その人が彫ったタトゥーの図柄を見たとき、一瞬で意識を奪われた。
色の鮮やかさ。緻密な線。斬新なデザイン。圧倒的な存在感を以て、人間を飾る一生消えない痕に私はどうしようも無く惹かれたのだ。
彫り師の名前は、カイン。
私はカインに会うために、東京は新宿に向かった。

地方から電車と夜行バスを乗り継ぐ。阿部 琉生はイヤホンから流れる音楽を聴きながら、白み始めた空を眺めていた。すずめが並走するように飛び、朝日に向かっている。琉生のジャケットのポケットにはカインのアトリエの住所が書かれたメモが一枚、入っていた。作品集の奥付に書かれていた唯一のカインの居場所だ。
やがて行き着いた、新宿のバスターミナル。琉生はバスから降り立ち、きんと冷えた空気を吸った。12月の東京は地元よりは寒くはないものの、バスで温くなった肺には心地よい気温だった。
「…人、多い。」
当たり前の感想を呟きながら、琉生は雑踏に混じっていった。仕事を終えた夜の蝶や、会社に向かうサラリーマン。学生たちが道を塞ぐように歩いて行く。
歩行者用信号のメロディや我慢の限界に達したかのようなクラクションが鳴り、電車が走る音が響いて、喧噪と化していた。
琉生はメモを頼りに、道を辿る。事前にスマートホンに登録しておいた住所は、電池切れにより全く意味を成さなかった。
そしてやっとの思いで見つけたのは、一棟の雑居ビルだった。看板が出ていないがビルの三階、そこにカインのアトリエはあるようだ。窓には黒いカーテンが掛かっているのだけが、外から窺い知れた。
「よし。」
琉生は勇気を込めて気合いを入れ、ビルの階段を上り始めた。階段には枯れかけた観葉植物や古新聞の束が置かれていて、踊り場の窓には誰が世話をしているかわからない金魚が小さな水槽に泳いでいる。水槽のモーターと水が循環する音が響いていた。白いスニーカーの靴音を何故か潜ませながら、三階にあるアトリエの扉の前に立った。琉生が扉の横にあるチャイムを鳴らすと、フォンフォーン、という気の抜けた音が存在を知らせた。
返事が無い。
「あれ?」
琉生は首を傾げ、チャイムを連打してみた。何度目かのチャイムの末、室内でバタバタとした音が近づいてくる。
「あああああ、もう!うるっせー!!」
勢いよく開け放たれる扉を軽快に避け、室内から出てきた人物を見て琉生は驚いて目を見開いた。
そこに立っていたのは、小柄な少年だった。
少年は黒髪に金色のメッシュを入れて、肩から落とすようにスカジャンを羽織っていた。
「寝てんだから、一回チャイム無視されたら諦めろよ!」
「あなた…、カイン?」
琉生の不躾な質問に少年は、あ?と凄む。
「だったら何だ。ていうか、先に名乗れよ。」
少年の指摘に琉生は、ふむ、と頷き、それもそうだと思った。
「私は阿部 琉生。」
「アベル?」
「いや、区切るところが、」
違う、と言いかけるも、少年は俄然と琉生に興味を持ったようだった。
「ふーん。カインとアベルって、出来過ぎな気もするけど。ま、いーや。僕が、カインだ。」
やっぱりと思いつつも、意外に若いなとも思う。
「で、何の用事?僕、眠いんだけど。」
そう言いながらあくびを噛み殺すカインに琉生はつい疑問を聞いてしまう。
「ええと、学校は?」
「は?」
お互いに微妙な間が流れる。
「…僕、29歳だけど。」
「ええ!?見えない!」
琉生が驚愕に声を上げると、カインが不機嫌そうな目つきを更に悪くする。
「童顔なんだよ。」
カインはチェーンに繋がれた財布を取り出して、車の免許証を琉生に突きつける。
「…おお。」
確かに生年を確認して、琉生は無意識に拍手をしていた。
「馬鹿にされている感が否めないけど、僕は大人だから許してやる。あんたは?仕事休んで、何しに来たのさ。」
「あ、私は学生。」
そう言って、今度は琉生が地元の大学の学生証を出してみせる。年齢は19歳。
「まだ十代!?」
「ギリ。」
互いに驚きの自己紹介を終えて、今度こそ本題に入った。アトリエの室内に入り、煙草の香りが染みついたソファーに座る。
「カインにタトゥーを彫って欲しい。」
「タトゥーねえ…。あれ、一生消せないんだぜ。理解してんの。」
琉生は頷く。
「一生消したくないものがあるんだ。」
「何よ。恋人の名前だったらおすすめせんよ。」
カチカチとライターを鳴らして、カインは煙草に火を付ける。先端に橙の火が灯り肺一杯に紫煙を吸い込むと、溜息を吐くように出してみせた。
「違う。記憶。記憶を彫って欲しいんだ。」
「また抽象的だね。具体的に?」
「…私、直に目が見えなくなるんだけど。」
そう言って、琉生は視線を窓の外に向けた。黒いカーテンは開け放たれて、昼間の太陽が煌々と室内を照らす。やがてこの光のように目が眩み、視界は白くなるのだ。
「網膜色素変性症って病気らしくて。その症状が進む前に、この体に月を刻みつけたいんだ。」
琉生が通う大学は天文学部があった。夜空に浮かぶ星々が好きだった琉生は天文学部に通っていた。
「…面白いね。」
それは作品集の表紙にもなっていた『Sign of the moon』というタイトルのタトゥーだと琉生は言う。
「ああ、あれね。そっか、ふーん。」
カインが琉生の全身を眺め、そして言う。
「いいんじゃない。どこに彫るかは決めてんの?」
「まだ。」
「じゃあ、それ、僕が決めても良い?」
「おすすめがあるの。」
「普段は絶対におすすめしない。」
その場所は、首の後ろ。項だという。首は皮膚が薄く、敏感だから強い痛みを伴うらしい。
「アベルは首が長くて綺麗だから、絶対に似合うと思うんだけど。どう?」
琉生は自らの首筋を撫でる。自分の目で直接見ることの出来ない場所にあえて月を刻むのは、皮肉が効いていて良いと思った。痛みがあるなら尚更、良い。痛い記憶はよく覚えているものだ。
「じゃあ…、首で。お願いします。」
細かい打ち合わせを経て、施術は明日にすることになった。契約書や図案などの書類をまとめながら、カインが言う。
「ホテル、どこにとってあんの。バイクで良ければ送ってってやるよ。」
「あ、忘れてた。」
「…。」
「大丈夫、その辺の漫喫に行くから。」
カインは呆れたようにため息を吐いた。
「泊まってけば。」
「いいの?」
「この辺りは治安が悪いんだよ。女子一人を放り出せるか。」

