やばい、完全に酔ってしまった。
高校のときの同級生たちとの同窓会だった。数年ぶりに会ってテンションが高くなってしまったのだろう。
――嫌なことも忘れたかったし。
結構お酒弱いのに。私のバカ……! 夜道をふらつきながらそんなことを考えていた。
夜空を見上げると、満月が雲にかかっていてとても美しい。物語のなかにいるみたいで、今だけ子供に戻ったようだ。
真正面を見ると、現実に戻ってしまった。そこら辺を歩いている人たちから変な目で見られる……慣れてないからこそ、少し怖く感じる。
夜の街ってこんなものなのだろうか。私はまだまだ夜というものを分かっていないのだろう。
明日からまた大学が始まってしまう。そう考えると、憂鬱な気分になる。
――気持ち悪い。
口を手で押さえながら、ひとまず電柱に寄りかかる。何かに掴まらないと倒れてしまいそうだったから。
「――あの、ちょっといいですか?」
肩をぽんぽんと叩かれ、突然知らない男性に話しかけられた。目が大きくて可愛らしい顔立ちをしていて、サラサラな髪の毛が風に揺らいでいる。
確かにすごくかっこいいけれど、もしかしてナンパだろうか。彼氏いない歴イコール年齢の私には経験がないことだった。
――怖い。逃げないと。
だけど気持ちが悪くて思うように足が動いてくれなかった。
「え、っと……」
「あぁ、喋らなくて大丈夫なんで。気持ち悪いんですよね?」
そう言われてとりあえず頷いた。ひとまずナンパではなさそうだ。
その男性は持っていたバッグから、ペットボトルを一本取り出して差し出してきた。
「これどうぞ。今さっき買ったばかりだし、まだ口つけてないんで」
「い、いいんです、か?」
「はい」
――私のことを助けてくれた?
言葉に甘えて私はペットボトルを受け取り、キャップを開ける。手が震えてキャップを地面に落としてしまった。
もう、どうしてこんなに恥ずかしい姿を見せてしまうの……!
「ドジな人ですね」
ふっ、と微笑みながら男性が拾ってキャップを渡してくれた。その姿に何故かドキッとしてしまう。
少しクールで無愛想だけど、とても優しい人なんだろうなぁ。出会ったばかりだけど性格がよく伝わってくる。
開けたペットボトルを、ゆっくり飲んでいく。
味は桃味の天然水だった。少し甘みがあるけれど、水の味が強い。さっぱりした味わいで、酔っている私にはとても飲みやすかった。
「大分楽になりました。本当にありがとうございます」
「俺は別に何も。てか、酒弱いのに何で酔い潰れてるんですか?」
「嫌なことを忘れたくて、つい……」
あはは、と適当に笑って誤魔化しておく。
こうでもしないとまた思い出してしまって、自分が辛くなるだけだから。
その男性は何か考え事をしてから、口を開いた。
「俺、今年から専門学校に通ってる松崎 隼人といいます。あなたは?」
「……遥花」
「遥花?」
「あ、えっと、海老原遥花! 大学二年、です」
急な自己紹介をされて思わず動揺してしまう。こんな簡単に出会ったばかりの人に個人情報を教えてしまって良かったのだろうか。
でも何となく、この人なら信じられる気がする。直感でそう感じた。
「遥花さんね。遥花さん、このあと暇ですか?」
「え? う、うん、まぁ」
「じゃあ映画でも観に行きません? この時間ならまだやってるでしょ」
時計を見ると、確かにまだ夜九時だった。
――そうだ、私飲み会で酔っちゃってすぐに帰宅しようと思ってたんだ。
でもどうして出会ったばかりの私なんかと映画を観に行きたいなんて思ってくれるのだろうか。
「だめですか?」
「う、ううん! だめじゃないけど松崎くんは大丈夫なの?」
「良かった、俺はもちろん大丈夫ですよ。てか隼人って呼んでください」
流されるまま、松崎くん――隼人くんと映画を観に行くことになってしまった。私も酔いは醒めてきたから別にいいのだけれど。
こんな高身長イケメンと映画に行くなんて夢みたいだった。彼氏ができたらきっと、もっと幸せなんだろうなぁ……。
――隼人くんと私じゃ釣り合わないって分かってるけど。
「わわっ」
そんなことを考えながらぼーっと歩いていると、段差に足がもつれて転びそうになった。
咄嗟に隣にいた隼人くんの腕をぎゅっと掴んでしまう。
また恥ずかしいところを見せてしまって胸が痛くなる。
「しっかり足元見てくださいよ」
「ご、ごめんなさい……」
「ここ、掴んでてください」
呆れたように、隼人くんは私の腕を引っ張って、服の裾を掴むように指示した。
私がまた転ばないように支えてくれのだろうか……。やっぱりこの人はすごく親切で優しいんだ。
「で、何で酒弱いのに酔っ払ってるんです?」
「へ? だ、だから、嫌なことを忘れたくて……」
「その嫌なことってのは? 俺で良ければ話してください」
どうして名前しか知らない隼人くんに、私の嫌なことを話さなければいけないのだろう。
そんなことを思った束の間、私は口を開いて話し始めていた。何故か分からないけれど、誰かに悩みを聞いてほしい。そんな気持ちが心の隅にあったから。
