目が覚めて体を起こすと、窓に雨粒が張りついていた。外からの明かりによって夜の景色に浮かぶ大小さまざまな粒は、無秩序のようでいてどこか規則的にも見えて、私は無意識に人差し指を伸ばし内側からその雨粒のひとつに触れた。ひとつ、ふたつ、みっつ……と、子守歌のように頭の中で数字を刻んでいく。
 そういえば、宗介(そうすけ)もよくこうやっていたっけ。

「おはよう。といっても、もう十一時だけどね。窓の外なんか見てどうしたの?」

 甘ったるいミルクの匂いとともに柔らかい声が部屋に入ってきた。
 手を離し、窓の方を見たままその声に答える。

「宗介のこと考えてた」
「宗介って日比野(ひびの)宗介?」
「そう」
「学校に鍋を持ってきてしゃぶしゃぶしたら先生に怒られて、次の日に詫びのすきやきを持ってきたてんびん座B型の日比野宗介?」
「そう、その宗介」
「高二のときにチェンメを流してどのくらいで自分のところに戻ってくるか実験した日比野宗介?」
「それは知らない」

 あれの発信源、宗介だったんだ。「URLを見たかったら三人の知り合いにこのメッセージを送れ」とかはた迷惑なメッセージがある日突然、送られてきて、みんながその仕組みに気づいていながらあえて回し、どこまでその輪が広がるかを楽しみにしていた。
 学校の流行語大賞があればまあノミネートはしただろうくらいには流行ったものの、結局、最後がどうなったのかあやふやなまま、気づいたら次の流行に移っていた。というどうでもいい思い出が今、頭の片隅からにょきっと現れた。
 そのどうでもいい思い出の芽を引っこ抜いて捨てる。

「アホだね、宗介」
「その宗介がどうしたの? 街で見かけたとか?」
「ううん。宗介がよくこうやって雨の日に、車とかお店とかの窓に張りついた雨粒を触ってたなと思って」
「へえ。何か意味あるの?」
「さあ。聞いたけど、楽しいねとしか」
「そういう意味わからないところが宗介らしいな。たしか、羽海(うみ)は宗介と付き合ってたんだよね?」
「二十歳のときに五か月だけね」
「どうだったの、宗介との恋愛は?」
「うーん……。当選発表が出たのも知らずにハズレの宝くじを持ち歩いてたって感じかな」
「宗介はハズレだったの?」
「というか、もともとアタリのないくじを引いたのかも」

 私、松島(まつしま)羽海と日比野宗介の再会は、大学二年の冬にまで遡る。
 短大の卒業式を二か月後に控えた成人の日、私は式の後の同窓会で宗介と約二年ぶりの再会を果たした。
 その頃、社会人になったら恋愛する暇もないと先輩から脅されて学生のうちに彼氏を作っておくぞと意気込んでいた私は、高校の時から変わらない宗介の異端がかっこよく見えた。

「宗介は羽海と家が近かったよね。送ってやってよ」

 ひとりでは帰れないほど酔っ払った私を誰がそうアシストしてくれたかわからないけれど、運良くふたりきりになるチャンスを得たので、お酒の力を借りてその日のうちに告白。宗介は彼女と別れたばかりだったらしく告白を受け入れてくれて、こうして私たちは付き合うことになった。

 はじめのうちはうまくやっていたと思う。
 特に私から宗介への想いが強くて、理解できない宗介の言動に「なんかアーティストっぽくてかっこいい」とか性懲りもなくほの字を顔に浮かべていた。
 けれど、三か月もすれば現実を見るようになり、他と違うからといって別にかっこいいわけではないことに気づく。「言われていることがわからない」「言っていることが伝わらない」のはかなり致命的だった。
 そこで冷めてくれれば別れを告げられたのだろうけれど、宗介は優しくて、自分が悪いと思ったら素直に謝ってくれるから嫌いになれなかった。だから、これからもうまくやっていくために注意したり話す機会を設けたりしてなんとか付き合っていった。

 それから二か月の月日が流れて、忘れもしない大雨が屋根を叩く夜のこと。
 金属を叩いているのか石を叩いているのかわからない音が響くワンルームで、自らの肩を抱きカーテンの隙間から窓の外を眺めていたとき、宗介が言った。

