あなたはもう忘れてしまいましたか。私はまだ、あの夜のことを鮮明に覚えています。
 初めて出会ったのは、小学三年生のときでしたね。あの日から、私はずっとあなたのことが好きでした。

 今日から小学三年生。短い春休みが明けて、新学年初日。クラス替えもあり、不安とドキドキを抱えて登校していると「にゃあ」と木の上から声がした。見上げると少し高い枝のところに子猫がいる。好奇心いっぱいに上ったのはいいけれど、降りられなくなったのだろう。
「待ってて、今助けてあげる」
 一生懸命子猫に手を伸ばすけれど、あと少しのところで届かない。私の身長があと5cm高かったら届くのに。子猫の方も怯えて一歩も動けなくなっている。私の腕に飛び移るのは難しいだろう。どうしたらいいかと困っていると、私の隣からすっと長い手が伸びてきた。
「今助けてやるからな」
そう言って猫を助けてくれたのが(あさひ)だった。
「野良かな」
「首輪がないから野良だよ」
「じゃあ俺が飼う、家に帰ってばあちゃんに預けてくるよ」
「まって私も行く」
 そうして私達は旭のおばあちゃんの家まで戻って学校に遅れた。先生にもお母さんにもこっぴどく叱られたけど、その日から私と旭は大親友になった。
 旭は都会から引っ越してきたばかりだった。旭にはお父さんがいなくて、お母さんも仕事で忙しくて家を空けがちだったから、旭はもっぱらおばあちゃんが面倒を見てくれていた。お母さんも一緒に住んだらいいのにねって言ったら旭は曖昧に笑った。お母さんとおばあちゃんは折り合いが悪いらしい。そのことを知ったのはもっとあとになってからだ。
 うちのお母さんは旭の家のことを気にしていい顔をしなかったけれど、私は構わず毎日のように旭のおばあちゃんの家に遊びに行った。そこで日が暮れるまでノアと名付けた黒猫と旭と一緒に遊んだものだ。あの頃は、一点の曇りもないほどに楽しい毎日だった。
 そんな毎日に終わりが来たのは六年生に上がる冬のことだ。旭が転校することになった。おばあちゃんが亡くなって、旭が引っ越すことになったから。お母さんと一緒に暮らすんだって。それはきっと良いことなのに、幼かった私は、旭と離れ離れになる日が来るなんて、想像もできなかったから。旭が、私の世界からいなくなる。そんなこと、耐えられない。嫌だ嫌だと駄々をこねてお母さんを困らせることはしたけれど、旭には言えなかった。
「ノアのこと頼むな」
「大丈夫、任せて」
 私はお母さんに無理を言ってノアを引き取ることにした。
(かなで)、俺のこと忘れるなよ」
「忘れるわけないじゃん」
 必死に涙をこらえる私のおでこに、旭の唇がそっと触れた。忘れられるわけない。旭はこの瞬間、私の初恋のひとになった。

 旭と再会したのは高校生のとき、同じクラスにいたときは驚いた。高校生になった旭は驚くほど背が伸びて、驚くほど人相が悪くなっていた。クラスでも浮いていて基本はひとりぼっちでいる。みんな旭のことが怖いんだと思う。話しかけるなオーラがすごいし、放課後になると柄の悪そうな子たちとつるんで帰っていくから、私だってなかなか話しかけられない。
 見た目がどうとか、柄が悪いとか、そんなことはどうでもいいのだ。ただただ私がショックだったのは、旭が私のことを少しも覚えていなかったこと。勇気を出して「久しぶり」って声をかけたのに、旭は首をかしげて「あんた誰」って答えた。これはもう記憶喪失を疑うレベルだ。もしくは同姓同名説だけど、顔までそっくりな他人ってあり得ないよね。
 あのキスはなんだったのか。忘れるなって言ったくせに。初恋が敗れた瞬間だった。
「ねえ奏って杉原のこと知ってるの?」
 お弁当を食べながら楓が話しかけてくる。「かえで」と「かなで」一文字違いだねというところから話が膨らんで、あっという間に仲良くなった友達だ。スギハラって誰でしたっけと考えて、スギハラ=旭だということに思い至る。
「知ってるひとな気がしたけど人違いでした」
「なにそれウケるね」
 ウケないよ。全然面白くないのに私はあははって笑った。
「よかった。杉原、ちょっと危なそうだもんね」
 結局一年間、私と旭が言葉を交わすことはなかった。
 二年生でクラスが分かれてほっとしていたのに、三年生でまた同じクラスになってしまった、五クラスもあるのに。神様は意地悪だ。嫌でも旭の姿を目で追ってしまう。