「私、好きな人がいたの。幼馴染で、小さい頃から好きだった。洋介って言うんだけど」
――馬場洋介。私の幼馴染で、同い年。とても明るくてスポーツが得意で、男女問わず人気者だった。
私は洋介の笑った顔が好きだった。太陽みたいに眩しくて、みんな洋介の笑顔につられて笑うことができる。そんな陽だまりのような存在だったから。
「洋介とは中学まで一緒だった。お互い恋人はできたことがなくて、いつも一緒に行き帰りしてたの。高校からは別々になっても連絡は取ってたし、家も近所だから毎日のように会ってた。だから絶対に取られる心配はない、何故かそう思ってたの」
一ヶ月前のある日 “それ” は起きた。
洋介から話を聞かされたとき、酷く驚いた。もちろん悪い意味で。
「洋介が報告してきた。……同じ大学で、彼女ができたって。写真も見せてもらったけど、可愛くて優しそうな雰囲気で、私とは真反対だった。そのときに気がついたの。私は洋介の視野に入ってなかったんだって」
きっと、私は洋介のタイプではなかったのだろう。
そう気付かされた日の夜はずっと泣いていた。電気もつけず、暗い部屋でひとり。
初恋は、本人に想いを伝えることすらできずに終わってしまったんだ。
「……っ」
洋介のことを思い出すと、また涙が頬を伝った。
いつまでも失恋を引き摺っていても仕方がない。今日は高校の同窓会で、このことを忘れようと思っていたのだから。
分かってはいるけれど、やはり簡単に忘れることはできなかった。ずっと洋介の笑顔が頭から離れないの――。
「そんなに後悔しているなら、どうしてその気持ちを伝えなかったんですか?」
「……えっ」
「泣くほど後悔してるなら、好きだってことを言えば良かったんですよ」
隼人くんの冷たい言葉が、胸に響く。
洋介に想いを伝えたってこの恋は変わらないから。
洋介の彼女は私とは真反対の人なのだから、私はタイプじゃなかったということ。だからきっと洋介の視野に私はいなかった。
最初から失恋することは確定していたはず。
「……私が動いても何も変わらないから意味ないんだよ」
「そんなことない。洋介さんは、遥花さんのことを待ってたかもしれないんですよ」
「そんなはずないよ、そしたら洋介から好きって伝えてくれるはずだもん」
「でも遥花さんが好きだと伝えれば、結果は変わっていた。振られるかもしれないけど、こんなに後悔はしなかった。違います?」
どうして、どうして分かったように言うんだろう。
隼人くんは洋介のことを知らない。洋介のことは私のほうがよく分かっている。
――私の気持ちなんて絶対に分からないはずなのに……!
「隼人くんには私の気持ちなんて分からないでしょ!」
「俺、好きな人がいたんです」
その言葉を聞いて、私は何も言えなくなった。
何か言わなきゃ、そう思っても喉に詰まって出てこなかった。
少し沈黙が続いて、隼人くんが私より先に口を開いた。
「中学時代の同級生で……でも、ある日事故に遭ったらしくて。今も意識不明の状態で眠り続けてる。まぁいわゆる植物人間状態ですね」
隼人くんの重くて辛い過去が、心に強く響く。
もし洋介が事故に遭って、今も眠り続けていたら……。そう考えただけで、また吐き気がしてしまう。
「俺、すごく後悔してるんです。好きって伝えとけば良かったって。でも友達っていう関係が崩れるのが “怖くて” 言えなかった。だからもし目が覚めたら、絶対に告白しようと思ってます。遥花さんも、洋介さんに想いを伝えるのが怖いだけでしょ?」
……私は、本当は洋介に告白することが怖い。勇気が出ないだけ。
私は洋介のタイプじゃなかったなんて、都合の良い言い訳だ。
ただお酒を頼って、逃げ続けているだけ――。
「もしかしたら俺の好きな人は、もう目を覚ますことはないかもしれない。でも洋介さんはいる。だから遥花さん、想いを伝えてみればいいじゃないですか」
「……でも、もう洋介には彼女がいる。今更私が想いを伝えたって、きっと変わらない。それどころか洋介を困らせるだけだもの」
「まぁ、遥花さんがそう思うなら別にいいですけど。後でもっと後悔しないようにしてくださいね」
わざとらしく、むっと頬を膨らませる。年下の癖に恋愛のことをよく分かってるのが何だか悔しい。
隼人くんの『だからもし目が覚めたら、絶対に告白しようと思ってます』という言葉を聞いたとき、胸が痛んだのは気のせいだろうか。
それに私はもう、洋介のことはいいのだ。忘れたくて同窓会に来たわけだし。
だから、また一から新しい恋をしたい。今度は幸せになれる、素敵な恋ができたらいいな……。
きっと漫画やドラマみたいに、運命的な出会いをすることはないのだろうけれど。
「あ、着きましたよ。映画館」
その言葉にはっ、と我に返る。
さっきのことがあったから、何だか映画を観るのが気まずい気がするのだけれど。
――ここまで来たんだから仕方ないよね。
そう思って気持ちを切り替える。
「隼人くん何観たい!?」
「別に俺は何でも」
