雪は好きだ。

 寒風で舞う細氷が、見る者達を魅了する。
 降りつもる白雪は、全ての罪を消してくれるのだ。


「わあ…!とっても素敵な場所ねリアム!」

 スノーヴェル辺境伯家の娘エフェメラルは、感嘆した。汚れひとつ無い白雪を踏み締める。
 領地の外れにあるこの地は、冬になると湖面が結氷し青く澄む。青々とする草原は、美しい雪原になった。

 人里離れた場所ゆえに、雪化粧を楽しむには打ってつけの場所だ。双子の弟リアムが、姉のエフェメラルを連れてきたのだった。

(やっぱり、ここで正解だったな)

 寒風がエフェメラルの雪白の肌に触れ、プラチナブロンドの髪が攫れる。風を浴びながらエフェメラルは振り返った。大きなロイヤルブルーの瞳が、宝石のように輝いている。
 リアムは、彼女の色が大好きだった。

「姉様、冷えるので僕のマフラーをお使いください」
「そしたらリアムが寒いじゃない」
「いいから、ほら」

 凍えて頬と鼻先が赤らんだ彼女の細首に、リアムはマフラーを巻いてやった。そうして美しい姉を甲斐甲斐しく世話することが、大好きだった。

「これで温かいでしょう?」
「ええ、ありがとう。ふふっリアムの香りがする」
「気に入りませんか?」
「いいえ、好きよ」

 好きよ、だなんて。
 羊毛の厚いマフラーを器用に結びながら、リアムは心の内で悦んだ。彼女にとっては、きっと何の気無しの言葉だ。けれど、リアムにはこの上ない褒美だった。

「姉様、今日も愛しています」
「まったく…いつもそれね。自分がシスコンって噂されているの、知っているでしょう?」
「かまいません。僕には姉様だけですから」
「わたしは違うわ。愛する婚約者がいるもの」

 エフェメラルは、リアムの目を見ずにピシャリと答える。そして婚約者を思い浮かべ、桜色に頬を染めた。
 10年前に婚約したエフェメラルと婚約者は、政略結婚とは思えない、恋人のような関係を育んできた。
 そして明日、彼らは念願の結婚式を挙げ、正式に夫婦になる──予定だった。

「姉様は、本物の愛を分かっていません」

 愚かにも「愛」を口にしたエフェメラルに、リアムは噛み付いた。

「愛と憎しみは表裏一体です。本物の愛は、痛みを伴うものなんですよ」
「……愛はもっと優しいものよ?幸せで、笑顔になるの。貴方も愛する人ができたら分かるわ」
「よくもそんな…姉様っ…!僕の気持ちに気づいているでしょう…!?」
「ねえ…リアム。わたしも貴方がとっても好きよ?でも、わたし達は姉弟だから…結ばれてはいけないの」
「そんなもの…知りません!姉様は僕の──」

 声を張り上げるリアム。心の臓が痛む。育ち過ぎた想いが、この身を焼き焦がしていく。
 エフェメラルに巻いたはずのマフラーに、リアムは顔を埋めた。

「本当に…愛しているんです」

 細声が強風に攫われ、矢のような雪が頬を掠める。
 顔を上げると、微笑んでいたエフェメラルは、もう姿を消していた。
 リアムだけが、ここに取り残されていた。体温を徐々に奪われ、意識は次第に朦朧としていく。
 リアムは、エフェメラルとの日々に思いを馳せた。

 双子の姉弟でかつて1つの胎を分け合った仲なのに、なぜ生まれた後は、1つに繋がることが赦されないのか。

 婚姻後、エフェメラルと婚約者は、晴れて夫婦となる。弟では及ばないエフェメラルの深部まで、あの夫は知ることになるだろう。
 そして、エフェメラルはそれを、大いに悦ぶのだ。

 ──考えただけで反吐が出る。

 婚約者の名前を口にする姉の表情は、多幸感に満ちていた。それが、リアムの憎しみを激らせる。
 このまま愛する女を他の男へ、おめおめと譲るわけにはいかない。

 彼女を攫おうかと思った。けれど、せいぜい2晩ホスペスで過ごせるのが関の山だ。婚約者がすぐに追ってくる様子が、目に浮かぶ。
 
 いっそのこと追っ手の婚約者を消してしまおうか。
 しかし、優しいエフェメラルは、きっと罪悪感に苛まれる。そして、死んだ男を後生想い続けるのだろう。
 ──それでは意味がない。
 彼女の身も心も、自分のものでなければ。




