小さな時から面食いで、二重まぶたのぱっちりした、彫りの深い男が好きだった。

 だから、親友の千歳(ちとせ)から佐藤くんの事が気になると聞かされた時も、いったい彼のどこがいいのか不思議でたまらなかった。

 佐藤くんは大学の同じ学部の男の子。

 私の入学した英文学部はほとんどが女子で男子は四人だけだったから、佐藤くんを含む四人の男子は何となく浮いた存在だった。

紗枝(さえ)は、高橋くんが好みでしょ?」

 大学一年の春。

 男子四人組を何となく見ている私に、高校からの友達の千歳(ちとせ)が耳打ちした。

 千歳の言う通り、四人の中で私が一番イケメンだと感じたのは高橋くんだった。

 背が高くて色黒で健康的。ぱっちり二重で少しやんちゃそうな感じ。

「あの中ではね」

 私が答えると、千歳は遠くを見つめた。

「私は佐藤くん。タイプなんだぁ」

 千歳の形の良い横顔、透き通ったアッシュブラウンの髪が微かに揺れる。

 その声色が上ずっていて、目が熱を帯びたように潤んでいて、あ、本気なんだと一瞬で分かった。

 私はなんとなく気恥ずかしくなって千歳から目をそらした。

 そして佐藤くんの顔をまじまじと見る。

 色白で黒髪で一重で眼鏡をかけていて――良くもなく悪くもなく普通の中の普通って感じ。

 彼のどこに千歳のような可愛い女の子が惹かれる要素があるのかさっぱり分からなかった。

「あ、そうだ。今日の飲み会、協力しよっか?」

 私が言うと、千歳の顔がぱあっと輝いた。

「ありがとう。私も紗枝と高橋くんが仲良くなれるように協力するね」

「う、うん」

 別にそこまで高橋くんを狙ってるわけじゃないんだけど……。

 まあ、そういうことにしておくか。

 私は高橋くん、千歳は佐藤くん。

 役割分担が自然と決まり、私たちは飲み会へと向かった。

 予定より少し遅れて飲み会の会場に着く。

 大学から徒歩十分の薄暗い安居酒屋は、サークルやゼミの集まりの大学生たちで埋め尽くされていた。

「もう始まってるかな?」

 居酒屋はかなり騒がしくて、自分たちの会話も聞こえないくらい。

 私は人混みが苦手だ。

 人の多い場所は、人の声や光や匂い、それに色々な感情が交錯して、その処理に脳が追い付かない。

 私たちは押し寄せる熱気にフラフラになりながら、一番奥の席へと向かった。

「遅かったじゃん、こっちこっち」
「席順はくじ引きだよー」

 見慣れた友人が手を振る。

 私たちの思惑とは裏腹に、誰が用意したのか、席順はくじ引きと決められているらしい。

 チラリと座席を見ると、佐藤くんの隣も高橋くんの隣も空いていた。

 どうやらまだチャンスはあるみたいだった。

 私が、席順なんて気にしてないですよ、という顔で素早くくじを引くと、「8」という数字が書かれていた。

「8番ってどこ?」

 キョロキョロと辺りを見回していると、佐藤くんがテーブルに頬杖をついたまま小さく手を挙げた。

「ここだよ」

 白くて長い指で、テーブルに貼られた「8」の数字をトントンと叩く佐藤くん。

「ここ。おいで」

 少し微笑みながら私を呼ぶ佐藤くん。

「……ありがと」

 私は何となく気まずい思いになりながらも、佐藤くんの隣に座った。

 私たちの思惑とは逆に、なぜか私が佐藤くんの隣で、千歳が高橋くんの隣だった。

「こんにちは」

 頭を下げる佐藤くん。すでにほろ酔いなのか、目の下が薄い赤に染まっている。

「こんばんは、じゃなくて?」

 私が言うと、メガネの奥の目が、三日月みたいに細くなる。

「はは、そーだね」

 ふにゃっとした顔で言う佐藤くん。

 いつもの真面目そうなイメージとはまるで違うなと思った。

「佐藤くん、酔ってるでしょ」

「まだ一杯しか飲んでないんだけどなぁ」
 
