重たく浮かんだ灰色の雲が破れて、糸のような雨が降ってくる。そんな日がだんだんと多くなった。
りせにかかっている「呪い」の正体が分かった日。あの日から、二週間が過ぎようとしていた。たった二週間。それなのに、カレンダーを一枚めくっただけで、何年も会っていないような気がするからふしぎだ。ああ、そういえば連絡先を聞いていなかったな。あまりにも近くに住んでいるから、聞く必要なんてないと思っていた。いつでも会えるはずなのに、離れをノックする勇気がない。時折ちらりと窓の外をのぞいてみるけれど、部屋の中は明かりが灯らないから、彼女がいつ帰ってきて、いつ出ていくのかさえ分からない。
ほんの少し一緒にいただけなのに。彼女がどんな子か、知った気になっていた。仲よくなれたと勘違いしていた。わたしが知っていることなんて、空から降る大量の雨の一滴くらいしかないのに。小瓶に入った金平糖は、りせを思うたびに一粒ずつ減っていって、気づけばもう半分しかない。
この二週間のうちに、高校最初の難関である中間テストが行われた。噂には聞いていたけれど、高校のテストってものすごく範囲が広い。課題に追われながらなんとかテストを乗り切ると、落ち着く間もなくそれぞれに順位が通達された。先生から順位が書かれた紙を受け取った生徒は、喜んだり、悲鳴を上げたり、まるで世紀末みたいに騒々しい。わたしはというと、三二十人中六十二位だった。可もなく不可もなく、まずまずの結果。
うちの高校では、五十位以内の成績優秀者が掲示板に貼り出される。初めてのテストとあって、廊下に順位が貼られた途端、生徒が虫のように群がっていった。人の順位なんて興味はないのだけれど、クラスメイトに連れられて虫の一匹になってみると、予想もしていなかった事実が発覚した。
『一位 一色奏真』
「すげーじゃん、奏真!」
背後から男の子の声が聞こえた。振り向くと、奏真が友人に肩を組まれて頭をわしゃわしゃと搔き乱されている。当の本人は、「たまたまだよ」なんて言いながら、はにかんだように笑っている。
わたしは停止した思考をなんとか再起動させ、古い記憶を思い起こした。あれ、こいつ、こんなに賢かったっけ。確か、ジャングルジムのてっぺんに登ってぼーっとしていたり、ゲームがなかなかクリアできないと泣き始めたりする、そんなやつじゃなかったっけ。
「あっ、雫!」
そそくさとその場から離れようとしたら、空気を読まない声が背中にあたった。振り向くと、群衆を抜け出して、奏真がわたしの元へ駆け寄ってくる。やめろ、こっちへ来るな。歩くスピードをぐんっと速めてみたけれど、あっという間に追いつかれてしまった。
「あのさ、今週末って暇?」
「……どうして?」
わたしは足をとめずに答えた。確か先月も似たような質問を受けた気がする。ちょっと身構えると、案の定、奏真は興奮した声で言った。
「この間買ったカメラ、使い方教えてほしいんだよ。あと、ようやくテストの順位出たから、小遣いもらえるんだ。二千円、返すの遅れてごめんな」
「それはいいけど、どこに行くつもり?」
「上野動物園!」
「……ふたりで?」
「そりゃそうだろ。雫に教えてもらうんだから」
奏真はあたりまえだろ、と言うように首を傾げる。まぁ、そうかもしれないけど、そういうことじゃなくて。休日にふたりで動物園って、それってなんだか……。
「奏真って、彼女とかいないの?」
「え? いないよ。何で?」
「いや……何でもない」
言いかけた言葉を飲み込んで首を振る。これ以上こいつには何も言うまい。
「じゃあ、土曜日あけといてくれよ。詳しいことは、まだ連絡するから」
「分かった。でも、あんまり期待しないでよ」
「大丈夫、ダメ出ししてくれるだけでもいいから。ありがとな!」
奏真は目尻をくしゃくしゃにして笑うと、軽い足取りでクラスメイトの元へと戻っていった。
またあいつのペースに乗せられてしまった。ひとりになったわたしは、遠ざかっていく奏真の後ろ姿を見て息を吐いた。土曜日の天気はどうだったっけ。雨だったらいやだなぁ。朝見た天気予報を思い出しながら、いつの間にかとまっていた足を再び動かした。
わたしの思いが通じたのか、土曜日は快晴だった。まだ五月にもかかわらず夏のように燦々と輝く太陽は、奏真のあっけらかんとした無邪気さに似ていた。昨日まで晴れる気配すらなかったのに、どうしてこんなにタイミングがいいんだろう。日頃の行いがいいからかな。わたしじゃなくて、奏真の。
上野駅の改札を出ると、息苦しいほどの人混みの中、カメラを首から下げている奏真を見つけた。
「ごめん、お待たせ」
「おー、おはよ」
奏真は能天気な声で挨拶をしたあと、ものめずらしそうな目でわたしを上から下まで眺めた。
「な、何よ、じろじろと……」
「いや、やっぱ制服とは雰囲気違うなって思って。女の子らしくてかわいいな」
「……あんた、わざと言ってる?」
「え、何が?」
「いや、何でもない……」
わたしは気恥ずかしさとあきれを感じ、奏真から目を逸らした。
本当にこいつは、無意識なんだろうなぁ。悪気も下心もない。だけどその素直さと純粋さは、わたしの心臓には毒だ。先日りせと出かけた時に買ったワンピースの裾を、きゅっと握り締めた。別に気合いを入れているわけじゃない。今日の今日まで着る機会がなかっただけ。だけど、褒められると悪い気はしない。りせのセンスに感謝しなければ。
休日というだけあって、園内は家族連れや恋人で賑わっていた。
「あっ、パンダ!」
入口を抜けてすぐに、奏真が人だかりに向かって走り出した。慌てて奏真のあとを追いかけ、人と人の隙間からなんとか顔を出すと、黒と白のころころとした生き物が、のんびりと笹を食べていた。
「かわいいなー、ぬいぐるみみたいだな」
「ほんとだね」
奏真が口元をゆるませるのもむりはない。遠目から見ても分かるくらいふわふわした毛も、笹を食べる愛らしい仕草もかわいい。不覚にも胸がきゅんとしてしまった。まわりから、「かわいい」がこだまのように聞こえてくる。この愛らしさ、人間では太刀打ちできない。
「ねぇ、何で動物園なの? 写真なんて、どこでも撮れるのに」
「おれ、動物すきなんだよ。犬とか、猫とか、うさぎとか。だから、やっぱりすきなもの撮りたいって思ってさ。それに……」
「それに?」
奏真は大きな瞳でじぃっとわたしを見つめた。なになに、わたしの顔、何かついてる? 疑問をぶつけるように眉を寄せたら、奏真は慌てたように目を逸らした。
「いや、雫とどっか出かけたいなぁ、って思ってただけ!」
「はぁ? 何それ」
「まぁまぁ、いいじゃん。あっ、写真撮らないと」
わたわたと慌ただしく首にかけていたカメラを手に持つ。何をそんなに慌てているんだ。わたしが首を傾げているうちに、奏真はパシャリとシャッターを切った。
「どう?」
わたしは撮れたての写真をひょっこりとのぞき込んだ。丸っこいパンダがのんびりと笹を食べている様子が写っている。後ろの方にある木でできた遊具も、目で見た通りだ。
「シンプルでいいと思うよ」
「そうかな。でも、どれも似たような写真になるんだよ。同じ構図だとまったく同じに見えるっていうか……」
「絞りとか、シャッタースピードを変えてないからじゃない?」
