それは、とてもとても些細なこと。
 すきになった人に、恋人がいた。
 たった、それだけ。



「……あ」

 重ねていた唇の隙間からあなたの息が漏れた。ゆっくりと目蓋を開けてみたら、わたしを見つめていたはずの瞳は藍色の空を映していた。

「なぁに?」
「流れ星」
「えっ、どこ?」
「あの辺流れてた」

 わたしは慌てて柊くんの人差し指の先を辿った。けれどそこには静止した星が瞬くだけだ。わたしは、あーあ、と大げさに肩を落とした。

「もう一回流れないかなぁ」
「流れるといいな」

 柊くんはおもしろそうに口の端を上げる。ちょっと眠たそうに目をこするその仕草で、夜が深まっていくのを実感した。

 夏の夜、ベランダに吹く風は生ぬるい。こうしてふたりでぼんやりと夜空を眺めるのは何度目だろう。ゆるやかな時間の流れを確かに感じるのに、時計を見ると驚くほど時が過ぎている。だからいつも時計は見ない。タイムリミットを気にしたくないから。別れを切り出されるのがこわいから。わたしはねだるように柊くんの横顔をじっと見つめた。

「なーに?」
「……月がきれいですね」
「そーだね」

 使い古された愛の台詞も、柊くんはあっさり受け入れるだけで、応える素振りなんて見せやしない。そういうところがすきなのもまた事実だけれど、もどかしさに自然とほっぺたが膨らんでしまうのも、また事実。

「なに、拗ねてんの」
「別に」

 わたしは子供っぽく顔を背け、不機嫌を背負って部屋に戻った。シングルベッドにダイブして、枕に顔を埋める。あ、柊くんのにおいがする。

 煙草のにおいって落ち着く。きらいって言う人も多いけど、昔からちーちゃんが吸ってたせいかな、わたしは全然気にならない。大人って感じがするし、たぶん、吸っている仕草がすきなんだと思う。火をつける動作とか、口から白い煙を吐く流れとか、その一つ一つが大人っぽいと思う。自分で吸おうとは思わないけれど、なんか、あこがれる。

「なに寝転がってんだよ」
「眠たいの!」

 柊くんの足音とベランダの窓を閉める音が聞こえる。絶対に無視してやる。そう決意していたのに、ベッドに沈む体重を感じて、思わず顔を上げてしまった。瞬間、あやすように短く、唇が重なる。目をつぶる暇もない、ついばむみたいなキスだった。

「もう、おかえり」
「……キスだけ?」

 柊くんは困ったように微笑んだ。

「そうだよ。キスだけ」
「けち!」
「だって、終電間に合わなくなるじゃん。明日おれ仕事なの」
「……朝イチで帰るもん」

 わたしはごろりと仰向けになって、柊くんの首に腕をまわした。所有権を主張するように引き寄せると、柊くんはしかたないなぁ、と抱き締めてくれた。

「起きれるの?」
「起こして」
「起こせるかなぁ」

 試すような会話をして、部屋の電気を消す。

 静まり返ったここは、まるで深海の底のよう。誰にも見られない。誰にも邪魔されない。今だけは、わたしだけのものだ。見せつけるように、まわした腕に力を込める。

 この恋は、流れ星。一瞬でも逃したら消えてしまう。すぐに覚める夢のよう。分かっているから楽しくて、分かっているから苦しい。罪悪感を消すように、わたしはそっと目を閉じた。



 太陽よ、昇ってくれるな。そんなことを考えては、無情にやってくる朝に絶望する。その繰り返し。

 翌朝。わたしはむりやり柊くんに起こされて、荷物のように車に乗せられた。そんなに焦らなくてもいいのに、と寝ぼけたふりをして言ったら、ほっぺたを思いきりつねられた。

「学校も行ってない不良娘と、社会人を一緒にするな」

 ごもっともな意見である。

 駅までは車で三分ほど。短すぎるドライブは流れ星のように過ぎて、あっという間にお別れの時間が来る。

「じゃあな、気をつけて」

 車を降りたわたしに、柊くんはお決まりの台詞を告げる。うん、とうなずいて、わたしは手を振る。さみしそうに眉を下げてみるけれど、柊くんが留まってくれることはない。黒いステップワゴンが見えなくなるまで、わたしはその場を動かない。もしかしたら、何かの気まぐれで引き返してくれるかも。そんな百億分の一の可能性を夢見ているから。

 数十回目の絶望を味わったあと、電車に乗って自宅へと戻った。



 わたしの家は、「フラワーガーデン」という二階建てのアパートだ。色とりどりの花が咲く大きな庭。その真ん中に立っている大きな木は、春になるとピンク色の花弁を身にまとう。小さい頃は、よくお姉ちゃんと一緒に木登りをしたっけ。そのたびにちーちゃんに怒られて、ふたりで抱き合って泣いていた。あの頃はまだ、何のわだかまりもなく、お姉ちゃんの目を見ることができた。素直に甘えて、笑い合うことができた。新緑に衣替えした桜をじっと眺めて、わたしは眠たい目をこすった。あの頃は無垢な子供だったのになぁ、とばばくさい懐古をして、アパートの一階を睨む。

 わたしの家。そう胸を張って言えたのはもうはるか昔のこと。わたしの居場所はあそこにはない。生まれた時からなかったけど、それでもなんとか生きられたのは、お姉ちゃんが居場所を作ってくれていたから。わたしを産む気なんてさらさらなかったちーちゃんを説得して、「りせ」って名前を与えてくれたのは、他でもないお姉ちゃんだ。ちーちゃんの代わりに一緒に遊んでくれたり、勉強を教えてくれた。お姉ちゃんの方がよっぽど母親らしい。優しくて賢くてかわいい、自慢のお姉ちゃん。
 それなのに、その居場所を奪ったのはわたし。お姉ちゃんを裏切ったのはわたし。

 柊くんをすきになった瞬間からね、わたし、裏切り者なの。大切にされた。優しくされた。それなのに、その恩を返すより先にごみ箱に捨てちゃった。その罪悪感に耐えきれず、わたしは家を出ようと決意した。

 どこか遠くへ行きたかった。空気のおいしい山頂とか、海の見える田舎町とか。わたしのことを誰も知らない場所で、ひとりで生きていきたかった。でも、未成年のわたしはあまりにも無力で、経済力なんて持ち合わせていない。きっとドラマや漫画なら、ひとりで旅をしたりするんだろうな。親戚もいない。友だちもいない。そんなわたしがひとりで行ける範囲なんて、あまりにも限られていた。

 無力なわたしの精一杯の反抗が、同じ敷地内にある離れだった。元々、死んだ父親の両親が暮らしていたらしい。わたしの父親じゃなく、お姉ちゃんの父親。その人が死んでしばらくして、ちーちゃんは両親と大喧嘩をしたらしく、それからずっと空き家だった。わたしが距離を置くにはぴったりの物件だったというわけだ。

 離れで暮らし始めると同時に、わたしはバイトを始めた。せめて食費くらいは自分でまかないたい。少しでも家から独立したい。そしていつかは、この場所から離れられるように。焦る気持ちが先走って、学校を休んで働く日が増えた。その結果、勉強についていけなくなって、学校に行くのがますますいやになって、結局留年。二回目の一年生。ほんと、いやんなっちゃう。

 わたしは大あくびをしながら、アパートの二階を見上げた。

 真新しい空も、ぎらぎら照りつける太陽もきらい。ぜーんぶ、わたしと柊くんを切り裂くもの。すべてを覆い隠してくれる夜が、永遠に明けなければいいのに。

 ああ、眠たいな。もう寝ちゃいたいよ。でも、なんだかさみしいな。ひとりがすきなはずなのに、孤独を感じるのはきらいなの。柊くんと別れた直後はいつも、迷子の子供になった気分だ。

 そんな時は、歌を歌う。こんな早朝に、こんな小さな声で歌っても、きっと誰も気づきやしない。だけど、一パーセントの奇跡を信じて、わたしは歌う。

 一曲歌い終えても、人が出てくる気配はない。じんわりと体が汗ばんできた。しかたないから、おとなしく籠城しよう。そう思うのに足が動かない。ねぇ早く。早く気づいて。脅迫するようにベランダを睨む。

 勢いよく窓が開いて、大きな布団が現れた。日向ぼっこをするように半分に折れる。

 布団を干し終えた雫の目が、わたしを捉える。ああ、やっぱりあなたは気づいてくれるね。驚いた雫の顔を見て、わたしはにっこりと笑った。



 転がり込むように雫の部屋へ行って、朝ご飯をごちそうになった。七畳一間の狭い部屋で、おしゃべりをしながらご飯を食べる。最近ではもうすっかりおなじみの光景だ。
「ちゃんと栄養のあるもの食べなきゃだめだよ」

 お母さんみたいな台詞を言うのは、雨宮雫。瑞々しい名前の女の子。わたしの、唯一の友だち。

 出会ったのは四ヶ月ほど前。一目見た瞬間に仲よくなれると分かった。女の子同士なのに変かもしれないけれど、運命だって思ったの。根拠なんてない。女の勘ってやつだ。

 歌が聞こえたら会いにきて。冗談で言った約束を、雫は律儀に守ってくれる。悲しい時、さみしい時、つらい時。わたしは決まって口ずさむ。柊くんがすきなメロディーを。ふたりで歌ったあの曲を。そうすると雫がやってきて、さみしさを埋めてくれるから。ご飯を作ってくれたり、看病してくれたり、甘やかしてくれるから。

 そう、まさに。
 都合のいい、友だち。

「ずいぶん眠そうだね」

 大きなあくびをしたら、食器を洗い終えた雫が戻ってきた。

「寝たの遅かったからなぁ」
「何時に寝たの?」
「何時だろ……三時くらいかな」
「そんなに? 何してたの?」
「うーん……」

 わたしはあいまいに唸って、真っ白な天井を見上げた。昨日あった出来事を、一つ一つ順に思い出してみる。柊くんの部屋に遊びにいって、夕ご飯を一緒に食べて、星を見た。時計を見たら日付を超えそうで、帰りたくないとねだった。仕事あるのにむりさせちゃったかな。柊くんの疲れた笑顔を思い出したら、申し訳なさが募った。と同時に、口の端がにやける。はっとして雫を見たら、彼女はものすごく不審そうに顔をしかめていた。

「何にやにやしてるの?」
「な、何でもない、何でも……」

 わたしはぎこちなく笑って、逃げるようにベッドに転がった。横向きになって、床にちょこんと座っている雫を眺める。最近、雫は眼鏡をかけなくなった。服装も以前よりおしゃれになった気がする。

「そういえば、最近奏真には会ってる?」

 そう尋ねると、雫は気まずそうに目を逸らした。

「あ、会ってない……」
「デートしてみたらいいじゃん。誘われてるんでしょ?」
「うーん……あんまり気が進まないっていうか」
「何で? 前からふたりで出かけてたんじゃないの?」
「それはそうだけど……でも、デートって、ただ出かけるだけじゃなくてさ……」
「手を繋いだり、キスするかもしれないってこと?」

 返事がない。唇をきゅっと結んで、照れるようにうつむく。ああ、ウブだな。純粋だな。枕に頭を委ねたら、目蓋がどんどん重たくなった。雫の姿が、暗転しては現れ、現れては、また暗転。

「だって、奏真は小さい頃から知ってるし、いざそうなると、なんか恥ずかしいっていうか」
「そんなのすぐ慣れるって。っていうかさぁ……」

 ――だったら、どうして付き合ってるの。

 心で思ったことは言葉にならず、口の中でもごもご消えてしまった。あ、だめだ。声がどんどん溶けていく。

「りせ? 寝るの?」
「うーん……」
「寝るなら自分の部屋で寝なよ」

 あきれた雫の声に答える気力はもうなかった。睡魔に抗うことをやめ、わたしはそのまま我が物顔で眠りについた。



 とっても変な夢を見た。

 透明な水の中、わたしはひとり地上を見ている。まわりには何もない。色鮮やかな珊瑚礁も、自由に泳ぎ回る魚たちも、暗い深海のどこかに身を潜めている。どんなにもがいても浮かび上がれない。手足を動かせば動かすほど、重たい水が絡まって、体がどんどん沈んでいく。呼吸がどんどん苦しくなって、酸素不足で目が霞む。地上から降り注ぐわずかな光すら、

 ――見えなく、なる。



「……あ、やっと起きた」

 ぼんやりと目蓋を開けたら、本を読んでいる雫が目に入った。あれ、ここどこだっけ。何で雫がいるんだろ。思考を巡らせていたら、だんだん記憶がよみがえってきた。  

 ああ、そうか。わたし、雫の部屋で寝ちゃったんだ。どれくらい眠っていたんだろう。早く起きないと、遅刻しちゃう――

 そこまで考えて、わたしは勢いよく上半身を起こした。

「今、何時?」
「一時半。お昼だよって言ったのに、全然起きないんだもん」

 やばい。やばいやばいやばい。全身からすぅーっと血の気が引いていく。わたしは転がるようにベッドから下りた。

「どうしたの?」
「バイト行ってくる!」

 身支度を整える暇もなく、風のように玄関を出た。バイトは午後一時から。大遅刻確定だ。

 時間通りに来ないバスに苛立ち、乗ったら乗ったで何度も行く手を阻む赤信号に苛立ち、ようやくバイト先に着いたわたしを待っていたのは、店長のしかめっ面だった。

「おはよう、ございます……」
「早く、着替えてこい」

 店長は声を荒げることもなく、更衣室を顎で示すだけ。それが逆におそろしい。わたしは逃げるように駆け足で更衣室へ行き、制服に着替えた。

 カフェとファミレス。それがわたしのバイト先。今日の仕事場は、ファミリーレストラン「ハッピーベア」だ。知り合いに会わないように、片道三十分かかる場所を選んだ。街中にあるから、家族連れや学生でいつも混んでいる。時給は高くないけれど、人手不足だから、結構シフトを入れてくれる。わたしにとって最高の稼ぎ場だ。

 ランチのピークは過ぎたけれど、お客さんが減る気配はない。次から次へと鳴るベルに、目がまわりそうになる。

「こちらハンバーグ定食になります」 

 注文の品を届けると、それまでスマートフォンを見ていた男がぱっと顔を上げた。軽く会釈をして、わたしをじーっと見る。ん、いや、これ見すぎじゃないの。訝りながらも、とりあえずマニュアルに倣って営業スマイル。そのまま去ろうとしたら、あの、と引き留められてしまった。

「はい?」

 振り向いた途端、何かをむりやり渡された。手の中を開いてみたら、ぐちゃぐちゃに丸められた紙だった。一瞬ごみかと思ったけれど、中を開いてみたら連絡先が書いてあった。思わず眉間にしわが寄る。殴りつけてやろうかと思ったけど、ここはぐっと堪えてあげる。どうにか口の端を上げて、足早に厨房へと戻った。客に見えないように、連絡先をごみ箱に放り投げる。何なの、こっちは仕事中だっつーの! 

