浅香がいなくなったあと、橘花は珠に歩み寄った。
「珠、大丈夫?」
しゃがんで視線を合わせると、珠が顔を上げる。珠の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。橘花は苦笑する。
「まったく、じぶんのときはなにされても我慢してたくせに。どうして私のことで怒るのよ」
「だって……だって、悔しかったんれすよ〜」
「ふふっ……分かった分かった! ほら、これで涙拭いて」
橘花は珠にハンカチを差し出す。
「……うっ、すみません」
珠はそれを当たり前のように受け取った。
これまで、橘花が触れたものを素手で受け取ってくれたひとはいなかった。
ハンカチをぎゅっと握って鼻をすする珠の姿に、橘花は胸の辺りがむずむずした。
「ありがとう、珠」
橘花が礼を言うと、となりにいた白玖も珠に言った。
「俺からも。橘花を庇ってくれてありがとう。珠はいい子だな」
珠は白玖を見上げ、すぐに逸らした。
「いえ」と、返す珠の頬は、ほんのりピンク色に染まっている。
「その……私のほうこそ、ありがとうございました。それから、取り乱してしまって……」
「礼なら橘花に言ってくれ。珠を心配していたのは、橘花だから」
白玖が言うと、珠は橘花へ視線を流した。
「奥さま……ありがとうございました」
「こちらこそ」
橘花が笑みを返すと、珠はさらに頬を赤くした。そのまま俯いて、制服の袖をぎゅっと握った。落ち着かないのか、そわそわと袖をいじっている。
「……ねぇ珠。よかったらなんだけど、私のところへ来ない?」
「え?」
恥ずかしそうに顔を俯けていた珠は、今度は顔を上げて目を丸くした。
「完全に橘花のメイドとして働いてもらえないかってことだ」
白玖が付け足す。
「珠がそうしてくれると、俺も橘花を安心して任せられるからな。珠が望んでくれるなら、すぐに部屋も用意する。もちろん、珠の意思を尊重するつもりだけれど」
珠は俯いたまましばらくもぞもぞとして、そして、顔を上げた。
「私も……奥さまのおそばにいたいです」
「本当? 珠」
「は、はい! わ、私でいいなら」
橘花の胸に、安堵と幸福感が広がっていく。珠につられるように頬を染めた橘花を見て、白玖はふっと微笑んだ。
「分かった。すぐに手配しよう。珠、とりあえず持てるだけの荷物を持って、母屋のほうに来なさい」
「は、はい!」
珠は元気よく返事をした。
***
橘花が部屋へ戻ってからしばらくして、珠がやってきた。手には食事の盆を持っている。
珠は盆をテーブルへ置くと、もぞもぞと両手の指先を合わせて、橘花を見ている。
「どうしたの?」
橘花が優しく訊ねると、珠はおずおずと顔を上げた。
「奥さま、あの……今朝は本当にありがとうございました」
橘花は礼を言う珠に、「いいえ」と呟く。
「私こそ……余計なことをしてしまった」
弱々しく言う橘花に、珠はぶんぶんと首を振った。
「いえ! そんな……私はとても嬉しかったです。助かりましたし」
「……でも、私がいなくなったら、あなたはまた彼女のもとで働くことになるのよね」
白玖は、彼女に謹慎を言い渡し、役職から外すだけだった。
「……私にもう少し力があれば、あなたが穏やかに仕事をできるような環境を作ってあげられたのに」
ごめんなさい、と橘花は呟く。
「とんでもない! 私は、そのお気持ちだけでじゅうぶんでございます」
珠の笑顔に、橘花の心とふっと和らぐ。
「ですが、あの……奥さまは、どうして私のような下層の者に優しくしてくださるのですか」
どうして、か。橘花はぼんやり考える。
「そうねぇ……」
橘花は目を伏せた。
「……だって、私なんかのメイドを押し付けられただけでもきっと逃げ出したいはずなのに、あなたはちゃんと私の世話をしてくれたから」
今までも、珠のように世話をしてくれるメイドはいた。けれど、ここまで深く関わり合ったのは、珠が初めてだった。
今までのメイドは違った。
世話はしてくれたが、橘花に声をかけてくることはなかった。牢のなかにいる橘花を、みんな獣かなにかのように見た。
生まれたときからそんなだったから、それが橘花にとっては当たり前で、どちらかといえば今のほうが落ち着かない。
でも、落ち着かないけれど、いやではない。
むしろ……。