「えー、じゃあこれは? 幽霊と戦うやつ!」
隼人くんは何でもいいと言うので、少し興味があった映画をチョイスしてみる。
幽霊と人間が出会うのは当たり前の世界で、幽霊に支配されるのを阻止するという映画だ。
その途端、隼人くんの表情がみるみる青ざめていった。
「あ、あの、俺ホラーはちょっと……」
「えっ、怖いの!?」
「怖くないです、けど。今は観たくないだけです!」
怖いことを認めない、泣きわめく子供みたいな隼人くんを見て思わずクスッと笑ってしまう。
こんな一面をあったなんて知らなかった。少しかわいいな、なんて思う。
「じゃあこれはどう?」
次に感動する恋愛ものの映画をチョイスしてみる。
主人公の女の子が病気で余命半年と言われたけれど、クラスメイトの男の子のことを好きになってしまうというストーリーだ。
隼人くんはうんうん、と頷いてくれたのでこの映画を観ることにした。
「私がお金出すよ。一応先輩なんだし!」
「え、いいですよ。俺が誘ったんですし、俺が出しますって」
「んー、じゃあ割り勘にしよっか。隼人くんって結構しつこいんだね?」
「さぁ、どうでしょう。これが普通だと思いますが」
こんなやり取りでさえ、楽しいと感じてしまう。洋介以外、こんなに楽に本音で話せる異性はいなかったから。
何故か出会ったばかりの隼人くんには打ち解けてしまう。やっぱり憎めないのが悔しいけど。
じゃあシアターに行こう。そう言おうと思った途端、隼人くんが私の腕を強引に引っ張って、自分の腕のところに持っていった。
急な行動に私は何が何だか分からなくなり、頭の中が真っ白だった。
「映画館って暗いでしょ。遥花さん、絶対転ぶからまたここ掴んでてください」
「あ、ありがと……。でも転ばないし!」
「うーん、それは信用できないなぁ。遥花さんドジみたいだし」
言い返せないのがやっぱりむかつく。
でもこういう親切な優しさが隼人くんのいいところなんだろう。そう思うと胸が温かくなる。
私は言われた通り隼人くんの服の裾を掴んだ。
シアターに向かうと、映画が始まる直前だった。広告が終わって、丁度映画が始まるくらいの時間。
見渡すと観客は私たち以外いなくて、貸し切り状態だった。
「俺、この時間帯に映画来たの初めてだから分からないんですけど、いつも貸し切り状態になるんですか?」
「私も来たことないから分かんないなぁ」
「え、そうなんですか? 何か意外ですね」
「えぇ、隼人くんから見た私のイメージって何なの……」
そう言うと、隼人くんはクスクス笑っていた。堪えたつもりなのだろうけど、私には全然聞こえてるし。
映画が始まり、私は見入ってしまった。
高校生の主人公は、心臓病を発症した。余命を告げられて現実を信じきれず、でも精一杯生きようと決めた。そしてある男の子を好きになってしまう。
恋なんてしても自分は死んでしまうのだから……。そう思ったけど、恋心は消えてくれなかった。
その子と委員会が一緒になってしまい、接点が増えて仲良くなった。話す度に心が弾む、だけど同時に胸が痛くもなる。主人公の気持ちがとても分かる。
「辛いよね……きっと」
「そうですね。自分が死ぬ運命だと分かってても好きになっちゃう。ほんと、辛いです」
隼人くんもやっぱり私と同じ気持ちのようだった。この主人公に感情移入してしまって、自分が同じ立場にいるような気分になる。
ラスト、本当はその男の子も病気で、余命三ヶ月だった。
余命半年の主人公より先に、男の子は亡くなってしまい、主人公は絶望感に浸される。
だけど男の子の心臓を主人公に移植し、手術は無事成功し、生きていけることとなった。
主人公は好きな人に想いを伝えられないままお別れが来てしまい、更には移植までしてもらって、複雑で辛い気持ちに浸っていた。
その男の子に貰った命を大切に頑張って生きよう。主人公が前を向く姿に、私は涙が止まらなかった。
「切ないよ……っ」
「ですね。どっちも悔しかったでしょうね。両思いだったはずなのに、気持ちを伝えられず終わってしまったから」
「……そう、だね」
そっか。隼人くんにはこの映画と似たような経験があるから、私よりも尚更気持ちが分かるのだろう。
やっぱり大切な人に気持ちを伝えることって当たり前ではなくて、いつか終わりが来てしまうかもしれない。改めてそのことを知ることができた。
私も洋介に好きだと伝えれば良かった。隼人くんが言うように、こんなに後悔することはなかったのだろう。
それにもしかしたら、付き合うことができていたかもしれない……。そう思うと胸が苦しくて、ぎゅーっと締め付けられた。
「ねぇ、隼人くん」
「はい。どうしたんですか?」
「隼人くんは、その子に想いを伝えることができなかったの、後悔してるんだよね?」
「……もちろん。そうに決まってるじゃないですか」
「じゃあ伝えに行こうよ」
隼人くんが目を丸くし、とても驚いている。自分で言ったくせに私自身もびっくりするけど。
この映画を観て思った。意識は無くても、きっと想いは届くのではないか、と。隼人くんには後悔してほしくないんだ。
