好きなひとに好きなひとがいる。それでも好きなひとを追いかけてしまう私は、おろかだろうか。
 ふつうのひとはこういうとき、どうするのだろう。
 機械音が響くエレベーターの中。
「いい加減にしてくれ。君には関係ないだろう」
 いつも優しい逢沢(あいざわ)さんが、わずかに感情を込めた声で私を突き放す。
 いつもと違う逢沢さんが怖くて、寂しくて……だけど、私はその手を振り払えない。
「……め、迷惑だっていうのは分かってます。でも、それでもやっぱりいやです。好きなひとが、こんなに苦しんでるのに、ただ見てるだけなんて」
「……好きなひと……ねぇ」
 逢沢さんのばかにしたような笑みに、背筋がぞくりとする。
 目の前にいるのは、間違いなく私の好きなひとなはずなのに。それなのに、なにかが違う。
「なら、君が慰めてくれる?」
「え――?」
 逢沢さんが私の手首を強く握る。恐ろしいほど強い力に、一瞬身がすくんだ。
「いやならべつの女探すけど。俺のこと、好きなんだよね? なら、慰めてよ」
 べつの女、なんて、逢沢さんらしくない口調だ。逢沢さんはもっと、品があって、動じない言葉遣いをするひとなのに。
「無理ならもう俺にかまわないでくれるかな」
 逃さないとでもいうように、強い力で握られていたはずの手が、あっさり自由になる。
 逢沢さんは鬱陶しげな眼差しで私を見つめ、ぱっと背中を向ける。エレベーターの扉が開くと、逢沢さんはなにも言わず、出ていく。
 ……行ってしまう。
 ポケットからスマホを取り出して、いじり始めた。だれかに電話をかけるのかもしれない。だれか、私ではない女のひとに――。
 焦燥に駆られ、追いかける。
「逢沢さん!」
 スマホを握った手を掴む。
 行かないで。お願い。
「私が……慰めます、から」
「……本気で言ってる?」
 逢沢さんがため息をつく。迷惑そうな眼差しに足がすくむけれど、
「はい」
 私は負けまいと逢沢さんを見上げた。
 逢沢さんは私の腕を掴むと、歩き出した。ぐっと、強く私の手を引いて。


 ***


 私の好きなひとは、逢沢(かおる)さんという、六つ上の職場の上司だ。
 優しくて、穏やかで、いつもひそやかに笑うひとで、今の会社に入ってすぐ、私は逢沢さんにひとめぼれした。
 同じ部署になり、逢沢さんが私の教育係になったときはすごく嬉しかった。
 想いを伝えたのは、飲み会のあとのタクシーの中だった。返ってきた返事はひとこと、「ごめん」だった。
 だけど、その反応も、返答も、どこまでも私が大好きな逢沢さんのままで。
 謝る前に、逢沢さんは言った。
「ありがとう。気持ちはすごく嬉しい。だけど……ごめんね」
 困った顔をする逢沢さんが切なくて、胸が締め付けられた。どうして申し訳なさそうな顔をするのだろう。
 私の気持ちにこたえられないことに?
 私が逢沢さんを好きなのは、私の問題で、決して逢沢さんが申し訳なく思うことも、謝る理由もないはずなのに。
 失恋してしまったけれど、彼の誠実な言葉に私はさらに逢沢さんのことが好きになった。

