今日は、とても充実した一日だった。
隣に好きな人がいて、同じ時間を過ごして、笑い合って。実はブロッコリーが苦手なのだとか、意外な一面も見られたりして。
──ずっと、この時間が続けばいいのにと思う。
今日、この日を過ごしたことで、一緒にいたいと思ってくれたらいいのにと思う。
けれど、未玖にはわかっていた。それは到底叶わない願いであり、今この瞬間も恋の終わりが近付いていることを。
何故なら、そのためのデートなのだから。
「もうすぐ、約束の時間ですね」
未玖の自宅があるマンション前に着くと、いつもの落ち着いた声が聞こえてきた。胸に迫る感情をぐっと堪え、視線を合わせる。
ああ、やっぱり──未玖を見る彼の目に、胸が締め付けられた。彼は、あのときと何も変わらない。
未玖がデートに誘った、あの日から。
堪えている感情が溢れそうになり涙が滲みそうになるも、それらを呑み込み、目を細めて口元を綻ばせた。
何があっても彼の前では涙を見せないと、そう決めて家を出てきたからだ。
「とても、素敵な時間を過ごせました。ありがとうございます、教授。いえ……雅人さん」
初めての出会いは、大学の授業。第二外国語に何となくフランス語を選び、その教授が雅人だった。
今でも鮮明に覚えている。自分の親ほど離れているであろう雅人に一目惚れした、あの瞬間を。
その容姿も、話し方も、仕草も。何より、心地良いテノールボイスで紡がれる言葉が、とても素敵だった。
週に二回しかない授業。顔と名前を覚えてもらうために必死になった日々。その努力が報われ、顔を合わせれば雅人と他愛のない話ができるまでに。
そして、大学を卒業する日。未玖は雅人にある提案をした。
『わたしと、最初で最後のデートをしていただけませんか』
本当に、好きだった。雅人の左手の薬指に指輪はなく、歳は離れているが振り向いてもらえるのではないかと思っていた。
雅人の机の上に飾られている、女性の写真を見るまでは。
その写真に向けて、愛おしそうに目を細めている雅人を見るまでは。
いつもなら出し忘れることのない提出物。その日は何故か忘れてしまい、雅人の研究室へ直接提出しに行くことになった。
普段は入らない雅人の研究室。驚かせようとノックもせずにそっと扉を開いたとき──未玖はその光景を見てしまった。
今でも、後悔している。あの日、何故提出物を忘れたのか。出していれば何も知らずに済んだのに、と。
そうであっても、結果は変わらない。あの女性が雅人とどんな関係かは知らないが、どう足掻いても未玖のこの恋は叶わない。
わかっていても、雅人への想いをどうすることもできず、身勝手だと思いつつ未玖はデートに誘うことにした。
雅人に、この恋を終わらせてもらうために。
断ってくるだろうからそれで終わりにする、そう思っていたが──雅人は断ってこなかった。
今思えば、雅人は未玖の想いに気付いていたのだろう。
その上で、雅人もまた、未玖の恋にきちんと返事をくれようとしていたのかもしれない。
『では、シンデレラの魔法が解ける時間まで』
そう提案してきたのは、雅人だからだ。
シンデレラの魔法が解けるのは、午前零時。約束の時間は、迫っていた。
「お名前で呼ばせていただいたり、わたしのことも名前で呼んでいただいたり……夢のような時間でした」
「それはよかった。こんなおじさんですが、未玖さんの思い出になれましたか?」
「……っ、もちろんです。わたしの、大事な思い出になりました」
声が震えた。
やはり、雅人は未玖の想いに気が付いていた。だからこそ、雅人は未玖のデートの誘いを断らずに付き合ってくれた。
未玖のこの恋を、思い出にするために。終わらせるために。
これが、雅人なりの返事だ。
なんて、優しい人なのだろうか。卒業していなくなるのだから、断って放っておくこともできたはずなのに。