「でも、いいんですか? 遥花さんこそ、洋介さんと話さなくて……」
「うん、今映画付き合ってくれたでしょ? そのお礼として、今度は私が隼人くんに協力させてほしい。だめ?」
「はぁ、ずるいです。そんなのだめなんて、言えませんから」
「ふふ、ずるいでしょ」
私たちは微笑みながら、急いで病院へ向かった。本当はもうこの時間は家族じゃないと見舞いに来てはいけないらしい。だけど特別に許可してくれた。
神様はきっと見ているんだろうな……なんて思う。だから隼人くんの好きな人はこの世にいるし、後悔しないように動けている。
隼人くんの好きな人が入院している病院は、幸いここから近い場所だった。病院へ到着したけれど、隼人くんはなかなか車から降りなかった。
顔を覗き込んでみると、とても強張った表情をしている。
「隼人くん、どうしたの? 大丈夫?」
「えっ? は、はい、大丈夫です」
そう答えてはいるものの、肩が小刻みに震えているのが分かってしまう。
私は隼人くんの頭を優しく撫でながら、隼人くんの心にある不安を掻き消すよう、笑みを作った。
「大丈夫。隼人くんはひとりじゃないよ、私がいる。ほら、行こう!」
隼人くんの目に光が差したように思えた。そして隼人くんの瞳には、先程とは別人のような、生き生きとした私の顔が映っていた。
『三〇五号室』
と書かれた病室にそっと音を立てないように足を踏み入れた。個人の病室ではなく、患者数人と一緒の病室らしい。
「……伊藤」
伊藤、というのが彼女の名前だろう。伊藤さんは呼吸器をつけて眠っていた。まるでただ寝ている普通の人のように。
隼人くんは伊藤さんのベッドの柵を掴みながら、静かに呟いた。
「伊藤、久しぶり。中学のとき一緒だった松崎だよ。まぁ俺影薄かったし、覚えてないかな」
初めて聞いた、隼人くんの敬語ではない言葉。私と話すときよりも、隼人くんの本音が表れている気がした。
何だか胸が苦しくなって窓の外を見ると、もう辺りは真っ暗だった。
「俺さ……伊藤のこと、好きだった。生活委員で一緒だったよね。明るくて笑顔が可愛くて、好きになってた」
隼人くんの言葉を聞いて、もっと胸がズキンと重くなったような気がした。
――どうしてだろう。どうして、伊藤さんへ向けた隼人くんの想いを耳にするとこんなにも辛くなるの?
「伊藤が事故に遭ったって聞いたとき、信じられなかったよ。目の前が真っ暗になった。だから気持ちを伝えなかったことずっと後悔してる。……伊藤、待ってるから。また、目を覚ますときまで」
そのとき、伊藤さんの目が少しだけ動いた気がした。気のせいかもしれないけれど、もしかしたら伊藤さんの返事だったのかもしれない。
隼人くんは目に涙を溜めながら、病室をあとにした。
「あの、ありがとうございます。遥花さんがいなかったらきっと、俺伊藤に想いを伝えられませんでした」
「ううん、そんなことないよ。隼人くんが頑張ったんだよ」
「俺が頑張れたのは、遥花さんが背中を押してくれたからですよ。やっぱり遥花さんはすごいですね」
隼人くんがくれた褒め言葉に対して嬉しいと思ってしまった。花がぱーっと咲いたように、私の心も晴れる。
何だか洋介に出会ったときと同じような感情を持った気がする。
「ありがとうございます、遥花さん!」
――あぁ、そっか、そうなんだ。
私のこの気持ちはたぶん、ただの後輩に対しての気持ちじゃない。
「もうすっかり真っ暗ですね」
「……うん、そうだね。時間ってほんと早いね」
頭の中まで伝わるくらいに、胸の鼓動が早い。
隼人くんを見つめるたびに、ドキン、ドキンとどんどん速くなっていく。
「じゃあ、そろそろ解散しますか」
「だね、そうしよっか」
「本当にありがとうございます。洋介さんのこと、頑張ってくださいね」
「……うん、ありがとう」
正直きっともう、洋介より隼人くんへの気持ちが強いと思う。
でもこの気持ちはきっと叶うことはないから。
だってこの私の気持ちを向けた人には、好きな人がいるのだから。
「お元気で、遥花さん。もう飲みすぎないようにしてくださいよ。……またいつか、この夜の下でお会いしましょう」
「はいはい、分かってます。またいつかね、隼人くん」
それぞれ電車に乗る前、手を振って別れた。
たぶん、奇跡が起きない限り会うことはできない。
隼人くんの瞳にはもう、私ではなく伊藤さんが映っているのだから。
この一夜限りの、私の一つの恋だ。
「――ありがとう、隼人くん。好きだよ……っ」
人が少ない電車の中で、ひとり呟く。
改めて言葉にするととても虚しくなって、涙が溢れてきた。
――また後悔しちゃったな。この気持ちを言うことができなかった。
私はこれから先もこの夜を忘れることはできないだろう。
ロマンチックとはいえないけれど、運命のような人と出会った、この夜を。
またいつかこの夜の下で会えますように。
そのときは “好き” という気持ちを伝えられますように。
真っ暗闇の夜にひとり孤独を抱えながら、たった一夜の恋をずっと脳裏に刻んでいた。