水底の柔らかい泥に着地するような感覚がした。
ゴポリ、と音を立て緩やかに泡が立つ様子に、ようやく上下を意識する。見上げれば白いカーテンのような光の筋が降り注ぎ、琉生を温かく包み込んだ。まるで母親の胎内に還り、羊水に浸かっているようだった。
しあわせに微睡み、目蓋を閉じると紅い血潮が心臓の鼓動に合わせてどくどくと点滅する。ため息を吐くように呼吸をして、そして―…、夢から醒めた。
「…。」
コンクリート打ちっぱなしの天井を見つめる。脳内に血液が巡るまで時間がかかって、琉生はやっと上半身を起こした。水色のキャミソール越しに薄い胸が呼吸に合わせて浮いては沈む。
時計を見れば、午前3時を指していた。遮光しないカーテンから周辺の看板類のネオンが滲んでいる。。
カインのアトリエは、彼の住所を兼用していた。住宅区に招かれて、琉生は一宿の恩を買った。
はあ、とため息を吐くように呼吸をする。冷たい空気が肺に満ちた。琉生は寝床にしていたソファから抜け出して、裸足のままひたひたと音を立てながら窓辺へと向かう。窓サッシをカラカラカラと音を立て開けた。決して綺麗ではない空気が、肌をざらりと撫でる。
琉生は夜空を見上げる。明るすぎるネオンの所為か、星は月しか窺い知れない。今宵は奇しくも満月だった。あと、何回見ることができるのだろう。
「!」
ふわっと無防備な肩に、やわらかいタオルケットがかけられる。振り返ってみると、カインが立っていた。
「風邪引く。」
「ありがとう。」
沈黙が流れる。決して重い雰囲気ではない、柔らかく優しいものだった。
「…あー、何だ。感傷に浸ってた?」
「ううん、いや、そうかも。」
「どっちだよ。」
曖昧な琉生の答えにカインは笑った。琉生は言葉を紡ぐ。
「失明の現実を受け入れるのは存外にも、簡単だった。現実を見なくて済むし。」
「ややこしい言葉遊びは苦手なんだけど…、アベルには失明よりも受け入れ難い現実があるのか。」
「残念ながら、あるんだなあ。これが。」