スマートウォッチが小さく振動する。それは、シンデレラの魔法が解ける時間を告げるもの。
「……午前零時、約束の時間ですね。橘さん」
左手につけている腕時計を見て、雅人はそう呟いた。
先程までは名前で呼んでくれていたのに、いつもの名字呼びに変わっていた。本当に、魔法が解けたのだと、この恋が終わったのだと実感する。
「橘さんは素敵な女性です。ただ……僕は、死別した妻が忘れられないんですよ」
「……机の上に飾ってあった写真って」
「ええ、妻です。二十年以上前に亡くなったのですが……僕は、今でも彼女を愛しているんです」
そう言って、雅人は星が綺麗に輝く夜空を見上げた。その目は女性の──亡き妻の写真を見ているときと同じ、愛おしいものを見る目。
羨ましい。素直にそう思った。
これまで、何度も雅人から視線を向けられてきたが、あのような目で見られたことは一度もない。当然だ、雅人の愛は亡くなった妻に向けられているのだから。
それはこれからも、未玖に向けられることはない。
「亡くなる直前、妻からは別の人と幸せになってほしいと言われました。ですが、無理でした。僕のエトワールは、彼女だけなんです」
「奥様は……今も、教授の中で光り輝いているんですね」
「そうですね。あの頃と変わらず……僕の中で優しく、穏やかに光り続けている」
雅人の、亡き妻への想いが伝わってくる。今でも愛していることが、ひしひしと伝わってくる。
正直なところ、羨ましさはあるが、悔しさはない。悲しくない、と言えばそれは嘘になるが。
でも、と未玖は笑みを浮かべた。
「わたし、教授のことを好きになってよかったです。こんなにも一人の人を愛せる人を好きになれて……よかった」
これで、この恋を終わらせられる。
「On revient toujours à ses premières amours.」
「その言葉って……」
「人はつねに初恋に戻る。……橘さんが、新たな恋へ踏み出せるように。僕から、この言葉を贈らせていただきます」
さすがは、フランス語の教授だ。とはいえ、今はその雅人に振られたばかり。新たな恋などまったく考えられないが──雅人から贈られた言葉だ。未玖は大切に胸へと仕舞う。
「僕のことを好きになってくれてありがとう。橘さんのことを心から愛してくれる方と、出会えますように」
それが雅人なら、どれだけよかったか。
未玖はその言葉を呑み込み、笑顔を浮かべた。
もう、これ以上雅人を引き留めていてはならない。午前零時を過ぎた今、雅人は大学の教授、未玖は卒業生となったのだから。
「……さようなら、教授」
「さようなら、橘さん」
別れの言葉を口にすると、雅人は未玖に背を向けて歩き出した。未玖も背を向けてマンションへと入り、オートロックを解除する。
自宅の鍵を開けて中へ入り、扉を閉めるとそのまま背を預けてずるずると座り込んだ。
これまで堪えていた涙が一気に溢れ出す。未玖はその場で座り込み、声を出さないようにと口元を押さえた。
背を向けられたとき、縋り付きたかった。いかないでほしいと言いたかった。しかし、それは雅人を困らせる行為。そんなことはできない。
そもそも、この恋を雅人に終わらせたいと願ったのは未玖自身。その願いを知らずとも、雅人は恋を終わらせてくれた。
──わかっていても、涙が止め処なく溢れる。
好きだった。大好きだった。
涙は頬を伝っていき、ぽたり、ぽたりと玄関の床を濡らしていく。
もっと早くに生まれていればよかったのか。もっと早くに出会っていればよかったのか。そんなどうしようもないことを考えていると、ふと雅人から贈られた言葉が頭を過った。
『人はつねに初恋に戻る』
未玖が新たな恋へ踏み出せるように──雅人はそう言っていた。雅人自身も、未玖が新たな恋へ踏み出すことを願っているはず。
それでも、もう少しだけ。雅人との思い出に浸っていたい。
