「きゃあ!!」
身体が宙に浮いて、土埃と水飛沫が目に入る。そんな海音を蛍流が引き寄せ、腰に腕を回して庇ってくれる。
「くっ……!!」
「……っ!!」
目を開けたくても、舞い散る砂や水で反射的に瞑ってしまう。掌と身体を通して伝わる蛍流の体温だけが海音を導き、恐怖を和らげてくれた。
風音にかき消されないように、蛍流が大声で疾呼する。
「どうしてっ! こんな無茶をした……っ! あの時、おれを置いて逃げていれば、お前だけでも助かったかもしれないのにっ!!」
「決めたからです。この先、何が起こったとしても、もう蛍流さんから離れないって……っ!!」
吹きすさぶ烈風に乗ってパラパラと細かい土や木の葉が落ちてくる中、海音は空いている腕を蛍流の腰に回す。このまま激流に落ちたとしても二度と離れ離れにならないように、この先に待ち受けるいかなる運命をも共に出来るように。
そんな海音を守るように腕の中に閉じ込めた蛍流は、自ら迫る大地に背を向けると天に向かって叫んだのだった。
「頼む、青龍! おれはどうなってもいい! でも海音だけはっ……彼女だけでも救ってくれっ!!」
はち切れんばかりに声を荒げた蛍流の切望が耳を打つ。蛍流の手を握る手に力を込めた瞬間、海音の中に在りし日の思い出が洪水のように溢れて蘇る。
残された命の刻限を報せるように一定の間隔で鳴り続ける心電図、無機質な暗い病院内を忙しなく行き来する足音、担当医と連絡を取る看護師の緊迫した声と母の名を呼ぶ父の涙声。
耳を塞いでも頭の中では不気味な電子音が鳴り止まない。父が買ってくれた自動販売機のジュースはほとんど味がせず、返しそびれたお釣りの十円玉だけがポケットの中で妙に存在感を示していた。
どこに行っても身体に纏わりついた恐怖は取れず、ともすれば死神が耳元で囁いているような気さえしてくる。
今夜、お前の母を連れて行く、と――。
気が付いた時には病院から飛び出していた。いくら走っても一度総毛立った心は落ち着かない。息継ぎさえ出来なくなって、やがて道端に蹲って咳き込む。
ボロボロと零れた涙が渇いたアスファルトに吸い込まれて、やがて海音は籠もり声を上げながら泣き出す。「お母さん」と――。
そのまま蹲っているわけにもいかず、とぼとぼと啜り泣きながら歩き出した海音の背に、どこか戸惑い気味の優しい白声が掛けられる。
――きみ、どうして泣いているの? 迷子?
右目下の小さな泣き黒子が印象的な可愛らしい顔立ちをした身なりの良い同年代の男の子は、涙で濡れる海音の手を取ると先導するように先を歩き出す。その頼りがいのある背中と温かな掌に安堵を覚えて再び泣きじゃくっていると、やがて古びた神社に辿り着く。
母の無事を願って男の子と一緒にポケットの十年玉を賽銭箱に入れた後、しばらく呆けてしまったのか気付いた時にはどこかの民家の玄関先に座っていた。
――ねぇ、落ち着いた? もう怖くない?