「絞り? シャッタースピード?」
「……説明書、ちゃんと読んだ?」
じろりと奏真を睨むと、奏真は気まずそうに頬を掻いた。
「実は、あんまり……。雫に教えてもらおうと思って」
「そういういい加減なところ、変わってないよね……」
わたしは長く息を吐いて、奏真の手からカメラを奪い取った。
「絞りっていうのは、カメラに取り込む光の量のこと。絞り値を大きくすると取り込む光の量が減って、逆に小さくすると光の量が増えるの」
パンダ目当てにできた人混みを抜けると、だいぶ呼吸がしやすくなって、いつもよりすらすらと言葉が出てきた。肩を並べて歩きながら、カメラを適当に調整していく。
「今撮った写真みたいに、被写体も背景もピントが合っているか、人物だけにピントを合わせて背景をぼかすか。絞り値を大きくすれば背景にもピントが合うし、逆に小さくすれば背景がぼやけるの。ほら、これで撮ってみて」
わたしは絞りを小さく調整して、奏真にカメラを返した。近くにいたゾウにカメラを向けて、パシャリとシャッターを切る。できあがった写真を見て、あっ、と奏真が声を上げた。
「さっきと違って、背景がぼやけてる! ゾウが主役って感じに写ってるな」
「でしょ。絞りを変えるだけでも、雰囲気変わるよね」
わたしはもう一度、奏真からカメラを受け取った。
「次、シャッタースピード。簡単に言うと、噴水の水を水滴で写すか、水の線として写すか、って感じ。シャッタースピードが速いと動いてるものがとまって写るし、逆に遅いと動きがそのまま写るの」
シャッタースピードを適当に調整して、はい、と奏真に手渡す。わたしたちはゾウから離れ、鳥類のいるゾーンへと歩いていった。風を切るようなスピードで飛んでいるワシにカメラを向け、同じようにシャッターを切る。奏真の撮った写真をのぞき込むと、予想通り、飛んでいるワシの姿がぶれずに写っていた。
「ほんとだ、すごい!」
「好みはあるし、調整の仕方はもっとたくさんあるけど、一番手っ取り早いのはこの二つを変えることかな。そうすれば、撮り方のバリエーションが増えるんじゃないかな」
「へーっ、おもしろいなぁ」
奏真は興奮したようにつぶやいて、パシャパシャとシャッターを切っていく。その子供っぽい無邪気さに、思わずわたしもくすりと笑った。
「結局、習うより慣れろ、だから。とにかくたくさん撮りまくれば上達すると思うよ。それに、わたしは風景を撮るのがすきだから、生き物を撮るのはあんまりうまくないし」
「得意とか苦手とかあるの?」
「そりゃ、あるよ。すきなものはやっぱり上手に撮れると思う。わたしはプロじゃないから、えらそうなこと言えないけど……被写体をどれだけ愛せるかっていうのが大切だと思う」
「そういえば、雫のおじいちゃん、カメラマンだったよな? 元気?」
「……三年前に死んじゃったよ」
答えてから、はっとした。しまった。声が、曇ってしまった。ちらりと奏真を見ると、彼は予想通り、ちょっと困ったように眉を下げていた。
「そっか。ごめんな、悲しいこと思い出させて」
わたしは慌てて首を振った。
「次、行こう。いっぱい写真撮るんでしょ」
空気を切り替えるように叫んで、そそくさと歩き出す。奏真は元気よく「おう!」と返事をして、わたしのあとをついてきた。
写真を撮り終えたわたしたちは、園内の一角にあるフードコートで休憩を取ることにした。
「はい、雫の分」
「ありがと」
奏真に買ってもらったソフトクリームを受け取って、ぺろりと舌で舐めた。夏にはまだ早いけれど、ぽかぽか陽気と相まってとてもおいしい。
「ごめん、おごってもらって」
「何言ってんだよ。元々借りてた分を返してるだけだって」
「でも、入園料も出してもらったし」
「授業料だと思ってくれよ。今日だってむりに付き合ってもらってるんだしさ」
「別に、むりってわけじゃないよ。……わ、わたしも楽しいし」
わたしは恥ずかしさを堪えて答えたけれど、奏真は先ほど撮った写真に夢中でまったく聞いていなかった。
「いやー、それにしてもいい写真撮れたなぁ。設定の仕方も分かってきたし。雫って教え方うまいから、分かりやすくて助かる」
「あ、そう……」
わたしは大きく口を開け、ソフトクリームにかぶりついた。
久しぶりに浴びる太陽の日差しが、やわらかく肌に浸透して気持ちいい。木々から放出されるマイナスイオンがおいしい。さらさらとした春の風が、わたしの短い髪を揺らしていく。
なんだか、恋人みたいだなぁ。
奏真の横顔を盗み見て、そんな、ばかげたことを考えた。
――恋人じゃなくても、恋人らしいことはできるの。
ふと、りせの言葉が脳裏をよぎった。聞いた時は、正直ありえないと思った。そんなの不純だよ、って。だけど、今ならりせの言葉の意味が分かる。
休日にふたりで出かける。もちろん、わたしと奏真はそんな関係ではないけれど、はたから見たらデートかもしれないし、恋人と間違われるかもしれない。男と女である以上、恋人じゃなくたって、しようと思えばきっと、何だってできるのだ。
「今度は人も撮りたいな。あと、風景も。昔からスマホのカメラで撮ったりしてたんだけど、どうしてもうまく撮れないんだよな」
「それもカメラの設定をきちんとすればきれいに撮れるよ。あとは、レンズを変えたり……。いろいろ試していくうちに、なんとなくコツがつかめてくるはず」
「そっか、そうだよな」
わたしはちょっと身を乗り出して、奏真の持っているカメラをのぞき込んだ。奏真がボタンを押すたび、パンダやゾウ、ワシやペンギンなど、さまざまな動物が次々に現れていく。
「あっ!」
その中の一枚を見て、わたしは大きく声を上げた。
「ちょっ、ちょっと、戻って!」
「え? これ?」
画面の中に写し出されたのは、動物を見ているわたしの姿だった。しかも眼鏡を外した、ほんの一瞬の場面だ。横を向いていたからまったく気づかなかった。
「何で勝手に撮ってんの!」
「なんかいい感じだったから、思わず」
奏真は悪びれる様子もなくへへ、と笑った。
「昔から思ってたんだけどさ、眼鏡外した方がいいよ。かわいい顔してんだから」
「……そういうこと、気軽に言わないほうがいいよ」
「何で?」
「わたしはいいけど、勘違いしちゃう子いるよ。恋人でもないのにさ」
「恋人だったら言っていいの?」
「う、うーん、そういう問題じゃなくてさ……」
わたしは何と言ったらいいのか分からず、言葉を濁した。こいつはなんというか、同年代の男子に比べて、恋愛沙汰には疎いというか。勉強はできるくせになぁ、ふしぎなものだ。
「じゃあ恋人になる?」
「……何言ってんの、ばかじゃない」
わたしはもう驚くことにも疲れて、冗談じみた奏真の言葉を軽くあしらった。奏真は「へへ」とはにかんだように笑い、そして黙った。
空を見上げたら、ソフトクリームと同じ形をした雲が、ゆらりゆらりと流れていた。
ああ、そういえば。
傾き始めた太陽を眺めながら、わたしはぼんやりと思い出した。
写真を撮り始めたばかりの頃だ。おじいちゃんと一緒にカメラを持って、近所をぐるぐると歩き回ったことがあった。道端に咲く名前のない花、何でもない標識、公園にある遊具、空を横切る飛行機雲。目新しい風景なんて一つもないのに、どうしてだろう。レンズを通すと、わたしにだけ与えられた特別な景色に思えた。きっと、意識しないと気づけない。風に揺らめく花のかわいらしさに。「止まれ」という標識のおもしろさに。飛行機雲の儚さに。