「今日もモテるねぇ、君は」

 後ろからからかうような声が聞こえた。振り向いた先にいたのは、女子大生の先輩だ。にやにやしながらこっちを見ている。

「やだ、やめてくださいよ」

 わたしはぎこちなく笑顔を作って、そそくさと更衣室に逃げ込んだ。微かな期待を胸に抱きながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。

 新着メッセージ、0。

 膨らんでいた胸が、空気の抜けた風船のようにしぼんでいく。別に用事があるわけじゃないし、こっちから連絡したわけでもないんだけどさ。

 男の人って、あんまり連絡を取らないものなのかな。普通の恋人って、どのくらいの頻度で連絡を取っているんだろう。仕事の愚痴とか、今日あったおもしろかったこととか、そういうの、あんまり言わない方がいいのかな。そもそも、ちゃんと付き合っているわけでもないし……。

 ぐるぐると考えを巡らせても、答えなんて出るわけがない。違う、違うの。結局わたしは連絡をもらうことによって、「求められてる」って実感したいだけなのよ。わたしばっかりすき。そう思いたくないだけなの。分かっていることだけど、この想いが一方通行であると、思い知らされるような。そんな虚しさを感じるから。わたしはポケットにスマートフォンを戻し、さみしさを振り払うように仕事へ戻った。



 今日のシフトは二十時まで。せわしなく動き回ったあとの体は、重力が三倍になったみたい。のろのろとタイムカードを切ったら、待ちに待ったまかないの時間だ。制服を着替えて休憩室に行くと、ふたり分のご飯と店長が待っていた。

「オムライスとチャーハン、どっちがいい?」
「チャーハン!」

 勢いよく席に着くと、店長は苦虫を噛み潰したような表情で自分側にあったチャーハンをわたしに差し出した。いただきます、と同時に手を合わせ、スプーンを握る。

 古びたエアコンから、ごおお、と埃っぽい風が唸る。慌ただしい店内から隔離された休憩室は、別世界にいるみたいでなんとなく落ち着く。いつも通りのまかないも、疲れた胃袋にはまるで極上キャビアだ。

「蓮城さぁ、学校、ちゃんと行ってんの?」

 チャーハンを口に放り込んでいると、店長が突然尋ねてきた。

「行ってませんよ。夏休みだし」
「まぁそうだけど、そーゆーことじゃなくてさ」

 その続きにある言葉を予測して、わたしはじろりと睨んでやった。店長はぐう、と怯んで、ま、いいけど……と口を濁した。

 ハッピーベアの店長、本名永瀬博仁さん。推定年齢四十歳、独身、彼女あり。見た目は冴えないおじさんって感じ。髪もぼさぼさだし、無精髭生えてるし。全然かっこよくないけれど、なんとなく雰囲気が柊くんと似てる。あくまで、雰囲気だけ。

「でもなぁ、お前の高校、進学校だろ? せっかく受かったのに、もったいないよ」
「その話、もう百回くらい聞きました。いいんです。わたし、自立したいから。早くちゃんとひとり暮らししたいの」
「うん、分かった。分かってるよ……」

 語気を強めたわたしに気圧されたのか、店長は半ば投げやりにうなずいた。

 ろくに高校にも行っていないわたしを雇ってくれたのは、他でもないこの人だ。そこは感謝しているし、何かと面倒を見てくれるのもありがたい。でも、わたしはわたしで、どうしても譲れないものがある。若気の至りとか、考えが甘いと言われても曲げられない。浅はかな青春をやりきりたいのだ。

「お前、まだ母ちゃんとうまくいってないの」
「店長には関係ないでしょ」
「じゃああっちは? 男の方」
「ますます関係ないじゃん! それ、セクハラ!」
「いや、変な意味じゃなくて。お前、危なっかしいから心配になるんだよ。面接に来た時だって切羽詰まっててさ……おれ、落としたら自殺するんじゃないかって思ったよ」
「そんなに?」
「うん、もう、こんな顔」

 店長が目を見開いて、唇を真一文字に結ぶ。そのあまりにも深刻な面持ちにドン引きした。うわ、わたしこんな顔してたのか。

「そんなぶさいくじゃないもん。っていうか、バイトの面接に落ちたくらいで死なないもん」
「例えだよ、例え」

 オムライスを口に運びながら、店長が肩を落とした。

「こんなおっさんのお節介なんて、迷惑だと思うよ。おれだってお前くらいの年だった時は、うるせぇ、ほっとけ! って思ってたし。でもさ、お前が何を抱えてるか知らないけど、幸せになってほしいって思うんだよ」
「……どうして?」
「どうしてって、そりゃ、あたりまえだろ」

 さも当然のような顔をされて、わたしは言い返す言葉が思いつかなかった。あたりまえ、なのかな。ただのバイトのわたしにこんなに優しくしてくれるのって、世間では普通なのかな。わたしは店長に何も話していないのに。バイトを始めた理由も、抱えている悩みも、言っていないのに。苦しい時って、何も言わなくてもまわりの人に伝わってしまうものなのだろうか。

 わたしは今、幸せ。
 そう言い聞かせているのに、わたしは自分を騙せずにいる。

「……ただのおっさんのくせに」
「あっ、てめぇ、このやろ」

 ピコン、とゲームの効果音のような通知音が鳴った。店長はポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を見てちょっとだけ表情をゆるめた。

「……彼女からですか?」
「うん」

 最後の一口をそのままに、スプーンを置いてスマートフォンを操作する。わたしと話している時には見せない、優しい顔。特別な表情。

 急速に心が冷えていくのを感じた。残りのチャーハンを一気に口に詰め込んで、「ごちそうさまでした」と席を立つ。

「あれ、もう食べたの?」
「はい。おつかれさまでした」
「あ、うん。おつかれ」

 食べ終わった食器を片づけ、わたしは足早にその場を離れた。ご飯を食べたばかりなのに、なんだかおなかが膨らまない。食べる前より満たされない。心が、体が、からから、からっぽ。

 逃げるようにファミレスから出たら、急に瞳が潤み出した。おかしいな、何でだろうな。慌てて手の甲で目をこする。店長のことなんて全然すきじゃないのに。何でこんなに悲しいんだろう。

 この人もどうせ、他に大切な人がいる。どれだけわたしのことを気にかけてくれても、どれだけ大切にしてくれても、やっぱりわたしは一番じゃない。わたしは、いつもひとりぼっち。それを思い知らされた気がしたんだ、きっと。

 二番目でもいいなんて嘘です。さみしかったらさみしいと言いたい。会いにきてと言える資格がほしい。わたしはいつだって、最優先の権利がほしい。

 ポケットに入れたスマートフォンは死んだように黙り込んで、ほしい知らせを運んではくれなかった。



 若者の日常なんてそうそう変わるもんじゃない。学校に行って、授業を受けて、部活動をして、帰る。夏休みというイレギュラーを除けば、その繰り返し。

 一方、不登校児のわたしの日常はもっと単調だ。

「こちら、ハニーロイヤルミルクティーになります」

 翌日、午後三時。本日のわたしは、「リトル」という小さなカフェで接客中だ。昨日とメニューが違うだけで、仕事内容は変わらない。わたしの、二つ目のバイト。「ハッピーベア」と違って、都会の喧騒から外れた場所にあるため、それほど客数は多くない。時給もよくはないけれど、店の雰囲気とゆるさが気に入っていて、もう半年ほど続いている。労働時間も特に決まっていない。自分のすきな時に働いて、すきな時に帰る。それが定番。

「りせちゃん、もう上がっていいよ」

 この日はオーナーの一言で、十九時に店をあとにした。

「おつかれさまでしたー」

 あまったクッキーを手土産に帰路に着く。空を見上げると、太陽が西の空を赤色に染めていた。薄い雲が長く伸びて、空を泳ぐ魚のようだ。頬を撫でる生ぬるい風が、夏のにおいを連れてやってくる。夏草の青さと、元気をなくした蝉の声。もうおかえり、と急かすように、カラスが頭上を飛んでいく。スマートフォンの通知を気にしながら、河川敷をだらだらと歩いた。

 結局、昨日は柊くんから連絡が来ることはなかった。仕事が忙しかったのだろうか。教師って、夏休みは一体何をしているんだろう。部活とか、補習かな。連絡をする時間もないくらい忙しいのかな。何度目か分からない杞憂を繰り返す。通知なしの通知を見て肩を落とす、そんな自分がきらいだ。

 分かっている。忙しさは関係ない。いつも連絡が途絶えないのは、わたしが連絡しているからにすぎない。柊くんは返事をしているだけ。わたしが連絡をしなければ、柊くんも連絡してこない。柊くんにとってこのやりとりは、わたしほど特別な意味を持たないのだ。

「不安になるくらいなら、自分から連絡をすればいいのに」

 こんなことを雫に話したら、きっと彼女はそう言うだろう。変な意地を張らないで、素直に甘えてみれば? って。そんなの、わたしだってそうしたい。だけどわたしにはその権利がない。素直に甘える権利を持つのは恋人だけ。特別な存在だけ。その名を持たないわたしが、頻繁に連絡なんてできないの。

 そこまで考えて、わたしはぎゅうっと両目をつぶった。涙を目の奥に引っ込めて、ぱっと開く。やめよう、考えてもしかたない。そう思うのに、自然と歩行速度が落ちていく。バイトに行く時は急ぎ足なのに、家に帰るときはいつもそうだ。

 帰りたくないなぁ。

 誰に言うわけでもなく、心の中でつぶやいた。帰りたくない。帰る場所なんてない。お姉ちゃんの近くに、いたくない。幸せそうな顔なんて見たくないから。わたしが知らない柊くんを、知りたくないから。

 でも、それでも会ってしまうのは。
 姉妹だから、かな。

「りせ」

 背後から名前を呼ばれ、両足をとめた。胃がきゅうっと締めつけられる。夜に怯える子供のようにおそるおそる振り向いたら、もう逃げることはできなくなった。

「お姉ちゃん」

 わたしはいつも、その名を呼ぶたび呪いを吐き出すような感覚に陥る。すきな人に愛されない呪い。すきな人と、結ばれない呪い。それをかけた張本人。

 だいすきな、わたしの姉。

 小咲お姉ちゃんは、口の端に穏やかな笑みを携えてわたしに近づいてきた。

「偶然ね。バイト帰り?」
「うん……」

 わたしはぎこちなくうなずいて、お姉ちゃんを頭のてっぺんからつま先まで眺めた。一つにくくった髪の毛、控えめな化粧、上品なシャツに黒のタイトスカート。手に持っている買い物袋は、仕事も家事もできる女の証。バイトくらいで自立した気になっているわたしとは違う。

「荷物、半分持つよ」
「そう? ありがと」

 せめてもの背伸びをするように、お姉ちゃんの手から買い物袋を奪い取った。仲よし姉妹を装って、肩を並べて歩いていく。

 こんな風にふたりで歩くのは何年ぶりだろう。小さい頃、わたしはお姉ちゃんがだいすきだった。ちーちゃんがわたしに辛くあたるたび、守ってくれたのはお姉ちゃんだった。テストで満点を取った時、褒めてくれるのはちーちゃんじゃなくてお姉ちゃんだった。友だちと喧嘩をした時、楽しいことがあった時、お姉ちゃんはいつも話を聞いてくれた。優しくて、頭がよくて、かわいい。わたしの自慢のお姉ちゃん。

 わたしは今、あなたの目を見ることができない。

「今日もバイト?」
「うん」
「毎日大変ね。わたしより働いてるんじゃない?」
「そんなこと、ないよ」

 スムーズに答えているはずなのに、どうしてだろう。一言一言口にするたび、空気が冷えていくように感じる。コンクリートに伸びた二つの影はどこかいびつで、永遠に重なることはない。背後に迫る太陽が、じりじりと背中を焦がしていく。