その声で隣を向けば、男の子は柔和な笑みを浮かべていた。海音がぎこちないながらも小さく頷けば、男の子は「良かった」と詰めていた息を吐き出したのだった。
――もうすぐ、ぼくのおうちの人が迎えに来てくれるから。そうしたらお母さんが入院している病院に帰れるからね。
病院、という単語にまたしても言い知れない恐ろしさが内側からせり上がってくる。胃が石のように固く感じられて、嫌な汗が止まらない。
目前に迫る大好きな母との別れを受け入れたくなかった。もっと母と同じ時間を過ごしたかった。これまでと同じようにこれからも――。
急に海音が黙ってしまったからか、男の子は握っている手を包んでくれる。「大丈夫だよ」と不安がる海音の気持ちを察したのか、敢えて明るい調子で話し出す。
――だって、神様にお願いしたもん。きみのお母さんが元気になりますようにって、ぼくも一緒に。神様はきっと叶えてくれるよ。
海音が「そうかな……?」と自信なさげに返せば、男の子は大きく頷いてくれる。
――清水が……ぼくの家族が言っていたんだけどね。神様は良い子にしている人間の願い事から叶えてくれるんだって。お母さんのために、神様にお願いしたきみの願い事を神様は叶えてくれるよ。だからさ、笑ってよ。お母さんにそんな悲しい顔を見せたらだめだよ。そんな顔をしていたら、お母さんも元気になれないよ。
男の子に言われて顔を上げたものの、どんな顔で笑っていたのか思い出せなくなっていた。つい数時間前まで学校で友達と他愛のない話で笑っていたはずだったのに。
それでも海音が笑うのを今か今かと待ち侘びている男の子に、固まった口元を動かして歪な笑顔を作ってみせたものの、「なんかちがうような気がする……」と残念そうに肩を落とされてしまう。
――今日はたくさん泣いたから難しいかもしれないけど、でも明日か明後日になったらきっとまた笑えるよね。毎日泣いていたら、きみが流した涙の海でみんな沈んじゃうよ。
もしかしたら笑わせるつもりで泣き続ける海音のことを涙の海と例えたのかもしれないが、意味を理解しかねた海音がきょとんとして首を傾げてしまうと男の子は苦笑してしまう。恥ずかしそうに頬を赤くして頭を掻いた後、やがて左手の小指を立てて海音に向けてきたのだった。
――約束だよ。今日はたくさん悲しいことで泣いたから、明日は今日泣いたことを忘れるくらいに楽しいことでたくさん笑うって。明日はムリでも、明後日や明々後日、何日、何週間、何か月後には笑おうね。ぼくね、きみが笑っているところを見たいんだ。だってぼくはきみが泣いている顔しか知らないから。
思い返せば、男の子に声を掛けられた時には、海音はすでに泣いていた。男の子に手を引かれて歩いている時も、そして今もまた泣きそうになっている。
この男の子は見ず知らずの海音にこんなにも優しくしてくれたというのに、海音はめそめそ泣いてばかりで病院への帰り道を探すことさえしていない。
それなら男の子の頼みを約束することでお礼をしたい。今日は出来ないけれども笑えるようになったら、また会ってお礼を伝えられるように。
海音は頷いて震える小指を差し出すと、やがて男の子の小指と絡める。
――これはぼくとの約束。今日たくさん泣いたら、明日はたくさん笑うって。そして……また会えますように。
最後に再会を誓って声を揃えると、そうして誰もが知っている定番の約束の言葉を唱える。男の子が目を細めた拍子に右目下の黒子が動いて、ほんのりと頬が赤く染まったかと思うと、その笑みが今の蛍流と重なって胸の中に温かいものが広がっていく。
どうして今まで気付かなかったのかと、疑いたくなってしまう。この時に交わした約束は、遠く世界を越えてこの山で再会した時に果たされていたというのに。
やがて外から車のエンジン音が聞こえてくると、どちらともなく結んでいた小指を離したのだった――。
泡のように浮かんでは弾ける回想に耽っていた海音だったが、下から吹き上げてきた旋風の風圧でハッと我に返る。
(今の記憶は……!?)
蛍流に抱えられたままどこまでも二藍山の上空へと飛んだ海音だったが、不意に風が止んだかと思うと地面に落下していく。悲鳴を上げながら蛍流にしがみついていると、揃って柔らかいものの上に降り立つ。地面に手を付くと、ガラスのようにつるつるとした手触りを感じる。ほのかに温かさも……。
「海音、大丈夫か?」
「はい……。何が起こったんですか?」
「清水が……青龍がおれたちを助けてくれたんだ」
ということは、海音たちが腰を下ろしているガラス状の地面というのは清水の背ということだろうか。風に靡く髪を押さえていると、ほんのわずかではあったが雲間が晴れて空が見える。茜色と青紫色の空に細かな星々が煌めく黄昏の空。それは荒れ狂う蛍流の力が徐々に落ち着きを取り戻しつつある証でもあった。
(良かった。これなら雨が晴れて、川の氾濫も抑えられるかも)
安堵と共に胸を撫で下ろしたのも束の間、清水の身体が苦しそうに大きく痙攣する。蛍流が「清水!?」と声を荒げた時には、意識を失ったかのように地面に向かって急降下していたのだった。
「なっ、にが起こって……!?」
咄嗟にしがみついた海音だったが身体と足に腕が回されたかと思うと、蛍流に軽々と横抱きされる。人生初のお姫様だっこを考える前に、蛍流が早口で言い立てたのだった。
「ここから飛び降りる。しっかり掴まっていろ!」
その言葉を合図に蛍流は清水の上から飛び降りたものの、海音には何が起こったのか理解が追いついていなかった。しかし上からぱらぱらと雪のように粉状のものが落ちてきたことで弾かれたように顔を上げ、そして目を丸くして蛍流の身体を掴んでしまう。
先程、海音たちを助けてくれた清水の身体が尻尾から消え始め、そして砕けた硝子のように粉状になって二人の頭上に降り注いでいたのだった。
(清水さまがどうして……!?)