 不思議そうに首をひねった後、佐藤くんがメニューを取ってくれた。
  
「何か飲む?」

 白いニットのカーディガンから、長くて骨ばった指がのぞいた。

 私は千歳のほうを見た。

 席順に不満かと思いきや、千歳は高橋くんと楽しそうに会話していた。

「千歳は何飲む?」

 身を乗り出して声をかけると、千歳は上機嫌で手を挙げた。

「じゃあ私、紗枝と同じのでいいよ」

 店員さんを捕まえて二人分の注文を済ませたあとで、佐藤くんは少し微笑んで尋ねた。

「千歳さんと仲良いんだ」

「うん、高校の同級生。うちらの通ってた英語科は一クラスしか無かったから、三年間クラス替え無しでずっと同じクラスだったんだ」

「そうなんだ」

 佐藤くんが優しく笑う。

「佐藤くんは、高校の時、英語科だったの?」

「ううん。普通科。だから大学入って女子ばっかでびっくりした」

 弱ったという顔をする佐藤くん。

「あはは、だよねー」

 笑いながら、そんな佐藤くんを、私は少し可愛いと思ってしまった。

「二次会行く人いる?」

 飲み会も終盤。
 誰からでもなく提案され、二次会に行く流れになった。

 正直、明日も講義があるし、私は帰りたかったんだけど、どうやらみんな行く流れのようだった。

 千歳の方を見ると、真っ赤な顔で「さんせーい」と手を挙げていた。

「じゃあ、私も」

 紗枝が高橋くんたちと先へ行ってしまったので、私は慌ててみんなの後を着いていこうとした。

「きゃっ」

 と、急に靴のヒールが側溝の穴にはまって、グラリと体が揺れる。

 転んじゃう。

 ――と思っていると、誰かが私の右腕をぐっとつかんだ。

「大丈夫?」

 低い声が耳元をくすぐる。

「……佐藤くん」

 気がついたら、私は転びそうなところを佐藤くんに体を支えられていた。

 ごく自然に、佐藤くんの手が腰元にまわり、体温が上がる。

「足、もつれちゃった?」

「えっと、穴にヒールが入っちゃって、ちょっとひねったみたい」

 照れ笑いを浮かべながら自然と体を離した私を、佐藤くんは心配そうに見つめた。

「歩ける?」

 私はズキズキと痛む足首を押えた。
 骨は折れてなさそう。捻挫かな。

「ちょっと休んだら歩けると思うけど」

「それじゃ、あそこで休んでく?」

 佐藤くんが指さしたのは、近くの公園のベンチだった。

「うん、ありがと」

 私は佐藤くんの肩を借りながら、公園のベンチにたどり着いた。

 狭い公園の中には、私たちの他には誰もいなかった。

 街頭の光は弱く、辺りをほのかに優しいオレンジに照らしていた。

「はい、どうぞ」

 私が黙ってベンチに座っていると、佐藤くんが自販機で買った暖かいロイヤルミルクティーを差し出してきた。

「寒くなってきたから、暖かいほうが良いかなって思って。紅茶、飲める?」

「うん。ありがとう」

 私と佐藤くん、二人で並んでベンチに腰かける。

「佐藤くん、二次会、先に行ってていいよ」

 私は佐藤くんにそう言ったんだけど、佐藤くんは首を横に振った。

「なんか疲れちゃったから、俺もここで休んでく」

「……そっか」

 佐藤くんに、気を使わせちゃったかな。

 それとも私と同じで、人混みが苦手なタイプなのだろうか。

 私はミルクティーを飲みながら、心地よい温かさと甘さで心と体を潤した。

「そういえば、佐藤くん、高校の時は普通科だって言ってたよね」

 ふと、私は尋ねた。

「うん」

 佐藤くんがうなずく。

「じゃあ何で大学は英文科にしたの?」

 少しの間の後、佐藤くんは少し照れくさそうにはにかんだ。

「翻訳家に、なりたいんだよね」

「えっ、そうなの?」

「うん。本が好きでさ。でも海外の本って、出版されてから日本で翻訳されるまで結構期間があって、もどかしいなって。だったら自分で翻訳しちゃおうかなって思ったんだよね」