 ああ、暑いな。呼吸が苦しいな。
 喉が、乾くな。

「……ねぇ、りせ」

 改めて名前を呼ばれると、わたしの肩は跳ね上がる。何か、重要なことを言われるような――隠しごとが、見つかったような。

 そんな、予感、が。

「やっぱり、うちには戻りづらい?」

 だけど、お姉ちゃんが口にしたのは、予想と全然違う言葉だった。わたしは思わずお姉ちゃんを見た。お姉ちゃんは困ったような、申し訳なさそうな笑みを浮かべていた。

「もうずいぶん経つよね、りせが離れで暮らすようになってから」
「そう、だね」
「最初はびっくりしたけど、むりもないかなって思ったよ。お母さん、わがままだし、りせにばっかり辛くあたるし……。りせのこと、きらいってわけじゃないのよ。大切には思ってるの。だからこそ、わたしができるだけフォローしなきゃって思ってたんだけど……うまくできなくてごめんね」
「そんな……お姉ちゃんのせいじゃないよ」

 わたしは慌てて首を振った。どうやら、わたしが家を出たのはちーちゃんとの確執が原因だと思っているらしい。

「わたし、ちーちゃんのことそこまで気にしてないもん。確かに仲よくはないけど……」
「そう? それならいいんだけど……」
「別に、特別な理由はないの。元々ひとりの方がすきだし、居心地がいいの。ちーちゃんと顔合わせると喧嘩しちゃうし……だから、今のままがいいの」

 言い訳を並べると早口になった。悟られてはいけない。本当の理由を、知られてはいけない。そしたらわたしは、きっとすべてを失ってしまう。お姉ちゃんはそう、とうなずいたきり、何も聞いてはこなかった。

「今日、しょうが焼き作ろうと思うの。よかったら手伝ってくれない?」
「え、でも……」
「いいじゃない、たまには。家族なんだから」

 家族。なんだか脅しのような単語だ。わたしと同じ色の瞳が、脅迫のようにわたしを見つめる。わたしはいつもこの瞳に怯えている。すべてを見透かしたような、大きな瞳。

「……うん、分かった」

 なるべく自然を装おうとしたら、頬の筋肉がつった。痛い。逃げ出すことに失敗して、心臓がきゅうっと締めつけられるのを感じた。ばか、何で了承したの。もうひとりの自分が怒っている。傷つくのも、傷つけるのも分かってるでしょ。

 その時、ポケットにしまっていたスマートフォンが震えた。取り出して見ると、柊くんからメッセージが届いていた。震える心を押し殺して、お姉ちゃんに気づかれないようメッセージを見る。

『夕焼けがきれいですね』

 短いメッセージとともに添えられていたのは、燃えるような夕焼けだった。わたしは振り向いて空を見た。

 写真と同じ、息を呑むほど深い、赤。薄く延びた雲。沈む太陽。頬を撫でる風すらも、夕焼けのにおいがしそう。

「りせ?」

 足をとめたわたしを、お姉ちゃんが呼ぶ。もう、わたしの耳には届いていない。

 そう、こうして世界は色づいていく。何気ない風景も、途端に価値のあるものに変わってしまう。あなたの言葉一つで世界が変わる。心が震える。喜びも悲しみも、幸福も不幸もあなた次第。

 その理由をわたしは知ってる。

 恋を、しているからだ。



 自分の家なのに、靴を脱ぐ時ちょっとためらってしまうのはなぜだろう。たぶん、答えは分かっている。玄関に飾られた写真が、わたしを責めているような気がするからだ。

「あれ、あんたたちふたりでいるの。めずらしい」

 リビングに入ると、ちーちゃんがソファに座ってテレビを見ていた。煙草の煙が目に染みる。わたしはむっと顔をしかめた。

「いい加減、煙草やめたら」
「やーよ。あんたこそ、いい加減学校行ったら」
「もう、やめてよ。親子なんだから」

 ギスギスした空気を破くように、お姉ちゃんがわたしたちを制した。ぷん、と子供のように顔を背けるちーちゃん。わたしは目を合わさず、お姉ちゃんと一緒にキッチンへ移動した。買い物袋から食材を取り出して、夕飯の準備を始める。

 こんな風にふたりで料理をするなんて、なんだか気恥ずかしい。わたしがキャベツを切って、お姉ちゃんが豚肉を焼く。姉妹の分担作業だ。ちーちゃんはめったに料理をしない。わたしたちが子供の頃は、いつもスーパーで買ったお惣菜か出前のピザだった。栄養が偏らないように、と、お姉ちゃんが家事を始めたのは高校生の時。わたしにとって家庭の味は、お姉ちゃんの手料理だ。

 できたてのしょうが焼きを、何年かぶりに家族三人で食べた。大抵の私物は離れに移したのに、ちゃんと今でもわたしの分のお皿があって、コップがあって、箸がある。どれだけ足掻いたって逃れられない。ここは、わたしの生まれた場所。

「あんた、料理なんてできたの?」

 しょうが焼きを口に含みながら、ちーちゃんが目を真ん丸くした。

「ちーちゃんよりはね」
「あっ、また生意気言って! ほんとむかつく」
「ふたりとも、落ち着いて食べなさい!」

 キャットファイトを繰り広げようとしたら、お姉ちゃんの怒鳴り声が飛んできた。こうなったら、わたしもちーちゃんもおとなしくなるしかない。昔から、この家の大黒柱はお姉ちゃんだ。

 結局、会話らしい会話もせず、あっという間にお皿がからっぽになった。働き疲れた胃袋はいっぱいに膨らんで、食欲が満たされたのを実感する。

「あんたにしては、おいしかったんじゃない」

 ちーちゃんはぶっきらぼうに吐き捨てると、さっさと自分の部屋にこもってしまった。相変わらず素直じゃない。幼稚な母親にあきれてしまう。

 わたしたちは、昔からこうなのだ。他の親子より仲が悪いけれど、他人から見るほど深刻じゃない。たぶん、わたしとちーちゃんは親子というより「ちょっと仲の悪いクラスメイト」みたいな距離感で、気は合わないけれどさして問題ではなく、ほんのちょっとのきっかけで仲よくなれる可能性を秘めている。そんな、関係なのだ。だから別に、愛してほしいとも思わないし、仲よくなりたいとも思わない。わたしにとってちーちゃんは、親でもなく友だちでもなく、だからといって他人でもない。おなかから産み落とされた以上、この縁が強いことを、わたしは知ってる。そして、ちーちゃんも。

 食事を終えたあとは、再びキッチンに戻って洗い物を手伝った。お姉ちゃんが洗って、わたしがタオルで拭く。こうしていると、昔に戻ったみたいだ。何もかも忘れられるような安心感に包まれて、自然に顔がほころんだ。お姉ちゃんの横顔をちらりと見る。ショートボブの髪がふんわりと揺れて、いいかおりがする。ああ、やっぱり、だいすき。

「お母さん、あれでも一応心配してるのよ。分かりづらいけど」
「うん、分かってる」
「ふたりにはもっと仲よくなってほしいな。いつまでも三人でいられるわけじゃないんだから……」

 お姉ちゃんの何気ない言葉に、心臓がどくん、と跳ねた。お皿を拭いていた手がとまる。

 あ、だめだ。わたしは直感的に考えることをやめた。深く考えちゃだめ。その言葉の意味を、理解しては、だめ。

「りせは、気になる子とかいないの?」
「えっ?」

 わたしは危うくお皿を落としそうになった。

「い、いるわけないじゃん! 学校もろくに行ってないのに……」
「バイト先の先輩とか、中学の同級生とかは?」
「もぉ、やめてよ。そんな簡単にすきにならないもん」

 必死に否定すると、お姉ちゃんはふふ、とおかしそうに笑った。

「りせはかわいいから、すぐにいい人見つかるよ。大切にしてもらえるだろうし……」

 不自然に途切れた言葉が、空中に溶ける。「どうしたの?」と尋ねたら、お姉ちゃんはううん、と首を振った。

「ちょっとうらやましいなぁって」
「何で?」
「だって、りせはまだ若いし、いろんな出会いがあるじゃない。柊くんとはもう付き合って長いから、ときめきなんか感じないもん」
「……そうなの?」

 無意識に、眉と眉の間が近くなった。お皿を拭く手は、もう完全にとまってしまった。お姉ちゃんは不満そうにうーんと唸った。

「優しいは優しいんだけどさ、それだけだよね。もう家族って感じで。女としては見られてない気がするもん。ま、それはそれでいいんだけどさ、たまにむかつくかな」
「へぇー……」

 わたしは平然を装って相槌をうった。微かな苛立ちがむくむくと育って、今手に持っているお皿を、思い切り床に叩きつけたくなった。

「この間もさ、せっかく柊くんの部屋に行ったのに、ただ寝てるだけなんだもん。昔はかまってくれたのに……」

 ――うるさいなぁ!

 心の中のわたしが、わたしの代わりに咆哮した。

 やめて、やめてよ。わたしの知らない柊くんなんて聞きたくないの。今すぐ耳を塞ぎたいのに、弱虫なわたしはそれすらできない。ねぇ、その話前も聞いたよね。悪口を言うくらいなら別れればいいのに。どうしてそれをしないの。どうして、わたしを飼い殺しにするの。
 心の中で吐いた暴言も、生まれた疑問も、どうしようもない虚しさも、音にならず消えていくだけ。誰にも伝わらない。苦しみも悔しさも、理解してもらえない。だからこうやって、唇をぐっと噛み締めて、作り笑いの準備をする。

 ちょうど洗い物を終えた頃、お姉ちゃんのスマートフォンが愉快な音を立てた。

「もしもし、柊くん? ……え?」

 電話の相手は柊くんのようだった。それにまた、いらいら。洗い物も終わったし、離れに戻ろうかな。リビングを出ようとしたら、お姉ちゃんがこっちを向いた。

「柊くんが、今からお土産持ってきてくれるって」
「えっ!」

 思いがけないサプライズに、喉の裏側から声が出た。

「な、何で? お土産? 何の?」
「なんか、生徒のお母さんにケーキもらったらしいよ。でも、柊くん甘いものあんまりすきじゃないから」

 知ってます。苦手なものは甘いもの、すきなものはオムライスです。

 ああ、どうしようどうしよう! もう当分会えないと思っていた! でも、いきなり会うとなると、それはそれで困る。だって、こんなに髪もぼさぼさだし、メイクもしてないし、服だって安いシャツとショートパンツだし。全然、かわいくないんだもん!

 お姉ちゃんによると、あと十分ほどで到着するということなので、わたしは洗面所にこもり、できる限り不自然にならないようメイクをした。

 ピンポーン。

 タイムリミットを告げるチャイムが鳴る。はぁい、とお姉ちゃんが玄関に向かう。これが自分の部屋だったら真っ先に飛び出すのだけれど、ここではそうもいかない。わたしは洗面所からこっそり様子をうかがった。

「悪いな、いきなり」

 玄関から柊くんの声が入ってくる。低くて優しくて、まぁるい声。いつまでも聞いていたい、心地よい音色。もっと近くで聞きたくて、おそるおそる玄関に出た。

「し、柊くん」

 お姉ちゃんの後ろから、おずおずと声をかける。柊くんはぱっとこちらを向いて、満面の笑みを浮かべた。

「久しぶり、りせ」
「……久しぶり、柊くん」

 口の端をくいっと上げて、いつもお決まりの台詞を言う。最後に会ったのは昨日。でも、公式には二週間前。

 あなたに出会ってからわたしは、嘘がうまくなったわ。



 柊くんにもらったケーキを体に取り込んでから、わたしは離れに戻った。

 キャンドルに光を灯すと、天井に人工の星が浮かび上がった。ちゃんと電気は通っているのだけれど、薄暗い方が落ち着くので、大抵こうしている。深海にたまったごみくずのように、床にはありとあらゆるものが散乱していた。さすがにそろそろ掃除をしなければ。近くに捨てられていたスカートを足で払いながら、わたしはげんなりと肩を落とした。 

 ほんの数ヵ月前までは、もっと片づいていたのにな。最近、柊くんはうちに来てくれない。まあ、元々頻繁に来ていたわけじゃないけれど。わたしが風邪をひいていた時、お見舞いに来てくれたのが最後。桜が満開だったから、あれは確か四月のこと。

 部屋は心を表すと思う。心が落ち着いている時はきれいで、悲しかったり苦しかったりすると、部屋の中も荒れていく。最近のわたしは台風が停滞しているように荒れ狂っていて、その証拠に、部屋の中はぐちゃぐちゃだ。もうこの状態に慣れてしまったけれど、座る場所くらいは確保しなければ。

 わたしはしゃがみ込んで、手の届く範囲にあるものから片づけ始めた。大抵は服だった。この一年で、がらりと服の好みが変わった。昔はレースとか、花柄とか、女の子らしいものがすきだったけれど、最近はロングスカートとか、大人っぽい服を好むようになった。おかげで服が溢れてしかたない。適当に畳んでは、衣装ケースの中に戻す。洋服が一段落したら、今度は本やCDだ。大抵は柊くんから薦められたもの。「コペルニクス」というアーティストも、知ったのはつい最近だ。柊くんに教えられるまで、名前すら知らなかった。今では知らない曲はないくらい、歌詞を見なくても歌えるくらい、心の奥に刻み込まれてる。

