声が聴こえる。
「橘花」
 はっきりと、じぶんを呼ぶ声。優しく、澄み切った水のように清らかな声。
 橘花は目を開けた。
「橘花!」
 目を開けると、白玖の顔が飛び込んできた。
 ほっとしたような顔で、橘花を見つめていた。白玖のとなりには、珠もいる。
「橘花さま! 橘花さまあ」
 珠はベッドにすがりついて、子どものように泣きじゃくっていた。
「うう、よかったです……」
「私……」
 呟きかけて、手になにかが触れていることに気付く。橘花は自身の手元を見る。
 白玖に手を握られていた。
 橘花は顔を蒼白にさせて、手を引っ込める。
「橘花。大丈夫だ」
 動揺する橘花に、白玖は優しく言った。
「大丈夫って……なにが」
「橘花の毒は消えた」
「消えた……?」
 困惑したまま、橘花は自身の手を見る。
 その手を、白玖はためらいなく握った。橘花は息を詰めて、繋がれた手を見る。
「ほらな?」と、白玖は柔らかく微笑んだ。
「うそ。どうして」
 橘花は信じられないものを見るように白玖を見た。
「本当になんともないのですか……?」
「うん。ない。橘花はもう、贄でもないし毒妃でもないからな」
 白玖の言葉に、橘花はハッとする。
「そうでした! 呪いは……」
「術が成功した。蛇神は身代わりの贄を喰らったから、もう橘花を襲いに来ることはない」
「身代わり……? それって、私の代わりにだれかが……?」
 不安な眼差しを向ける橘花に、白玖は首を振る。
「案ずることはない。身代わりにしたのは、人形だから」
「人形?」
「橘花は、流し雛というものを知っているか?」
 橘花は戸惑いながらも頷く。
「人形を川に流して、厄を流すとかいう……」
「そうだ。橘花は贄の花嫁として嫁いだ日、橘花に見立てた人形を作って、牢に閉じ込めた。人形に、じぶんは贄の花嫁であると、毒の姫であると思わせて、昨晩、川に流した」
「では、夢で見た大蛇が喰らっていたのは……」
「橘花に見立てた人形だろう」
 白玖は橘花の手を握り直した。橘花は身を起こす。白玖はそっと背中に手をやり、橘花の身体を支えた。
 橘花は白玖を見つめる。
「必ず助けると言っただろ?」
「……どうして、そこまで」
「花嫁を守るのは、夫としての務めだ。俺は当然のことをしたまで」
 白玖はさらりと言った。
 そんな、ひとことで終わらせるようなことではなかったはずだ。
 人形に魂を持たせ、己はひとであると錯覚させるのは、相当な力がないとできないと本で読んだことがある。それに、力だけではない。川に流すその日まで、ひととして接していかねばならない。気力だけでなく、根気もいる術だ。
 だから、未だに人柱というものが存在するのだ。
 白玖は、橘花のためにどれだけの力を尽くし、動いてくれたのだろう。
 橘花は白玖になんと言えばいいのか分からなかった。
 ありがとう、ではとても足りない。
「あの……旦那さま」
 橘花は白玖を見つめながら、口を開く。が、続ける言葉が出てこない。
「……あの……」
「白玖」
「え?」
「白玖、と呼んでくれ。礼はそれでいい」
 どこか早口で白玖が言う。
「……白玖」
 言われたとおりに名前を呼んでみれば、白玖はそわそわと落ち着きなさげに視線を泳がせた。
「白玖?」
 もう一度呼ぶ。今度こそ、白玖は手で顔を覆ってしまった。
「あぁ……」
 息を吐くように呟き、指の隙間から橘花を見る。ようやく目が合う。白玖の瞳に熱を感じ、どきりと心臓が跳ねた。
 白玖らしからぬ表情に、橘花まで熱くなってくる。
「橘花」
「は、はい」
 白玖は手を離し、橘花に向き合った。真剣な眼差しに、橘花は姿勢を伸ばす。
「嫁入りの日、話したことを覚えているか?」
 橘花はこの屋敷に来た日のことを思い出す。
『お前が八日目を迎えられたときは、俺を夫として受け入れてほしい』
「……は、い」
 忘れるはずがない。
 あの言葉のせいで、この世に未練ができたのだから。
 あの言葉のおかげで、もう一度生きたいと思ったのだから。
「橘花。俺と生きてくれるか?」
 橘花は俯く。こういうとき、なんと返せばいいのだろう。分からない。
 橘花は顔を上げる。そっと手を伸ばした。白玖の頬に触れ、撫でる。白玖の肌はなめらかで、そしてとてもあたたかかった。
「私も……生きてみたいです。白玖と」
 思うままに言うと、白玖はさわやかに破顔した。
「ありがとう」
 白玖の顔が近付く。橘花の心に、もう怯えはなかった。
 唇に、白玖の唇が触れる。柔らかな感触に、泣きそうになった。
 見上げると、白玖はそれまで涼しげだった目元を和らげ、優しい笑みを浮かべていた。