そういう「特別」を集めて並べてみたら、なんだかすごく誇らしくなったの。この「特別」を作ったのはわたしだ。わたしが、この「特別」を生み出したのだ。
「ありがとな、今日は」
動物園を出たら、あっという間に別れの時間がやってきた。カメラを満足げに触りながら、奏真は屈託のない笑みを向けた。
「いいよ。わたしも楽しかったし」
駅の時計は午後五時を示していた。頬を撫でる風もなんだかさみしげで、早くおかえりと急かしているようだ。
「やっぱり、ひとりで撮るのとは全然違った。雫と同じ高校になってよかったよ」
「もう、いつも大げさだよ」
不釣り合いな感謝を向けられて、わたしは肩をすくめた。今日集めた「特別」は、全部奏真が作り出したものだ。感謝されることなんて何もない。
「あのさ、これからもちょくちょく教えてもらっていいかな? おれ、もっと上手になりたいんだ。もちろん、むりにとは言わないけどさ……」
笑顔の代わりに、真剣な眼差しをわたしに向ける。答えようと口を開けたけれど、なぜだろう、すぐに声が出なかった。いやだよ、そんなの。めんどくさいよ。そうやって、いつもみたいに拒否したいのに。奏真の大きな瞳に映っている自分に気づいて、わたしは一歩、たじろいだ。
やめてよ、そんな真剣な表情。そんなまっすぐにわたしを見つめないでよ。わたしをみじめにしないでよ。奏真の真剣さを知れば知るほど、わたしはなぜだかこわくなる。
たぶん、最初からおそろしかった。奏真はわたしが捨てたものを持っているから。カメラに対する純粋な好奇心。向上心。知れば知るほどうらやましくなる。うらやましくて、みじめになる。だからわたしは遠ざけようとしていた。過去の自分を見ているようで、苦しくなるから。
だけど、それでも。
一緒にカメラを選んでしまったのは、まだ捨てきれないものがあるから。動物園に行くのを断らなかったのは、もう一度「特別」を作りたいと、心のどこかで思っているから。
ああ、やっぱり。
まだまだ甘いなぁ、わたしは。
「……いいよ」
「ほんと?」
「うん。でもわたしはもう写真は撮らないし、あんまり役に立たないよ」
「おれが撮った写真を評価してくれるだけでもいいよ! うわー、ほんと助かる。ありがとな、いつも」
「そんな感謝されるほどのことじゃないって、やめてよ」
わたしは気恥ずかしさを振り払うように、奏真の肩を強く叩いた。奏真はいてっ、と小さく飛び跳ねると、照れたように頬を掻いた。
「じゃあ、またな」
「うん。また」
わたしたちは簡単な別れを告げて、別々の道を歩き始めた。が、十メートルほど進んだところで、「しずくー!」と大きな叫び声が背中にあたった。振り向くと、奏真が口元に両手をあてて立っている。
「眼鏡、絶対取った方がいいからなー!」
「なっ……!」
わたしは驚きと恥ずかしさで、思わず周囲をきょろきょろと見渡した。幸いなことに人通りは少ないけれど、それでも何人かは怪訝そうに奏真を見ている。こいつの面倒なほどの無邪気さには慣れたつもりだったけど、もうだめだ、ギブアップだ。わたしはくるりと背を向けて、早足でその場から離れた。
ひとりになった途端、今日の出来事がため息となって口から出てきた。
疲れた。楽しかったけど、なんだか疲れた。奏真といるといつもこうだ。下心はないんだろうけど、素直すぎて心臓に悪い。いちいち意識していたらキリがないので、深く考えないようにしているけれど、一応異性である以上、どうしても反応してしまう。大した意味はないって分かってるのに。
電車の乱暴な揺れに身を任せながら、流れていく景色を見送る。せわしなく走る車。手を繋いで歩く親子。犬の散歩をする小学生。みんな、それぞれの時間を、それぞれの速度で生きている。いつだってそうなんだ。
人には平等に時間が与えられている。だけど、それなのに、時間が足りないとか、時の流れが遅いとか、文句を言いたくなるのはなぜだろう。今日もあっという間に西の空が真っ赤になって、やがて夜になる。
今日の奏真、きらきらしてたな。楽しそうで、嬉しそうで、輝いていた。まだまだ技術は拙いけれど、とってもいい写真だった。そりゃそうか。カメラを買うために、勉強も頑張ったんだもんな。かっこいいな。素敵だなぁ。……悔しい、なぁ。
突然、両方の瞳から、金平糖みたいな涙がぽろっとこぼれた。あれ、どうしたんだろう。泣くことなんてめったにないのに。まわりに人がいるのに。わたしは慌てて眼鏡を外し、手の甲で涙を拭った。何で。なぜ。どうしてこんなに涙が出るの。そんな、上辺だけの自問自答はあっさり剥がれて、とめどなく、感情が溢れて、くる。
わたしは今日も、カメラのシャッターを切れなかった。今日も停滞した。今日も、わたしだけの「特別」は何にもなかった。一歩踏み出さなければいけないのに。結局何も変われなかった。後悔は西の空と同じように燃え広がってキリがない。こんなにすきなのに触れられない。押入れの奥からカメラを取り出すこともできない。だって、思い出が優しすぎるから。だいすきで、大切な日々が多すぎて、心が耐えられそうにないの。今は、まだ。
電車を降りる頃には、なんとか涙はとまっていた。しまった、こんなセンチメンタルな気分になるつもりじゃなかったのに。ずびずびと鼻水をすすっていると、突然、視界が真っ暗になった。
「だーれだ!」
頭の後ろから甲高い声が響いて、わたしはぎゃっと飛び跳ねた。
「り、りせ!」
「えへへ、びっくりした?」
振り向いた先にいたのは、満面の笑みを携えたりせだった。一つに束ねた長い髪が、無邪気にゆらゆら揺れている。ぱっちりとした二重の瞳。桃色の唇。すらりと伸びた長い手足。久しぶりに会ったもんだから、そのかわいらしさに心臓が飛び出そうになった。
「び、び、びっくりした……」
「やった、大成功! 会うの久しぶりじゃない? 一緒に帰ろ」
「う、うん……」
激しく鳴る心臓を押さえながら、わたしはぎこちなくうなずいた。
ずっと会いたかったはずなのに、いざ会ってみると、何を話したらいいのか分からない。顔、まっすぐに見れない。うつむくと、すりきれた灰色のスニーカーと、真新しい水色のサンダルが、同じ速度で動いている。
「それ、この間買ったワンピースだよね。やっぱりすっごく似合ってる」
「そう、かな」
あ、よかった。わたしはほっとして、ようやく顔を上げた。あの夜見た、泣き出しそうな顔のりせはもういないんだ。
「どこ行ってたの? バイト?」
「そう。開店からずーっと働いてたから疲れちゃった」
「そんなに? 大変じゃない?」
「平気だよ、慣れてるもん」
そう言うりせは、ちょっと強がっているようにも見えた。細い腕をぶらぶらと前後に振る。その先にぶら下がっている、レジ袋が目に入った。
「それ、もしかして夕ご飯?」
「そうだよ。さっきコンビニで買ったやつ」
「毎日コンビニで買ってるの?」
「まかないの時もあるけど、大体はそうだなぁ」
「……ご飯作ってあげようか?」
思わずそんな提案をすると、りせの顔がぱっと明るくなった。
「ほんと? いいの?」