高校のときの同級生たちとの同窓会だった。数年ぶりに会ってテンションが高くなってしまったのだろう。
――嫌なことも忘れたかったし。
結構お酒弱いのに。私のバカ……! 夜道をふらつきながらそんなことを考えていた。
夜空を見上げると、満月が雲にかかっていてとても美しい。物語のなかにいるみたいで、今だけ子供に戻ったようだ。
真正面を見ると、現実に戻ってしまった。そこら辺を歩いている人たちから変な目で見られる……慣れてないからこそ、少し怖く感じる。
夜の街ってこんなものなのだろうか。私はまだまだ夜というものを分かっていないのだろう。
明日からまた大学が始まってしまう。そう考えると、憂鬱な気分になる。
――気持ち悪い。
口を手で押さえながら、ひとまず電柱に寄りかかる。何かに掴まらないと倒れてしまいそうだったから。
「――あの、ちょっといいですか?」
肩をぽんぽんと叩かれ、突然知らない男性に話しかけられた。目が大きくて可愛らしい顔立ちをしていて、サラサラな髪の毛が風に揺らいでいる。
確かにすごくかっこいいけれど、もしかしてナンパだろうか。彼氏いない歴イコール年齢の私には経験がないことだった。
――怖い。逃げないと。
だけど気持ちが悪くて思うように足が動いてくれなかった。
「え、っと……」
「あぁ、喋らなくて大丈夫なんで。気持ち悪いんですよね?」
そう言われてとりあえず頷いた。ひとまずナンパではなさそうだ。
その男性は持っていたバッグから、ペットボトルを一本取り出して差し出してきた。
「これどうぞ。今さっき買ったばかりだし、まだ口つけてないんで」
「い、いいんです、か?」
「はい」
――私のことを助けてくれた?
言葉に甘えて私はペットボトルを受け取り、キャップを開ける。手が震えてキャップを地面に落としてしまった。
もう、どうしてこんなに恥ずかしい姿を見せてしまうの……!
「ドジな人ですね」
ふっ、と微笑みながら男性が拾ってキャップを渡してくれた。その姿に何故かドキッとしてしまう。
少しクールで無愛想だけど、とても優しい人なんだろうなぁ。出会ったばかりだけど性格がよく伝わってくる。
開けたペットボトルを、ゆっくり飲んでいく。
味は桃味の天然水だった。少し甘みがあるけれど、水の味が強い。さっぱりした味わいで、酔っている私にはとても飲みやすかった。
「大分楽になりました。本当にありがとうございます」
「俺は別に何も。てか、酒弱いのに何で酔い潰れてるんですか?」
「嫌なことを忘れたくて、つい……」
あはは、と適当に笑って誤魔化しておく。
こうでもしないとまた思い出してしまって、自分が辛くなるだけだから。
その男性は何か考え事をしてから、口を開いた。
「俺、今年から専門学校に通ってる松崎 隼人といいます。あなたは?」
「……遥花」
「遥花?」
「あ、えっと、海老原遥花! 大学二年、です」
急な自己紹介をされて思わず動揺してしまう。こんな簡単に出会ったばかりの人に個人情報を教えてしまって良かったのだろうか。
でも何となく、この人なら信じられる気がする。直感でそう感じた。
「遥花さんね。遥花さん、このあと暇ですか?」
「え? う、うん、まぁ」
「じゃあ映画でも観に行きません? この時間ならまだやってるでしょ」
時計を見ると、確かにまだ夜九時だった。
――そうだ、私飲み会で酔っちゃってすぐに帰宅しようと思ってたんだ。
でもどうして出会ったばかりの私なんかと映画を観に行きたいなんて思ってくれるのだろうか。
「だめですか?」
「う、ううん! だめじゃないけど松崎くんは大丈夫なの?」
「良かった、俺はもちろん大丈夫ですよ。てか隼人って呼んでください」
流されるまま、松崎くん――隼人くんと映画を観に行くことになってしまった。私も酔いは醒めてきたから別にいいのだけれど。
こんな高身長イケメンと映画に行くなんて夢みたいだった。彼氏ができたらきっと、もっと幸せなんだろうなぁ……。
――隼人くんと私じゃ釣り合わないって分かってるけど。
「わわっ」
そんなことを考えながらぼーっと歩いていると、段差に足がもつれて転びそうになった。
咄嗟に隣にいた隼人くんの腕をぎゅっと掴んでしまう。
また恥ずかしいところを見せてしまって胸が痛くなる。
「しっかり足元見てくださいよ」
「ご、ごめんなさい……」
「ここ、掴んでてください」
呆れたように、隼人くんは私の腕を引っ張って、服の裾を掴むように指示した。
私がまた転ばないように支えてくれのだろうか……。やっぱりこの人はすごく親切で優しいんだ。
「で、何で酒弱いのに酔っ払ってるんです?」
「へ? だ、だから、嫌なことを忘れたくて……」
「その嫌なことってのは? 俺で良ければ話してください」
どうして名前しか知らない隼人くんに、私の嫌なことを話さなければいけないのだろう。
そんなことを思った束の間、私は口を開いて話し始めていた。何故か分からないけれど、誰かに悩みを聞いてほしい。そんな気持ちが心の隅にあったから。