橘花は、優しくされることの心地良さを知ってしまった。
「……あの、奥さま」
「なに?」
「あの……これからは、橘花さま、とお呼びしてもいいでしょうか?」
涙が出そうになる。
名前を呼ばれたのは、ここへ来て二度目だ。
今まで、名前なんてあってないようなものだった。名前を呼ばれるということが、こんなにも心地良いものだったなんて、知らなかった。
橘花は死を待つだけの身だ。こういう関わり合いは、間違っていると分かっている。
でも、今だけ。
橘花は涙をこらえて珠を見つめた。
「……嬉しい」
今だけ、この幸福に浸っていたい。橘花は気だるい身体を震わせて、強く思った。
***
嫁入りして六日目。橘花の体調に大きな異変がおとずれた。
発熱が始まったのだ。身体もずっしりと重くなり、眠気もひどい。目を開けていることすら億劫だった。
「橘花さま。お食事です」
布団に横になったままぼんやりとしていると、珠が食事を運んできた。橘花はよろよろと身体を起こす。
「大丈夫ですか……?」
珠が心配そうに橘花を見た。
「うん、平気」
珠が運んできたのは、橘花を気遣ってか、食べやすそうな粥だった。小皿には、梅干しや細かくほぐされた鮭の身も添えられている。
「ありがとね、珠」
橘花は食事を運んできた珠に、静かに礼を言う。
粥を見つめたままぼんやりとする橘花に、珠がそろそろと言う。
「橘花さま。少しだけでも食べてください」
心配そうな眼差しを向ける珠に、橘花はかすかに笑みを返した。
「食欲がないの。贄になる日が近付いてきているからかな」
「橘花さま……」
「珠、この六日間、本当にありがとう。珠のおかげで、私は幸せに死ねる」
珠は一度目を伏せてから、橘花を見る。そして、橘花に歩み寄った。
「珠?」
珠は橘花のかたわらへ来ると、粥を匙で掬った。
「お口へお運びいたします」
「だ、ダメ。もし万が一にでも触れてしまったら……」
「私がこうしたいんです」
「……珠。どうしてそこまでしてくれるの? 私が怖くないの?」
珠は一度手に持った匙を椀へ戻し、橘花を見た。
「……最初は、怖かったです。……私は、浅香さまに押し付けられるかたちで、橘花さまのメイドになりました。少しでも触れれば死ぬと聞いたときは、浅香さまの脅かしかとも思いましたけど……若旦那さまから改めて橘花さまの体質を聞いて、背筋が震えました。橘花さまのちょっとした仕草にも過敏に反応してしまって……初めは、眠ることもできませんでした。でも、橘花さまは怯える私を叱るどころか、とてもお優しくしてくれて……」
「じぶんより幼い子に優しくするのは当然でしょう? まして、私に怯えてるならなおさらよ」
「……私は、私が恥ずかしいです。なにも知らないのに、橘花さまを自分勝手に判断してしまいました。橘花さまが毒をまとうからといって、その心まで邪悪であると決めつけて」
珠はくりりとした目から大粒の涙をこぼしながら、頭を下げた。
「申し訳ございませんでした……」
「……謝らないで。あなたはなにも間違ってないんだから」
それに、と橘花は続ける。
「私はむしろ、恐れてくれて嬉しかった」
「え……どうして」
「だって恐れてくれなきゃ、私はあなたを殺してしまうかもしれない。だから珠は謝る必要なんてないし、泣く必要もないの」
橘花は珠に手を伸ばす。その頬に触れかけて、止めた。
「……ごめんね。涙を拭ってやりたいのだけど」
橘花は、この体質のせいで、珠を慰めることもできないのだ。
「いえ……いえ……っ」
大切だと思っているのに、触れられないもどかしさと虚しさが、じんわりと橘花の胸に広がる。
「私が……私が、身代わりになります。私が橘花さまの代わりに、贄になります。だからどうか……どうか」
生きてほしい、と珠が呟く。
「珠……」
視界が一瞬にして滲んだ。
「……ありがとう」
だれが、こんな言葉をもらえるなんて想像しただろう。
透き通る珠の涙に、橘花の心は救われた。
死ぬ前にこの感情を知ることができただけでも、橘花はこの屋敷へ嫁に来てよかったと思えた。
「でも、気持ちだけで十分よ。珠……あなたは私の大切な友だち。死んでも忘れない」
「橘花さま……」
白玖や珠のおかげで、ささくれだっていた心が少しだけ丸くなったような気がする。
橘花は珠から匙を受け取ると、粥をそっと口に含んだ。