「いいよ。ひとりだとあまるし。その代わり、買い物付き合ってもらうけど」
「付き合う付き合う! やったー、ありがとう!」
りせは大げさに声を上げ、両手を高く空に伸ばした。
スーパーで買い物を終えて、りせと一緒に部屋へと帰った。健康的なものが食べたい、という彼女のリクエストに応えて、ふたりで肉じゃがを作ることにした。じゃがいも、人参、玉ねぎ、こんにゃく、あと、豚肉。いつもは適当に入れる調味料も、今日はちゃんとレシピ通りの分量を入れる。だって、りせのために作るんだもん。失敗なんて許されない。
「あー、おいしかった!」
気合いを入れたかいあって、りせはお皿に盛った肉じゃがをぺろりと平らげ、満足そうにおなかをさすった。
「雫はほんとに料理上手だね。わたしは全然できないや」
「栄養バランスが偏るから、コンビニ弁当ばっかりはよくないよ。また作ってあげる」
「えっ、いいの?」
「うん。いつも作りすぎちゃうし、いつでも食べにきて」
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
りせはえへへ、と嬉しそうに笑った。わたしはつられて目を細めた。
よかった。ちゃんと、普通に話せてる。あの夜の、弱々しいりせはもうどこにもいない。ここにいるのは、明るくて、元気な女の子だ。
そのままふたりでだらだらとしゃべっていたら、あっという間に時間が過ぎていった。カーテンの隙間から見える空の色がどんどん濃くなって、夜へと姿を変えていく。ベランダに出ると、冷たい夜風がするりと頬を撫でていった。
「風が気持ちいいね」
夜空に浮かび上がる半月を眺めながら、りせがぽつりとつぶやいた。最近は雨続きだったから、こうしてはっきり月や星が見えるのは久しぶりだ。ううん、晴れていたとしても、こんな風にゆっくり眺めたりしない。きっと、りせが隣にいるからだ。りせと一緒だからこそ、この景色が見られるんだ。
「……流れ星って見たことある?」
秘密の話をするように、りせがささやく。わたしは静かに首を振った。
「ううん、ない。りせは?」
「わたしは何度もあるよ。よくニュースでしし座流星群とか、ふたご座流星群とか言ってるでしょ。そういう時にね、夜更かしをしてじっと待つの。いつ流れるか分かんないし、すっごく眠たいんだけど、見える時はいっぺんに何十個も見えて、ああ、生きててよかったって思うのよ」
風で乱れる髪を押さえながら、りせの横顔をじっと見つめた。彼女の大きな瞳は、星の瞬きにも負けないくらいきらきらと輝いている。まるで、夜空を通してここにはいない誰かを見ているようだ。
その瞳に映る人を、わたしは知ってる。気づいてしまった。初めてりせを知ったあの夜、彼女が誰と会っていたのかを。
「……りせは、柊さんのどこがすきなの?」
気がついたら、ぽろっとそんな質問が口から漏れた。慌てて口をつぐんだけれど、もう遅かった。りせは夜空を見上げたまま、一時停止ボタンを押したみたいにぴたりと動かなくなった。
「……あの」
「えっ!」
肩に手をかけたら、りせはぴゃっと飛び跳ねて、ものすごい勢いで振り返った。
「えっ、いきなり? いきなりそういうこと聞くの?」
「う、うん。ごめん……」
絵に描いたような動揺ぶりだ。それまでの落ち着いた雰囲気はどこへやら、彼女は真っ赤になった頬に両手をあててしゃがみ込んだ。うーん、うーんと唸ったあと、不安そうにわたしを見上げて、
「……誰にも言わない?」
「う、うん。もちろん」
「絶対?」
「うん」
わたしは強くうなずいた。りせはためらうように下唇を噛んでいたけれど、やがて小さな声で話し始めた。
「……元々ね、柊くんはわたしの家庭教師だったの。ほら、母親があんなだからさ、お姉ちゃんが昔からわたしの保護者代わりだったんだ。だから、全然勉強しないわたしを心配して、中学生の時に柊くんを紹介してくれたの」
「そうだったんだ……」
わたしは小咲さんの笑顔を思い出した。少ししか言葉を交わしていないけれど、優しい人だということはすぐに分かった。
「柊くんは大学生でね、その頃から教え方がすごく上手だったの。勉強だけじゃなくて、柊くんはいろんなことを教えてくれた。だいすきな星のこととか、大学生活のこととか、すきな音楽とか。自分のことだけじゃなくてね、わたしにいろいろ聞いてきたの。『りせは何がすき?』『何がしたい?』って。それがすごく、嬉しかったの……」
しゃがみ込むりせの姿は、まるで小さな子供のように見えた。出会った時受けた印象とは違う。ひとりの、か弱い女の子が、そこにいた。
夜風がそよそよと庭の青葉を揺らした。微かな虫の吐息。遠くから聞こえる車の走る音。すべてが透明に澄み切って、優しく鼓膜を震わせる。ほんのりと色づいた彼女の頬や、彼女の震える声ですら、とてつもなく尊いものに思えた。
「いいよ、別に肯定してくれなくても」
わたしが黙り込んでいると、りせは拗ねたようにうつむいた。
「許されないって分かってるもん……」
「……違うの。そうじゃないの」
わたしは静かに首を振って、りせの隣に腰を下ろした。
「うらやましいって思ったの」
「うらやましい?」
りせはふしぎそうな顔でわたしを見上げた。
「わたし、恋とかしたことないから。そんなにすきになれる人に出会えていいなって。りせを見てると、そう思うよ」
「……ほんと? ほんとに、否定しない?」
「うん。……大丈夫」
――だって恋心を否定できるほど、わたしは恋を知らないもの。
わたしは誰かをすきになったことがない。同じクラスの男の子より、写真を撮る方がすきだった。恋愛話も興味がない。すきな男の子の話でどうしてそこまで盛り上がることができるのか、わたしにはよく分からない。
だから、りせの恋心が間違っているなんて断言できない。正しいとも言えない。それを判断できるだけの経験が、わたしにはないから。世間一般の人だったら、違ったことを言うかもしれない。本当の友だちなら、ちゃんと道を正してあげるべきだと。でも今は、わたしだけは、彼女の味方でいたいと思った。そうしないと、りせがわたしから離れていってしまうような気がした。
「……嬉しい。ありがと」
りせは膝を抱えたまま、安心したように目を細めた。わたしもつられて微笑んだ。今は、この笑顔をわたしに向けてくれる。それだけでいい。それだけが、すべて。
「あ、そうだ。七月になりそうだから」
「え?」
首を傾げると、りせはもぉ、ほっぺたを膨らませて立ち上がった。
「こないだ言ってた、柊くんとの天体観測。雫も来るでしょ?」
「興味はあるけど……わたしが行ってもいいの?」
「むしろ来てくれなきゃ困るの。お姉ちゃん、今回はちょっと行けないんだって。だから、雫が来てくれないと合法的に遠出できないの」
「そ、そーいうもん?」
「そーいうもんなの。三人が気まずいなら、誰か他の人誘ってもいいよ」
「そうだなぁ……」
わたしは顎に手をあててうーんと唸った。柊さんはいい人だし、話しやすいけれど、三人となるとちょっと居場所に困るかもしれない。誰とでも仲よくなれて、こういうイベントにすぐ参加しそうな人といえば――
そこまで考えて、思い浮かんだ人物はたったひとり。
『七月、一緒に星を見にいかない?』
