「コウスケ……」

 名前を呼ばれて横を見た瞬間、コイツこんなに可愛かったっけ? って思った。
 俺を見上げてくるまんまるい目はいつもよりも黒目がちにうるんでいて、明かりを受けてキラキラ光っている。
 唇はさくらんぼみたいにふっくらしていて、なんだか吐息も甘い気がした。

 今日は学部の新歓だった。
 高校までと違ってクラス分けなんかもないし、同じ学部の一年と交流を深めるいい機会だった。
 教授や上級生なんかともお知り合いになれれば、これからの学部生活なにかと過ごしやすくもなるだろう。
 しかも学食貸し切りで、タダ飯が食える。
 今、俺の隣にいるハルカも誘って、俺はここに来ていた。

 テレビに出るようなレストランみたいな学食じゃない。教室と変わらない質素な白い壁と天井がただ広がるだけの簡素な学食。
 学食内で作られたオードブルがテーブルに並び、普段は出ないアルコールも提供されていた。
 未成年者は間違っても飲むよなと念押しされつつも、浪人組もいるため新入生のなかでも飲んでいる人もいた。
 夜も更けて、オールで二次会なんて話も聞こえてくる。
 高校時代では考えられないイベントに、浮足立っているなかでの出来事だった。
 ほろ酔い気分の喧騒が遠のいたように、俺はじっとハルカを見つめていた。

「あの、さ……」

 言いにくそうに、ハルカが俺の服の袖を引っ張る。
 こわばった肩と上気した頬が緊張を伝えてくるようで、大学の合格の発表以上に心臓が跳ねあがった。
 ハルカとは、保育園からの腐れ縁だった。
 小中はもちろん、高校大学まで示し合わせたわけでもないのにずっと一緒だった。
 腐れ縁ゆえにお互い気も置かず一緒にいて居心地のいい相手だった。
 一緒に住んでいないだけの兄弟みたいで、中学ぐらいにはからかってくるヤツもいたけど、コイツをそういう目で見たことは一度もない。
 二人でハモってないない言っているのが常だった。

 コイツの手、こんなにちっちゃかったっけ……?

 袖から伸びる俺の手と、袖をつかむコイツの手。
 ようやく俺は、自分とハルカが違う性を持つニンゲンなんだと気が付いた。

 現役組の俺とハルカはジュースしか嗜んでいない。
 なのに、ハルカは酔ったように頬を染めて、それを見た俺は全身の血がたぎっていた。

 揺れ動く自分の感情が分からないままふらついていると、俺を見上げるきれいな目が伏せられる。腕に力が入るのがわかって、決死の覚悟が伝わってきた。
 その思いで、俺になにを伝えるのか――

「アキラくんって、今日来ないの?」

 自分の感情を意理解する前に、俺はハルカの感情を理解した。
 たったそれだけの事を聞くのにこの態度。ハルカがアキラをどう思っているのかなんて一目瞭然だった。
 ハルカの気持ちに気がつくのと同時に、俺は血の気が引くのを感じていた。
 俺は自分の心に生じた変異の名前に思い至る前に、目の前が真っ暗になる。言葉に殴られた痛みで、自分の揺れ動く気持ちの変化に合点がいった。
 俺は、失恋をしてから恋をした。
 他の男に必死で恋をする姿に一目惚れするなんて、本当にどうかしている。

     *

 失恋の痛みで自覚した恋。
 恋したのも、失恋とほぼ同時。
 ギネスブックにも載るスピード感じゃないだろうか。

 酒の席でのノンアルコールといえばコレ! という風に用意されていたウーロン茶のグラスを揺らしながら、ため息が出る。
 机に突っ伏しぎみにカラコロと小気味よい氷の音を聞き、グラス越しに席を移動したハルカを見る。
 長いテーブル一つ挟んだその向こう。そこにオレンジ色の液体が入ったグラスを両手で握りしめるハルカがいた。そして、その隣にはバイトで遅れてやって来たアキラ。
 アキラはオリエンテーションで俺に声を掛けてきた同学年だった。
 わからないところがあったと言われ、懇切丁寧に説明すると大変感謝されて学食を奢られた。
 パリピとか陽キャとか体育会系とか、どれにでも当てはまるようでどれともちょっと違う。
 とにかく陽気で明るい気のいいヤツだった。
 新歓に参加する必要もないぐらい既に学内に人脈を築いているらしく、単位の取りやすい教授や取りにくい教授の情報を流してくれたり、自力で得た情報を惜しみなく流してくれる。
 先にアキラと知り合ったのは俺だ。
 幼なじみのハルカをアキラに紹介したのも俺だ。
 とんだキューピッドだ。
 なにを話しているんだろう。アキラとハルカは楽しそうに話していた。俺抜きで二人が話しているのは、これが初めてじゃないだろうか。
 アキラは朗らかに笑っていて、ハルカも笑っている。でもハルカはちょっと緊張している様子で、いじらしい。

