バーに入ると早速、バーテンダーさんがタオルと着替えを渡してくれた。
 別室で着替えたのは、レディースサイズのバーテンダー衣装。
 さっきのバーテンダーさんは男性なので、他にも店員さんがいるのかもしれない。
 幸い下着までは濡れていなかったので、申し訳なく思いながらもお借りすることにした。

「タオルだけじゃなくて着替えまでお世話になって、すみません……。来週までには洗ってお返しします」
「服はあげるよ。きっと返してもらう機会はないと思うから」
「え? でも……」
「いいからいいから。じゃあ次は、これ」

 カウンターに案内してもらい、お手拭きで手を拭いているとバーテンダーさんが別のタオルを手渡してくれた。

「二つ目のお手拭き……?」
「それを使うのはココ。冷やすと良いよ」
「あっ」

 彼は人指し指でまぶたをさしている。
 私の目が腫れていることに、気づかれていた。

「あの……こんなみっともない姿で、すみません」
「とんでもない。うちはいつでも、迷える子羊たちのためのバーでいたいからね」

 そう言って微笑む気さくなバーテンダーさんは、ちょっと変わったひとだなと思った。

「……」

 黙って目を冷やしていると、脳裏に昼間の出来事が過りそうになる。
 バーテンダーさんの圧に飲まれたおかげで、せっかく忘れかけていたのに……。
 ぐっと胸がつまりそうになった瞬間、ふわりと甘い香りが漂ってきた。

「どうぞ。これはサービスだよ」

 カウンター越しに差し出されたのは、お皿に乗ったティーカップ。
 端っこには、ティースプーンと一緒にビスケットが二枚乗っていた。

「え? 紅茶とビスケット……ですか?」
「雨で濡れて冷えていると思ったからね。ロイヤルミルクティーにちょっとだけラム酒を入れたんだ。ほんの少しだけならアルコール入っていても大丈夫かな?」
「は、はい。ありがとうございます」
「ビスケットは、まだ夕食も食べてなさそうだと思ったからね」

 図星だった。
 彼に振られたカフェでは飲み物しか頼んでいなかったし。
 暗くなってからも、夕食を食べようと思う余裕すらなかったんだから。

「それは……目が腫れていたからそう思ったんですか」
「うん。お節介でごめんね」
「いえ……。ありがとうございます」

 それまでは悲しさと冷たさで胃も心も空っぽで、身体中がぎゅっと苦しくなっていたのだけれども……。

 カップを口元に運ぶと、ほんのりとラムの香りが漂ってくる。
 飲んでみると、ラムの甘さとミルクティーの優しさ、そして温かさが、身体にじんわりと広がっていく。

「あったかい……」

 優しさで少しずつ心が包まれていくような気がした。

 ミルクティーを飲んでいる間、店内には無言の空間が広がる。
 響き渡るのは、しとしとと降る雨音と時折バーテンダーさんが立てる物音だけ。
 でもそれが、不思議と居心地の良さを感じさせてくれた。

「はい。次は蒸しタオル」
「ありがとうございます……」

 紅茶を半分飲んだ頃に、冷たいタオルと引き換えに温かいタオルを手渡される。

 どうしてこんなに親切にしてくれるんだろう。

「お節介ついでに、聞いても良いかな?」

 不意にバーテンダーさんが切り出して、私は息を飲んだ。

「っ……」

 まぶたを温め始めた頃には、すでに元彼のことはどうでもよくなっていた。
 忘れたわけじゃないし、吹っ切れたわけでもないけれども……。
 いまはこの優しい時間を、味わっていたかったから……。

「目を温めながらで良いし、いやだったら、言う必要なんてない」

 そう思っていた私に、バーテンダーさんが優しく語りかけてくれた。

「ただ、困っていたら話だけでも聞けると思ったから……。君が良かったら、教えてくれないかな。どうして、泣いていたのかを……」
「……いえ。良かったら、聞いてください」

 私は蒸しタオルをまぶたから外して、バーテンダーさんに向き直る。

 誰かに……優しいバーテンダーさんに聞いて欲しかった。
 聞いてもらって……苦い経験にして、踏み越えて。
 俯いてなんかいないで、前に進みたい。
 温かい飲み物でポカポカとした気持ちに包まれているうちに、そう思えるようになってきた。

 だから私は、勇気を出して言葉を紡いだ。

「私……付き合っていたひとに振られたんです」