鱗に覆われた肝心の自分の身体は未だ五体満足の状態であり、変わったところもなかった。夢の通りなら、ここで消えるのは海音のはずなのにいったいどうして……。
風の抵抗を受けつつ地上に降りた二人はそのまま地面を転がる。地面に近いところから飛び降りたとはいえ、全くの無傷というわけにはいかなかった。大きな怪我こそ負わなかったものの、固い大地に身体を打ち付けた衝撃で全身に痛みが走る。摩擦熱で擦れた手足には擦り傷が出来たのか、じんじんと痛みを発したのだった。
「無事か……?」
「平気です……蛍流さんは……?」
「心配いらない……飛び降りる時に青龍の力を使って風雨の向きを調整した。特段怪我は負っていない……」
それで打ち身と擦り傷程度で済んだのかと納得しつつ、息も絶え絶えに助け起こしてくれた蛍流の手を借りた海音だったが、すぐに我に返ると「清水さまは!?」と蛍流を問いただす。
「落ちながら見たんです。清水さまの身体が砕けて、粉々になるところを……!」
「清水は掟を破った対価を代わりに受けたのだ。清水は……七龍は人の世に介入してはいけないことになっている。力を暴走させたおれの代わりに青の地を守ってくれたのみならず、願いを叶えておれたちを助けてくれた。加えて本来であれば事の発端であるおれが受けるはずだった罰まで、清水が請け負ったのだ。その結果、青龍としての姿を失って、消えてしまった。形代の資格を喪失して繋がりも断たれたのか、おれの身体からも力が消えて……」
「青龍なら、まだ残っているぞ」
背筋がぞっとするような低い声に振り向けば、そこには青く光り輝く水晶球を片手に持った昌真がどこからともなく姿を現わす。海音を背に庇った蛍流が「どういうことだ?」と詰問する。
「青龍はここにいる。この水晶球の中にな。残っていた青龍の力を吸収したのだ。お前が青龍に助けを求めてくれて助かった。そうでなければ青龍は住処の神域を離れてくれないからな」
「何のためにこんなことをする! 茅晶が恨んでいるのは、師匠を奪ったおれではなかったのか!?」
「それを知ってどうする? お前に俺が止められるとでも? 掟を破って、青龍の力を失ったお前が?」
「それは……」
「……やはり俺の思った通りだったな。お前の弱点はそこの娘……海音だ。お前から海音を奪おうとすれば、お前が力を暴走させて、青龍が姿を現すだろうと思った。その隙をついて青龍を奪い、手始めにこの青の地を陥落させる。そしてこの混乱に乗じて、他の五龍も掌中に収める。青龍が消えて、龍脈に異常が起きれば、他の五龍たちは自分たちの力が流れる龍脈の制御で余力が無くなる。その隙をつけば、俺でも七龍を御せるということだ」
昌真の唇が動いて、底冷えするような暗い笑みが形作られる。最初に会った時からどこか深淵に似た陰鬱な雰囲気を纏っていたが、これはその非ではない。七龍に対する根深い憎悪。その中に見え隠れする深い悲愁。それは七龍とその七龍に選ばれた人間たちの犠牲によって成り立つ国の制度と、そんな制度を顧みることもなく安穏として暮らすこの国の民に対するものなのか。それとも――。
「茅晶が……ただの人間がこんなことを出来るはずが無い。お前は何者なのだ!?」
「忘れるとは薄情なものだ。共にこの山で育ち、青龍の奇跡と神秘に触れ、そして父が亡くなった時に、ここから追放した兄だというのに」
「違います! それは蛍流さんじゃなくて、師匠さんの意志を汲んだ清水さまに寄るもので……!」
「どちらにしても同じこと。過ぎ去ったことを今更口にしたところで意味は無い。それにここを出て行かなければ、こいつと出会うことも無かったからな」
