「ああ、おれの手も鱗に覆われてしまったな。だがお前と揃いなら悪くない」
「どうして、蛍流さんまでこんな手に……?」
「言っただろう。おれは青龍との誓約を破って、青龍の力と形代の資格を失ってしまったと。水辺というのは青龍の神気が最も濃い場所。そして目の前の水晶球には青龍がいる。今この場所は尋常ならざる青龍の神気で満ちている。只人が濃密な青龍の神気を浴び続けて五体満足でいられるはずがない。青龍の神気に耐え切れなくなった身体が鱗と化してきたのだ。もうじき消えるだろうな。跡形もなく、小米雪の如く砕け散るに違いない」
「そんなっ……! そんなのイヤです! だって、ようやく会えたのに! もっともっと蛍流さんのことを知って、たくさんお話したいのにっ!! この十年の間にあったこととか、お互いのことを……っ!」
「おれもだ。さっき崖下に落ちながら思い出したのだ。あの日、出会ったのが泣いていたお前だったと。どうして気付かなかったのだろうな。ずっと会いたくて、こんなにも焦がれていたというのに……」
玲瓏なる蛍流の低い声が震える。形代の役割を解任され、清水との繋がりが途切れたことで、かつて清水が二つの願い事を叶える対価として奪った記憶が戻ったのだろうか。握る手に力が込められたかと思うと、ふいに引っ張られる。
息も出来ないくらい強く抱き締められると、蛍流の言葉が耳を打つ。
「遠く異なる世界にやって来て、名前も知らず、顔も思い出せなくても、片時も頭から離れなかった。もう会えないと分かっていても、祈らずにはいられなかった。お前の息災とあの日交わした約束の通りに笑って過ごしていてくれることを。そして願わくは……おれという人間があの世界に存在していたことを、お前だけでも覚えていて欲しいと」
それだけ言うと蛍流は解放してくれたが、空いていた手で海音の頬に触れてくる。ガラスのような硬質な鱗に覆われた蛍流の手はほんのりと温かく、それでいてどこかくすぐったい。
「十年前のあの日、おれはお前を助けたはずが、ずっと助けられていたのだな。牢獄に似たこの山で両親に捨てられたと思い込み、師匠の元から逃げ出そうとして失敗し、幼子のように泣きじゃくるおれの心を守ってくれた。あの約束があったからこそ、おれは自分の心を見失わずにいられたのだ。師匠と茅晶がいなくなってからもずっと……」
「そんなことは……ずっと助けられていたのは私の方です。十年前も、この山で最初に出会った時も。この感謝をどう伝えたらいいのか、想いが溢れて言葉になりません」
「それなら、今こそあの時の約束を果たしてくれないか。どうか笑って欲しい。この胸にしかと刻みつけたいのだ。お前の笑みを。それさえあれば、もう何も心残りは無い。あの日の少女と約束を果たせずにいたことが、ずっと心に引っかかっていたからな」
声変わり前のあどけない蛍流の声が頭の中に響く。「きみが笑っているところを見たいんだ」と。
海音は蛍流の藍色の瞳をじっと見つめると、頬に添えられた蛍流の手に自分の手を重ねて握りしめる。爪の先まですっかり鱗に覆われた海音の手だが、同じように鱗の生えた手をした蛍流とは大きさが全く違う。蛍流の手の方が大きく、指先が細く長い。そんな蛍流の指先が当たる海音の唇は紅こそ取れてしまったものの、艶は失われていない。
もう二度と無いとは分かっていたものの、万が一にもまた何かの弾みで唇が触れ合ってしまった時に備えて、あれから入念に手入れをしていた。
その口付けを愛する人ではなく、どこぞの年老いた好色家と交わすかもしれないと思った時は悪寒が走ったが、蛍流が形代じゃ無くなった今なら許されるだろうか。少しくらい海音から口付けをしたとしても。悲恋で締めくくられる恋愛作品でさえ、ラストは愛する人とのキスで幕引きするのだから……。