佐伯 穂高

『るいちゃん。』
優しく、私の名前を呼ぶ声が鼓膜に響くようだった。


ギリギリ冷房の効く校舎の隅の喫煙所。
大学にあるその場所は学生たちの手作りらしく、誰かが持ち込んだ赤い革張りの古いソファーと、錆びたブリキのバケツがぽんと置かれただけの素っ気ないものだった。
真夏の季節、窓の外から蝉時雨が降り注いでいた。濃い木漏れ日がちらちらと魚が泳ぐように散っている。ソファーに座り、美味しそうに煙草を嗜む人物が一人。
「佐伯さん。」
「おお、るいちゃん。どったのー。」
琉生の呼びかけにのんびりと応えるのは、穂高だった。
「もうすぐ授業が始まるから呼んでこいって、教授が。」
佐伯は天文学部の指導員を務めていた。教師でも、学生でもない指導員という立場の佐伯は限りなく学生に近く、皆の兄貴のような存在だった。
「これ。吸い終わったら、行くね。」
佐伯は微笑みながら吸いかけの煙草を僅かに持ち上げてみせる。
小さくため息を吐いた琉生は換気をしようと窓を開け放つ。温い風が喫煙所の空気を洗い流した。手で日よけを作り、眩しそうに目を細めながら空を仰ぐ。強い白の陽光で視界が塗りつぶされそうだ。
「るいちゃん。」
隣に佐伯が立つ気配がする。
「直接、太陽を見ちゃダメだよ。」
目玉焼きになる、と笑えない冗談を佐伯は言う。そして片手に持った煙草を肺一杯吸い、紫煙を吐いた。
「…控えないと、体に悪いですよ。」
「んー?」
「煙草。」
琉生の苦言は、佐伯によって笑い流される。
「るいちゃんはいいこですね。」
くくくっと鳩のように笑いながら、それでも禁煙の二文字は口にしない。
「からかわないでください。…肺を悪くします。」
琉生は唇を尖らせる。
「あー、それね。僕の家系って胃がん系なんだよね。」
だから大丈夫、との謎理論を振りかざして佐伯は短くなった煙草を水の張ったバケツに入れ、火を消した。
「さて。じゃあ、教室に行きましょうか。」
立ち上がる佐伯のボトムスのポケットから、煙草の箱が落ちた。琉生は何気なく拾い、彼に手渡す。
「お。ありがと。」
佐伯に煙草を渡す瞬間にほんの少し、手の指先が触れあった。ピリ、と電流が走るようだった。

つつがなく大学の講義を終えて、琉生は一人暮らしをするアパートまでの家路につく。毎月購読しているファッション誌を購入しようと、コンビニに立ち寄った。
目当ての雑誌を見つけ、レジに行く。レジの後ろにはたくさんの煙草の銘柄が並んでいた。会計の順番を待つ間、琉生は佐伯が吸っていた煙草の銘柄を思い出していた。
まだ、喫煙するには年齢が国が定めた法令に達していない。『私ね、結婚するの。』
だけど、結婚はできる微妙な年齢。
親友の嬉しそうな笑顔での報告は、琉生にとって思いがけず苦いものだった。