 毎日毎日ストーカーのように目で追っているとわかることがある。旭、ちょっと雰囲気が変わったかも。一年生のころはすごくとんがってたけど、三年生の旭は少し落ち着いた感じがする。相変わらず基本ぼっちだけど授業にもちゃんと出てるし、放課後に柄の悪い子たちとつるんでもいない、その上時々クラスメイトと話もしている。ニコリともしてないけど上々、嬉しい変化だ。
 それだけじゃない。ノアを動物病院に連れて行ったときに、先生が旭のことを教えてくれた。保護した子猫を連れてきたんだって。旭の中に、変わらない部分を見つけて嬉しかった。でも嬉しい話ばかりじゃない。旭とお母さんとの関係はあまりよくなさそうだって話も聞いた。家にいるのが嫌で明け方まで繁華街をうろついてたって。最近はそうでもないみたいでちょっと安心したけど。
「ねえ、杉原って一年のころと変わったよね。二年のころは知らんけど」
 お弁当を食べながら楓が話しかけてくる。楓は隣のクラスだけど、相変わらずお昼ご飯は一緒だ。
「たしかに」
「杉原ちょっといいよねって、うちのクラスでもファンがいる」
「そうなの?」
「そもそも見てくれがいいし、あの影背負ってる感じがいいんだって。私はよさがわかんないなぁ」
 旭が背負っている影は、旭が経験した辛さのせいだろう。今は大丈夫なのかなとかいろいろ気になってしまう。放課後、帰ろうとする旭に思い切って声をかけることにした。
「ねえあさ……杉原君、黒猫のことを覚えてる、ノアっていうの」
 私に声をかけられたことによほど驚いたのか、旭は私をじっと見つめてから視線を外して「覚えてない」って返してくる。なんで、忘れちゃったんだろう。旭にとって、私やノアのことはどうでもいい存在だったのだろうか。
「そっか、突然声をかけてごめん」
 これ以上会話をしても続く気がしない。諦めて帰ろうとすると「なあ」と呼び止められた。
「なに」
「いや、悪い、なんでもない」
 旭はバツが悪そうな顔をする。旭が私を呼び止めてくれた。許されるなら、もう少し旭と話しがしたい。
「子猫、拾ったんだってね、病院の先生が言ってた」
「あぁ、木から降りられなくなっててさ、鈍臭いだろ」
 すごい既視感、ノアの時みたい。旭は相変わらず優しいままなのだ。それがわかって少し嬉しくなる。
「飼ってるの?」
「いや、うちじゃかわいそうだから。他に大事にしてくれそうな里親探してもらった」
「そっか」
 一瞬、柔らかく笑ったような気がした。私が知っている旭が、今の旭の中にもいるような、そんな気がする。
「なあ」
「なに」
「おまえんとこの猫、元気?」
「ノアのこと?」
「そう」
 ほら、覚えていないなんて嘘なんじゃない。そんな言葉を飲み込む。旭はきっと覚えている、忘れたふりをしているだけだ。そのほうが、きっと旭にとって都合がいいのだ。だから聞かないほうがいい。なんとなく、そんな気がした。
「元気元気、でもよく家から抜け出して散歩するから心配なんだ。ちゃんとご飯時には帰ってくるんだけどね。偉いでしょ」
「そうか」
 よかった。旭が小さくそうつぶやいたような気がした。きっと間違いじゃない。だって、ちょっと嬉しそうな顔をしている。
「じゃあ、私帰るね。また明日」
 旭と話ができた。すごく嬉しい。心の中がぽかぽかする。一年生のころは話しかけてくるなオーラがすごかったのに、三年生になって、旭は確実に穏やかになった。とてもよいことだ。
 廊下に出ると楓が駆け寄ってくる。
「一緒に帰ろう奏」
「いいよ」
「今、杉原と話してた?」
「うん、猫の話してた」
「猫好きなんだ。それは有益な情報だ。最近穏やかになったし、狙ってる女子多いから売れそう」
「そんなもの売らないでよ」
「冗談冗談」
 私も楓につられてあははって笑ったけど、内心穏やかではいられない。旭に彼女が出来たら私はけっこう凹むかもしれない。

 最近廊下や教室で旭が誰かと会話をしている姿をよく目撃する。男子が七割で、女子が三割くらい。心の中がちょっとざわざわする。猫のことで少し会話できたけど、あれきり旭とは話せてない。ちょっと寂しいな、なんて思う自分がいる。
「あれ、ノアお散歩中?」
 家に帰るとノアがいなかった。お母さんに聞くと、お昼ごろから出かけているらしい。もともとお外が好きな猫だけど、そろそろ暗くなるし心配だ。
「ちょっと探してくる」