そんな頬に添えられた蛍流の手を掴んで自分の唇に充てがうと、海音は幅広の掌に軽く口付けを落とす。そしてわずかに頬を赤く染めた蛍流に目を細めつつ口元を綻ばせると、はにかむような笑みを浮かべたのだった。
一連の海音の行動に目を見張った蛍流だったが、やがて「ありがとう」と両目を潤ませながら宙に溶け入りそうな低声で礼を述べる。
「お前はそんな笑い方をするのだな。大きな蕾が大輪の花を咲かせるような笑みは、まるで雪花と共に咲く椿の花のようで美しい……いや、『気取らない美しさ』という花言葉を持つ椿そのものだ。大雪の日に咲いた雪化粧を纏った椿の花を見ているようで胸が温かくなる」
「そんなに褒められると恥ずかしいです。普通に笑っただけですよ」
「だが今度こそこれで心残りは無くなった。たった数日ではあったが、お前と同じ時間を過ごせたことは、おれにとってとても満ち足りた日々だった。そしてあの日に交わした約束を果たせたのも、この世界に来てくれたお前のおかげだ。今なら青龍として自信を持てる。お前との約束を胸に、おれは最後の務めを果たそう」
繋いだ手を引いて抱き寄せられれば、今度は布越しに人肌とは思えない硬質な感触が頬に当たる。
まもなく海音の命が閉じようとしているように、蛍流の命も終わりを迎えようとしている。だがその前に青龍として最後の務めを――晶真を止めるつもりなのだろう。この状況で蛍流が落ち着いているのが何よりの証拠。全てを引き換えにして、この世界を救おうとしている。
蛍流の覚悟と決意を察して、じんわりと涙が溢れ出す。
「全てを失い、人を遠ざけるような噂を流した以上、もう人と関わることは無いだろうと諦めていた。そんなおれに人としての営みを思い出させてくれた。この世界で寄る辺も無いお前に居場所を与えたつもりが……なんだかもらってばかりいるな。結局、最後まできちんと礼をしなかった。こんなことになるのなら、もっと早くこの滾る想いを言の葉に乗せて伝えてしまえば良かった。青龍に限らず、一人の男として未熟者だな、おれは」
「未熟者なんてことありません。蛍流さんは立派な青龍で、素敵な男性です。今も昔も……」
「照れることを言ってくれるな。離れがたくなってしまうではないか。胡蝶の夢を見ているかのようだ」
「夢じゃありません。私はここにいます。この手の温もりも、掌にしたキスも本物です!」
自嘲するように笑っていた蛍流だったが、海音の目尻から今にも涙が零れだしそうになっているのを見出すとそっと唇で拭ってくれる。その唇が今度は海音の首筋に近づくと軽く口付けを落としたので、海音は「ひゃあ!」と小さく悲鳴を上げてしまったのだった。
「そうだな、この感触は夢ではない。焦がれていたお前の柔肌に触れている。こんなことになるのなら、あの山道で……それこそ出会った時にこうして触れていれば良かった。同じ龍に選ばれた伴侶か身代わりかなんて関係ない。出会い、恋してしまった以上、お前への慕情を止められるわけが無かった。たとえこの場限りの恋になってしまうとしても……」
「私たちずっと前から両想いだったんですね。私だけが好きなんだと思っていました」
「おれもだ。お前にはもっと相応しい男がいると思い込んでいた。だが他の男に嫁ぐと聞いた途端に手放せなくなった。お前を幸せに出来るのはおれだけだ。お前を一番大切に想っているのも……」
「もう……」
二人で顔を見合わせると笑壺に入る。それが以前、蛍流が自身の秘密を打ち明けてくれた時に見せてくれた年相応の爽やかな笑みと同じで胸の奥が熱くなる。
こんな状況じゃ無ければ、蛍流が言っていたように止めどなく溢れる思いを言葉にするのに。残された時間の少なさにもどかしさが募る。
「一場の春夢ではあったが、お前と相思相愛の仲になれたことを忘れはしない。またどこかで巡り合えたのなら、今度こそ決して切れない久遠の契りを結ぼう」