「私、好きな人がいたの。幼馴染で、小さい頃から好きだった。洋介って言うんだけど」
――馬場洋介。私の幼馴染で、同い年。とても明るくてスポーツが得意で、男女問わず人気者だった。
私は洋介の笑った顔が好きだった。太陽みたいに眩しくて、みんな洋介の笑顔につられて笑うことができる。そんな陽だまりのような存在だったから。
「洋介とは中学まで一緒だった。お互い恋人はできたことがなくて、いつも一緒に行き帰りしてたの。高校からは別々になっても連絡は取ってたし、家も近所だから毎日のように会ってた。だから絶対に取られる心配はない、何故かそう思ってたの」
一ヶ月前のある日 “それ” は起きた。
洋介から話を聞かされたとき、酷く驚いた。もちろん悪い意味で。
「洋介が報告してきた。……同じ大学で、彼女ができたって。写真も見せてもらったけど、可愛くて優しそうな雰囲気で、私とは真反対だった。そのときに気がついたの。私は洋介の視野に入ってなかったんだって」
きっと、私は洋介のタイプではなかったのだろう。
そう気付かされた日の夜はずっと泣いていた。電気もつけず、暗い部屋でひとり。
初恋は、本人に想いを伝えることすらできずに終わってしまったんだ。
「……っ」
洋介のことを思い出すと、また涙が頬を伝った。
いつまでも失恋を引き摺っていても仕方がない。今日は高校の同窓会で、このことを忘れようと思っていたのだから。
分かってはいるけれど、やはり簡単に忘れることはできなかった。ずっと洋介の笑顔が頭から離れないの――。
「そんなに後悔しているなら、どうしてその気持ちを伝えなかったんですか?」
「……えっ」
「泣くほど後悔してるなら、好きだってことを言えば良かったんですよ」
隼人くんの冷たい言葉が、胸に響く。
洋介に想いを伝えたってこの恋は変わらないから。
洋介の彼女は私とは真反対の人なのだから、私はタイプじゃなかったということ。だからきっと洋介の視野に私はいなかった。
最初から失恋することは確定していたはず。
「……私が動いても何も変わらないから意味ないんだよ」
「そんなことない。洋介さんは、遥花さんのことを待ってたかもしれないんですよ」
「そんなはずないよ、そしたら洋介から好きって伝えてくれるはずだもん」
「でも遥花さんが好きだと伝えれば、結果は変わっていた。振られるかもしれないけど、こんなに後悔はしなかった。違います?」
どうして、どうして分かったように言うんだろう。
隼人くんは洋介のことを知らない。洋介のことは私のほうがよく分かっている。
――私の気持ちなんて絶対に分からないはずなのに……!
「隼人くんには私の気持ちなんて分からないでしょ!」
「俺、好きな人がいたんです」
その言葉を聞いて、私は何も言えなくなった。
何か言わなきゃ、そう思っても喉に詰まって出てこなかった。
少し沈黙が続いて、隼人くんが私より先に口を開いた。
「中学時代の同級生で……でも、ある日事故に遭ったらしくて。今も意識不明の状態で眠り続けてる。まぁいわゆる植物人間状態ですね」
隼人くんの重くて辛い過去が、心に強く響く。
もし洋介が事故に遭って、今も眠り続けていたら……。そう考えただけで、また吐き気がしてしまう。
「俺、すごく後悔してるんです。好きって伝えとけば良かったって。でも友達っていう関係が崩れるのが “怖くて” 言えなかった。だからもし目が覚めたら、絶対に告白しようと思ってます。遥花さんも、洋介さんに想いを伝えるのが怖いだけでしょ?」
……私は、本当は洋介に告白することが怖い。勇気が出ないだけ。
私は洋介のタイプじゃなかったなんて、都合の良い言い訳だ。
ただお酒を頼って、逃げ続けているだけ――。
「もしかしたら俺の好きな人は、もう目を覚ますことはないかもしれない。でも洋介さんはいる。だから遥花さん、想いを伝えてみればいいじゃないですか」
「……でも、もう洋介には彼女がいる。今更私が想いを伝えたって、きっと変わらない。それどころか洋介を困らせるだけだもの」
「まぁ、遥花さんがそう思うなら別にいいですけど。後でもっと後悔しないようにしてくださいね」
わざとらしく、むっと頬を膨らませる。年下の癖に恋愛のことをよく分かってるのが何だか悔しい。
隼人くんの『だからもし目が覚めたら、絶対に告白しようと思ってます』という言葉を聞いたとき、胸が痛んだのは気のせいだろうか。
それに私はもう、洋介のことはいいのだ。忘れたくて同窓会に来たわけだし。
だから、また一から新しい恋をしたい。今度は幸せになれる、素敵な恋ができたらいいな……。
きっと漫画やドラマみたいに、運命的な出会いをすることはないのだろうけれど。
「あ、着きましたよ。映画館」
その言葉にはっ、と我に返る。
さっきのことがあったから、何だか映画を観るのが気まずい気がするのだけれど。
――ここまで来たんだから仕方ないよね。
そう思って気持ちを切り替える。
「隼人くん何観たい!?」
「別に俺は何でも」
「えー、じゃあこれは? 幽霊と戦うやつ!」