 CDの山を崩していったら、ぼろぼろのノートがひょっこりと顔を出した。わたしはタイムカプセルを掘り起こした気分になって、素早くノートを手に取った。色褪せたノートの表紙には、子供っぽいまん丸な字で、「家庭教師のぉと」と書かれている。そばにはぶさいくな猫のマーク。柊くんの落書きだ。わたしは懐かしさに目を細めた。

 わたしと柊くんが出会ったのは三年前。当時わたしは中学二年生、絶賛反抗期。長年積み重なったちーちゃんへのいらいらがとうとう爆発し、ご飯も食べない、勉強もしない、お姉ちゃんにすら牙を向けるとんでもない女の子だった。

 その時わたしはまだ、お姉ちゃんたちと同居していた。六畳ほどのわたしの部屋はとても狭かったけれど、広いリビングにちーちゃんといるよりは全然息苦しくなかった。お姫様みたいなベッドと、用途を守っていない勉強机、クローゼット。たくさんのぬいぐるみがぎゅうぎゅうと敷き詰められた、わたしのお城。ちーちゃんもお姉ちゃんも踏み込ませないその空間に、ある日、侵略者が現れた。

 その年の九月九日は金曜日だった。窓から見えた月がテカテカと白く輝いていたのを覚えている。凶暴なわたしの元にお姉ちゃんが家庭教師として送り込んだのは、当時大学生だった恋人、柊くんだった。スクランブル交差点のようにごちゃごちゃしたこの部屋で、柊くんはまるで避暑地に来ている金持ちみたいにリラックスしていた。初対面だというのに勝手にベッドに腰かけて、手元にあったぬいぐるみをミキサーのようにこねくりまわし、

「よぉ、りせ」

 と、まるで昔からの知り合いみたいに、わたしの名前を呼んだのだ。

 狂犬みたいに荒れていたわたしは、その失礼な声にものすごく警戒した。なによ、馴れ馴れしくしないでよって。どうせあんたもわたしの栗色の髪をめずらしそうに見て、むだに整った顔を褒めて、つまんない話をするんでしょ。分かってんのよ、そんなこと。わたしは世界を斜めに見るくせがついていた。でも柊くんは、もっと傾いた角度でわたしを見ていた。誰しもが賞賛するわたしの美貌を見て、柊くんが最初に放ったのは、「おい、ぶさいく」という痛烈な一言だった。

「何ふてくされてんだよ。根暗な美人より明るいブスのがモテるんだぞ」
「な、何それっ!」
 わたしはかちんときて、二つに縛った髪の毛をびゅんって鞭のようにしならせた。柊くんはくっくって喉で笑って、おいでおいで、と自分の隣に手招きをした。わたしは警戒しながらじりじりと柊くんに近づいて隣に座った。

 その時の会話は、一字一句覚えてる。

 家庭教師として雇われているにもかかわらず、柊くんは最初、まったく勉強を教えてくれなかった。代わりに柊くんが教えてくれたのは、星の話だった。

「星がどうやって生まれるか知ってる?」

 わたしは情けない声で、「そんなの分かんないよぉ」と首を振った。柊くんはちょっと待てよぉ、と言いながら、スマートフォンをわたしに見せてくれた。

「これ、オリオン大星雲。こういうとこで、奇跡みたいな化学反応が起こるの。おもしろいだろ」
「へぇーっ、詳しいね」
「そりゃ、先生だからな!」

 わたしのきらきらした眼差しを受けて、柊くんは得意げに笑った。その少年みたいな笑顔に、わたしはすっかり懐いてしまったのである。

 毎週金曜、十九時。わたしのゴールデンタイム。学校が終わってもなかなか帰宅しないわたしだけれど、金曜は風を切るように家に帰って、部屋を片づけて、ちょっと軽めのメイクをして柊くんを待った。

 教員免許を持っているだけあって、柊くんはとても教え方が上手だった。わたしが分からないところは丁寧に教えてくれて、テストでいい点数を取ったらまんべんなく褒めてくれた。相変わらずわたしをぶさいくって言うし、いじわるばっかりするけど、褒める時に頭を撫でてくれる、その手がすきで。最下位に近かったわたしの成績は風に乗った凧のように急上昇、十二月の期末テストでは、なんと学年五位になってしまった。

「すげーな、りせ。やるじゃん!」

 いつものゴールデンタイム。成績表を見せると、柊くんは大きく仰け反って、それからムツゴロウさんのようにわたしの髪をぐちゃぐちゃにした。もうっ、せっかくかわいくセットしたのに! いつもなら怒るところだけど、この日のわたしはもう、空にも飛べそうなくらいの気持ちだったから、えへへ、ってはにかむことしかできなかった。

「頑張ったご褒美あげないとなぁ。何がいい?」
「えっと、えっとね」
「ん?」
「……ほんとに、何でもいいの?」
「いいよ。何?」

 柊くんが、隣に座ってるわたしの顔をのぞき込んでくる。わたしはもう、どうにでもなれ! って思って、勢いよく願いを告げた。

「柊くんと、遊びたい!」
「え? 何して?」
「それは、それは、な、何でも!」
「そんなんでいいの?」

 わたしは何度もうなずいた。顔が真っ赤になって、柊くんをまっすぐ見れない。柊くんはうーんと唸ってから、「明日暇?」と聞いてきた。

「ひ、暇。朝から晩まで暇」
「じゃあ、おれんち来る?」
「へっ」
「前、星の写真見たいって言ってたろ。うちにいっぱいあるから、見せたげる」
「……行く!」

 わたしはとんでもなく飛び上がって、大げさだなぁと笑う柊くんをにこーって見つめた。この時すでに、わたしは柊くんのことをすきだったんだと思う。そりゃ、お姉ちゃんの恋人ってことは分かっていた。でも、なんというか、奪いたいとか付き合いたいなんてちっとも考えていなくて、一緒にいるのが楽しいから、もっともっと一緒にいたいな、って、本能のままに行動していたの。

 わたしはそれまで、人をすきになったことがなかった。告白はされたことがある。付き合ったことも、一応ある。でもわたしはやっぱりすきって感情が分からなくて、キスをしたいとも思わなかったし、させなかった。柊くんのことも、別にキスしたいとか、そういうやましい感情は一切なくて、子供が親戚のおにーちゃんに懐くような感じだったんだと思う。この時までは。

 忘れもしない、十二月三日、土曜日。その日はインクをこぼしたように濃淡がある空で、わたしはお気に入りの白いニットとセットアップのスカートを履いて、柊くんの家の最寄り駅でそわそわ待っていた。風で乱れる前髪を直していたら、寒そうに首を縮めた柊くんが現れた。緊張しているわたしを見て、「なんか、外で会うと変な感じだな」とぎこちなく笑った。あれ、もしかして柊くんもちょっと照れてる? そう思ったのは一瞬で、すぐいつもの余裕綽々の顔に戻った。

 ちょうどお昼時だったので、近くにあったレストランでランチをした。男の人とふたりでランチなんて初めてだから、デートみたいだなぁと思った。柊くんは、そんなこと思ってないんだろうけど。わたしの分までさらりとお金を出してくれるところとか、道路を歩く時車道側に立ってくれるところとか、細かいところに感動したの。あ、ちゃんと女の子扱いされてるって、嬉しくなったの。

 レストランを出たあとは、スーパーで買い物をしてから柊くんの部屋に行った。柊くんは五階建てのアパートの三階に住んでいた。どうぞ、と招かれるままに足を踏み入れた瞬間、あ、もしかしてこれって悪いことなんじゃないかな、って、初めて不安が襲ってきた。こういうの、お姉ちゃんに見られたら怒られるんじゃないかな。普段は優しいお姉ちゃんだけれど、怒るととってもこわい。わたしとちーちゃんが喧嘩すると、優しい目を鬼のようにつり上げて、ぐわっと雷様のように怒る。地震、雷、火事、お姉ちゃん。そんなレベル。

 だけど別に、付き合ってるわけじゃないし。家庭教師のお兄ちゃんと、場所を変えておしゃべりするだけ。別に悪いことじゃない。そう納得させて、わたしは柊くんの部屋にお邪魔した。

 柊くんの部屋は、すごくごちゃごちゃしていた。わたしの部屋がおもちゃ箱だとしたら、ここは宇宙空間だった。衣服の惑星、カバンの惑星、CDの惑星、本の惑星。それぞれ場所が決まっていて、でも、ぐちゃぐちゃ。壁にはいろんな星の写真が飾られていた。わたしは緊張も忘れて、その壮大な宇宙に見入った。出会った時に見せてくれた、オリオン大星雲。デネブ、アルタイル、ベガ。夏の大三角形。まるで魔法みたいな流星群の写真。目を奪われていたら、柊くんが後ろから「座れば?」と声をかけてきた。わたしはぎこちなくその場にしゃがみ込んだ。

「すごいね、写真。きれい」
「そーだろ。もっとあるよ。その前に、煙草吸っていい?」
「柊くん、煙草吸うの?」
「うん。実はヘビースモーカー」

 柊くんはベランダに出ると、煙草を一本取り出して、ぽっとライターで火をつけた。わたしはもぞもぞと四つん這いになりながらベランダのそばまで行って、ぼーっと煙草の火を見つめた。柊くんが、ん、とこっちを見て、大人っぽく目を細めた。

 風が、強く吹いた。

 オレンジ色の灯を見た瞬間、ああ、素敵だなと思った。同級生の男の子よりずっと大人で、いじわるなこの人を。心の底から、愛しさがこみ上げた。その長い腕に抱き締められたい。もっとこの人を知りたい。そう、思ってしまったのだ。

 突如生まれた感情をどうしたらいいか分からずに、わたしはじっと柊くんを見上げた。「待て」と命令された犬のように、柊くんが煙草を吸い終わるのを待った。柊くんはのんべんだらりと煙草を吸いながら、「流れ星ってさぁ」と口を開いた。

「肉眼では見えないけど、毎日二兆個くらい降り注いでるんだって」
「えっ、そんなに? どこ?」
「だから、見えないんだってば」

 柊くんはわたしのおでこを指で弾いた。ぐぃん、と頭がのけぞる。結構痛い。柊くんは煙草を灰皿に押しつけて、ベランダから部屋に戻ってきた。ぴしゃりとベランダの窓を閉めたら、風の音がシャットアウトされて、静けさが響いた。

 柊くんが脱力するようにベッドに腰かけたので、わたしもそそくさと隣に移動した。柊くんはぼんやりと壁にかかっている星の写真を眺めた。

「時々思うんだよ。流れ星が全部目に見えたら、すっげーきれいなんだろうなぁって。ま、そんなこと絶対むりなんだけどさ……」
「流れ星は、どこに行くの?」
「ん? 流れ星は、地球に落ちてるんだよ」
「えっ?」
「でも、地上に落ちる前に大気圏で燃やされちゃうの。たまに燃やされないものもあって、それが隕石」
「へぇーっ! 柊くん、物知り!」
「ま、先生だからな」
 いつものように誇らしげに、柊くんが胸を張る。それからちょっとばかにしたように、
「りせは何にも知らないんだなぁ」
「うん。だから、もっと教えて。わたしの知らないこと、もっと知りたい」
「星のことだけ?」

 試すように、聞かれた。わたしはびっくりして、魔法にかかったようにぴたりと動きをとめた。ふっと、柊くんの目が細くなる。

 最近、柊くんはわたしを見る時こういう目をする。なんというか、子供を見つめる時のような、愛しくてたまらないって瞳。その顔を見るたびに、鼓動が高鳴るのを感じる。

「……ううん」

 わたしは小さく首を振って、柊くんの顔をのぞき込んだ。

 近くで見た柊くんは、まつげがとっても長かった。まん丸な目は、小さな宇宙みたいにきらきらしていた。柊くんがおいで、って言うみたいに微笑んだので、わたしはどきどきしながら、柊くんの膝に手を置いた。

「柊くんの、ことが知りたい」
「ほんとに?」

 わたしは何度もうなずいた。柊くんはけらけら笑って、わたしの腰に両腕を回すと、まるでぬいぐるみを抱きかかえるみたいにぎゅっと抱き締めた。わたしはひゃあっと飛び上がって、でも逃れることなんかできなくて、親に甘えるみたいに抱き締め返した。そしたら世界があっという間に反転して、気づいたら、天井が正面にあった。影の入った柊くんの顔は、知らない男の人みたいだった。わたしはちょっぴりこわくなって、これから起こるすべてのことを想像して、どきどきした。でも、柊くんが安心させるように微笑んだから、わたしはそっと、両目を閉じることにしたのだ。やわらかい唇と唇が重なって、それから、わたしのちっぽけな意識は宇宙の果てまでぶっ飛んだ。これからどうなるのかとか、どうするのが正解だとか、そんなこと、どうでもよかった。

 この時わたしは、世界のすべてを知った気になったのです。
 


 いろんなことを思い出したら涙がじんわり染み出してきたので、わたしは慌ててシャワーを浴びた。髪を乾かす気力もなく、ばたんとベッドに倒れ込む。暗い部屋で、スマートフォンの明かりだけが、夜の電灯みたいに青白く光っている。

『ケーキありがと』

 メッセージを送ったら、すぐに返事が来た。

『喜んでくれてよかった。髪乾かして寝ろよ』

 わたしはがばっと起き上がって、きょろきょろと周囲を見渡した。じっと目を凝らしてみるけれど、当然のことながら人の気配はない。あーあ、何でもお見通しだなぁ、と息を吐いて、しぶしぶドライヤーを手に取った。