その夜、奏真にこんなメッセージを送ったら、彼は二つ返事で了承した。
りせにかかっている「呪い」の正体が分かった日。あの日から、二週間が過ぎようとしていた。たった二週間。それなのに、カレンダーを一枚めくっただけで、何年も会っていないような気がするからふしぎだ。ああ、そういえば連絡先を聞いていなかったな。あまりにも近くに住んでいるから、聞く必要なんてないと思っていた。いつでも会えるはずなのに、離れをノックする勇気がない。時折ちらりと窓の外をのぞいてみるけれど、部屋の中は明かりが灯らないから、彼女がいつ帰ってきて、いつ出ていくのかさえ分からない。
ほんの少し一緒にいただけなのに。彼女がどんな子か、知った気になっていた。仲よくなれたと勘違いしていた。わたしが知っていることなんて、空から降る大量の雨の一滴くらいしかないのに。小瓶に入った金平糖は、りせを思うたびに一粒ずつ減っていって、気づけばもう半分しかない。
この二週間のうちに、高校最初の難関である中間テストが行われた。噂には聞いていたけれど、高校のテストってものすごく範囲が広い。課題に追われながらなんとかテストを乗り切ると、落ち着く間もなくそれぞれに順位が通達された。先生から順位が書かれた紙を受け取った生徒は、喜んだり、悲鳴を上げたり、まるで世紀末みたいに騒々しい。わたしはというと、三二十人中六十二位だった。可もなく不可もなく、まずまずの結果。
うちの高校では、五十位以内の成績優秀者が掲示板に貼り出される。初めてのテストとあって、廊下に順位が貼られた途端、生徒が虫のように群がっていった。人の順位なんて興味はないのだけれど、クラスメイトに連れられて虫の一匹になってみると、予想もしていなかった事実が発覚した。
『一位 一色奏真』
「すげーじゃん、奏真!」
背後から男の子の声が聞こえた。振り向くと、奏真が友人に肩を組まれて頭をわしゃわしゃと搔き乱されている。当の本人は、「たまたまだよ」なんて言いながら、はにかんだように笑っている。
わたしは停止した思考をなんとか再起動させ、古い記憶を思い起こした。あれ、こいつ、こんなに賢かったっけ。確か、ジャングルジムのてっぺんに登ってぼーっとしていたり、ゲームがなかなかクリアできないと泣き始めたりする、そんなやつじゃなかったっけ。
「あっ、雫!」
そそくさとその場から離れようとしたら、空気を読まない声が背中にあたった。振り向くと、群衆を抜け出して、奏真がわたしの元へ駆け寄ってくる。やめろ、こっちへ来るな。歩くスピードをぐんっと速めてみたけれど、あっという間に追いつかれてしまった。
「あのさ、今週末って暇?」
「……どうして?」
わたしは足をとめずに答えた。確か先月も似たような質問を受けた気がする。ちょっと身構えると、案の定、奏真は興奮した声で言った。
「この間買ったカメラ、使い方教えてほしいんだよ。あと、ようやくテストの順位出たから、小遣いもらえるんだ。二千円、返すの遅れてごめんな」
「それはいいけど、どこに行くつもり?」
「上野動物園!」
「……ふたりで?」
「そりゃそうだろ。雫に教えてもらうんだから」
奏真はあたりまえだろ、と言うように首を傾げる。まぁ、そうかもしれないけど、そういうことじゃなくて。休日にふたりで動物園って、それってなんだか……。
「奏真って、彼女とかいないの?」
「え? いないよ。何で?」
「いや……何でもない」
言いかけた言葉を飲み込んで首を振る。これ以上こいつには何も言うまい。
「じゃあ、土曜日あけといてくれよ。詳しいことは、まだ連絡するから」
「分かった。でも、あんまり期待しないでよ」
「大丈夫、ダメ出ししてくれるだけでもいいから。ありがとな!」
奏真は目尻をくしゃくしゃにして笑うと、軽い足取りでクラスメイトの元へと戻っていった。
またあいつのペースに乗せられてしまった。ひとりになったわたしは、遠ざかっていく奏真の後ろ姿を見て息を吐いた。土曜日の天気はどうだったっけ。雨だったらいやだなぁ。朝見た天気予報を思い出しながら、いつの間にかとまっていた足を再び動かした。
わたしの思いが通じたのか、土曜日は快晴だった。まだ五月にもかかわらず夏のように燦々と輝く太陽は、奏真のあっけらかんとした無邪気さに似ていた。昨日まで晴れる気配すらなかったのに、どうしてこんなにタイミングがいいんだろう。日頃の行いがいいからかな。わたしじゃなくて、奏真の。
上野駅の改札を出ると、息苦しいほどの人混みの中、カメラを首から下げている奏真を見つけた。
「ごめん、お待たせ」
「おー、おはよ」
奏真は能天気な声で挨拶をしたあと、ものめずらしそうな目でわたしを上から下まで眺めた。
「な、何よ、じろじろと……」
「いや、やっぱ制服とは雰囲気違うなって思って。女の子らしくてかわいいな」
「……あんた、わざと言ってる?」
「え、何が?」
「いや、何でもない……」
わたしは気恥ずかしさとあきれを感じ、奏真から目を逸らした。
本当にこいつは、無意識なんだろうなぁ。悪気も下心もない。だけどその素直さと純粋さは、わたしの心臓には毒だ。先日りせと出かけた時に買ったワンピースの裾を、きゅっと握り締めた。別に気合いを入れているわけじゃない。今日の今日まで着る機会がなかっただけ。だけど、褒められると悪い気はしない。りせのセンスに感謝しなければ。
休日というだけあって、園内は家族連れや恋人で賑わっていた。
「あっ、パンダ!」
入口を抜けてすぐに、奏真が人だかりに向かって走り出した。慌てて奏真のあとを追いかけ、人と人の隙間からなんとか顔を出すと、黒と白のころころとした生き物が、のんびりと笹を食べていた。
「かわいいなー、ぬいぐるみみたいだな」
「ほんとだね」
奏真が口元をゆるませるのもむりはない。遠目から見ても分かるくらいふわふわした毛も、笹を食べる愛らしい仕草もかわいい。不覚にも胸がきゅんとしてしまった。まわりから、「かわいい」がこだまのように聞こえてくる。この愛らしさ、人間では太刀打ちできない。
「ねぇ、何で動物園なの? 写真なんて、どこでも撮れるのに」
「おれ、動物すきなんだよ。犬とか、猫とか、うさぎとか。だから、やっぱりすきなもの撮りたいって思ってさ。それに……」
「それに?」
奏真は大きな瞳でじぃっとわたしを見つめた。なになに、わたしの顔、何かついてる? 疑問をぶつけるように眉を寄せたら、奏真は慌てたように目を逸らした。
「いや、雫とどっか出かけたいなぁ、って思ってただけ!」
「はぁ? 何それ」
「まぁまぁ、いいじゃん。あっ、写真撮らないと」
わたわたと慌ただしく首にかけていたカメラを手に持つ。何をそんなに慌てているんだ。わたしが首を傾げているうちに、奏真はパシャリとシャッターを切った。
「どう?」
わたしは撮れたての写真をひょっこりとのぞき込んだ。丸っこいパンダがのんびりと笹を食べている様子が写っている。後ろの方にある木でできた遊具も、目で見た通りだ。
「シンプルでいいと思うよ」
「そうかな。でも、どれも似たような写真になるんだよ。同じ構図だとまったく同じに見えるっていうか……」
「絞りとか、シャッタースピードを変えてないからじゃない?」
「絞り? シャッタースピード?」
「……説明書、ちゃんと読んだ?」