「あまりにもありきたりで、びっくりでしょ。」
「まあ…生きてれば、一回は体験しそうだね。」
好きな人が親友と結婚する。
自分で口にして、そのあまりの陳腐さに驚いた。
「別にね、意識してなかったんだよ?佐伯さんのこと。」
好きだと認識した瞬間に、振られた。
他人の好意を以てして、自分の思いに気が付くだなんて間抜けにもほどがある。
「でもさ…、意外にもきついんだよね。二人のことを見てるの。」
人目を忍び、仲睦まじく手を繋ぐ姿。
何かのサインのように笑い合う顔。
そして、春になれば二人は小さな式を挙げるという。
招待するから来て欲しい、と無邪気に言う親友のウエディングドレス姿を、私は見たくない。
「あまりにも願ったから、神さまが叶えてくれたんだ。」
琉生はそっと中指の腹で眼球に触れる。目に張った涙が指紋に吸収されて、熱く痺れるように痛い。
「月はね、佐伯さんが一番好きな天体なの。」
だから、体に刻むと決めた。
美しい月が良い。満ちた月なら尚、良い。そして夢なら良いのに。
「なんだ。僕の彫る月じゃなくていいんじゃん。」
「それは違う。」
苦笑するカインに向き合って、琉生は断言する。
「カインの月でなければ、意味が無かった。」
カインの彫る月は美しい。
そして勝手に死んだようなものだけれど、初めての恋は殺された。月を刻むなら、人類最初の殺人者の名を語るカインが良いと思ったのは確かだった。
「名前にも惹かれたんだよ、カイン。」
「ふーん…。」
カインは窓から夜空を見上げ、満月を見た。
「アベル。今から、いい?」
「え?」
「良いタトゥーが彫れる気がする。」
カインの言葉に琉生が頷くのを見ると、彼は彼女を白い施術台へと誘うのだった。

「…痛…っ、」
思わず、琉生は声を漏らす。
カインが黙々と琉生の項に満月を彫っていく。手彫りを選択し、何本かに束ねられた針が肌を刺す。時折、触れるカインの指先は熱がこもる自分の肌に冷たく、気持ちが良かった。
「あと…、どの、ぐらい?」
「もーちょい。」
器具が触れあって、金属音を立てる。
「…アベル。月が綺麗ですねって意味、知ってる?」
「有名、だよね。『I love you.』…あなたを愛しています、でしょ。」
「そう。じゃあ、その答えは?」
チリチリとした痛みが肌を刺す。琉生は痛みに耐えつつ、考える。
「えー…、なんだろうな。」
「はい、時間切れー。」
ぶぶー、と擬音を口にしてカインが答えを言う。
「『fly me to the moon.』意味は、月まで飛んで行けそうなキスをして、だよ。」
カチャリ、とカインが器具を置く。
「終わったの?」
「うん。あ、ちょっと待って。」
振り向こうとする琉生を制して、カインが施術台を軋ませながら片足をつく。
「?」
背後に僅かな重みを感じる。琉生の黒髪を項からどけるように払うと、カインは徐にその満月に口付けた。
「え、」
琉生が驚いて首を動かそうとすると、動くな、と言われる。「痛みと熱が落ち着くおまじない。」
肌に唇が触れながら喋るものだから、くすぐったくて笑ってしまった。
「…満月を刻まれた感想は?」
背後を取られながら続く会話は、妙に心臓が大きく脈打った。
「熱い。月って冷たいイメージだったから、新鮮。」
「そうだ。月は意外と温かいんだよ。」

暗闇の夜の道を標すように。
一人で泣く夜も寄り添うように。
愛を伝える唯一の星、月。

「目が見えなくなったら、この温度を思い出せよ。」
それはカインによる、失明に対する餞別だった。