじゃねぇなら断れよ、警察呼べよ。また前みたいに周りがどうこうとか……、まず、お前はどうなんだよ。それが一番に考えることだろ、普通……ッ。」
「……わかんないよ。」
「は?」
 ぼそっと呟いた言葉は、徐々に膨らんでいって、そして、…────破裂した。
「わかるわけ無いじゃん……ッ!!」
 私は目の前にいる朝陽くんの顔をキッっと睨みつけた。
 あぁ、こんなことが言いたいんじゃない。違う。ただ……、もう独りぼっちが嫌なだけで……ッ。
「小さい頃から何も与えられずに育った私に、そんな情があると思う……ッ?私が普通だったら、こんなことにもなってないよ……!!好きって何、わからない。何が安全で、何が見せ掛けの愛情なの?下心って何。普通、人間はそういう生き物でしょ。普通普通普通普通普って言うけど……、私にはそれが一番、わかんないんだよ!!……わからない、どう足掻いたって……。わからない、どう学ぼうとしたって……。わからない、わからないよ……ッ。」
 私はそのまま泣いた。涙が溢れ出してきて止まらない。
 気がつけば潮が引いていて、その場に座り込んでも下半身しか浸からなかった。
「ただただ、自分が醜い人形みたいに思えてきて、みんなと違うことが気持ち悪くて……。見つけようとした……だけなのに……。」
 朝陽くんは、なにも言わず私を見つめていた。
「……朝陽くん、言ってたよね。私はいつもなにかに失望してて、嘘ついてるって。……そうだよ、そうに決まってるじゃん─────。みんなが笑っている時も、私は何が楽しいのか一つも分からなかった。何が面白いのか、分からなかった。でも、分からなくて、周りと違う私が嫌で……。見せかけでも私は普通の女の子を演じて、そしたらみんながよってきてくれて……。結果オーライだった。……なのに、なのに……。」
「うん。」
「みんな、私と仲良くしてくれるのに……ずっと、ずっと私……、独りぼっちだった……。みんなは、天真爛漫な私しか知らなくて、そんな私だからこそ、一緒にいてくれて……。じゃあ、それじゃない私はなんなの……?本当の私は愛してくれないの……?あんなに"スキスキ"言っといてさ、そんな軽々しく言うなんて……ッ
──────ただの呪いだよッ!!」
 私は叫んだ。今まで奥深くに閉じ込めていた感情が噴き出した。
「小さい時から、虐待されて……、親は離婚して精神病んで、まともにご飯は食べれなかった。……母親が夜中に家を抜け出して、自殺行為を図ろうとしたことだって何度もあった。その度に、私は独りで耐えてきた、余裕も無いのに、親に寄り添う優しい娘としてッ!……でも、そうやって耐えてると、もう何が何だか分からなくなるの……ッ。ほんとの"好き"って何……?だからって、いつも中立に立ってたら"性格悪い"って嫌われちゃって……、なら、私はどうすればいいの?!分からないんだもの、しょうがないじゃない!!そういう時は嘘でも"好き"だと言えばいいの?!それが普通なの……?でも、意味の無い"好き"は呪いなんだって……ッ!!ねぇ、どうして?分からない……、ねぇ、ねぇ……ッ!!!」
 あたりが真っ暗になって、頭が痛い。鈍器で殴られたような頭痛が走る。
「真夜────!!わかった、わかったから、。」
「ッー、ッー……。」
「真夜、落ち着いて、誰もお前を責めたりしないから、。落ち着くんだ、よく聞いてくれ。」
 そう言って、朝陽くんはもう一度私の肩を抱き寄せた。
「お前はお前だ。どんなに自分を偽ったって、どんなに自分をさらけ出したって、お前はお前なんだ。誰も知ろうとしないお前も、お前自身しか知らないお前なんだ。唯一知っている自分が、寄り添わなくてどうするんだ。顔を上げろ、ちゃんと息を吸って、俺をよく見て。」 
「ッ……。」
 朝陽くんは私の肩を持って、まるで小さい子を諭すように言葉を並べた。
 その言葉は、目の前の海水のように透き通っていて、私の頭に直接響いているようだった。
 
『"好き"なんか必要ない。
 無理やり"好き"を見つけようと抗って、
 自分自身を削るような真似、絶対にするな。

"好き"がわからないお前も、全部お前なんだ。"好き"なんか、簡単に見つかるわけない。

 "好き"を持ってるやつは、幸せ者だ。家族愛を知ってる奴は幸せ者だ。
 ……けど、何も持っていないお前も幸せになる権利はあるんだよ。
 全てを全て塞ぎ込まないで、ちゃんと前を見るんだ。

"好き"な自分を見つけるために。』
 
「朝陽くん……。ッ、優しい言葉も全部、嘘にしか聞こえないの……、もう、私はどうしようもない腐った人間なんだよ……。」
「なわけねぇだろバカ。青空の下に居るようで、本当は独り灯りのない暗闇で彷徨いやがって、頼れバカ。……何が嫌いだ、何が上から目線だ。全部が全部、お前自身が避けてただけじゃねぇかッ。現実から目を背けて……、"好き"が見つかるわけねぇだろ──────ッ!!」
「ッ、……。」


 "独りが嫌なら、側にいてやる。
    お前が嫌がるほど、世話を焼いてやる。
         暗闇が嫌なら、陽を灯してやる。
  ……もう、独りで塞ぎ込むな。"
 
 
「っ……、」
 その瞬間、朝陽くんの顔がオレンジ色に照り始めた。地平線の続く先には、朝日が登っていた。
 目の前が涙でゴツゴツしてて、よく見えない。
 ……なのに、目の前のアサヒは、まるで宝石のようで、いつもよりも鮮明に輝いていて。

 私の世界は色彩を取り戻した。
 心の中に咲いていた孤独な暗闇。
 真ん中がポッカリと空いた、真夜中みたいな暗闇は、一つ。

小さな陽が灯るんだ。
 
                                無名の真夜中に陽は灯る。[完]