午前零時に終わった恋に。
隣に好きな人がいて、同じ時間を過ごして、笑い合って。実はブロッコリーが苦手なのだとか、意外な一面も見られたりして。
──ずっと、この時間が続けばいいのにと思う。
今日、この日を過ごしたことで、一緒にいたいと思ってくれたらいいのにと思う。
けれど、未玖にはわかっていた。それは到底叶わない願いであり、今この瞬間も恋の終わりが近付いていることを。
何故なら、そのためのデートなのだから。
「もうすぐ、約束の時間ですね」
未玖の自宅があるマンション前に着くと、いつもの落ち着いた声が聞こえてきた。胸に迫る感情をぐっと堪え、視線を合わせる。
ああ、やっぱり──未玖を見る彼の目に、胸が締め付けられた。彼は、あのときと何も変わらない。
未玖がデートに誘った、あの日から。
堪えている感情が溢れそうになり涙が滲みそうになるも、それらを呑み込み、目を細めて口元を綻ばせた。
何があっても彼の前では涙を見せないと、そう決めて家を出てきたからだ。
「とても、素敵な時間を過ごせました。ありがとうございます、教授。いえ……雅人さん」
初めての出会いは、大学の授業。第二外国語に何となくフランス語を選び、その教授が雅人だった。
今でも鮮明に覚えている。自分の親ほど離れているであろう雅人に一目惚れした、あの瞬間を。
その容姿も、話し方も、仕草も。何より、心地良いテノールボイスで紡がれる言葉が、とても素敵だった。
週に二回しかない授業。顔と名前を覚えてもらうために必死になった日々。その努力が報われ、顔を合わせれば雅人と他愛のない話ができるまでに。
そして、大学を卒業する日。未玖は雅人にある提案をした。
『わたしと、最初で最後のデートをしていただけませんか』
本当に、好きだった。雅人の左手の薬指に指輪はなく、歳は離れているが振り向いてもらえるのではないかと思っていた。
雅人の机の上に飾られている、女性の写真を見るまでは。
その写真に向けて、愛おしそうに目を細めている雅人を見るまでは。
いつもなら出し忘れることのない提出物。その日は何故か忘れてしまい、雅人の研究室へ直接提出しに行くことになった。
普段は入らない雅人の研究室。驚かせようとノックもせずにそっと扉を開いたとき──未玖はその光景を見てしまった。
今でも、後悔している。あの日、何故提出物を忘れたのか。出していれば何も知らずに済んだのに、と。
そうであっても、結果は変わらない。あの女性が雅人とどんな関係かは知らないが、どう足掻いても未玖のこの恋は叶わない。
わかっていても、雅人への想いをどうすることもできず、身勝手だと思いつつ未玖はデートに誘うことにした。
雅人に、この恋を終わらせてもらうために。
断ってくるだろうからそれで終わりにする、そう思っていたが──雅人は断ってこなかった。
今思えば、雅人は未玖の想いに気付いていたのだろう。
その上で、雅人もまた、未玖の恋にきちんと返事をくれようとしていたのかもしれない。
『では、シンデレラの魔法が解ける時間まで』
そう提案してきたのは、雅人だからだ。
シンデレラの魔法が解けるのは、午前零時。約束の時間は、迫っていた。
「お名前で呼ばせていただいたり、わたしのことも名前で呼んでいただいたり……夢のような時間でした」
「それはよかった。こんなおじさんですが、未玖さんの思い出になれましたか?」
「……っ、もちろんです。わたしの、大事な思い出になりました」
声が震えた。
やはり、雅人は未玖の想いに気が付いていた。だからこそ、雅人は未玖のデートの誘いを断らずに付き合ってくれた。
未玖のこの恋を、思い出にするために。終わらせるために。
これが、雅人なりの返事だ。
なんて、優しい人なのだろうか。卒業していなくなるのだから、断って放っておくこともできたはずなのに。