 アキラは男の俺から見ても、いいやつだ。
 今もハルカに飲み物を取ってきたり、その道中でオードブルの少なくなったテーブルに足りてるか聞いて余ってるテーブルから移してきたり、フットワークが軽い。
 そんなアキラの動きをを、ハルカがじっと見つめている。
 さっき俺を見つめてきた、あの目。
 恋をすると瞳孔が開くらしい。だから、恋する瞳はキラキラしているし、恋する相手も輝いて見える。
 俺の瞳孔も今開いているんだろうか。明かりを受けてきらめいて見えるハルカの目は、俺の瞳孔の影響も受けているのかもしれない。
 俺の名前を読んで見上げてきたハルカ。あの時のハルカは俺を見ているようで、アキラを見ていた。
 アキラともっと親しくなれる機会の到来を心待ちにしながら、俺を見ながらアキラを思ってて。
 今もあの眼差しを向けられているアキラが羨ましくてソコ代われって気分。だけど、俺とアキラの立ち位置が入れ替わっても、あの眼差しは俺の物にはならない。
 もしかしたら、実際に目が大きく見えるコンタクトを入れたりしてるのかもしれないな。服もいつもより可愛い感じだし、気合を入れておめかしとか。いつもの顔しか見せない俺とは大違いだ。
 アキラがハルカの元に戻ってきて、ハルカが姿勢を正す。アキラからグラスを受け取る。
 たったそれだけのことなのに、あの嬉しそうな顔。
 俺も、あんな風にハルカを喜ばせてみたかった。
 長い付き合いの中で、ハルカを喜ばせたことは何度もある。
 でも、違う。

 ハルカはいいやつだ。
 保育園のころからずっと一緒だった俺が言うんだから間違いない。
 気が強くて負けん気なところがあるけど、アキラなら上手くやれると思う。
 妹を嫁に出す兄の気分だとか、そんな言い訳をして考えてみても、自分の気持ちはごまかせなかった。
 また、ため息が出る。
 グラスを一気にあおって、空にした。

 呑んでるか~? って、見知らぬ先輩がグラス片手に隣に座ってくる。
 それでも、ハルカとアキラから気持ちを逸らせなかった。
 前を向いたまま、呑んでますよって空のグラスを見せても、先輩は立ち去る気配を見せるどころか隣に座ってくる。
 いいこと教えてやるよって、もうアキラから聞いた単位取得のコツを教えきた。
 あの教授がああだこうだ、出席してれば単位が取れる、逆に出席しなくても論述得意なら一発ゲットできる、アイツは講師だけどアイツのせいで内定貰ってるのに卒業できなかった先輩がいるとか。
 全部、知っている話だった。

 でも、気が変わった。
「マジっすか? 一限の授業ダルいんで助かります~」
 胸に痛みを感じながら、ハルカから目を逸らし先輩に向き合う。
 おべっかを言いながら、名前も知らない先輩の話を聞く。
 あれ、名乗ってたかも。何年生って言ってただろう。俺も、名乗ったかどうか覚えてない。
 それでも、先輩に気持ちよく話している様子で、俺も演技をしながらそれを聞き、現実から目を逸らす。

 全部、知ってる話だった。
 アキラもハルカのことを憎からず思っていることを、俺は知っていた。
 ハルカがあの目を俺に向けてきた瞬間に、二人の両思いは確定していた。
 今夜、二人の距離が縮まることも。

 あの目が、俺自身に向けられたものだったら、どんなに幸せだっただろう。
 幼なじみの枠を飛び越えて、ハルカの笑顔のために躍起になった。
 でも、それは俺の役割じゃない。
 アキラが、もっと嫌なやつだったらよかったのに。
 ハルカに彼氏がいるか聞かれたとき、思わず嘘を教えたくなるような相手だったら、こんなことにはならなかった。
 こんな滑稽なことにはならなかった。

 アキラとハルカが連れ立って、学食を出ていくのが視界の端に見える。
 俺は先輩の方に身を乗り出して、それを視界からから追い出す。
 気づかなかったふりをする。二人がこれからどこに行くけなんて、考えたくもなかった。
 ちょっとまった! と追いかけるような熱量は、失恋から始まった恋にはない。結局、その程度の恋だったんだって、自分を納得させるしかない。
 俺は、ハルカの困った顔を見たいわけじゃない。
 植える前に枯れてしまった、俺の恋。
 アキラの隣でハルカが幸せそうに笑うなら、それでいいじゃないか。

 アキラとハルカがいなくなってしばらくすると、先輩も新たなターゲットに移動していき、俺は一人になった。
 テーブルにはグラスが一つ。
 空にしたはずのグラスには、ウーロン茶のような液体が満ちていた。
 先輩の忘れ物だと気がつきながら、まだ口がつけられていないらしいそれを手に取る。

 実は初恋だったとか、笑えない冗談だ。

 口にしたそれは、さっきと違う味がした。




「失恋アイロニー」完