 私服に着替えてノアを探しに行く。いつもいるような場所から探してみるけれど、なかなか見つからない。
「ノアー!」
 名前を呼ぶと「にゃあ」と鳴き声が返ってきた。
「ノア!」
 声のした方を向くと、旭がノアを抱っこしている。
「ひとんちの庭に入り込んでたから保護しておいたぞ」
「ありがとう、あさ……杉原君」
「旭でいいけど」
「いいの?」
「どっちも間違いじゃないし」
 旭がちょっと笑った。どきん、と心臓が鳴る。ねえ、私のこと、覚えてるんだよね、どうして知らないふりしたの? 聞きたいけれど、聞けない。もしも聞いたら、ちょっとだけ近くなった距離がまた離れてしまいそうだから。
「ノア、旭に懐いてるね。こんなに大人しく抱っこされないよ」
 やっぱり前の主人を覚えてるんだね、って言ったら困るかな。
「こいつ、好奇心旺盛だから飼い主も大変だな」
「そこが可愛いんだけどね」
 旭との会話ひとつひとつに、心が温かくなる。もっと話していたい。昔みたいに一緒にいたいと思ってしまう。
「ほら、気をつけて帰れよ」
「うん、ありがとう旭。あのさ、もし嫌じゃなかったら、連絡先交換してもいい?」
 旭とのつながりを、少しずつ増やしていきたくて思わず大胆なことを口にする。さすがにこれは、突然すぎたかも。拒否されるかもしれない。
「いいけど、唐突だな」
「いいの? 本当に?」
「基本色々スルーだけど」
「それでもいいよ!」
 思ってもみなかった返答に私は飛び上がるほど喜んだ。やばい、嬉しくて手が震える。
「じゃあな」
「また明日ね」
 体がぽかぽかしているのは、ノアを抱っこしているからだけじゃない。心が温かくなったから。明日から、もう少し話ができるかも。そう思っていたのに、翌日になったら旭は素っ気なかった。挨拶はするけど、目を合わせてくれない。前みたいに話せるかもって思った私が甘かった。まるで猫みたいだ。旭と仲良くなりたいな。
 なんて悩んでいる場合ではない。受験勉強というのは、想像していたよりもずっと過酷だ。
 楓と一緒に必死になって勉強しているうちに夏が終わった。旭のことは当然気になって、体育祭や文化祭なんかの後には旭に告白して玉砕した子がいたっていう噂を楓経由で耳にした。そのたびに私は平静を装いながら、心の中はざわざわしていた。
「やっぱモテるようになったね杉原。見てくれいいもんね」
「そうだね」
「でも全然付き合ったりしないし。意外と真面目って言うか、誰か想う相手でもいるのかねぇ」
 それが私だったらどんなに嬉しいだろう。なんてね、そんな事はありえない。

 今年の冬は一段と寒い。おまけに雨まで降ってきた。そういえば夜から降るんだっけ。深夜には雪になるかも。
「うー! さむさむさむ、ただいま」
「お帰りなさい奏、思ったより早く降って来たわね。普段の行いが悪いんじゃない?」
「そんなことないよ! あれ、ノアは?」
「そういえば、まだ帰ってきてないかもしれないわ。そろそろご飯なのにめずらしい」
「うっそ! 雨も降ってるんだよ、私探してくる!」
「ちょっと奏!」
 お母さんは本当に呑気だ。今頃ノアがどこかで震えているかもしれないと思ったら居ても立ってもいられない。ノアが大好きなご飯を持って町中を探してみたけれど、ノアの姿はどこにもなかった。
「ノア、どこに行っちゃったの」
 焦りと不安がどんどん大きくなってくる。ノアがいなくなっちゃたらどうしよう。私は寒さでかじかんだ左手でスマホを取り出した。わずかなコール音のあと、電話がつながる。
「ノアがいないの」
「いまどこ?」
「三丁目のスーパーの前」
「待ってろ、今すぐ行くから」
 気がついたら旭に助けを求めていた。冷たい雨が体を濡らしていく。せめて傘を持ってくるんだった。ノアは、大丈夫かな。どこかで凍えていないかな。心細くなって視界が滲む。
「なにやってんだ。おまえ受験生だろ、大事な時期に風邪引いたらどうすんだよ」
 空から打ち付ける雨がやんだ。見ると旭が傘をさしてくれている。歪んだ世界に旭の顔が写る。
「旭……ノアが見つからないの」
「俺、心当たりがあるからついてきて。うわ、手ぇ冷てぇな」
 旭のが私の手を引いた。温かな手が私の冷えた手をぎゅっと握りしめてくれる。
 四丁目の角を曲がって、コンビニから二件先を曲がる。
 この道を、私はよく知っている。
「ついたよ」
「ここ……旭のおばあちゃんの家」