「松島、話がある」

 ああ別れ話か、と直感した。
 宗介がわざわざ「話がある」と前置きして、「今度、隣町のスーパーまで行こうかと思うけどどう思う」と聞かれたことがあるけれど、今はそのときとまるで違う。
 私が立ち上がってローテーブルの前に座ると、宗介も向かいに腰を落とした。
 宗介は基本的に感情が顔に表れないやつだけど、このときばかりはわかりやすく表情を固くして私と目が合わないようにしていた。目の下のクマと荒れた唇がその深刻さを物語っているような気がしたけれど、別れ話ならさっさと済ませてよと思った私は見なかったふりをして先を促した。

「話って何?」
「僕と別れてほしいんだ」
「理由は?」

 さっさと済ませてよと思いながら、それでもすぐには頷かない。理由はどうでもよかったけれど、ただここで素直に「わかりました」と言うのは負けを認めるような悔しさがあった。物分かりのいい女にはなりたくない。そんな役にも立たないプライドを持っていたのだと思う。
 宗介はわずかに顎を上げ、さりとて私とは目を合わせようとはせずおもむろに口を開いた。

「僕、子どもができるんだ」

 それは宗介なりの冗談で、本当は「実家で飼っている猫に子どもができる」と言っているのだろう、と考えたけど宗介は冗談みたいなことを本気で言うやつだし、言葉足らずなだけで本当は、新しい遊びを思いついて「子どものふりができるようになったんだ」と言いたかったのだろう、とも思おうとしたけどそこまでアホじゃないし……と考えが錯綜し始めたところで「は?」とリアルに声が出た。
 印象が悪いから「は?」は言わないと、謎の信念を掲げる自分がそういう反応をするときがくるとは思いもしなかった。

「だから、別れてほしい」
「ちょっと待ってよ」

 宗介が勝手に結論へ持っていこうとするので、テーブルをバンッと叩いて止めに入った。宗介がビクッと肩を上げたけれど、私は構わず叫びを続ける。

「意味わからないんだけど。子どもができたって何? 私以外に付き合ってる人がいたの? 私は遊びだったわけ?」
「違う……。松島としか付き合ってない」
「だったら何? 体だけの関係の女でもいた?」
「そうじゃなくて……。相手は元カノで」
「元カノと切れてなかったってこと?」
「この前連絡が来て、妊娠六か月だって言われた」

 妊娠六か月の言葉を聞いて、急速に、冷水に入れた瞬間の温度計のように心の温度が落ちていくのがわかった。熱くなって腰を上げるほど前のめりになっていた体がもとに戻って、お尻がカーペットにつく。
 六か月。つまり、私と付き合う前の話で、元カノと付き合っていた時期の妊娠。

「なんで、今さら……」
「ずっと話そうか迷ってて、ようやく決心がついたって言われた」
「会ったの?」
「電話で話すだけじゃダメだと思って……」

 なんでそういうときだけ常識的な行動ができるのよ。教育係だった職場の先輩から退職の相談があると電話を受けたときは、その場で済ませようとしたくせに。
 こっちはぶつけたい怒りがたくさんある。胸ぐらをつかんでふざけんなって言いたい。なのに、いきなりデリケートな問題を突きつけられて、無理やり口を閉ざされて、このやるせない声なき言葉たちはどこへ逃がせばいいのよ。

「宗介、騙されてるんじゃない、その元カノに。妊娠したって嘘ついて、宗介を取り戻そうとしてるとか」
「どうだろう」
「どうだろうじゃないよ。そういう嘘をつく彼女かどうか知ってるでしょ。なら否定しなよ」
「そうだね」

 宗介を振って六か月も話そうか迷った彼女が、嘘の妊娠をでっち上げてまで宗介を奪い取ろうとする狡猾な人間でないことはわかっていたけれど、どうしたって悪態のひとつでもついてないとやっていられなかった。
 宗介は元カノから連絡が来たことも、元カノと会うことも、元カノが妊娠したから私と別れる決断をしたのも、全部自分で決めた。彼女の私には事後報告。

「結局、宗介はさ――」

 *

「結局、宗介はさ、私のことなんか好きじゃなかったんだよ」

 話している間、(さとる)は持ってきたホットミルクに口をつけず、私が乗るベッドに座って耳を傾けてくれた。

「宗介、そんなひどいことしたんだ」
「ひどいって私に対しての話?」
「そりゃあね。元カノに対してなわけないでしょ。旦那の俺からしてみれば、自然と羽海目線になっちゃうよ」
「子どもの夫を取り戻した元カノから見たら美談。彼氏に振られた私から見たら人生のどん底。宗介から見たら……なんだろう」