 ごおおおお。 

 乱暴な風が吹く。

 テーブルの上に開きっぱなしのノートが、過去からわたしを見ている。拙い方程式と、赤ペンで書かれた花丸。この頃は、考えることなんて何もなかった。罪悪感も抱かず、未来に悲観することもなく、今感じる幸せがすべてだと思えた。目の前にある幸福を、素直に楽しいと思えた。涙も一緒に乾かすみたいに、時折、ドライヤーを顔にあてる。ぶわぁっと熱い風が両目を襲って、目の奥がじぃんと痛くなった。八割ほど髪を乾かし終えたら、乱暴にドライヤーを放り投げて、もう一度、ベッドにダイブした。しぃん。しぃん。さみしさが鳴って、ああ、うるさい。耳を塞ぐように、枕に顔を押しつけた。

 まだほんの少ししか時は流れていないのに、どうしてこんなに悲しくなってしまったんだろう。きっともう、すぐそこに迫ってる。雪はもうすっかり溶けて、春の桜も散ってしまった。夏の太陽も、もうすぐ沈んでしまう。

 ふたりでいる時、柊くんはたくさんわたしを甘やかす。頭を撫でて、ぎゅうっと優しく抱き締めてくれる。言葉で伝えてくれることは少ないけれど、愛だけは確かに感じる。この間だってそう。口では面倒そうに言うけれど、顔を近づけたらにこって笑って、わたしを優しく受けとめてくれた。それでいい。それだけでいい。頭を撫でて顔を触って、猫じゃらしのように目の前で愛情をぶら下げるの。

 ――そうやって、わたしを犬猫みたいに扱って。

 目覚めた時には何もなくなる。分かっているの、そんなこと。

 枕がじんわりと濡れていった。悲しいな。切ないな。伝わらないな。今日もわたしは、泣きながら夢に潜り込むのだ。



 八月の中旬になると、気温も蝉の鳴き声もピークを迎えた。

 夏といえば入道雲。海にプールにかき氷。夏祭りに線香花火。ラブソングの歌詞みたいな単語を並べれば並べるほど、自分には無関係だと思い知らされる。

「いらっしゃいませー」

 今日も今日とて、わたしは「ハッピーベア」で仕事に精を出す。

 柊くんは顧問であるバスケ部の合宿で一週間いない。教師って、夏休みは暇なものだと思ってたけど、どうやらそうでもないらしい。補講をしたり、部活の顧問をしたり。柊くんがいないさみしさを紛らわせるように、わたしはバイトをぎゅうぎゅう詰めにしていた。

「……蓮城、最近太った?」

 客入りのピークがちょっと過ぎた時間帯。休憩室で一息ついていたら、店長がいきなりとんでもないことを言ってきた。

「えっ、うそ!」
「いや、元々細いんだけど。なんつーか、腹回りが」
「やだー! 何でそんなこと言うの! そういうこと言うからモテないんですよ」
「今更モテなくてもいいもん」

 店長はふんっと鼻を鳴らした。わたしは自分のおなかを摘まんで、うっと唸った。最近、柊くんに会えないストレスで甘いものを食べすぎたかもしれない。

「ストレスためてんだろ、まかないめちゃくちゃ食ってたもんな」
「そんなとこ気づかなくていいんですけど」
「心配してんだよ」
「わたしの体重なんて心配してくれなくていいの」
「いや、そっちじゃなくて」

 店長はうーん、と、ちょっと言いづらそうに口を開いた。あ、またおっさんくさいことを言おうとしてるな。わたしは身構えて、そっと店長から距離を取った。

「めちゃめちゃ働いてくれるのはありがたいんだけどさ、ちゃんと遊んでるか? 働くのなんて社会人になったらいやでもするんだからさ、夏休みくらい遊んどけよ。将来働き口がなかったら、ちゃんとおれが面倒見てやるから……」
「えぇ、わたし、一生ファミレス?」
「文句言うな。おれだって、今はしがない店長だけど、金が貯まったら……」

 そこで店長は、しゃべりすぎた、というように口をつぐんだ。

「何で黙るの? お金が貯まったらどうするの?」
「いや、別に、大したことじゃないけど……」
「何でそこまで言ってはぐらかすんですか。教えてくださいよ、ねぇねぇ」

 よれよれのエプロンを引っ張ったら、店長は観念したように「分かった、分かった」と語り始めた。

「おれの実家、和菓子屋でさ。でも、数年前の大地震で家が壊れてから休んでるんだよ。だから、金が貯まったらリフォームして、和菓子屋継ぎたいなって……」
「……へぇーっ、夢があるんですね」

 ちょっと意外だった。店長はいつもだらだらしていて、夢とか将来とか、そういうのには無縁な人だと思っていたから。

「和菓子屋って、かわいいなぁ。再開したら行ってみたい」
「おー、うまいぞうちは。ぜひ来てくれよ」

 店長は嬉しそうににやりと笑った。

「だから、行くあてなかったらちゃんと大人を頼れよ。そんな片意地張らなくてもいいんだ、子供は」
「またそんなこと言って! 何でそんなに、わたしのこと心配してくれるの?」
「そりゃするだろ」
「……でも、一番じゃないでしょ」

 わたしはちょっと声を低くした。エプロンを翻し、店長に背を向ける。レジでお客さんの呼ぶ声がする。ああ、もう行かなきゃ。

「一番じゃないなら、いらない」

 吐き捨てたら、店長の苦い視線が背中に突き刺さった。あーあ、やだやだ。最近涙腺がやけにゆるい。些細なことで悲劇を連想しては、ぽろっと涙が転がり落ちる。

 ――あなたに愛されてからわたしは、嘘がうまくなったわ。

 あれも嘘。これも嘘。今のも、嘘。

 一番じゃなきゃいやなんて、他の人には言うくせに。だったらなぜあの人に縋るのよ。会えない時間が長引くと、気分がどんどんセンチメンタルになっていく。憂鬱になっていく。愚痴を言いたくなってしまう。

 会えない時間が愛育てるのさ、って言うけど。それは名前のある関係だから言えることだ。会えなくなって、連絡も取らなくなったら、わたしみたいなちっぽけな存在は、忘れられちゃいそうな気がしてこわい。忘れられても、責められない。何で会ってくれないの、って。そう主張してもきっと、望んだ答えなんて得られないから。さみしさを訴える権利を、わたしは持たない。

 本日のバイトは十六時に終了。一直線に家まで帰ったわたしは、庭に着くと同時に雫に電話をした。

『もしもしぃ?』

 たった三コールで出てくれる。ちょっと疲れたような声だ。

「ねぇ、今部屋にいる?」

『え? うん』
「ベランダに出てきて」

 少し強引な口調で言った。ベランダの窓が開いて、スマートフォンを耳にあてた雫が出てくる。わたしはスマートフォンを耳から離して、大きく息を吸い込んだ。

「プール行こ!」
「え、今から?」
「今から!」

 むだに視力がいいおかげで、雫が驚いているのがよく分かる。そうよね、普通の女の子なら、前日からちゃんと計画を立てて、朝から遊びにいくものよね。でも、そんな常識関係ない。わたしたちには意味がない。

「……いーよ」
「え?」

 雫の声が聞き取れなくて、聞き返す。雫はちょっと恥ずかしそうにしたあと、夕方のぬるい風を思い切り吸い込んで、

「行く――っ!」

 その絶叫みたいな大声に、わたしは声を出して笑った。



 自転車で十分ほどのところにある区民プールは、ひとり五百円で何時間でも入れる、学生に優しいスポーツ施設だ。二十五メートルのレーンが八列。夕飯時の時間だからか、人はまばらだった。体力作りを目的とするお年寄りとか、大学生がちらほら。

 店長に言われた憎い言葉を思い浮かべながら、わたしはがむしゃらに泳いだ。クロール五十メートル、平泳ぎ百メートル、バタフライ五十メートル。ついでに背泳ぎで五十メートル泳いだところで、ようやく足を床につけた。ふぅっと息を吐きながらゴーグルを外したら、隣のレーンにいる雫が、ぽかんと口を開けてわたしを見ていた。

「……りせは、人魚姫みたいね」
「え?」
「歌もうまいし、泳ぎもうまいし。きれいだし……」
「――叶わない恋をしてるのが?」

 声に出してから、はっとした。雫の顔から表情が消えた。わたしはゆるく笑って、

「ごめん。じょーだん」
「ううん……」

 雫は微かに首を振って、ゆっくりと水中を歩き出した。わたしは息をとめて水中に潜り、雫のレーンに移動した。

 重力のない空間を、ゆっくりゆっくり歩いていく。冷たすぎない水の重さが心地いい。ふわふわ浮かぶような感覚が、非現実さを誘う。

 こうして水の中を歩いていたら、現実なんて至極どうでもいいことのように思える。肌に絡みつくぬるい水。高い天井。非現実的な今も、水着を脱げば現実に戻る。家に帰って泣きながら眠って、なかなか来ないメッセージを待ちながら、朝から晩までバイト、バイト、バイト。

 季節はどんどん変わっていく。きっと、わたしの知らないところで状況はどんどん進んでいる。なのにわたしは、明日も明後日も何の変哲もない日々が続く。わたしだけ、何も変われないまま。

「あーあ、楽しいことないかなぁ!」

 叫ぶだけじゃ何も変わらない。分かっているけど、叫ばずにはいられない。少し前を歩いていた雫が、「楽しいこと?」と振り返った。わたしは強く床を蹴って、雫の隣までひとっ跳びした。

「雫はないの? 楽しいこと」
「うーん、別に、ないかなぁ……」 
「奏真とどっか出かけたりしないの?」

 びくっと肩が飛び跳ねた。ああ、実に分かりやすい。

「……今度、水族館行く」
「そうなんだ。いいじゃん、わたし、水族館すき」

 雫はうぅん、と低く唸って、困ったように肩を水中に沈ませた。あ、またこの反応。

「どうしたの? 楽しみじゃないの?」
「……やっぱり、よく分かんないの」

 雫は消え入りそうな声で言った。濡れた頬が紅潮している。

「奏真のことはきらいじゃないし、一緒にいて楽しいんだけど……。友だちだった時の方が、気楽だったかなって」

「キスとか、まだしてないの?」
「で、できるわけないじゃん、そんなの!」
「何で? 付き合ってるんでしょ」
「それは……」

 雫はぐっと言葉に詰まった。わたしは追い詰めるように、わざと首を傾げてみる。雫の濡れた肩に手を置いたら、自然と、ふたりの足がとまった。

「……わたし、恋人ってよく分かんないよ。キスすらできない恋人って、付き合ってるって言うのかな。恋人の定義って、何なんだろう」
「そんなの……」

 ――そんなの、わたしが教えてほしいよ。

 喉から出そうになった言葉を、わたしは慌てて飲み込んだ。

 恋人じゃなくても、恋人らしいことはできる。手を繋いだりとか、キスしたり、とか。でもたぶん、それは永遠じゃない。恋人っていう肩書きがない限り、また同じことができるとは限らない。それを保証されているのが、付き合うっていうことだと思う。

 わたしは立ちどまっている雫を置いて、少し早足で歩き出した。水の重みで足がうまく進まない。りせ、と雫が呼びかけてくる。わたしは肩越しに振り返って、いたずらっぽく笑って見せる。そうすると、雫は慌てたようにわたしを追いかけてきた。わたしは追いつかれないように、わざと歩調を速くする。ゆるすぎるわたしの涙腺が、また、疼き出したから。

 雫がデートに乗り気じゃない理由を、わたしは知ってる。雫は本当の恋を知らない。奏真とどうして付き合い始めたのかは分からない。でも、雫の「すき」は友だちとしての「すき」で、男の人としての「すき」じゃない。だから、デートにもそんな乗り気じゃないんだ。

 わたしはぐっと唇を噛み締めた。いいな、ずるいな。堂々とデートできるなんて、うらやましいな。「恋人」って言葉、あこがれるな。わたしの方が、何倍も焦がれているのに! ほしくてほしくてたまらないものを、雫は持ってる。望んでもいないくせに簡単に手に入れて、それで「友だちの方がよかった」なんて! ずるいなぁ。贅沢だなぁ――うらやましいなぁ。

 こぼれた涙をごまかすため、わたしは水中に潜り込んだ。このまま、海の底まで沈み込めたらいいのに。



 プールを出る頃には、空は赤色に染まっていた。夏の夕焼けって、なんだか哀愁が漂っていてきらいだ。楽しい一日をリセットされてしまうような虚しさがある。肌に絡みつく風はプールと同じぬるさで、水分を含んだ髪や肌をするりと乾かしては去ってゆく。遠くで騒ぐ虫たちが、太陽を急かして、夜へと向かわせているようだ。

 雫のこぐ自転車の後部座席に乗って、坂道を勢いよく滑り落ちていく。きゃあきゃあ叫びながら校則違反をするのは青春の証。若さゆえの過ち、で片づけられるこの瞬間に、目一杯の悪さをする。それが、わたしたちの特権。

「夜ご飯、作ってあげる!」

 自転車をこぎながら、雫が叫んだ。

「いいの?」
「野菜炒めくらいしかできないけど!」
「食べたい! 食べる!」

 まるで喧嘩をしているような怒鳴り声。それがなんだかおかしくて、わたしたちは思い切り笑った。

 自転車でのドライブは十分ほどで終わった。自転車から降りた瞬間に、ポケットの中にあるスマートフォンが音を立てた。取り出して画面を見てみると、柊くんからメッセージが届いていた。