じろりと奏真を睨むと、奏真は気まずそうに頬を掻いた。
「実は、あんまり……。雫に教えてもらおうと思って」
「そういういい加減なところ、変わってないよね……」
わたしは長く息を吐いて、奏真の手からカメラを奪い取った。
「絞りっていうのは、カメラに取り込む光の量のこと。絞り値を大きくすると取り込む光の量が減って、逆に小さくすると光の量が増えるの」
パンダ目当てにできた人混みを抜けると、だいぶ呼吸がしやすくなって、いつもよりすらすらと言葉が出てきた。肩を並べて歩きながら、カメラを適当に調整していく。
「今撮った写真みたいに、被写体も背景もピントが合っているか、人物だけにピントを合わせて背景をぼかすか。絞り値を大きくすれば背景にもピントが合うし、逆に小さくすれば背景がぼやけるの。ほら、これで撮ってみて」
わたしは絞りを小さく調整して、奏真にカメラを返した。近くにいたゾウにカメラを向けて、パシャリとシャッターを切る。できあがった写真を見て、あっ、と奏真が声を上げた。
「さっきと違って、背景がぼやけてる! ゾウが主役って感じに写ってるな」
「でしょ。絞りを変えるだけでも、雰囲気変わるよね」
わたしはもう一度、奏真からカメラを受け取った。
「次、シャッタースピード。簡単に言うと、噴水の水を水滴で写すか、水の線として写すか、って感じ。シャッタースピードが速いと動いてるものがとまって写るし、逆に遅いと動きがそのまま写るの」
シャッタースピードを適当に調整して、はい、と奏真に手渡す。わたしたちはゾウから離れ、鳥類のいるゾーンへと歩いていった。風を切るようなスピードで飛んでいるワシにカメラを向け、同じようにシャッターを切る。奏真の撮った写真をのぞき込むと、予想通り、飛んでいるワシの姿がぶれずに写っていた。
「ほんとだ、すごい!」
「好みはあるし、調整の仕方はもっとたくさんあるけど、一番手っ取り早いのはこの二つを変えることかな。そうすれば、撮り方のバリエーションが増えるんじゃないかな」
「へーっ、おもしろいなぁ」
奏真は興奮したようにつぶやいて、パシャパシャとシャッターを切っていく。その子供っぽい無邪気さに、思わずわたしもくすりと笑った。
「結局、習うより慣れろ、だから。とにかくたくさん撮りまくれば上達すると思うよ。それに、わたしは風景を撮るのがすきだから、生き物を撮るのはあんまりうまくないし」
「得意とか苦手とかあるの?」
「そりゃ、あるよ。すきなものはやっぱり上手に撮れると思う。わたしはプロじゃないから、えらそうなこと言えないけど……被写体をどれだけ愛せるかっていうのが大切だと思う」
「そういえば、雫のおじいちゃん、カメラマンだったよな? 元気?」
「……三年前に死んじゃったよ」
答えてから、はっとした。しまった。声が、曇ってしまった。ちらりと奏真を見ると、彼は予想通り、ちょっと困ったように眉を下げていた。
「そっか。ごめんな、悲しいこと思い出させて」
わたしは慌てて首を振った。
「次、行こう。いっぱい写真撮るんでしょ」
空気を切り替えるように叫んで、そそくさと歩き出す。奏真は元気よく「おう!」と返事をして、わたしのあとをついてきた。
写真を撮り終えたわたしたちは、園内の一角にあるフードコートで休憩を取ることにした。
「はい、雫の分」
「ありがと」
奏真に買ってもらったソフトクリームを受け取って、ぺろりと舌で舐めた。夏にはまだ早いけれど、ぽかぽか陽気と相まってとてもおいしい。
「ごめん、おごってもらって」
「何言ってんだよ。元々借りてた分を返してるだけだって」
「でも、入園料も出してもらったし」
「授業料だと思ってくれよ。今日だってむりに付き合ってもらってるんだしさ」
「別に、むりってわけじゃないよ。……わ、わたしも楽しいし」
わたしは恥ずかしさを堪えて答えたけれど、奏真は先ほど撮った写真に夢中でまったく聞いていなかった。
「いやー、それにしてもいい写真撮れたなぁ。設定の仕方も分かってきたし。雫って教え方うまいから、分かりやすくて助かる」
「あ、そう……」
わたしは大きく口を開け、ソフトクリームにかぶりついた。
久しぶりに浴びる太陽の日差しが、やわらかく肌に浸透して気持ちいい。木々から放出されるマイナスイオンがおいしい。さらさらとした春の風が、わたしの短い髪を揺らしていく。
なんだか、恋人みたいだなぁ。
奏真の横顔を盗み見て、そんな、ばかげたことを考えた。
――恋人じゃなくても、恋人らしいことはできるの。
ふと、りせの言葉が脳裏をよぎった。聞いた時は、正直ありえないと思った。そんなの不純だよ、って。だけど、今ならりせの言葉の意味が分かる。
休日にふたりで出かける。もちろん、わたしと奏真はそんな関係ではないけれど、はたから見たらデートかもしれないし、恋人と間違われるかもしれない。男と女である以上、恋人じゃなくたって、しようと思えばきっと、何だってできるのだ。
「今度は人も撮りたいな。あと、風景も。昔からスマホのカメラで撮ったりしてたんだけど、どうしてもうまく撮れないんだよな」
「それもカメラの設定をきちんとすればきれいに撮れるよ。あとは、レンズを変えたり……。いろいろ試していくうちに、なんとなくコツがつかめてくるはず」
「そっか、そうだよな」
わたしはちょっと身を乗り出して、奏真の持っているカメラをのぞき込んだ。奏真がボタンを押すたび、パンダやゾウ、ワシやペンギンなど、さまざまな動物が次々に現れていく。
「あっ!」
その中の一枚を見て、わたしは大きく声を上げた。
「ちょっ、ちょっと、戻って!」
「え? これ?」
画面の中に写し出されたのは、動物を見ているわたしの姿だった。しかも眼鏡を外した、ほんの一瞬の場面だ。横を向いていたからまったく気づかなかった。
「何で勝手に撮ってんの!」
「なんかいい感じだったから、思わず」
奏真は悪びれる様子もなくへへ、と笑った。
「昔から思ってたんだけどさ、眼鏡外した方がいいよ。かわいい顔してんだから」
「……そういうこと、気軽に言わないほうがいいよ」
「何で?」
「わたしはいいけど、勘違いしちゃう子いるよ。恋人でもないのにさ」
「恋人だったら言っていいの?」
「う、うーん、そういう問題じゃなくてさ……」
わたしは何と言ったらいいのか分からず、言葉を濁した。こいつはなんというか、同年代の男子に比べて、恋愛沙汰には疎いというか。勉強はできるくせになぁ、ふしぎなものだ。
「じゃあ恋人になる?」
「……何言ってんの、ばかじゃない」
わたしはもう驚くことにも疲れて、冗談じみた奏真の言葉を軽くあしらった。奏真は「へへ」とはにかんだように笑い、そして黙った。
空を見上げたら、ソフトクリームと同じ形をした雲が、ゆらりゆらりと流れていた。
ああ、そういえば。
傾き始めた太陽を眺めながら、わたしはぼんやりと思い出した。
写真を撮り始めたばかりの頃だ。おじいちゃんと一緒にカメラを持って、近所をぐるぐると歩き回ったことがあった。道端に咲く名前のない花、何でもない標識、公園にある遊具、空を横切る飛行機雲。目新しい風景なんて一つもないのに、どうしてだろう。レンズを通すと、わたしにだけ与えられた特別な景色に思えた。きっと、意識しないと気づけない。風に揺らめく花のかわいらしさに。「止まれ」という標識のおもしろさに。飛行機雲の儚さに。