「待って! 蛍流さん……っ!!」
「どうして、蛍流さんまでこんな手に……?」
「言っただろう。おれは青龍との誓約を破って、青龍の力と形代の資格を失ってしまったと。水辺というのは青龍の神気が最も濃い場所。そして目の前の水晶球には青龍がいる。今この場所は尋常ならざる青龍の神気で満ちている。只人が濃密な青龍の神気を浴び続けて五体満足でいられるはずがない。青龍の神気に耐え切れなくなった身体が鱗と化してきたのだ。もうじき消えるだろうな。跡形もなく、小米雪の如く砕け散るに違いない」
「そんなっ……! そんなのイヤです! だって、ようやく会えたのに! もっともっと蛍流さんのことを知って、たくさんお話したいのにっ!! この十年の間にあったこととか、お互いのことを……っ!」
「おれもだ。さっき崖下に落ちながら思い出したのだ。あの日、出会ったのが泣いていたお前だったと。どうして気付かなかったのだろうな。ずっと会いたくて、こんなにも焦がれていたというのに……」
玲瓏なる蛍流の低い声が震える。形代の役割を解任され、清水との繋がりが途切れたことで、かつて清水が二つの願い事を叶える対価として奪った記憶が戻ったのだろうか。握る手に力が込められたかと思うと、ふいに引っ張られる。
息も出来ないくらい強く抱き締められると、蛍流の言葉が耳を打つ。
「遠く異なる世界にやって来て、名前も知らず、顔も思い出せなくても、片時も頭から離れなかった。もう会えないと分かっていても、祈らずにはいられなかった。お前の息災とあの日交わした約束の通りに笑って過ごしていてくれることを。そして願わくは……おれという人間があの世界に存在していたことを、お前だけでも覚えていて欲しいと」
それだけ言うと蛍流は解放してくれたが、空いていた手で海音の頬に触れてくる。ガラスのような硬質な鱗に覆われた蛍流の手はほんのりと温かく、それでいてどこかくすぐったい。
「十年前のあの日、おれはお前を助けたはずが、ずっと助けられていたのだな。牢獄に似たこの山で両親に捨てられたと思い込み、師匠の元から逃げ出そうとして失敗し、幼子のように泣きじゃくるおれの心を守ってくれた。あの約束があったからこそ、おれは自分の心を見失わずにいられたのだ。師匠と茅晶がいなくなってからもずっと……」
「そんなことは……ずっと助けられていたのは私の方です。十年前も、この山で最初に出会った時も。この感謝をどう伝えたらいいのか、想いが溢れて言葉になりません」
「それなら、今こそあの時の約束を果たしてくれないか。どうか笑って欲しい。この胸にしかと刻みつけたいのだ。お前の笑みを。それさえあれば、もう何も心残りは無い。あの日の少女と約束を果たせずにいたことが、ずっと心に引っかかっていたからな」
声変わり前のあどけない蛍流の声が頭の中に響く。「きみが笑っているところを見たいんだ」と。
海音は蛍流の藍色の瞳をじっと見つめると、頬に添えられた蛍流の手に自分の手を重ねて握りしめる。爪の先まですっかり鱗に覆われた海音の手だが、同じように鱗の生えた手をした蛍流とは大きさが全く違う。蛍流の手の方が大きく、指先が細く長い。そんな蛍流の指先が当たる海音の唇は紅こそ取れてしまったものの、艶は失われていない。
もう二度と無いとは分かっていたものの、万が一にもまた何かの弾みで唇が触れ合ってしまった時に備えて、あれから入念に手入れをしていた。
その口付けを愛する人ではなく、どこぞの年老いた好色家と交わすかもしれないと思った時は悪寒が走ったが、蛍流が形代じゃ無くなった今なら許されるだろうか。少しくらい海音から口付けをしたとしても。悲恋で締めくくられる恋愛作品でさえ、ラストは愛する人とのキスで幕引きするのだから……。