「そうなんだ」

 私は手元のミルクティーを見つめた。

 佐藤くんの心の中にある秘密を一つ知れたみたいで嬉しかった。

「……私はね、通訳になりたかったんだ」

 私も思い切って打ち明けてみる。

「テレビで見た、ハリウッドスターとか海外アーティストの横にいる通訳さんが羨ましくて。親とか友達には、就職に有利だから英語の勉強するって言ってるけどね」

「そうなんだ」

「今は、私より英語の上手い人なんてたくさんいるし、そんな簡単になれるわけないってわかるけど、高校の時は本気だったよ」

 高校の時は、私は英語が得意なほうだと思っていた。

 だけど大学に入ると、中学や高校の時から留学してたり、帰国子女だったり、幼稚園のころからインターナショナルスクールに通ってた子なんかがたくさんいた。

 自分よりできる子がたくさんいて、田舎の高校の英語科に通っていただけの自分じゃとても太刀打ちできないと分かってしまった。

 大学から頑張ると言っても、三年になったらもう就活を始めないといけない。

 頑張る時間は思ったより残されていなかった。

 そろそろ現実を見るべきなのかもしれない。

「今からでもなれるよ。勉強するのは何歳からだってできるしね」

 佐藤くんがキラキラとした何の迷いのない目で言う。

「そうかなあ」

「そうだよ。少なくとも俺は諦めてないもん」

 佐藤くんが白い歯を見せて笑う。

 心臓が、とくんと小さな音を立てた。

 不思議だな。

 今日までほとんど話したこともなかったのに、こうして二人並んで話していても全然気まずくない。

 佐藤くんの少しゆっくりで静かな話し方も、手を組んで遠くを見つめる仕草も。

 甘くて暖かい、ミルクティーみたいに心の中に溶けこんでくる。

 全てが心地よくて、まるで生まれてからずっと一緒にいる人みたいだった。

「……そっか」

 なぜだか泣きそうになって、私は空を見上げた。

「わあ、綺麗な星」

 桜の散り終わった春の空には、月は無いけれど、小さな星がいくつか控えめに光っていた。

「本当だ」

 白い息を吐きながら、鼻の頭を赤くした佐藤くんが答える。

 青い夜。春の夜風が冷たい。

 息を吸い込むと、肺の中が冷たくて清涼な空気で満たされた。

「なんだか帰りたくないね」

 佐藤くんが、遠くを見つめながら言った。

 息を飲む。

 佐藤くんの横顔があまりにも綺麗で。

 滑らかな輪郭。ほんのり染まる白い頬。

 少し汗の滴る首筋と襟足。

 胸がどうしようもなく締めつけられて。

 私はふと――佐藤くんにキスしたいなと思った。

「……うん。帰りたくない」

 でもその気持ちはぐっと堪えて、代わりに私は、ベンチの上に置いた手を少し佐藤くんの方へ近づけた。

 私と佐藤くんの手が触れる。

 どうするかなと思っていたけど、佐藤くんは触れた手をそのままにしていた。

 手を離すでもなく、握るでもなく、黙って私と手と手をくっ付けていた。

 暖かな手の温もりが、佐藤くんの体温が伝わってくる。

 この広い世界の中、私たち二人きりみたい。

 この夜が終わらなければいいのに。

 だけど――。

 頭の片隅に、千歳の顔がちらついた。

 佐藤くんが気になってると言った時の、あの熱っぽい横顔を。

 少しの沈黙の後、私は意を決して立ち上がった。

「……私、そろそろ足も平気になったから帰ろうかな」

「そう? 送ろうか?」

 心配そうな佐藤くん。

「ううん、大丈夫」

 私は首を横に振ると、一人で家に帰った。

 このまま二人でいると、どうにかなってしまいそうだった。