「どうしたの?」

 前を歩いていた雫が振り返った。わたしは咄嗟に、スマートフォンの画面を胸にあてた。

「……今から、来ないかって」

 消え入りそうな声で伝えたら、雫の顔から笑みが消えた。

「柊さんから?」

 わたしは少しためらったあと、無言でうなずいた。どうしよう。こういう時、どうするべきなのか、どうするのが正しいのか、ちゃんと分かっているのに。気持ちがついていかない。

 雫は短く息をついて、諦めたように微笑んだ。

「いいよ。行っておいで」
「……ごめんね」
「気にしないで。わたしとはいつでも会えるんだから」

 その声はちょっとさみしそうだった。わたしはもう一度ごめん、と頭を下げて、逃げるように離れに戻った。水着を置いて、お泊まりセットをカバンに詰め込む。髪の毛をくるくる巻いて、軽めにメイクをしてから、猛ダッシュで柊くんの部屋に向かった。

 友だちより男を取るなんてきらわれちゃうかな。雫の、さみしそうな笑みを思い出す。いやな女だな、わたしって。恋をするほどずるくなる。心も体も汚くなってく。でも、わたしたちには時間がないから。こうして一緒にいられるのも、きっともう永くないから。

 だからごめんね、許してね。今だけは、あなたを優先していたい。

 たとえあなたが、わたしを優先してくれなくても。



 今まで何度も辿ったはずの道なのに、いつもとっても遠くに感じる。なかなか速度を出せないこの両足がもどかしい。柊くんの部屋の前に到着する頃には、せっかく整えた髪もぼさぼさになっていた。震える指でインターホンを鳴らす。黒い扉がすぐに開いて、煙草をくわえた柊くんが現れた。

「来たー」
「おまたせ!」
「こらこら、抱きつくな」

 飛びつこうとしたら、柊くんが慌てて煙草を口から離し、手を高く上げた。わたしはおかまいなしにぎゅうっとその胸に飛び込んだ。

「暑い、暑いから」

 磁石のようにくっついたわたしをずるずる引きずりながら、柊くんはのろのろと部屋の中に戻った。

「腹減ってる? 何か食った?」
「ううん、食べてない。おなかすいてる、何か食べたい」
「いっぺんに言うな。とりあえず離れて」

 わたしははぁい、とふてくされた返事をして柊くんから離れた。大きすぎる座椅子に腰かけると、柊くんは煙草を灰皿に捨てて、キッチンへと消えていった。ごそごそと何かを取り出す音がする。一体何をしているんだろう、そわそわしながら待っていたら、柊くんがひょっこり顔を出した。

「じゃじゃーん」
「あっ!」

 柊くんが持っているものを見て、わたしは思わず立ち上がった。

「流しそうめん!」
「そーだよ、買っちゃった」

 それは、小さな流しそうめんセットだった。プラスチックの滑り台みたいな形をしている。柊くんは器用にそれをテーブルまで運ぶと、再びキッチンに戻った。わたしは子犬のように柊くんのあとに続いていった。鍋にたっぷり水を注いで火にかける。沸騰してからそうめんを入れて、ふにゃふにゃになるまでぐつぐつ茹でる。

「見てても何も楽しくないよ」

 じぃっと鍋を見つめるわたしを見て、柊くんがあきれぎみに笑う。違うの、別に楽しいからここにいるわけじゃないの。言葉で伝える代わりに、背中からぎゅっと抱きついてみる。

「ほらー、暑いから」

 柊くんはいやがる素振りを見せるけど、決して腕をほどこうとはしない。胸焼けするほど甘やかされる。それが、日常。

 茹だったそうめんをざるに移して、テーブルの上に運んだ。ふたり分のお皿と、箸、それに麦茶も。

「いただきまーす!」

 ふたりで同時に手を合わせたら、楽しい流しそうめんの始まりだ。

「いくぞー」

 おもちゃみたいな機械に、柊くんがするするとそうめんを流していく。必死でつかみ取ろうとするけれど、あれ、意外とうまくできない。何度チャレンジしても、するりするりと箸の間を滑っていく。え、何これ。何だこれ。

「もぉ、全然つかめない!」
「下手くそだなー、ほら、交代」

 今度はわたしがそうめんを流す番だ。するすると流れていくそうめんを、柊くんは器用に箸でキャッチした。

「はい、つかめたー」
「ええー、ずるい!」
「ずるくない、実力」

 柊くんは少年のようににこにこしながら、そうめんをおいしそうにすすっていく。ぎゅるぎゅるとおなかをすかせて見ていたら、柊くんが「じゃあ、もう一回交代な?」と言ってくれた。

「つかめないなら、下の方で待ち構えてみな。いくよ」
「うん!」

 わたしは大きくうなずいて、柊くんのアドバイス通り、箸を動かさずにそうめんを待ち構えた。流れ落ちてきたそうめんが、箸のところでぴたりととまる。

「やったー! つかめた!」
「よかったなー。いっぱいお食べ」

 わたしはようやくそうめんを口にすることができた。流しそうめんなんて、よく考えたら人生で初めてかもしれない。コシのある麺が喉元を過ぎて、おいしさが広がる。

「おいしい。柊くん、天才」
「茹でただけだけど」

 のんべんだらりと会話をしながらも、どんどん箸が進んでいく。三十分も経つ頃には、ざるの中身はすっからかんになっていた。

「おなかいっぱい……」

 ごちそうさまをしたわたしは、はち切れそうなおなかをさすって、ぐでーっとベッドに倒れ込んだ。柊くんも座椅子に腰かけてリラックスしている。

「おいしかったな。よかった」
「うん……あっ!」
「どうした?」
「ダイエットしてたの、忘れてた」
「もう遅い!」

 柊くんが鋭くつっこむ。せっかくプールで泳いだのになぁ、と先ほどの努力を憂いた。まぁ、でもいいや。おなかいっぱいの今は、何も考えられない。わたしはぼんやり柊くんの部屋を眺めた。壁一面に飾られた宇宙の写真。隅っこに置かれた天体望遠鏡。ぐちゃぐちゃに畳まれた服やカバン。もう何度も見た景色。あと何回見られるだろう。

 ふと気がつくと、柊くんがじっとわたしを見ていた。何か言いたげに、薄い唇が震えた。なぁに、と問いかけるように顔を上げたら、何でもないよ、と言うように、瞳がすうっと細くなった。

「あのさ、来週の水曜日あいてる?」
「うん」
「おれ、行きたいところあってさ。もしよかったらついてくる?」

 それって、もしかしてふたりきり? わたしは勢いよく飛び起きた。

「行きたい! どこ?」
「星がすっごくきれいな場所」
「えー、どこだろ! 楽しみ!」
「りせは星がすきだからなー。小咲は全然興味ないから」

 小咲。その一言で、わたしの表情が固まった。抱き着こうと伸ばした腕を引っ込めて、「……ふぅん」とつぶやく。

 だったら何で、付き合ってるの。

 喉まで出かけた言葉を飲み込んで、わたしは枕に顔を押しつけた。やめてよ、お姉ちゃんの名前なんて出さないで。本音を言ったらきっと気まずくなる。あなたに、きらわれてしまう。だからこうやって、枕で口を塞ぐの。

 柊くんが座椅子から身を起こして、わたしの方に近づいてきた。ぎし、とベッドのスプリングが軋む。

「なに拗ねてんの」
「拗ねてない」
「拗ねてるじゃん」
「……拗ねてます」

 降参して本音を言ったら、ぷっと柊くんが吹き出した。ちらりと見上げると、柊くんはくっくっと喉を鳴らして笑っていた。

「ばかだなぁ」
「ばかって言った! 柊くんきらい」
「嘘つき」
「嘘じゃない。きらい」
「はいはい。じゃあ、知らない」

 突然笑みを引っ込めて、柊くんがふんっと顔を背けた。そのままキッチンに行こうとするので、わたしは慌ててベッドから下りた。勢いよく背中に飛びつくと、柊くんは「ぐえっ」とカエルが潰れたような声を出した。

「何だよ」
「嘘、嘘です。きらいなんて嘘」

 早口で捲し立てたら、柊くんがくるりとこちらを向いた。口元をにやつかせた、いたずらっぽい笑みを浮かべている。

「ほんとは?」
「……すき」

 もう何度目か分からない告白をすると、柊くんは思い切り笑って、ご褒美のようなキスをした。

 ――あなたに愛されてからわたしは、ずるい女になったわ。

 照れる自分を演出するのが得意です。自分をかわいく見せる手段を知っているから。後ろからぎゅって抱きついたり、上目遣いで見つめたり、キスをする時背伸びをしたり。そういうの、全部計算済み。つまらないことに嫉妬したり、わざと「きらい」と言ってみたり。そうやって、柊くんの望む「りせ」を演じるの。かわいいって思ってもらえるように。都合がよくて、頭の悪い、清純な女の子を演じるのよ。

 優しくて、あたたかくて、いじわるな柊くん。わたしにとって最高の人。でもたぶん、他人から見たら最低の男。お姉ちゃんの、恋人。

 こうしてキスをして微笑んで、恋人みたいな顔をする、あなたを見ていつも思う。だいすきなの。大切なの。そばにいたいの。愛してるの。

 でも、それでも。

 罪悪感のかけらも見せずにわたしを抱く。あなたってちょっと歪んでる。



 悪いことは、人に隠れて行うもの。

 授業中にスマートフォンをいじったり、禁止されているバイトをしたり。制服のスカートを短くするのも、隠しごとだから楽しいんだ。

 夜の闇は、すきだ。わたしたちを隠してくれるから。誰にも邪魔されない。罪悪感なんて見えない。新鮮な朝より、汚れた夜がいい。ぐちゃぐちゃになった日中の想いや、いやな出来事も、全部包んでくれるから。

 ――りせは、泣かないね。

 雫から言われた言葉に、わたしはまた嘘をついた。泣かないなんて嘘。本当は些細なことで涙が出るの。一生分の幸せを知ったわたしは、一生分の涙を流してる。

 深夜、人も虫も寝静まった時間。隣で穏やかな寝息を立てる柊くんを、わたしは息を潜めて見つめていた。かち、かち、かち、と、規則的に進む時計が憎らしい。どうして時間ってとまらないの。何で太陽が昇るのを急かすの。そう思うだけで、瞳からつぅーっと涙が流れる。

 わたしは、柊くんがすき。それ以外どうだっていい。だから何も、考えないようにしよう。来るはずのない幸せな未来を夢見ながら、わたしはそっと目を閉じるのだ。
 


 朝よ、来ないで。ふたりの時間を奪わないで。何千回祈っても、いじわるな神様は今日も願いを叶えてくれない。その証拠に、起きたら朝をすっ飛ばしてお昼になっていた。

 寝過ぎたねぇ、なんて寝ぼけ眼で笑い合って、近くのレストランで昼食を取った。柊くんも一日休みだと言うので、そのまま部屋でだらだらと過ごした。別に何をするわけでもないけれど。お気に入りのDVDを見ながらくっついたり、楽しそうに星の話をする柊くんに、うんうんとうなずいたり。そんな些細なことが、幸せだと思うのだ。

 夜。夕飯を食べ終えたら、あっという間にお別れの時間になった。

「じゃあね、柊くん」

 大きな荷物を背負ったわたしは、玄関でにこりと微笑んだ。

「駅まで送らなくて平気?」
「大丈夫。柊くんお酒飲んでるし、お風呂も入っちゃったでしょ」
「気をつけろよ、顔はかわいいんだから」
「かわいいって言った!」
「うるせー。浮かれるな、ぶさいく」

 喜ぶわたしの頭をくしゃくしゃと撫でて、柊くんはおかしそうに目を細めた。

「また、水曜日な」
「うん!」

 わたしは大きくうなずいて、別れを惜しむようにじっと柊くんを見つめた。柊くんはすぐに察して、上からちゅっと唇を重ねた。拙い、ままごとみたいなキスだった。

「おやすみ柊くん」
「おやすみ、りせ」

 恋人にささやくような甘い声で、束の間の別れを告げ合った。後ろ髪を引かれながらも、くるりと踵を返して走り出す。カンカンカン、と鉄の階段を軽快に下りて、人の寝静まった街に飛び出した。さみしさを吐き出すように、大きく深呼吸をする。都会でも田舎でもないこの場所では、中途半端なネオンと車のライトが、ちかちかと夜を照らしている。本日の天気は曇り。空に浮かぶ光は何もない。ぬるい風が、洗い立ての肌を撫でる。

 わたしは振り返って、柊くんのアパートを眺めた。楽しい時間って流れ星みたいだ。大気圏で燃やされて、地上に着くまでに消えてしまう。なんて、脆い。ひとりぼっちで帰る時、必ず悲しさがつきまとう。だけど、今日は少し違った。水曜日、柊くんとまた会える。あと三回眠ったら、また会えるんだ。それだけでわたしは、生きていける。

 どんな服を着ようかな。どんなアクセサリーを着けようかな。少しお金が貯まったから、新しい服を買おうかな。そう考えただけで、小さな胸がスーパーボールみたいに弾む。わたしはにやけながら、再び前を向いて歩き出した。

