穴に落ちた日を境に、ケンジはまったく夢を見なくなった。だが熟睡しない日も多く、以前より睡眠の質もよくはない。

それでも悪い知らせばかりではない。ケンジが受験した中学校から合格の連絡が入ったのだ。

「光が丘中学校への入学が決まったんだってね。おめでとう。もう、変な夢をみていないの?」

久しぶりの心療内科では、開口一番に医者がそう尋ねてくる。

「見ていません」

「そうか、頑張ったね。もう来なくていいよ。お薬は必要な時に取りに来なさい」と医者は言い、あっさりと通院は終了となった。

帰りぎわ医者は「うちの子も同じ中学校なんですよ。ケンジ君よりも一つ上だ。いや、本当にいい学校ですよ」と嬉しそうだったので、母は仕方なく苦笑いをする。

病院を出るとケンジと母は並んで歩道を歩いた。

「よかったね。でもゲームは慎重にね」

母の言葉に、珍しくケンジは素直にうなずく。

「さあ、悪夢終了と合格祝い」

母はそう言い、ケンジと一緒に近くのスーパーに入った。今夜は手巻きすしにするよと言いながら、海鮮売り場へと足を運ぶ。その嬉しそうな様子を見ながら、彼は夢で落下した話は内緒にしておこうと決めた。

「お父さんは遠くにいるの。お仕事でね」

桜が散り始めた去年の春、母は突然兄妹にそう告げた。

ケンジと父は仲が良かった。週末はキャッチボールをし釣りや映画にもよく行っていた。父がいなくなってからのケンジは時間を持てあまし、壁にむかってキャッチボールばかりしていた。

ユウは父の事を何も聞かず、ただアニメを見たり、物思いにふけるようになる。母はそんな二人をねぎらうように明るくふる舞った。だがケンジにとって、その様子はときに煩わしく悲しかった。


ケンジのお祝いをした数日後、ユウの担任から母に連絡が入った。どうやらユウの具合が悪いらしい。

体調を崩すのは珍しいと言いながら、母は会社を早退して学校へ向かった。

ユウは「大丈夫なんだけど」と母にほほ笑んだが、家に入ったとたん、すぐにベッドに潜りこみぐうぐうと寝てしまった。それから三日が過ぎ、一週間が過ぎた。だが一向に回復の兆しはなく、母はとうとう会社に長い休みを申請した。

「まあ、これで私ものんびりできる」そういって母は笑ったが元気がない。ケンジとしても母が毎日家にいるのは嬉しいが、その横でユウが寝ていると思うと気分がふさいだ。

ユウが病気になってから、ケンジは夕食を運ぶ役割になる。今夜も夕飯のスープをユウに届けた。妹は読書が好きだ。だがアンデルセンはもちろん、漫画でさえ読んだ形跡がない。ただ静かに目を閉じていて、その姿はまるで死人のようにみえた。

ケンジがスープをそっと机に置くと、気配を察したのかユウが目を開いた。

「あーよく寝た」

ユウはそう言いながらベッドから上半身を起こす。ふっくらしていた体はほっそりして、顔色が悪い。

「何か飲む? サイダーとか」

「ううん、大丈夫」

ユウはベッドの上にひょいと上がって窓を開けた。そして運んできたスープを口にしながら「ねえケンジ、最近夢は見ている? 」と聞いてくる。

「もう見ていないよ」

「そっか」

「なんで?」

「うん、最近夢が妙にリアルになってきたの。前は砂あらしみたいだったんだけど、いまはもう、海岸にいるの」

「海岸に」

「うん、でもきっとケンジのとは違うと思うよ」

ユウはスープを飲み干し「ごちそうさま」と言った。

* * *

急に母に急かされ、ケンジは掃除を手伝わされる。どうやらユウの担任が家庭教師をかって出てくれたらしいのだ。

「これからは週に二回くらい家に通ってくださるの。その前に掃除をよろしく」

そう言われたので、ケンジは洗面所から食器棚、そして窓にいたるまでを雑巾で拭いた。

「こき使いすぎ」

「何いってんのよ。あんた最近、パズルとマンガを見てるだけじゃない。運動不足を解消するにはいいでしょう。あとはテレビね。ふきんで磨いておいて」

そう言うと母はユウの部屋へと去っていく。やれやれと思った矢先、ケンジの額を小さな光が飛んでくる。

インコだ!

小鳥は嬉しそうにケンジの頭の上にチョコンと乗る。しばらくケンジの頭をクルクルと回ると、やがてテレビの裏へと旋回した。小鳥はテレビの周りばかりを気にしている。そこでケンジはテレビ画面を横に動かしてみた。電源が外れ、小さな貝殻のような箱が見える。

「終わった? なにしてんの」

「いや、オレもわからないんだけど……。なんだろうコレ」

「やだ、懐かしいこれ、お父さんのカフスが入ってた箱」

「カフスって?」

「カフスってのはスーツなんかを着るときに腕の部分につける装飾品よ。こんなトコにあったんだぁ」

そう言いながら母は貝殻のケースを開くと、カフスが一個入っていた。インコはもういない。

「本来は二つあるんじゃない?」

「それもそうね」

母とケンジはもう一度テレビの裏を探してみる。だが片方のカフスは見つからなかった。

* * *

舟の支度をしていると、遠くから歩いてくるものがいた。女は目を凝らしてイメージを読む。

「あの玉と関係がある子だ、えらく悲しんでるね」

「お父さんを探しているんです」そうインコが言う。

強い波動を感じる。どうやら空もソレをキャッチしているようだった。

(はよ、あの娘を連れて漁に出よ)