「今は誰も住んでないけどな。ノア、ここにいるかも知れない。前もここの庭で見つけたから」
 以前ノアを探し回ったとき、旭が連れてきてくれた。ノアは前の家を覚えているのかもしれない。
「ノア!」
 ノアは軒先で雨をしのぎながら丸くなっていた。私を見つけてにゃあと無事を教えてくれる。
「よかった! ありがとう旭。ノア、帰ろう」
 私が手を差し伸べると、ノアはふいっと横を向いた。カリカリとガラス戸を引っ掻いて中に入りたそうにしている。
「中に入りたいのかな」
「さあな」
 旭はポケットから鍵を出して、扉を開けてくれた。ノアはスルリと中にはいって、おばあちゃんがよく座っていたソファの上で丸くなった。
 時々ノアは、ここが恋しくなるのかもしれない。ここは間違いなく幸せな場所だった、あの頃の私は最強だった。なんのためらいもなく、旭に話かけることができていた。今は、こんなにも言葉がのどにつかえて出てこない。こんな日が来るなんて、あの日の私には想像もできなかっただろう。
 雨はまだ止まない。まだ、帰りたくない。旭と話がしたい。聞きたいことも、伝えたいこともたくさんある。
 でもだめだ、私は帰らなくちゃ。
「ノア、帰るよ」
 ノアはじっとしたまま動かない。だめだ、このまま旭と一緒にいたら、私は旭が困ることを言ってしまうかもしれない。
「私、そろそろ帰らなきゃ。ノアのことは明日迎えにくるから。ノアのごはん置いていくね」
 一歩踏み出した瞬間、右手を強く引かれた。はずみで一瞬、旭と目が合った。怒ったような、それでいて今にも泣き出しそうな瞳で私を見つめている。旭はそのまま私を抱きしめてきた。
 パチンと糸が切れたような音が耳の奥で響く。
 理性の糸が切れた私はそのまま流されていく。自分の意志で、流れていく。
「帰んな」
「……」
「帰るなよ」
 旭の声が悲しく揺れる。旭の言葉が私を揺さぶる。
 誰にも見つからないよう息をひそめて、私たちは家の中に逃げ込んだ。暗い部屋の中で、旭が私を見つめてくる。
「私……」
 帰らなくちゃ。
「奏」
 旭が頬に触れたとき、私の瞳から涙がこぼれおちた。そのまま旭がもう一度抱きしめてくる。
「嫌か」
「嫌じゃない」
  嫌なわけ、ない。 初恋も、初キスも、初めては全部旭がいい。
 互いに何かを確かめ合うようにそっと唇が合わさる。その瞬間言葉はなくても、心が通じた。そんな気がした。
 この瞬間のためなら、全てを失ってもいいと思えるほど、私は幸せだった。
 それなのに。
「ごめん奏」
 突然、我に返ったように私を離して、旭は謝った。謝られるようなことはなにもない、私は思いが通じ合ったのだと思って幸せだった。それなのに、旭君にとっては謝るべきことだったのだ。それが身を裂くほどに悲しかった。
「どうして謝るの。私、謝られるようなこと、されてないよ」
 だって、私が望んだことだから。旭は望んでなかったの?
「奏には絶対に手を出さないって決めてたのに、こんなことして本当にごめん。全部忘れてくれ、俺も忘れるから」
「……!」
 後悔したような旭の顔を見られなくて、私はノアを抱き上げると逃げるように思い出の家を飛び出した。

 翌日から、旭は学校に来なくなった。突然の引っ越しの理由を、先生は家庭の事情で、とあまりにも簡素な言葉で片付けた。
 詳しい理由はなく、突然の出来事に、少なからずみんなざわついた。
「杉原、なんか警察に捕まったらしいじゃん」
「俺、妊娠させた女から逃げてるって聞いたけど」
「あいつ中学の頃は少年院にいたってホントかよ」
 全部嘘だ。嘘に決まっている。だけど、明確な答えのない旭の失踪についての憶測は、耳を塞ぎたくなるものばかりだった。
 私の知らない旭が、旭ではないものが、どんどん作りあげられていく。
 旭と話していた子や、好きだと告白したらしい子たちまで、手のひらを返したように旭の悪い噂を楽しそうに口にした。
 全部嘘だ。旭は警察に捕まるようなことも、逃げなきゃいけないようなことも絶対にしてない。
「奏、具合悪そうだね」
「大丈夫」
「じゃなさそうだよ。杉原と、仲良かったんだろうからね。いなくなる前会ったりしてないの? 何か言ってた?」
 楓の質問に、私は答えられなかった。
「旭は、みんなが噂するようなことは絶対にしてない」
 そう訴えることで精いっぱいだった。