 だめなのに。

 千歳の好きな人なのに。

 家に帰っても、ドキドキは収まらなかった。
 心臓が張り裂けそうで、夜がひどく長く感じた。



 だけどそんな、私の恋とも呼べない淡い思いはその後、すぐに消え去った。

 何のことはない、よくある話。

 佐藤くんにはすでに彼女がいたのだ。

 だよね。

 あんな人、他の女の人が放っておくわけない。

「あーあ、ショック。なんか、すごい美人な先輩らしいよ」

 千歳が悔しそうな顔をする。

「元気だしてよ。他にも男はいくらでもいるって」

 慰めながらも、私は千歳と同じようにショックを受けている自分に気づいた。

 あ。私、佐藤くんのこと結構気に入っていたんだ。

 そう思ったけれど――まあ、佐藤くんとは別に付き合っていたわけでもないし。

 飲み会で一度話しただけ。

 手が触れたのも偶然かもしれない。

 だからきっと、佐藤くんのことなんてすぐに忘れるだろう。

 そんな風に思った。

 そして実際、私は佐藤くんとあの夜のことは、その後ほとんど忘れていた。

 初めのうちは、佐藤くんと授業が一緒になることもあったけど、そのうちゼミが別々になると、顔すら合わせなくなったし。

 私もサークルの先輩やバイト先の人と付き合ったり別れたりして、忙しくなったし。

 私は、佐藤くんとは無縁のそれなりに楽しい大学生活を送っていた。

 だけど大学三年の夏、佐藤くんの彼女が妊娠して、佐藤くんは大学をやめて地元で働くらしいという話を聞いた。

「卒業までいれば良かったのに。大卒の方が給料も良いだろうしさー」

 千歳が愚痴る。

「だよねー。でもやっぱりすぐにお金が必要だからじゃない?」

 そう言いながらも、私の頭は真っ白になった。

 佐藤くんが?

 そんな馬鹿な――。

 その時私は、自分でもびっくりするくらい動揺していた。

 家に帰り、震える手でミルクティーを入れる。

 あの夜から大好きになったロイヤルミルクティー。

 飲めばいつだって、心が落ち着くと思っていた。

 だけど、湯気をあげる真っ白なミルクや溶けだす紅茶の淡い色を見ていると、あの夜のことが鮮明に蘇ってくる。

 「翻訳家になりたい」と言っていた佐藤くんの白い横顔が。

 あの手の甘い温もりが――。

 もしもう一度、あの夜をやり直せたら。

 もしあの時、私がキスしていたら。

 「送っていく」という彼の誘いを断らなかったら。

 何か行動を起こしていたら、何かが変わっていたのかな。

 考えてもしょうがないけど、ぐるぐるとそんなことばかり考えてしまう。

 そして私は気づいた。

 ケーブルニットのカーディガンが似合う彼も。

 骨ばった長く白い指の彼も。

 時折はにかみながら話すあの彼も。

 どの人も長続きしなかったけど、大学に入ってから付き合った彼氏は、皆どこかに佐藤くんの面影があった。

 付き合ってもいない、キスすらしていない人なのに。

 こんなにも彼は私の心の中にいる。

 こんなにも、私の奥深くに入り込んでいただなんて。

 脳をくすぐる甘い香り。

 ああ。

 時が戻せないのなら、せめてあの時の指の感触も彼の体温も消えてしまえばいいのに。

 遠くで光る星の切なさも、真剣な眼差しも、全部、私の中から消え去ってしまえばいいのに。

 この痛みを忘れてしまいたい。

 忘れたいのに。

 どうしてだろう。

 あのミルクティーの夜が、この体から消えないのは。

 甘くて暖かい、夢と現実の間のほんのひと時。




 忘れられないよ、佐藤くん。

 私はその夜、初めて失恋の痛みで泣いた。

[完]