 その、時だった。

「りせ」

 踊り出しそうなほど軽い足取りが、突然、鉛のように重くなった。横断歩道の信号が赤に変わり、わたしの逃げ道を奪った。

 ゆっくりと、振り向いた。

 そばを走る車のライトが、警告のようにちかちかと光った。車が横を過ぎ去るたび、彼女の姿が見え隠れした。眩しいほどの白い肌。ぞっとするくらい、穏やかな瞳。

「……お姉、ちゃん」

 声を出したら、唇が、震えた。お姉ちゃんは無邪気に微笑んで、ゆっくりとわたしに近づいてきた。

「こんな遅くに、こんなところで何してるの?」

 じんわりと汗が滲むのは、きっと暑いからじゃない。心臓が蛇のようにうねって、叫び声を上げている。

 嘘を、つかなきゃ。
 わたしの得意な、嘘を。

「バイト、してたの」

 わたしは口の端をくいっと上げて、ぎこちなく笑って見せた。

「五時間くらい働いたから、もうへとへと。今から帰るとこなんだ」
「そんなに働いてたの? 大変ね、おつかれ」
「ありがと。……お姉ちゃんは?」
「柊くんの家、ここの近くなの。ちょっと用事があって」
「へぇ、そうなんだ……」

 話を続ければ続けるほど、喉の奥がぐっと塞がれていくような気がした。真綿で首を絞められているような、やわらかな閉塞感、が。どんどん、呼吸を奪っていく。

 わたしの緊張とは裏腹に、お姉ちゃんはいつもとまったく変わらない。肩まで伸ばした髪が、さらさらと夜風に揺れている。瞳だって、口元だって、確かに笑みを浮かべているのに。すごくこわいのはなぜだろう。

「そうだ、柊くんのとこ、一緒に行く?」
「え?」
「だって、柊くんのことすきでしょ」

 びくっと肩が跳ねた。お姉ちゃんがふしぎそうに首を傾げる。わたしはしまった、と思った。

 だめだ。動揺を、悟られるな。わたしが柊くんのことをすきなのは周知の事実でしょ。子供が親戚のお兄ちゃんに懐くような、そういう「すき」でしょ。だから全然不自然じゃない。分かっていることを言われただけ。わたしは慌てて首を振った。

「ふたりの邪魔しちゃ悪いよ。それに、もう疲れちゃったから。早く帰って寝たいの」
「そう? でも、夜道は危ないよ」
「平気。慣れてるから」

 わたしはちらっと後ろにある信号を見た。お願い、早く青になって。早く、早く。わたしをここから助け出して。

 祈りが通じたように、ぱっと信号の色が変わった。わたしはほっと息をついて、重たい足を浮かせた。

「じゃあ……」
「楽しかった? 今日」

 逃げ出そうとしたわたしを、心ごとつかむ声だった。

「……え?」
「楽しかった?」

 わたしは、どう答えたらいいのか分からなかった。楽しかった、って、何が? バイトのこと? それとも――別のこと? この時わたしは、張り巡らされた罠にかからないよう、必死で思考を巡らせていた。だけどもう、むだだったんだ。

 もうとっくに、捉えられていた、のだ。

 お姉ちゃんは微笑んでいた。だけど、瞳はちっとも笑っていなかった。いつもよりずっと暗くて、それがすごくこわかった。

「ちゃんと分かってるよ。でも、どうせなら、もっとうまくやりなよ。せっかく気づかないふりしてあげてるんだから……」
「……何の、こと」
「りせ、昔からそうだもん。わたしね、これでもかわいいって言われてたんだよ。でも、りせを見ると、みんなりせに夢中になるの。わたしは大したことない子になっちゃう。勉強も、容姿も、全部普通になっちゃう」

 お姉ちゃんは少女みたいに背中の後ろで手を組んで、風に流されるように数歩、歩いた。

「別にいいの。りせはわたしの自慢だから。だけどね、だからこそ、思ったの。りせの一番すきなもの、これだけは譲れないって」

 優しさを含んだ目が、鋭く光った。わたしは、怯えることしかできなかった。

「柊くん、りせの家庭教師をやってた頃ね、よくりせの話してたの。あいつかわいいな、飲み込みも早いし、素直ないい子だなって。ちょっと嫉妬しちゃうくらい、楽しそうにりせのこと話すのよ。ふたりでいる時なんか、わたしよりずっと、本当の恋人同士みたいだった。うらやましかった。わたしよりお似合いだった。今だって、りせの方が愛されてると思う。敵わないなって思ったの」
「お姉ちゃん……」
「でもね」

 突然、声が大きくなった。

「肩書きって、強いの」

 ぴたりと両足をとめて、まっすぐにわたしを見る。もう笑顔は浮かんでいない。刃のような眼差しが、わたしを突き刺す。

「どれだけ愛されていても、どれだけ大切にされていても、肩書きがある限りわたしは一番なの。安定した位置にいるの。わたしが今までどれだけあなたに搾取されてたか、考えたことある? わたし、後悔してるの。お母さんに、りせを産んでって言ったこと。そしたら全部、わたしが一番だったのにって」

 お姉ちゃんはどんどん早口になる。まるで呪いを吐き出すかのよう。わたしはもうこわくて、とてもとてもこわくて、全身を子猫のように震わせることしかできなかった。

「ねぇ、全部あげる。美貌も、賢さも、全部あげる。だけどその代わり、一つだけわたしにちょうだい。わたしに、一番愛する人をちょうだい。絶対に渡さないから。……覚えておいてね」

 わたしは逃げるように走り出した。点滅する青信号に滑り込んで、全速力で横断歩道を駆け抜けた。走って、走って、走って、走った。振り返ることはしなかった。短距離走のように夜の街を駆け抜けて、地下鉄の階段を勢いよく下りて、ちょうど来た電車に飛び乗って、ようやく、足をとめた。

 ぜえぜえと獣のような呼吸をして、倒れるように座席に腰かけた。全身の震えがとまらない。汗が滝のように流れ落ちて、体中を冷やしていく。

 ばれて、しまった。ううん、違う。ばれていたんだ、最初から。お姉ちゃんは全部知っていた。わたしと柊くんの関係を。知っていて、今まで普通に接していたんだ。

 どうしよう。これからどうなるんだろう。お姉ちゃん、わたしに会ったことを柊くんに言うんだろうか。そうしたら、柊くんはどうするんだろう。もう、会ってくれないかもしれない。ああ、でも、どうなるにせよ。もう、今までとは違うんだ。

 電車が揺れるたび、ぎりぎりまでためた涙が、ぽろっと頬にこぼれていく。唇をぐっと食い縛って、漏れそうになる嗚咽を押し殺した。

 震える息の隙間に、こっそりと、歌を歌った。わたしと柊くんのすきな歌。今まで何度も口ずさんだ、あのメロディー。

「何で、来てくれないのぉ……」

 ――歌が聞こえたら、会いにきてね。

 そう、約束したのに。今までずっと、すぐに気づいてくれたのに。こんな閉鎖的な電車の中じゃ、誰にも歌は届かない。雫。雫。わたしの、たったひとりの、友だち。

 傷だらけのメロディーと透明な涙は、誰にも気づかれることなく、ゆらゆらと電車に揺られ続けた。



 どこか遠くに行きたい。そう思うのに、呪いがかかったわたしは自分のお城から出られないまま。できることと言えば、お姉ちゃんを避けることだけだった。

 あのあと、お姉ちゃんと柊くんがどういう会話をしたのかは分からない。だけど、部屋に戻ったわたしに、柊くんは「無事に帰れた?」という、いつも通りのメッセージをくれた。ぼろぼろ泣きながら、「帰れたよ」と精一杯の強がりを送ったら、「よかった、ゆっくりおやすみ」って言ってくれた。お姉ちゃんは、何も言わなかったんだ。それが逆に、責められているような気がしておそろしかった。

 約束の水曜日は、あっという間にやってきた。三時間かけて服を決めた。ピアスも決めた。前夜には顔パックもした。ただ最悪だったことは、目がうさぎのように腫れていることだった。二重の幅がいつもより広い。全然、かわいくない。

 そんなことを言ってもしかたないので、できる限りのメイクをして、お姉ちゃんに会わないように気をつけながら、待ち合わせ場所に向かった。人気の多い、駅前のロータリー。ここがいつもの待ち合わせ場所。人混みが、わたしたちを隠してくれるから。

 そわそわしながら待っていたら、見覚えのある車が目の前に停まった。わたしはむりやり笑顔を張りつけて、助手席に乗り込んだ。

「おはよ、柊くん!」
「おはよ、お待たせ」

 三日ぶりに見た柊くんは、いつもと同じように甘ったるく笑った。勢いよくアクセルを踏み込めば、ふたりきりのドライブが始まる。BGMはもちろん、「コペルニクス」の曲だ。

「あれっ、これ、新曲?」
「そう。昨日買った」
「いいなー、貸して!」
「いいよ。帰る時持ってきな」
「やったー!」

 こうしてふたりで遠くにいくのは久しぶりだ。ドライブにぴったりなポップスをBGMに、高速道路をびゅんびゅん走っていく。わたしたちを祝福するように、空は雲一つない快晴で、自然と気分も高揚する。

「今日はどこ行くの?」
「ふふん。内緒」
「えーっ、まだ?」
「行ってからのお楽しみ」

 柊くんはいたずらをしかける少年のように、含みのある笑い方をした。わたしはわざとほっぺたを膨らませて、機嫌を損ねたふりをする。だけどそんな演技はすぐにばれて、ふたりで笑い合ってしまうのだ。お気に入りの音楽を口ずさみながら、まっすぐな道をどこまでも走る。どこまでも、どこまでも、走っていく。

 ――考えないようにしよう。

 流れていく景色を眺めながら、わたしは心の中で言い聞かせた。お姉ちゃんのことも、未来のことも。考えないようにすればいいんだ。柊くんがすき。その気持ち自体は、悪いことじゃないんだから。そのことだけを、考えていよう。

 ドライブは、いつもよりものすごく長かった。東京を出たと思ったら、いつの間にか山梨も過ぎていて、高速道路の標識に示された地名は、まさか、まさかの。

「えっ、長野?」
「そーだよ」

 柊くんはあっさりと肯定する。いやいや、聞いてない。さすがにこんな遠出するなんて聞いてないよ。いや、嬉しいけど。これって、デートってレベルじゃない。旅行じゃん! そう意識したら、なんだか急に鼓動が速くなってきた。車のミラーをちらっと見て、前髪を軽く手で整える。朝、あれだけセットしてきたのにもう乱れてる。ピアスはこれでよかったかな。このワンピース、子供っぽくなかったかな。そわそわと体を揺らしているうちに、ふたりを乗せた車は一般道に下りていた。

「腹減ったなぁ、何か食べるか」
「は、はい!」

 緊張して声が上ずった。「何でいきなり敬語?」柊くんがふしぎそうに笑う。

 松本城の近くにあるパーキングに車を停めたわたしたちは、洋食屋さんに行ってハンバーグを食べた。おいしいはずなのに、緊張が胃に溢れていまいち味がよく分からない。柊くんは「うまいなぁ」とおいしそうにハンバーグを食べ、白米を二回もおかわりしていた。

「時間に余裕あるから、松本城寄る?」
「う、うん!」

 松本城は「烏城」という別名の通り、真っ黒な外観が印象的なお城だった。水堀にかかった朱色の橋がとてもきれいだ。柊くんは「かっこいいなぁ」と言いながらパシャパシャと写真を撮っていた。わたしはというと、水面に映る松本城と、ゆらゆら泳ぐ鯉を眺めながら、夢の中にいるような浮遊感と幸福感に浸っていた。

 ああ、なんて、幸せなの。

 おそるおそる柊くんの腕に抱きついてみる。柊くんは振り払わない。子供っぽいなぁ、と笑って、わたしの頭をくしゃりと撫でる。そうだ、ここでなら、他人の目なんて気にしなくていい。思う存分甘えていいんだ。道行く人たちは、わたしたちのことを恋人だと思っているのかな。そうだといいな。

 神様、ねぇ、今日だけは、柊くんの恋人でいさせて。この恋が叶うなら、わたし、死んだってかまわないから。



 松本城をあとにしたわたしたちは、スーパーで飲み物とおつまみを買ってから宿へと向かった。

「ここが本日のお宿でございます」

 車から降りた柊くんが、芝居がかった口調で言った。わたしは助手席から降りて、ぽけーっと目の前に建っている立派な旅館を見上げた。

 本日の宿、ってことは、やっぱりお泊り? お泊りですよね。普段柊くんと出かけるところといえば、家の近くのスーパーとか、あと、ほんのたまーに映画館に行くくらいだ。それなのにいきなり長野県で、しかも、こんな温泉宿に泊まるだなんて。試しにほっぺたをつねってみる。痛い。確かに痛い。

「何してんの。行くよ」

 柊くんは荷物をトランクから出すと、わたしを置いてすたすたと旅館に入っていく。わたしは慌てて柊くんを追いかけた。

 チェックインを済ませて部屋に入ると、畳の上に小さなちゃぶ台と座椅子が二つあった。ちゃぶ台の上には和菓子と緑茶が用意されている。こんな、絵に描いたような「旅館」に泊まるのって初めてだ。旅行なんて修学旅行くらいしかしたことがない。部屋の隅を見たら、ふたり分の浴衣が畳んであった。
「夕食まで時間あるから、それまで休憩な。そのあと、また出かけるから」

 柊くんは荷物を畳の上に置くと、どかりと座椅子に腰かけた。わたしはきょろきょろとせわしなく部屋を眺め、窓の外を眺め、無意味に箪笥を開いたり閉じたりした。
「何してんの、さっきから」