そんな頬に添えられた蛍流の手を掴んで自分の唇に充てがうと、海音は幅広の掌に軽く口付けを落とす。そしてわずかに頬を赤く染めた蛍流に目を細めつつ口元を綻ばせると、はにかむような笑みを浮かべたのだった。
一連の海音の行動に目を見張った蛍流だったが、やがて「ありがとう」と両目を潤ませながら宙に溶け入りそうな低声で礼を述べる。
「お前はそんな笑い方をするのだな。大きな蕾が大輪の花を咲かせるような笑みは、まるで雪花と共に咲く椿の花のようで美しい……いや、『気取らない美しさ』という花言葉を持つ椿そのものだ。大雪の日に咲いた雪化粧を纏った椿の花を見ているようで胸が温かくなる」
「そんなに褒められると恥ずかしいです。普通に笑っただけですよ」
「だが今度こそこれで心残りは無くなった。たった数日ではあったが、お前と同じ時間を過ごせたことは、おれにとってとても満ち足りた日々だった。そしてあの日に交わした約束を果たせたのも、この世界に来てくれたお前のおかげだ。今なら青龍として自信を持てる。お前との約束を胸に、おれは最後の務めを果たそう」
繋いだ手を引いて抱き寄せられれば、今度は布越しに人肌とは思えない硬質な感触が頬に当たる。
まもなく海音の命が閉じようとしているように、蛍流の命も終わりを迎えようとしている。だがその前に青龍として最後の務めを――晶真を止めるつもりなのだろう。この状況で蛍流が落ち着いているのが何よりの証拠。全てを引き換えにして、この世界を救おうとしている。
蛍流の覚悟と決意を察して、じんわりと涙が溢れ出す。
「全てを失い、人を遠ざけるような噂を流した以上、もう人と関わることは無いだろうと諦めていた。そんなおれに人としての営みを思い出させてくれた。この世界で寄る辺も無いお前に居場所を与えたつもりが……なんだかもらってばかりいるな。結局、最後まできちんと礼をしなかった。こんなことになるのなら、もっと早くこの滾る想いを言の葉に乗せて伝えてしまえば良かった。青龍に限らず、一人の男として未熟者だな、おれは」
「未熟者なんてことありません。蛍流さんは立派な青龍で、素敵な男性です。今も昔も……」
「照れることを言ってくれるな。離れがたくなってしまうではないか。胡蝶の夢を見ているかのようだ」
「夢じゃありません。私はここにいます。この手の温もりも、掌にしたキスも本物です!」
自嘲するように笑っていた蛍流だったが、海音の目尻から今にも涙が零れだしそうになっているのを見出すとそっと唇で拭ってくれる。その唇が今度は海音の首筋に近づくと軽く口付けを落としたので、海音は「ひゃあ!」と小さく悲鳴を上げてしまったのだった。
「そうだな、この感触は夢ではない。焦がれていたお前の柔肌に触れている。こんなことになるのなら、あの山道で……それこそ出会った時にこうして触れていれば良かった。同じ龍に選ばれた伴侶か身代わりかなんて関係ない。出会い、恋してしまった以上、お前への慕情を止められるわけが無かった。たとえこの場限りの恋になってしまうとしても……」
「私たちずっと前から両想いだったんですね。私だけが好きなんだと思っていました」
「おれもだ。お前にはもっと相応しい男がいると思い込んでいた。だが他の男に嫁ぐと聞いた途端に手放せなくなった。お前を幸せに出来るのはおれだけだ。お前を一番大切に想っているのも……」
「もう……」
二人で顔を見合わせると笑壺に入る。それが以前、蛍流が自身の秘密を打ち明けてくれた時に見せてくれた年相応の爽やかな笑みと同じで胸の奥が熱くなる。
こんな状況じゃ無ければ、蛍流が言っていたように止めどなく溢れる思いを言葉にするのに。残された時間の少なさにもどかしさが募る。
「一場の春夢ではあったが、お前と相思相愛の仲になれたことを忘れはしない。またどこかで巡り合えたのなら、今度こそ決して切れない久遠の契りを結ぼう」
「待って! 蛍流さん……っ!!」