生きている娘を漁に連れていけだと? どうなるのやら。

「夢の中でお父上を探しているようです」

「空がうるさくなってきた。小鳥よ、ここで主の姿を見かけたことがある?」

「一瞬ですが……」

それを聞いて女はインコを女の懐に入れた。

「ちょっと隠れてて、アタシだけで話をする」

女は少女に近寄っていった。ユウは舟の前に立ったまま不安げな表情をしている。

「ねえ、ここでなにしているの?」

「あなたは……」

「この世界の住人だよ」

「そう……。私はどうしてココにいるの」

「わからないの?」

「うん、いいえ。わかってる。お父さんに会いたくて探してるんだわ」そういうとユウは沖をみる。空では雷雲がゴロゴロと鳴った。

(おいで、娘。漁に出ようーー)

まやかしだ。どうやらユウに父親の幻想を見せているようだ。

「あそこに舟がある」

「そう、漁をしているからね」

「お父さんが沖へいく舟に乗れって。乗れるもの?」

「さあ」と女は首をかしげたが、稲妻と共に強烈なメッセージが脳裏を再びつらぬき、かがみこむ。

(早く沖を目指せ!)

「大丈夫? ええと、あなたの名はーー」

「今度教えるよ。ここは危険だ。帰り道はわかる?」

ユウは悲しそうに首を横にふる。女は腰の脇にある袋から貝殻の細工の装具をみせた。ユウは不思議そうにそれを手にとった。

「あんたのお父さんが持っていたもの、しばらくは私が守るから大丈夫。さあ眠りから覚めなさい」そう言って額に手を当てると、ユウはするりと空の中に消えていった。女はインコを懐から出した。

「あー、あの子に装具をわたしたままだった。なんて強い引きよせだ。何かある」

(沖をみてください)

インコが言う方向を見た。たしかに沖がざわめいている。

「少女の波動に引きよせられているんだろう。玉が波打ち際で踊っている。あんなのに触れたら舟ごとこっぱみじんだ」

「それでも、渦はあの玉を欲しがっているのでしょうか」

「たぶんね。わかっちゃいない。あの渦が食えるのは、誰にも見とがめられなかった弱い玉だけなのに」

「どうやらお兄様、ユウ様とも、かなり気に入られているようです」

「やれやれだ。仕方ない。ちょい危険だが、あの子たちをココへ呼んでみようか」

「ここへ、ですか?」

「うん。父親の魂が浄化を拒むなら、元に戻そう。正直、あの父親がいるからみんな騒ぎ出すんだ」

「でも……。もし失敗したら」

「イチかバチかだね。このままだとどっちの世界も落ち着かない。さまよってる父親の玉も路頭に迷うだろう。あの子も体調がよくなさそうだ。あんまり引きよせられてパワーが奪われているんだろう」

「私はーー。何をすればいいのでしょう」

「細工を拾った場所に結界がある。そこまで兄妹を呼びたいんだけど。できる?」

インコはしばらく考えこんでいる。

「あの親子の魂は――。その、それだけの力があるのでしょうか。あの方たちと時間を共有していた間、ご家族は慎ましい生活でした。この世界が欲しがるパワーがあるとは、とても考えられません」

「穏やかで幸せな家族だったんじゃない? その愛が欲しくてたまらない連中はうじゃうじゃいる」

インコはハッとしたようだ。急に離れると空に飛び立ち、やがて消えていった。

「どうも鳥の奴らってのは、急に飛んでくね」女はそう言いながら、雷雲がとどろく海辺へ歩いていった。

* * *

約束の週末はすぐにやって来た。ケンジは母に連れられて久しぶりの特急に乗る。彼は全国の都道府県ならソラでいえるが、いざ交通情報となるとスマートフォンか母に頼らざるを得ない。

ケンジは車窓から外を見た。ビルだらけの景色が田畑に変化していく様子は楽しかった。目的地の駅にたどりつくとチケットを無人の缶ボックスに投げ入れ、タクシーに乗りこむ。

「K市の保養所までお願いします」

タクシーは急カーブが多くなり、ケンジは気分が悪くなったが、すぐに目的の保養所にたどりついた。受付けではすぐ「野沢さん」と、スタッフらしい女性が声をかけてきた。母は「お久しぶり、今日は息子を連れてきました」とケンジを紹介する。

「あら、初めまして。こんな大きな息子さんがいたのね」

スタッフの女性もそう返事をし、二人を診療所のなかに招いた。母とその女性は慣れた様子で階段を上ると「八」の札がついた部屋に入っていく。

「ほら、今日も穏やかに過ごしていますよ」

おそるおそるベッドの上を見ると、そこには父が静かに横たわっていた。ブルーの寝間着を着て、いくつかの管を腕に通されている。母が近づいたので、ケンジも後ろからそっと見る。久しぶりに会った父は少し痩せた気がした。

「驚いた?」

母がそう聞いてきたので、ケンジはうどんをすすりながらうなづいた。この保養所では、こうやって母が来るたびに食事を用意してくれるらしかった。

「……父さん、事故ったの?」

「ううん、原因はよくわからないの。会社の机で急に倒れたんですって」

「そうなんだ」とケンジは言い、レンゲを使ってスープを飲む。

「この診療所。お母さんが見つけたの。昔一緒に働いていいた人が、さっきのスタッフさんと知り合いでさ」

「うん」

「長くかかるかもしれないけどって……。ここに来てから調子がいいみたいで」<

「……うん」

ベッドごしのカーテンが風でふわりと揺れる。気持ちのいい場所だ。アウトドアが好きだった父にとって、ここは安らげる場であるに違いない。

「でもね、ユウにはまだ黙っていようと思うんだ」

そう母が言ったので、ケンジはまたうなづいた。