 ――だけど。
 逢沢さんを目で追ううち、私は気付いてしまった。
 逢沢さんには、好きなひとがいた。
 同じ部署の森野(もりの)さんというきれいな女性だ。
 でも彼女は――既婚者だった。
 それでも逢沢さんはずっと、森野さんを追いかけていた。純愛なのだと思っていた。ずっと。
 でも――。
 ふたりがそういう関係であると知ったのは、たまたま、別れ話を聞いてしまったからだ。
 就業時間後、残業中のことだった。
 会社の屋上で休憩していると、森野さんがやってきた。少し時間を置いて、逢沢さんも入ってきた。
 私がいた自動販売機のうしろ側、すぐ近くまできたふたりは、私に気付くことなくなにかを話していた。
 しかし森野さんの声はいつになく暗く、逢沢さんも深刻そうな顔をしている。仕事でなにかあったのだろうか、と私も同じ部署の職員として出ていこうと半身を影から出したときだった。
「――別れてほしいの」
 聞こえてきたのは、そんな穏やかではない言葉。
「今さら申し訳ない……だけど……もうこれ以上は旦那を裏切れない……子どものためにも……」
 途切れ途切れに聞こえてくる会話に、胸の中の疑念が確信に塗り替えられていく。
 ふたりは恋人同士だったのだ。
 いつから?
 分からないけれど、きっと、私が告白するよりずっと前から。
 森野さんは私に気付くことなく、別れ話を逢沢さんへ向けて告げている。
 慌てて自動販売機の影に戻ったけれど、一歩遅かった。森野さんの向かい側に立つ逢沢さんと、目が合ってしまった。
 淡々と別れ話は進んで、森野さんがいなくなると、逢沢さんが私のところへやってきた。
「ごめんね、聞こえたよね」
 自動販売機の影にしゃがみこんでいた私は、弾かれたように立ち上がる。
「あっ……あの、すみませんでした! 私その……盗み聞きするつもりはなくて」
「こちらこそごめんね、変なのを見せてしまって」
「い、いえ……」
 どうしよう、と狼狽する私を、逢沢さんは申し訳なさそうに見つめた。
「ねぇ、これから暇なら、やけ酒付き合ってくれない?」
 やけ酒。
 私は、なんとなくその言葉の裏の意味を察した。
 彼女の代わりになって。慰めて。
 彼の心の声が聞こえた。
「……すみません……」
「そっか」
 私には、到底無理なことだった。

 それ以来、逢沢さんは変わってしまった。
 いつも、そばに女性を置くようになった。彼のとなりにいるのはいつだってきれいなひと。
 そして、私は避けられるようになった。
 仕事中も、用事がない限り話しかけられなくなった。素っ気ない態度をとられるたびに、私の胸は棘が食い込むように痛んだ。
 それでも仕方がなかった。
 たぶん私は、あのとき、返答を間違えたのだ。
 あの日――逢沢さんは明らかに私に助けを求めていた。もしあの誘いを受けていれば、私は今頃、彼の特別になれていたかもしれない。
 ……なんて、できなかったことを考えたところで、なんの意味もないけれど。
 今日だってそうだ。
 逢沢さんは、別部署の若い女の子と、楽しげに話しながらエレベーターに乗り込んでいく。
 私を置いて。
 今から、どこに行くのだろう。
 考えたくない。
 関係がこじれて半月。もう、私のほうが耐えられなかった。気付いたら私は、エレベーターに乗り込んだ逢沢さんの手を掴んでいた。
「もうやめて……」
 女の子と話すとき、逢沢さんはいつも泣きそうな顔をしている。
「もう、やめてください……」
 逢沢さんが声をかける子は、いつだって森野さんに似たきれいめな女の子だ。
 私には似ても似つかない。
 逢沢さんはまだ森野さんを想い続けて、追いかけているのだ。
「なに?」
 今さら、と言われているような気になる。
 冷ややかな声に、肩がびくりと跳ねる。
 逢沢さんらしくない、低く冷たい声。
 明らかな拒絶。
 ……当たり前だ。私のほうが先に逢沢さんの手を拒んだのだから。
「逢沢さん、お帰りのところすみません。その……決算書のことで少し相談が……」
 うそだ。それでも、このまま彼を帰したくなかった。
「…………はぁ」
 明らかに逢沢さんが苛立ったのが分かった。
「……分かった」
 逢沢さんはとなりにいた女性に謝って、エレベーターを降りた。

「どういうつもり?」
 エレベーターを降りると、逢沢さんは明らかに怒っていた。
「決算書は君の担当じゃないだろう」
「……すみません」
「俺が彼女と帰るのがいやだったの?」
 君は俺を拒絶したくせに。
 そう、眼差しが言っている。そのとおりだ。いやだった。
「……だって、逢沢さんつらそうな顔してるから……見ていられなかったんです。これ以上……」
「余計なお世話だよ」
 逢沢さんのため息混じりの言葉が、ちくりと胸を刺す。
 逢沢さんはエレベーターのボタンを押す。ほどなくして、エレベーターの扉が開いた。
「お疲れ様」
 無表情のまま、逢沢さんは私に言う。
 扉がゆっくりと閉まっていく。
 私は扉の前で立ち尽くす。
 行ってしまう。彼女のところに……。
 じわじわと闇が迫ってくるようだった。
 ……待って……いやだ。いやだ。
 閉まりかけたエレベーターの扉の隙間に、私は手を差し込んだ。