「今日はここに泊まるの?」
「そーだよ、さっき言っただろ。もしかして、明日予定でもあった?」
「ううん、ない」

 わたしは慌てて首を振った。実は「ハッピーベア」のシフトが入っていたけれど、店長にむりを言って変更してもらったのだ。「まぁ、お前はシフト入れすぎなくらいだからいいけど」と、店長はいやな顔をすることなく了承してくれた。

「泊まりって、言ってなかったっけ? 着替え持ってきた?」
「……持ってきた」
「下心あるな」
「いや、だって、もしものために」
「もしもって何だよ。すけべ」

 柊くんがにやにやといじわるく笑う。わたしは恥ずかしくなって唇を噛み、「そ、そーいえば」と話題を逸らした。

「どうして今日はここに来たの?」
「もちろん、星を見るためだよ」

 柊くんはおいでおいで、と小さく手招きをした。わたしは柊くんの元に駆け寄ってしゃがみ込んだ。スマートフォンを操作し、地図をわたしに見せてくる。長野県阿智村。ここがわたしたちの現在地らしい。

「ここ、阿智村。小さい頃一回来たことあるんだけど、あんま覚えてなくてさ。日本一の星空って有名なの。夜はヘブンズそのはらってとこに行くよ」 
「へぇーっ、今まで見た星よりすごいの?」
「すっごいよ。今日は満月だし、雲もない。こないだのより、もっときれい」
「わぁ! 楽しみ。すっごく楽しみ!」

 星空は何度も見たことがあるけれど、それを超える美しさなんて想像もつかない。そして何より、そんな最高の星空をわたしと一緒に見ようとしてくれていることが嬉しい。柊くんはわたしをじぃっと見つめると、髪をくしゃくしゃと撫でてきた。

「なぁに?」
「ありがとな、いつも付き合ってくれて」
「ううん、連れてきてくれて嬉しいよ!」

 満面の笑みを浮かべたら、柊くんも嬉しそうに微笑んだ。そのまま目を閉じようとしたら、邪魔するみたいに柊くんのスマートフォンから音楽が流れた。

「ごめん、ちょっとだけ待ってて」

 柊くんは立ち上がると、会話が聞こえないように早足で部屋の外まで出ていった。ただの電話なら、この場で出ればいいのに。それをしないのは、きっと相手が悪いから。ちらりと見えた、スマートフォンに表示された名前。……お姉ちゃんの、名前だ。

 たった今溢れたはずの高揚感は、しゃぼん玉のようにパチンと弾けて消えてしまった。恨むように部屋の扉を睨む。どんな会話をしているんだろう。どんな言い訳を並べているの。聞きたい、でも、聞きたくない。わたしは両手で耳を塞いだ。

 こうして、何も知らないふりをしていよう。ふたりの思い出とか、愛、とか。知らないなら、ないのと一緒。何も感じていないふりをして、柊くんが戻ってきたらにっこりと微笑もう。わたしさえ我慢していれば、きっと幸せでいられる。わたしが何も望まなければ、きっと仲よしでいられるから。さみしがり屋のこの口は、嘘で、塞いでしまおう。

 五分も経たないうちに電話は終わって、柊くんがひょっこり戻ってきた。わたしは練習していた笑顔を張りつけて柊くんを見上げた。そうしたら、柊くんは何でもないようにそっと笑って、ぽんぽんと頭を軽く叩いた。

 両腕を、差し伸べた。

 柊くんは何のためらいもなく、さもあたりまえのように受け入れて、わたしの背中に腕をまわす。何かを守るみたいに、ぎゅうっと強く抱き締める。

 柊くんの体温を感じるたび、目蓋の裏にいろんな人の顔が浮かぶ。お姉ちゃんが、ちーちゃんが、わたしを責めてる。雫はいつも何も言わない。何かを言いたげに見つめるだけで、絶対にわたしを責めない。

 だけどね、わたし、分かってるの。応援してくれてないって。本当は、わたしたちをとめたいんだって。ちゃんと、分かってるの。

「いけないことでしょ。こんなこと、しちゃ、いけないでしょ」

 どうして? 

「だって、柊さんには恋人がいるんだもん。りせは、遊ばれてるだけなんだよ。付き合ってないってことは、結局、遊びでしかないんだよ」

 そっと目を開けたら、誰もいないはずの空間に、雫がぼんやりと浮かび上がった。やるせない、悲しげな表情でわたしを見ている。わたしはじっと彼女を見つめる。

 こんなわたしたちを見ても、それが言えるの?
 こんなに甘やかされているのに、愛がないなんて言えるの?

 見せつけたい。全部ばらしたい。わたし、こんなに愛されてるのよって。愛して、愛されて、境目がなくなるまでどろどろに溶けて、作りものみたいな幸せとか、筋書き通りの未来とか、全部めちゃくちゃに壊したいのよ。シャツにすりつけたチークとか、おそろいの香水とか、そんな、蝶の羽ばたきみたいに些細なことで、明日は簡単に変わるから。

 ――でも、それができないのはきっと、惚れた弱みってやつなのでしょう。

 雫の幻は諦めたように、すぅっと空気に溶けて見えなくなった。



 夕食は、大広間での囲炉裏会席だった。目の前の囲炉裏で、旅館の人が野菜や信州牛を焼き上げてくれるのだ。お酒がだいすきな柊くんは、「酒が飲めないのがつらい」と嘆いていた。これから、わたしたちは車に乗って星を見にいくのだ。

 免許を取りたいな、と、ふと思った。そうしたら、柊くんを助手席に乗せて、どこにでも連れていけるのに。終電の時間を気にせず、柊くんと一緒にいられるのに。この旅行が終わったら、バイトをもっと増やそう。そして、教習所に通えるお金を稼ごう。

 夕食を食べ終わった、午後八時。夏の日の入りは遅いといえど、この時間になるとさすがに空は真っ暗だ。わたしたちは車に乗り込んで、ヘブンズそのはらまでの山道を駆け抜けた。「コペルニクス」の「星を見にいこうよ」という曲を流して、ふたりでカラオケにいる時のような大声で歌うと、テンションはどんどん高まっていった。

 車を二十分ほど走らせたところで、ようやく、ヘブンズそのはらに到着した。

「わぁ、すごい!」

 夜空を見上げると、そこには無数の星がダイアモンドのように輝いていた。やっぱり、街中で見るものとは比べものにならない。

「まだ、これが本番じゃないからな」

 柊くんはぽんぽんとわたしの頭を軽く叩き、足を進めた。わたしも慌ててあとについていく。

 お盆ということもあり、駐車場には車が溢れていて、チケット売り場にも長蛇の列ができていた。ヘブンズそのはらは阿智村の中にあるスキー場だ。スキー場としての運営が休止している春から秋にかけては、「天空の楽園ナイトツアー」が開催されているらしい。ゴンドラに乗車して、余分な光が届かない標高一四〇〇メートルの高原に移動し、満天の星空を楽しむことができる。

 なんとかチケットを購入したわたしたちは、スタッフの誘導に従ってゴンドラに乗車した。ゴンドラは約十五分、真っ暗な上、人が多くてなかなか外を見ることができない。混んでるなぁ、と柊くんが辟易したようにつぶやいた。わたしはうなずくのに精一杯で、少なくなっていく酸素を取り入れようと、口をぱくぱくさせていた。

 やっとの思いで山頂に着くと、夏場なのに空気がひんやりとしていた。ドリンクやチュロスを販売している売店が二店舗あり、その近くにはヘブンズそのはらの星見マップがあった。「おすすめスポット」「カメラ、三脚ならここ」「カップルでゆっくりするならここ」などが書かれている。

「ど、どこにする?」

 ちょっと試すように聞いてみた。柊くんは「うーん」と唸って、

「今日、三脚持ってきてないんだよなぁ。人の少ないところに行こうぜ」
「……はぁーい」
「何でそんな不満そうなの」
「別に」

 わたしはツンとそっぽを向いて、柊くんの前を歩いた。別に、いいんだけど。カップルって言ってほしかったわけじゃないけど。

 わたしたちは比較的人の少ないところにレジャーシートを広げた。空は視界に収まりきらないほど広い。じっと星を見続けていたら、自分の瞳に焼きつかないかな。そうしたら、いつまでもいつまでも、この景色を覚えていられるのにな。

 ぼんやりと星を眺めていたら、ガイドの人から注意事項などの案内があり、そのあと唐突にカウントダウンが始まった。

「えっ、何?」

 わけも分からず柊くんを見る。柊くんはいつものようににやっと笑って、まわりに合わせて数を唱えている。

「三、二、一……消灯!」

 ふっ、と、一斉に照明が消され、あたりが真っ暗になった。

 夜空の星がひときわ輝きを放った。光を邪魔するものが何もないからだ。その、見たこともない美しさに、息をするのを忘れた。

 一億の星が、降ってくる。

「すごいな。感動するなぁ」

 隣にいる柊くんの声も興奮ぎみだ。

 ガイドさんは手に持っていたライトで星を示しながら解説を始めた。まさに、天然のプラネタリウムだ。

 わたしたちは肩を寄せ合って、ぼんやりと星空を眺め続けた。ガイドさんの説明は、BGMのようにゆったりと耳を通過するだけで、あまり脳まで浸透してこなかった。

 わたしはなぜだか、じんわりと瞳が潤ってくるのを感じた。ああ、これは、一生の思い出になるな。何年経ってもきっと思い出す。この、天国みたいな星空と、少年みたいな柊くんの横顔を。わたしはそっと、柊くんの手に手を重ねた。柊くんは指を絡めて、わたしの手をぎゅっと包んだ。

 あたりが暗くてよかったと思った。涙が頬を伝って、膝の上にぽたりと落ちた。こんな些細なことで幸せを感じるなんて。それで安心するなんて。ばかみたい、こんなの。

「そーだ、りせ。これあげる」
「えっ、なに?」

 突然、柊くんがカバンから小さな袋を取り出した。わたしはふしぎに思いながらそれを受け取った。

「開けてみて」

 急かされるまま、こわごわと袋を開けてみた。中には長細いケースが入っていた。期待で膨らむ胸を押さえながら、ゆっくりとケースを開ける。

「わぁっ……」

 そこには、三日月型のネックレスが入っていた。

「誕生日、おめでと」
「……覚えててくれたの?」
「そりゃ覚えてるよ。お前、アクセサリーすきだろ」

 さもあたりまえのように、柊くんが言うけど、全然あたりまえなんかじゃない。だって、誕生日プレゼントをもらったのは初めてだもん。去年もその前も、ほしかったけれどねだれなかった。誕生日すら伝えることができなかった。

「ねぇ、つけてつけて!」

 涙を振り払うように、無邪気にねだった。柊くんはいいよ、って笑うと、丁寧にネックレスをつけてくれた。まるで、神聖な愛の儀式みたいだった。

「よかった、似合ってる」

 胸元にきらめいたネックレスを見て、柊くんが満足そうにうなずいた。わたしはぎゅっとネックレスを握った。

「……ありがとう、一生大切にする」
「しなくていいよ、安物だよ」
「やだ、ずっと大事にするの」
「はいはい、ありがとな」

 柊くんの大きな手が、わたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。少し哀愁を含んで、その手が離れた。

「りせ」

 改まったように、名前を呼ぶ。

「今、幸せ?」
「幸せだよ」

 わたしは大きくうなずいた。これが幸せじゃないのなら、きっと世の中に幸せなんてない。そう思えるくらい、満たされている。

「わたし、柊くんと出会わなかったら何にも知らなかったもん。空がこんなに広いってことも、星がこんなにきれいだってことも。だからわたし、幸せ。柊くんが幸せなら、もう何もいらないって、そう、思うんだ……」

 わたしは星空を見上げて、歌うように嘘をついた。幸せなのは本当、だけど、あなたが幸せなら幸せだというのは真っ赤な嘘です。わたしは、もっと幸せになりたいです。わたしはあなたの幸せになりたい。わたしの「すき」は、「全部ほしい」の「すき」です。あなたが思うほど、健気な女じゃないんです。

「そうか」

 柊くんは小さくつぶやいて、そっとわたしを引き寄せた。呼吸を奪うみたいに、ぎゅうっと強く抱き締めた。

「……どうしたの?」 

 柊くんから抱き締めてくるなんて、めずらしい。いつもわたしから抱きついて、しかたなく受け入れてくれる。それが普通なのに。

 いつもなら喜ぶはずなのに、なぜか、背中に腕をまわすのをためらった。わたしは白い両腕をだらりとぶら下げたまま、弱々しい柊くんに戸惑っていた。柊くんの息が耳にかかる。何かを、わたしに、伝えようとしている。

 それは、今に始まったことじゃなかった。振り返ってみればずっとそうだった。こないだ会った時も、その前も、ずっと、伝えようとしていた。だけどわたしは知るのがこわくて、無邪気を装って気づかないふりをしていた。

 ずっと、覚悟していた。
 その瞬間が、きっと、今。

「りせ。おれな」

 やめて。聞きたくない。聞きたくないよ。そう願うのに、耳を塞ぐことはできない。体が石のように固まって動かない。何にも、抵抗、できない。柊くんのことがすきだから。柊くんの弱々しい声に、耳をすまさなくてはいけない。

 震える息の隙間に、聞こえてきた、言葉は。

「おれ、小咲と結婚するよ」