 だから、こうするしかなかった。




 リアムは跪き、結氷した湖面の雪を手で払った。
 そして、氷に秘めたそれを見た。
 仰向けで浮く、魚の腹のような白い肌。プラチナブロンドの乱れ髪が固まっている。光のない虚な青の瞳は、遠くを見つめていた。
 それは、とうに絶命したエフェメラルだった。

 ひと月前、リアムはエフェメラルを殺した。

 姉弟水入らずで、美しい思い出を作ろう。と、そんな綺麗な嘘をついた。純粋な姉は、何の疑いもなくついてきた。
 そしてマフラーを貸すふりをし、細首を絞めた。
 丁寧に、確実に。
 
「自分の物にならないのなら、いっそ消してしまえばいい」

 生きたまま誰かの物になるより、死なせてでも、自分の物でいてほしかった。

 時間をかけて膨張したリアムの熱情は、今でも消えることはない。
 愛するエフェメラルを亡き者にした、今でも。
 ここへ来ただけで、エフェメラルの幻影が見えたくらいなのだから。

 叩きつけるような雪風で、雪が、微細なダイアモンドのように輝く。
 氷の下のエフェメラルの上にも、雪が舞った。
 文字通りの雪化粧だ。雪白色の肌が新雪の肌へ、見る見るうちに様変わりしていく。

 ……そういえば。ひと月前のことを、リアムは思い出した。
 真っ白なウェディングドレスを、エフェメラルは試着していた。
 頬を赤らめて喜んでおり、愛らしかった。
 同時に、憎らしかった。ウエディングドレスを着た彼女の隣に並ぶのは、自分じゃないから。
 あの時は屈辱的だった。けれど、今のリアムは優越感に浸っている。

 あの安っぽいドレスと比べてみろ。この価値の付けられない、極上のドレスはどうだ。
 もう誰にも、彼女にドレスを着せることはできない。──永遠に。
 リアムは、彼女の顔を陶然と撫ぜた。
 けれど、

(でも…あっちのドレスも好きそうだったな)

 殺す直前のエフェメラルを、リアムは思い出した。
 自分の行いに良心は痛まなかった。
 これは「愛のための最適解」だから、良心がどうこうなるものでもない。
 けれど、愛するエフェメラルが動かないのを見ると、リアムは自然と涙した。
 降り積もる雪の中で、リアムはその感情を逡巡した。けれど、とうとうその理由は分からなかったし、解りたくもなかった。

「姉様。これからは、永遠に一緒にいましょう。だから、同じ所へ連れていってください」

 リアムは、白い闇の中で氷面を撫でた。そして、エフェメラルに寄り添うように、氷の上に横たわる。
 強さを増した吹雪が、雪を厚く積もらせた。
 極寒の中でリアムは微睡む。

『愛はもっと優しいものよ?幸せで笑顔になるの』

 エフェメラルの言葉を思い出し、リアムは雪影の中で微笑んだ。

「はい。姉様──」

  

 春、雪解けした草原で、エフェメラルとリアムの遺体が発見された。
 証拠品となったのは、L.Sと刺繍されたマフラーだ。それがリアム・スノーヴェルの物だと、執事の証言で明らかとなったのである。
 行方不明のエフェメラルを、姉思いのリアムが探しに行った。そして無念にも遭難した、と。
 事件は、美談として片づけられた。

 エフェメラルの遺体は、綺麗だった。
 精巧な人形のような、狂気的な美しさを誇っていた。

 一方、リアムの亡骸は無惨だった。
 皮膚が萎んでしまい、美しかった彼の姿は、今は見る影もない。そこらに咲いた雑草の花の方が、よほど綺麗だった。
 老年の執事は言った。

「坊ちゃまは…お嬢様を何より愛しておられました」

 春、緑が芽吹く。雪原とは違う、生き生きとした美しさが満ち溢れている。
 まるで、冬の過去を忘却させるようだ。
 2人の見つかった湖畔には、美しい純白の墓標が建てられた。
 春、柔らかな薫風が吹く。墓標の隣で野花がささめいた。


 彼らは今でも、静かにここに眠っている。