スマートウォッチが小さく振動する。それは、シンデレラの魔法が解ける時間を告げるもの。
「……午前零時、約束の時間ですね。橘さん」
左手につけている腕時計を見て、雅人はそう呟いた。
先程までは名前で呼んでくれていたのに、いつもの名字呼びに変わっていた。本当に、魔法が解けたのだと、この恋が終わったのだと実感する。
「橘さんは素敵な女性です。ただ……僕は、死別した妻が忘れられないんですよ」
「……机の上に飾ってあった写真って」
「ええ、妻です。二十年以上前に亡くなったのですが……僕は、今でも彼女を愛しているんです」
そう言って、雅人は星が綺麗に輝く夜空を見上げた。その目は女性の──亡き妻の写真を見ているときと同じ、愛おしいものを見る目。
羨ましい。素直にそう思った。
これまで、何度も雅人から視線を向けられてきたが、あのような目で見られたことは一度もない。当然だ、雅人の愛は亡くなった妻に向けられているのだから。
それはこれからも、未玖に向けられることはない。
「亡くなる直前、妻からは別の人と幸せになってほしいと言われました。ですが、無理でした。僕のエトワールは、彼女だけなんです」
「奥様は……今も、教授の中で光り輝いているんですね」
「そうですね。あの頃と変わらず……僕の中で優しく、穏やかに光り続けている」
雅人の、亡き妻への想いが伝わってくる。今でも愛していることが、ひしひしと伝わってくる。
正直なところ、羨ましさはあるが、悔しさはない。悲しくない、と言えばそれは嘘になるが。
でも、と未玖は笑みを浮かべた。
「わたし、教授のことを好きになってよかったです。こんなにも一人の人を愛せる人を好きになれて……よかった」
これで、この恋を終わらせられる。
「On revient toujours à ses premières amours.」
「その言葉って……」
「人はつねに初恋に戻る。……橘さんが、新たな恋へ踏み出せるように。僕から、この言葉を贈らせていただきます」
さすがは、フランス語の教授だ。とはいえ、今はその雅人に振られたばかり。新たな恋などまったく考えられないが──雅人から贈られた言葉だ。未玖は大切に胸へと仕舞う。
「僕のことを好きになってくれてありがとう。橘さんのことを心から愛してくれる方と、出会えますように」
それが雅人なら、どれだけよかったか。
未玖はその言葉を呑み込み、笑顔を浮かべた。
もう、これ以上雅人を引き留めていてはならない。午前零時を過ぎた今、雅人は大学の教授、未玖は卒業生となったのだから。
「……さようなら、教授」
「さようなら、橘さん」
別れの言葉を口にすると、雅人は未玖に背を向けて歩き出した。未玖も背を向けてマンションへと入り、オートロックを解除する。
自宅の鍵を開けて中へ入り、扉を閉めるとそのまま背を預けてずるずると座り込んだ。
これまで堪えていた涙が一気に溢れ出す。未玖はその場で座り込み、声を出さないようにと口元を押さえた。
背を向けられたとき、縋り付きたかった。いかないでほしいと言いたかった。しかし、それは雅人を困らせる行為。そんなことはできない。
そもそも、この恋を雅人に終わらせたいと願ったのは未玖自身。その願いを知らずとも、雅人は恋を終わらせてくれた。
──わかっていても、涙が止め処なく溢れる。
好きだった。大好きだった。
涙は頬を伝っていき、ぽたり、ぽたりと玄関の床を濡らしていく。
もっと早くに生まれていればよかったのか。もっと早くに出会っていればよかったのか。そんなどうしようもないことを考えていると、ふと雅人から贈られた言葉が頭を過った。
『人はつねに初恋に戻る』
未玖が新たな恋へ踏み出せるように──雅人はそう言っていた。雅人自身も、未玖が新たな恋へ踏み出すことを願っているはず。
それでも、もう少しだけ。雅人との思い出に浸っていたい。
午前零時に終わった恋に。