 窓に張りつく雨粒でさえ私は宗介のことを思い出すのに、きっと宗介は屋根を叩くような大雨の日でも私を思い出すことはないだろう。
 あのまま交際を続けてもいずれ終わっただろうと、今ならわかるけど、そのときの私は宗介と向き合おうと必死だったし、自分から手放すつもりもなかった。たった五か月でもその間は宗介だけを見ていた、私は。私だけはちゃんと好きだった。
 せめてふつうの別れ方をしてくれたら、惨めにならずに済んだかもしれないのに。
 なんだったんだろう、あの五か月は……。

「宗介にとっても最悪だったんじゃないかな」

 私に背を向けるようにして座る悟が、自らの膝に置いた手を遊ばせながら呟いた。

「羽海は宗介が自分のことを好きじゃなかったって言うけど、宗介はちゃんと羽海のことが好きだったと思うよ」
「なんでわかるの。宗介に会って聞いた?」
「いや。同窓会以来、会ってない」
「私を励まそうとしてくれてる?」
「それもあるけど……。さっき羽海、『宗介がよくこうやって雨粒を触ってた』って言ってたよね。でも、俺が覚えてるかぎりでは高校時代の宗介にそういう癖はなかったよ」
「なら高校を卒業した後にできたんじゃない」
「でもさ、羽海は高校生のときにその癖あったよね」
「えっ?」
「俺の予想だけど、窓の雨粒を触る癖は宗介が羽海に影響されたんじゃないかな。好きな相手の癖が移ることってあるよね」

 青天の霹靂のごとく突きつけられた事実に開いた口が塞がらない。
 宗介みたいなやつが好きな人の癖を真似するか? と信じられない一方で、そんな変な癖を持っている人を見つけたら、宗介なら真似するかもしれないとも思った。
 自分にそんな癖があったなんて知りもしなくて、たまに宗介がやっているのを見て「何をやっているんだか」と呆れていた。何が『楽しいね』だよ。言えし。やっぱり宗介は頭のネジがひとつずつズレているなと思っていた私がバカみたいじゃない。
 私たちに足りなかったのってなんだろう。
 なんか、何もかもが足りなかった気がする。

「でも、なんか妬けちゃうなぁ」と悟が抱きついてきて、ベッドに寝転んだ。
「俺がいながら昔の男のことを考えるなんて」
「別に未練があるわけじゃないよ」
「未練があったら俺、泣くよ?」

 ぷくっと頬を膨らませる悟が可愛くて、その頭を撫でた。

「私は悟が大好きだし、それに、雨を見て宗介を思い出したわけじゃないからね。その前から思い出してた」
「それはそれで反応しづらいけど。まあ宗介レベルになると、きっかけがなくても思い出しちゃうよね。俺も宗介のことは昨日のことのように思い起こせるし」
「うーん……そういうのとも違ってね。今日、病院に行ったんだ」
「ん? ああ最近、体調が悪いって言ってたよね。大丈夫だった?」
「うん。産婦人科に行ったら、お腹に赤ちゃんがいるって言われて。なんとなく宗介と別れたときのことを思い出したの」

 産婦人科の先生にそう言われて嬉しくて、早く悟に連絡したかったけれど、ふと宗介のつらそうな顔が頭を過った。
〝僕、子どもができるんだ〟
 本来だったらとてもめでたいことなのに、絶望するような顔で私に報告してきた宗介は、あのときどういう気持ちだったのだろう。
 宗介の思考は誰にも計り知れないほど難解だけど、自由に生きていた宗介が幸福と悲劇を同時に味わって、さすがにあのときばかりは打ちのめされたのではないだろうか。それを考えたら、私を捨てた夜のことも少しは受け入れられそうな気がする。
 視線を上げると、悟が目を開いたまま固まっていた。

「えっ……今、お腹に赤ちゃんがいるって言った?」
「うん言った」
「……羽海のお腹の中に?」
「そうだよ」
「……羽海と俺の子?」
「何言ってんの。あたりまえでしょ」

 悟は一瞬の間を置いて、叫んだ。

「話す順番が逆だろ!」
「あはは、たしかにね」
「でも、おめでとう!」

 悟にぎゅっと抱きしめられて、生涯愛したい人の胸の中で幸せを噛みしめる。
 宗介と別れた夜。一生忘れないような、こんな夜は二度と来ないだろうと思っていた。
 だけど今日、もっと忘れられない夜が更新された。