そういう「特別」を集めて並べてみたら、なんだかすごく誇らしくなったの。この「特別」を作ったのはわたしだ。わたしが、この「特別」を生み出したのだ。
「ありがとな、今日は」
動物園を出たら、あっという間に別れの時間がやってきた。カメラを満足げに触りながら、奏真は屈託のない笑みを向けた。
「いいよ。わたしも楽しかったし」
駅の時計は午後五時を示していた。頬を撫でる風もなんだかさみしげで、早くおかえりと急かしているようだ。
「やっぱり、ひとりで撮るのとは全然違った。雫と同じ高校になってよかったよ」
「もう、いつも大げさだよ」
不釣り合いな感謝を向けられて、わたしは肩をすくめた。今日集めた「特別」は、全部奏真が作り出したものだ。感謝されることなんて何もない。
「あのさ、これからもちょくちょく教えてもらっていいかな? おれ、もっと上手になりたいんだ。もちろん、むりにとは言わないけどさ……」
笑顔の代わりに、真剣な眼差しをわたしに向ける。答えようと口を開けたけれど、なぜだろう、すぐに声が出なかった。いやだよ、そんなの。めんどくさいよ。そうやって、いつもみたいに拒否したいのに。奏真の大きな瞳に映っている自分に気づいて、わたしは一歩、たじろいだ。
やめてよ、そんな真剣な表情。そんなまっすぐにわたしを見つめないでよ。わたしをみじめにしないでよ。奏真の真剣さを知れば知るほど、わたしはなぜだかこわくなる。
たぶん、最初からおそろしかった。奏真はわたしが捨てたものを持っているから。カメラに対する純粋な好奇心。向上心。知れば知るほどうらやましくなる。うらやましくて、みじめになる。だからわたしは遠ざけようとしていた。過去の自分を見ているようで、苦しくなるから。
だけど、それでも。
一緒にカメラを選んでしまったのは、まだ捨てきれないものがあるから。動物園に行くのを断らなかったのは、もう一度「特別」を作りたいと、心のどこかで思っているから。
ああ、やっぱり。
まだまだ甘いなぁ、わたしは。
「……いいよ」
「ほんと?」
「うん。でもわたしはもう写真は撮らないし、あんまり役に立たないよ」
「おれが撮った写真を評価してくれるだけでもいいよ! うわー、ほんと助かる。ありがとな、いつも」
「そんな感謝されるほどのことじゃないって、やめてよ」
わたしは気恥ずかしさを振り払うように、奏真の肩を強く叩いた。奏真はいてっ、と小さく飛び跳ねると、照れたように頬を掻いた。
「じゃあ、またな」
「うん。また」
わたしたちは簡単な別れを告げて、別々の道を歩き始めた。が、十メートルほど進んだところで、「しずくー!」と大きな叫び声が背中にあたった。振り向くと、奏真が口元に両手をあてて立っている。
「眼鏡、絶対取った方がいいからなー!」
「なっ……!」
わたしは驚きと恥ずかしさで、思わず周囲をきょろきょろと見渡した。幸いなことに人通りは少ないけれど、それでも何人かは怪訝そうに奏真を見ている。こいつの面倒なほどの無邪気さには慣れたつもりだったけど、もうだめだ、ギブアップだ。わたしはくるりと背を向けて、早足でその場から離れた。
ひとりになった途端、今日の出来事がため息となって口から出てきた。
疲れた。楽しかったけど、なんだか疲れた。奏真といるといつもこうだ。下心はないんだろうけど、素直すぎて心臓に悪い。いちいち意識していたらキリがないので、深く考えないようにしているけれど、一応異性である以上、どうしても反応してしまう。大した意味はないって分かってるのに。
電車の乱暴な揺れに身を任せながら、流れていく景色を見送る。せわしなく走る車。手を繋いで歩く親子。犬の散歩をする小学生。みんな、それぞれの時間を、それぞれの速度で生きている。いつだってそうなんだ。
人には平等に時間が与えられている。だけど、それなのに、時間が足りないとか、時の流れが遅いとか、文句を言いたくなるのはなぜだろう。今日もあっという間に西の空が真っ赤になって、やがて夜になる。
今日の奏真、きらきらしてたな。楽しそうで、嬉しそうで、輝いていた。まだまだ技術は拙いけれど、とってもいい写真だった。そりゃそうか。カメラを買うために、勉強も頑張ったんだもんな。かっこいいな。素敵だなぁ。……悔しい、なぁ。
突然、両方の瞳から、金平糖みたいな涙がぽろっとこぼれた。あれ、どうしたんだろう。泣くことなんてめったにないのに。まわりに人がいるのに。わたしは慌てて眼鏡を外し、手の甲で涙を拭った。何で。なぜ。どうしてこんなに涙が出るの。そんな、上辺だけの自問自答はあっさり剥がれて、とめどなく、感情が溢れて、くる。
わたしは今日も、カメラのシャッターを切れなかった。今日も停滞した。今日も、わたしだけの「特別」は何にもなかった。一歩踏み出さなければいけないのに。結局何も変われなかった。後悔は西の空と同じように燃え広がってキリがない。こんなにすきなのに触れられない。押入れの奥からカメラを取り出すこともできない。だって、思い出が優しすぎるから。だいすきで、大切な日々が多すぎて、心が耐えられそうにないの。今は、まだ。
電車を降りる頃には、なんとか涙はとまっていた。しまった、こんなセンチメンタルな気分になるつもりじゃなかったのに。ずびずびと鼻水をすすっていると、突然、視界が真っ暗になった。
「だーれだ!」
頭の後ろから甲高い声が響いて、わたしはぎゃっと飛び跳ねた。
「り、りせ!」
「えへへ、びっくりした?」
振り向いた先にいたのは、満面の笑みを携えたりせだった。一つに束ねた長い髪が、無邪気にゆらゆら揺れている。ぱっちりとした二重の瞳。桃色の唇。すらりと伸びた長い手足。久しぶりに会ったもんだから、そのかわいらしさに心臓が飛び出そうになった。
「び、び、びっくりした……」
「やった、大成功! 会うの久しぶりじゃない? 一緒に帰ろ」
「う、うん……」
激しく鳴る心臓を押さえながら、わたしはぎこちなくうなずいた。
ずっと会いたかったはずなのに、いざ会ってみると、何を話したらいいのか分からない。顔、まっすぐに見れない。うつむくと、すりきれた灰色のスニーカーと、真新しい水色のサンダルが、同じ速度で動いている。
「それ、この間買ったワンピースだよね。やっぱりすっごく似合ってる」
「そう、かな」
あ、よかった。わたしはほっとして、ようやく顔を上げた。あの夜見た、泣き出しそうな顔のりせはもういないんだ。
「どこ行ってたの? バイト?」
「そう。開店からずーっと働いてたから疲れちゃった」
「そんなに? 大変じゃない?」
「平気だよ、慣れてるもん」
そう言うりせは、ちょっと強がっているようにも見えた。細い腕をぶらぶらと前後に振る。その先にぶら下がっている、レジ袋が目に入った。
「それ、もしかして夕ご飯?」
「そうだよ。さっきコンビニで買ったやつ」
「毎日コンビニで買ってるの?」
「まかないの時もあるけど、大体はそうだなぁ」
「……ご飯作ってあげようか?」
思わずそんな提案をすると、りせの顔がぱっと明るくなった。
「ほんと? いいの?」
「いいよ。ひとりだとあまるし。その代わり、買い物付き合ってもらうけど」