 ***
 

 逢沢さんはホテルの部屋に入るなり、私をベッドに押し倒した。乱暴な仕草に、私はぎゅっと目を瞑る。
 逢沢さんは容赦なく、私の上に馬乗りになる。
 じっと私を見下ろして、
「後悔してる? 逃げるなら今だよ」
 と、低い声で言った。
 私は首を横に振る。
「……逃げません。逢沢さんのそばにいられるなら」
「泣きそうな顔してるくせに」
「そ、れは……」
「……君、ばかなんじゃない。俺みたいな男に固執して……どうしてそんなに、俺にかまうの? 君には俺なんかよりいいひとがたくさんいるだろう」
「だって……好きだから」
 逢沢さんが息を呑む音がした。
「逢沢さんが森野さんを愛してたように、私も逢沢さんを愛してるんです」
「……おめでたい子だな」
 でも、ようやく分かった、と逢沢さんは半笑いで呟く。
「……悪いけど、俺は君がきらいだ。君を見てると、あの頃の報われないじぶんを思い出す。だから……俺が君を好きになることはない。ぜったいに」
 逢沢さんがぴしゃりと言う。
 言葉は鋭い刃となって、私の心をズタズタに引き裂いた。
「逢沢さん……」
 視界が滲み出す。
「それでも、慰めてくれるの?」
「……慰めます。逢沢さんがそれで少しでも楽になれるなら」
 逢沢さんはとうとう苛立ちを表情に表した。
「正真正銘のお人好しだな、君は」
 つくづく好みじゃない、と鼻で笑いながら、逢沢さんは私から離れていく。
「興ざめした。帰る」
 逢沢さんは吐き捨てるように言うと、部屋を出ていこうとした。
 離れていこうとする逢沢さんを、私は追いかける。
「どうして傷付いてないふりをするんですか」
 その背中に抱きつくようにして、私は逢沢さんに訴える。
「森野さんと別れて、つらいんですよね」
「……なんの話?」
「失恋したらつらいのは、当たり前です。それなのに、なんで平気なふりなんかするんですか。相手が結婚してても、それでも追いかけてしまうくらい好きだったんでしょう? そんなひとと別れたら、つらいに決まってます」
「…………」
「分かってるでしょう? ほかのだれかを抱いたって、虚しくなるだけです。失恋に向き合わなきゃ、ずっと苦しいままです」
「それ、じぶんに言ったら?」
 言葉に詰まる。痛いところを突かれてしまった。
「……そう、です。だから、向き合ってるんです。私もちゃんと失恋します。だから……」
「…………」
「だからもう、これ以上、我慢しないで」
 逢沢さんは黙り込んだ。その肩は小刻みに震えていた。
「……ごめん」
 逢沢さんは震える声で、ごめん、と繰り返した。そのあいだ、私の手をぎゅっと掴んで離さなかった。
 まるで、離さないでと縋ってくるようで、どうしようもなく胸が締め付けられた。
 彼はだれより好きなひとに、手を振られてしまった。だから、離さない、と強く言ってそう行動してほしかったのだと思う。
 都合のいい解釈かもしれないけれど。