隼人くんは何でもいいと言うので、少し興味があった映画をチョイスしてみる。
幽霊と人間が出会うのは当たり前の世界で、幽霊に支配されるのを阻止するという映画だ。
その途端、隼人くんの表情がみるみる青ざめていった。
「あ、あの、俺ホラーはちょっと……」
「えっ、怖いの!?」
「怖くないです、けど。今は観たくないだけです!」
怖いことを認めない、泣きわめく子供みたいな隼人くんを見て思わずクスッと笑ってしまう。
こんな一面をあったなんて知らなかった。少しかわいいな、なんて思う。
「じゃあこれはどう?」
次に感動する恋愛ものの映画をチョイスしてみる。
主人公の女の子が病気で余命半年と言われたけれど、クラスメイトの男の子のことを好きになってしまうというストーリーだ。
隼人くんはうんうん、と頷いてくれたのでこの映画を観ることにした。
「私がお金出すよ。一応先輩なんだし!」
「え、いいですよ。俺が誘ったんですし、俺が出しますって」
「んー、じゃあ割り勘にしよっか。隼人くんって結構しつこいんだね?」
「さぁ、どうでしょう。これが普通だと思いますが」
こんなやり取りでさえ、楽しいと感じてしまう。洋介以外、こんなに楽に本音で話せる異性はいなかったから。
何故か出会ったばかりの隼人くんには打ち解けてしまう。やっぱり憎めないのが悔しいけど。
じゃあシアターに行こう。そう言おうと思った途端、隼人くんが私の腕を強引に引っ張って、自分の腕のところに持っていった。
急な行動に私は何が何だか分からなくなり、頭の中が真っ白だった。
「映画館って暗いでしょ。遥花さん、絶対転ぶからまたここ掴んでてください」
「あ、ありがと……。でも転ばないし!」
「うーん、それは信用できないなぁ。遥花さんドジみたいだし」
言い返せないのがやっぱりむかつく。
でもこういう親切な優しさが隼人くんのいいところなんだろう。そう思うと胸が温かくなる。
私は言われた通り隼人くんの服の裾を掴んだ。
シアターに向かうと、映画が始まる直前だった。広告が終わって、丁度映画が始まるくらいの時間。
見渡すと観客は私たち以外いなくて、貸し切り状態だった。
「俺、この時間帯に映画来たの初めてだから分からないんですけど、いつも貸し切り状態になるんですか?」
「私も来たことないから分かんないなぁ」
「え、そうなんですか? 何か意外ですね」
「えぇ、隼人くんから見た私のイメージって何なの……」
そう言うと、隼人くんはクスクス笑っていた。堪えたつもりなのだろうけど、私には全然聞こえてるし。
映画が始まり、私は見入ってしまった。
高校生の主人公は、心臓病を発症した。余命を告げられて現実を信じきれず、でも精一杯生きようと決めた。そしてある男の子を好きになってしまう。
恋なんてしても自分は死んでしまうのだから……。そう思ったけど、恋心は消えてくれなかった。
その子と委員会が一緒になってしまい、接点が増えて仲良くなった。話す度に心が弾む、だけど同時に胸が痛くもなる。主人公の気持ちがとても分かる。
「辛いよね……きっと」
「そうですね。自分が死ぬ運命だと分かってても好きになっちゃう。ほんと、辛いです」
隼人くんもやっぱり私と同じ気持ちのようだった。この主人公に感情移入してしまって、自分が同じ立場にいるような気分になる。
ラスト、本当はその男の子も病気で、余命三ヶ月だった。
余命半年の主人公より先に、男の子は亡くなってしまい、主人公は絶望感に浸される。
だけど男の子の心臓を主人公に移植し、手術は無事成功し、生きていけることとなった。
主人公は好きな人に想いを伝えられないままお別れが来てしまい、更には移植までしてもらって、複雑で辛い気持ちに浸っていた。
その男の子に貰った命を大切に頑張って生きよう。主人公が前を向く姿に、私は涙が止まらなかった。
「切ないよ……っ」
「ですね。どっちも悔しかったでしょうね。両思いだったはずなのに、気持ちを伝えられず終わってしまったから」
「……そう、だね」
そっか。隼人くんにはこの映画と似たような経験があるから、私よりも尚更気持ちが分かるのだろう。
やっぱり大切な人に気持ちを伝えることって当たり前ではなくて、いつか終わりが来てしまうかもしれない。改めてそのことを知ることができた。
私も洋介に好きだと伝えれば良かった。隼人くんが言うように、こんなに後悔することはなかったのだろう。
それにもしかしたら、付き合うことができていたかもしれない……。そう思うと胸が苦しくて、ぎゅーっと締め付けられた。
「ねぇ、隼人くん」
「はい。どうしたんですか?」
「隼人くんは、その子に想いを伝えることができなかったの、後悔してるんだよね?」
「……もちろん。そうに決まってるじゃないですか」
「じゃあ伝えに行こうよ」
隼人くんが目を丸くし、とても驚いている。自分で言ったくせに私自身もびっくりするけど。
この映画を観て思った。意識は無くても、きっと想いは届くのではないか、と。隼人くんには後悔してほしくないんだ。