「付き合う付き合う! やったー、ありがとう!」
りせは大げさに声を上げ、両手を高く空に伸ばした。
スーパーで買い物を終えて、りせと一緒に部屋へと帰った。健康的なものが食べたい、という彼女のリクエストに応えて、ふたりで肉じゃがを作ることにした。じゃがいも、人参、玉ねぎ、こんにゃく、あと、豚肉。いつもは適当に入れる調味料も、今日はちゃんとレシピ通りの分量を入れる。だって、りせのために作るんだもん。失敗なんて許されない。
「あー、おいしかった!」
気合いを入れたかいあって、りせはお皿に盛った肉じゃがをぺろりと平らげ、満足そうにおなかをさすった。
「雫はほんとに料理上手だね。わたしは全然できないや」
「栄養バランスが偏るから、コンビニ弁当ばっかりはよくないよ。また作ってあげる」
「えっ、いいの?」
「うん。いつも作りすぎちゃうし、いつでも食べにきて」
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
りせはえへへ、と嬉しそうに笑った。わたしはつられて目を細めた。
よかった。ちゃんと、普通に話せてる。あの夜の、弱々しいりせはもうどこにもいない。ここにいるのは、明るくて、元気な女の子だ。
そのままふたりでだらだらとしゃべっていたら、あっという間に時間が過ぎていった。カーテンの隙間から見える空の色がどんどん濃くなって、夜へと姿を変えていく。ベランダに出ると、冷たい夜風がするりと頬を撫でていった。
「風が気持ちいいね」
夜空に浮かび上がる半月を眺めながら、りせがぽつりとつぶやいた。最近は雨続きだったから、こうしてはっきり月や星が見えるのは久しぶりだ。ううん、晴れていたとしても、こんな風にゆっくり眺めたりしない。きっと、りせが隣にいるからだ。りせと一緒だからこそ、この景色が見られるんだ。
「……流れ星って見たことある?」
秘密の話をするように、りせがささやく。わたしは静かに首を振った。
「ううん、ない。りせは?」
「わたしは何度もあるよ。よくニュースでしし座流星群とか、ふたご座流星群とか言ってるでしょ。そういう時にね、夜更かしをしてじっと待つの。いつ流れるか分かんないし、すっごく眠たいんだけど、見える時はいっぺんに何十個も見えて、ああ、生きててよかったって思うのよ」
風で乱れる髪を押さえながら、りせの横顔をじっと見つめた。彼女の大きな瞳は、星の瞬きにも負けないくらいきらきらと輝いている。まるで、夜空を通してここにはいない誰かを見ているようだ。
その瞳に映る人を、わたしは知ってる。気づいてしまった。初めてりせを知ったあの夜、彼女が誰と会っていたのかを。
「……りせは、柊さんのどこがすきなの?」
気がついたら、ぽろっとそんな質問が口から漏れた。慌てて口をつぐんだけれど、もう遅かった。りせは夜空を見上げたまま、一時停止ボタンを押したみたいにぴたりと動かなくなった。
「……あの」
「えっ!」
肩に手をかけたら、りせはぴゃっと飛び跳ねて、ものすごい勢いで振り返った。
「えっ、いきなり? いきなりそういうこと聞くの?」
「う、うん。ごめん……」
絵に描いたような動揺ぶりだ。それまでの落ち着いた雰囲気はどこへやら、彼女は真っ赤になった頬に両手をあててしゃがみ込んだ。うーん、うーんと唸ったあと、不安そうにわたしを見上げて、
「……誰にも言わない?」
「う、うん。もちろん」
「絶対?」
「うん」
わたしは強くうなずいた。りせはためらうように下唇を噛んでいたけれど、やがて小さな声で話し始めた。
「……元々ね、柊くんはわたしの家庭教師だったの。ほら、母親があんなだからさ、お姉ちゃんが昔からわたしの保護者代わりだったんだ。だから、全然勉強しないわたしを心配して、中学生の時に柊くんを紹介してくれたの」
「そうだったんだ……」
わたしは小咲さんの笑顔を思い出した。少ししか言葉を交わしていないけれど、優しい人だということはすぐに分かった。
「柊くんは大学生でね、その頃から教え方がすごく上手だったの。勉強だけじゃなくて、柊くんはいろんなことを教えてくれた。だいすきな星のこととか、大学生活のこととか、すきな音楽とか。自分のことだけじゃなくてね、わたしにいろいろ聞いてきたの。『りせは何がすき?』『何がしたい?』って。それがすごく、嬉しかったの……」
しゃがみ込むりせの姿は、まるで小さな子供のように見えた。出会った時受けた印象とは違う。ひとりの、か弱い女の子が、そこにいた。
夜風がそよそよと庭の青葉を揺らした。微かな虫の吐息。遠くから聞こえる車の走る音。すべてが透明に澄み切って、優しく鼓膜を震わせる。ほんのりと色づいた彼女の頬や、彼女の震える声ですら、とてつもなく尊いものに思えた。
「いいよ、別に肯定してくれなくても」
わたしが黙り込んでいると、りせは拗ねたようにうつむいた。
「許されないって分かってるもん……」
「……違うの。そうじゃないの」
わたしは静かに首を振って、りせの隣に腰を下ろした。
「うらやましいって思ったの」
「うらやましい?」
りせはふしぎそうな顔でわたしを見上げた。
「わたし、恋とかしたことないから。そんなにすきになれる人に出会えていいなって。りせを見てると、そう思うよ」
「……ほんと? ほんとに、否定しない?」
「うん。……大丈夫」
――だって恋心を否定できるほど、わたしは恋を知らないもの。
わたしは誰かをすきになったことがない。同じクラスの男の子より、写真を撮る方がすきだった。恋愛話も興味がない。すきな男の子の話でどうしてそこまで盛り上がることができるのか、わたしにはよく分からない。
だから、りせの恋心が間違っているなんて断言できない。正しいとも言えない。それを判断できるだけの経験が、わたしにはないから。世間一般の人だったら、違ったことを言うかもしれない。本当の友だちなら、ちゃんと道を正してあげるべきだと。でも今は、わたしだけは、彼女の味方でいたいと思った。そうしないと、りせがわたしから離れていってしまうような気がした。
「……嬉しい。ありがと」
りせは膝を抱えたまま、安心したように目を細めた。わたしもつられて微笑んだ。今は、この笑顔をわたしに向けてくれる。それだけでいい。それだけが、すべて。
「あ、そうだ。七月になりそうだから」
「え?」
首を傾げると、りせはもぉ、ほっぺたを膨らませて立ち上がった。
「こないだ言ってた、柊くんとの天体観測。雫も来るでしょ?」
「興味はあるけど……わたしが行ってもいいの?」
「むしろ来てくれなきゃ困るの。お姉ちゃん、今回はちょっと行けないんだって。だから、雫が来てくれないと合法的に遠出できないの」
「そ、そーいうもん?」
「そーいうもんなの。三人が気まずいなら、誰か他の人誘ってもいいよ」
「そうだなぁ……」
わたしは顎に手をあててうーんと唸った。柊さんはいい人だし、話しやすいけれど、三人となるとちょっと居場所に困るかもしれない。誰とでも仲よくなれて、こういうイベントにすぐ参加しそうな人といえば――
そこまで考えて、思い浮かんだ人物はたったひとり。
『七月、一緒に星を見にいかない?』
その夜、奏真にこんなメッセージを送ったら、彼は二つ返事で了承した。