 しばらくして落ち着いた逢沢さんは、あらためて私に丁寧な謝罪をした。
 その後、なにごともなく私たちは夜を過ごし――翌朝、別々にホテルを出た。
「……ありがとう」
 ホテルを先に出るとき、逢沢さんが言った。昨日とは違う穏やかな笑みを浮かべて。
「……いえ」
 けれど私は、笑うことができなかった。
 ……なにもなかった。
 ふたりきりで、同じベッドで寝たのに。
 私は逢沢さんにとっては部下で、それ以上にもそれ以下にもなれないのだと、はっきり突き付けられた。
 逢沢さんはきっと、これから少しづつ立ち直って、素敵なひとを見つけて、幸せになるのだろう。
 逢沢さんが幸せになるとき、となりにいるのは私ではない、だれかべつのひと。
 向き合う、と言ったのだ。どんなにつらくても、向き合わなきゃ。
 曖昧な輪郭の街を歩きながら、私ははっきり失恋したのだと自覚した。
 息ができなくなりそうになって、込み上げてくるものを必死に抑えて空を仰ぐ。
 しょうがない、しょうがない……。
 逢沢さんに私は必要なかった。それだけ。
 ぽつりと頬に雫が当たった。
 空を見上げる。灰色の空から雨が落ちてきていた。バッグから折りたたみ傘を取り出そうとして、昨日は家に置いてきてしまったことを思い出す。
 仕方ない。小走りで会社へ向かおうとしたとき、背後から腕を掴まれた。
 小さく声を上げて振り向くと、そこにいたのは、
「――逢沢、さん?」
 逢沢さんだった。広げた傘を、私のほうへ傾けている。少し息が上がって、シャツは濡れて肌がうっすらと透けていた。
「……ごめんね。傘……なかったらと思って。来てよかった」
「あ……」
 言葉が出なかった。
 雨だから、心配して来てくれただけ。この行為に意味はない。彼はもともとこういうひとだ。だれにでも優しくて、気遣いのできるひと。だから、こんなことで期待してはいけない。
 固く閉じたはずの箱から、するすると抜け出しそうになる恋心をぐっと掴んで、もう一度箱に押し込める。
 雨が傘を打ち付ける音が響く。
「途中まで一緒に行こうか」
 そう言って、逢沢さんは歩き出した。私も、戸惑いながら足を踏み出す。逢沢さんは私が濡れないように傘をずいぶんこちらへ寄せてくれていた。
 ほんの些細な優しさが、今の私にはこたえる。
 私は失恋したのだ。あのホテルを出た瞬間から、私は逢沢さんのただの部下だ。そうあろうと心に決めた。
 だから――。
「あの……逢沢さん」
「ん?」
「あの……私、これからは逢沢さんの愚痴聞き係になります」
「んん?」と、逢沢さんは困惑したように微笑む。
「私、口の硬さには自信ありますし、だからつらいときとか、どうぞ遠慮なく私を呼び出してください。仕事の愚痴でも、プライベートの愚痴でも、なんでも乗りますから!」
「なんでもって……じゃあ、恋も?」
 どきりとした。が、すぐに頷く。
「はっ……はい! もちろんです」
「……そっか。ありがとう」
 逢沢さんはすっと目を細めて笑った。
「はい……だからその、なんでも言ってください」
 やばい、泣きそう。
 唇を噛んで笑みを保とうとするが、とても耐えられそうになくて、私は逢沢さんから目を逸らした。
 じぶんから言ったくせに、ばかみたい。でも、前を向かなきゃ。この恋を終わらせなきゃ。いいかげん。
「……君は」
 逢沢さんがなにかを言う。雨音で聴こえず、私はそろそろと顔を上げた。見ると、逢沢さんは申し訳なさそうに微笑んでいる。
「……いや、なんでもない。それなら、遠慮なく呼ばせてもらおうかな。今日から」
「えっ、今日?」
 まさか本当に呼び出してくるとは思わなくて、素っ頓狂な声が出てしまう。
「うん。明日も、明後日も、ずっと」
「え、え、そんなに愚痴溜まってたんですか」
 驚く私に、逢沢さんはくっと小さく吹き出した。
「そう来るか」
「え?」
「……うん、まぁいいや。今はそれで」
「今は……?」
 なぜか苦笑した逢沢さんを、私はじっと見つめる。どうしたんだろう。笑われるようなことを言ったつもりはないのに。
 そんなことを思っていると、逢沢さんは私の手を掴んで、傘を握らせた。
「今度は俺が追いかけるから」
「えっ?」
 追いかける?
「あの、それってどういう意味……」
「これは使って。俺は先に行くから」
「えっ、ちょっと、待っ……」
 言葉の真意を確かめる間もなく、逢沢さんは雨の中を駆けていってしまった。
 私は呆然と立ち尽くす。
 ――追いかける。
 それって、もしかして。……そういう意味?
 いや、まさか。逢沢さんには昨晩、はっきりふられてるんだから。
 でも、でも……と傘を見上げる。
 頭の中は混乱していた。
 傘を握らせてきた逢沢さんの大きな手の感触が、まだ残っている。
 そのぬくもりが、今になって胸に染み込んでくるようで、私は、じわじわと頬が熱くなっていくのを感じていた。