「でも、いいんですか? 遥花さんこそ、洋介さんと話さなくて……」
「うん、今映画付き合ってくれたでしょ? そのお礼として、今度は私が隼人くんに協力させてほしい。だめ?」
「はぁ、ずるいです。そんなのだめなんて、言えませんから」
「ふふ、ずるいでしょ」
私たちは微笑みながら、急いで病院へ向かった。本当はもうこの時間は家族じゃないと見舞いに来てはいけないらしい。だけど特別に許可してくれた。
神様はきっと見ているんだろうな……なんて思う。だから隼人くんの好きな人はこの世にいるし、後悔しないように動けている。
隼人くんの好きな人が入院している病院は、幸いここから近い場所だった。病院へ到着したけれど、隼人くんはなかなか車から降りなかった。
顔を覗き込んでみると、とても強張った表情をしている。
「隼人くん、どうしたの? 大丈夫?」
「えっ? は、はい、大丈夫です」
そう答えてはいるものの、肩が小刻みに震えているのが分かってしまう。
私は隼人くんの頭を優しく撫でながら、隼人くんの心にある不安を掻き消すよう、笑みを作った。
「大丈夫。隼人くんはひとりじゃないよ、私がいる。ほら、行こう!」
隼人くんの目に光が差したように思えた。そして隼人くんの瞳には、先程とは別人のような、生き生きとした私の顔が映っていた。
『三〇五号室』
と書かれた病室にそっと音を立てないように足を踏み入れた。個人の病室ではなく、患者数人と一緒の病室らしい。
「……伊藤」
伊藤、というのが彼女の名前だろう。伊藤さんは呼吸器をつけて眠っていた。まるでただ寝ている普通の人のように。
隼人くんは伊藤さんのベッドの柵を掴みながら、静かに呟いた。
「伊藤、久しぶり。中学のとき一緒だった松崎だよ。まぁ俺影薄かったし、覚えてないかな」
初めて聞いた、隼人くんの敬語ではない言葉。私と話すときよりも、隼人くんの本音が表れている気がした。
何だか胸が苦しくなって窓の外を見ると、もう辺りは真っ暗だった。
「俺さ……伊藤のこと、好きだった。生活委員で一緒だったよね。明るくて笑顔が可愛くて、好きになってた」
隼人くんの言葉を聞いて、もっと胸がズキンと重くなったような気がした。
――どうしてだろう。どうして、伊藤さんへ向けた隼人くんの想いを耳にするとこんなにも辛くなるの?
「伊藤が事故に遭ったって聞いたとき、信じられなかったよ。目の前が真っ暗になった。だから気持ちを伝えなかったことずっと後悔してる。……伊藤、待ってるから。また、目を覚ますときまで」
そのとき、伊藤さんの目が少しだけ動いた気がした。気のせいかもしれないけれど、もしかしたら伊藤さんの返事だったのかもしれない。
隼人くんは目に涙を溜めながら、病室をあとにした。
「あの、ありがとうございます。遥花さんがいなかったらきっと、俺伊藤に想いを伝えられませんでした」
「ううん、そんなことないよ。隼人くんが頑張ったんだよ」
「俺が頑張れたのは、遥花さんが背中を押してくれたからですよ。やっぱり遥花さんはすごいですね」
隼人くんがくれた褒め言葉に対して嬉しいと思ってしまった。花がぱーっと咲いたように、私の心も晴れる。
何だか洋介に出会ったときと同じような感情を持った気がする。
「ありがとうございます、遥花さん!」
――あぁ、そっか、そうなんだ。
私のこの気持ちはたぶん、ただの後輩に対しての気持ちじゃない。
「もうすっかり真っ暗ですね」
「……うん、そうだね。時間ってほんと早いね」
頭の中まで伝わるくらいに、胸の鼓動が早い。
隼人くんを見つめるたびに、ドキン、ドキンとどんどん速くなっていく。
「じゃあ、そろそろ解散しますか」
「だね、そうしよっか」
「本当にありがとうございます。洋介さんのこと、頑張ってくださいね」
「……うん、ありがとう」
正直きっともう、洋介より隼人くんへの気持ちが強いと思う。
でもこの気持ちはきっと叶うことはないから。
だってこの私の気持ちを向けた人には、好きな人がいるのだから。
「お元気で、遥花さん。もう飲みすぎないようにしてくださいよ。……またいつか、この夜の下でお会いしましょう」
「はいはい、分かってます。またいつかね、隼人くん」
それぞれ電車に乗る前、手を振って別れた。
たぶん、奇跡が起きない限り会うことはできない。
隼人くんの瞳にはもう、私ではなく伊藤さんが映っているのだから。
この一夜限りの、私の一つの恋だ。
「――ありがとう、隼人くん。好きだよ……っ」
人が少ない電車の中で、ひとり呟く。
改めて言葉にするととても虚しくなって、涙が溢れてきた。
――また後悔しちゃったな。この気持ちを言うことができなかった。
私はこれから先もこの夜を忘れることはできないだろう。
ロマンチックとはいえないけれど、運命のような人と出会った、この夜を。
またいつかこの夜の下で会えますように。
そのときは “好き” という気持ちを伝えられますように。
真っ暗闇の夜にひとり孤独を抱えながら、たった一夜の恋をずっと脳裏に刻んでいた。