「こいつ? いったい何のことだ……」
その時、茅晶を取り巻くように黒い稲妻が音を立てる。周囲でいくつもの稲光が弾けて、バチバチと嫌な音が耳を打つ。海音が目を瞬かせていると、蛍流が身構えるように身体を引きながら苦しそうに呟く。
「……っ! その黒い稲妻は黒龍かっ!?」
「ほぅ。さすがに黒龍の気を感じ取るくらいの力は残っていたか。各地を放浪し、日を追うごとに増していく七龍への怒り。七龍に絶大な信頼を寄せているこの国の愚かな民草どもでは話しにならない。積もりに積もった激憤を抱えていた俺の目の前に突如として現れたのだ。この国を造りし双龍の片割れ、全ての生き物に安息を与える闇を生みし黒き原初の龍――黒龍がな」
茅晶が黒龍と口にした瞬間、茅晶の背後にひと際大きな黒い龍が姿を現わす。姿や大きさこそ青龍である清水と同じだが、その名の通り全身が宵闇に紛れてしまいそうな闇色をしていた。
ブラッドストーンを彷彿とさせる光沢のある黒い鱗とその中に時折混ざる血のような赤は静穏な夜のように美しい反面、ギラギラと光るその様が内包する茅晶の憤怒を表しているようでどこか空恐ろしい。黒々とした大きな目には茅晶と同じように蛍流たちを蛇蝎視するような赫怒と積怨を含んでいるような気さえして狼狽えそうになる。
「その黒龍がどうして茅晶さんに手を貸すんですか? だって黒龍はこの国を造った龍ですよね。茅晶さんが七龍を恨んでいる以上、黒龍からしたら茅晶さんは自分を害する敵なのに……!」
「……創世の二龍と呼ばれる白龍と黒龍が作り出した五龍には、それぞれ治める土地がある。そしてその土地では自分たちの営みを守ってくれるその土地の七龍を深く信仰する風習がある。青龍が治める青の地では、青龍が信仰されているように。しかし黒龍には土地が無ければ、自分を信仰する民もいない。同じ創世の頃より存在する白龍には白龍を祀る宮があるというのに……。どうしてか分かるか?」
「どういうことなんですか……?」
「人は先も見えない深い闇を恐れる。闇は安らぎと安息を与えると同時に人を孤独にさせてしまう。真っ暗な無の中に取り残された生き物は孤独から不安と恐怖を生み出し、正常な判断力を失う。そして狂人の如く荒れ狂うとされている」
海音の疑問に晶真が抑揚の無い話し方で滔々と答えてくれる。
「そんな闇を恐れた古の民たちは黒龍を祀らず、黒龍に居場所を与えなかった。居所を持たない黒龍は各地を転々としながらも、民に信仰されている六龍と自分を追放した民たちを恨んだ。そんな黒龍が抱える憎しみと俺の感情が共鳴した」
晶真の怒気を帯びた双眸が怪しく光ったかと思えば、黒龍が肯定するように大きな顎を開けて鋭い歯を露わにする。獣を彷彿とさせる犬歯に海音の身体が自然と縮み上がってしまう。
「故に俺たちは結託してこの国から七龍の加護を奪うことにした。全てが暗黒に包まれた世界で民がどうもがき苦しむか、そして七龍に頼れない状態でどう国の混乱を立て直すのか、良い見せ物だと思わないか?」
「何を馬鹿なことをっ……! そんなこと、他の七龍と形代たちが許すはずないだろう……!」
「何故、そう決めつけられる? 自分と七龍の意思が同じであったとしても、他の形代や七龍たちも同じ意思だとは限らない。人の心を推し量る方法など存在しないのだから」
「他の龍や形代たちの中に、茅晶と同じ考えを持つ者がいると言いたいのか?」
「あくまで可能性の話だ。だが実際に黒龍は他の六龍たちと違う。黒龍の形代に選ばれた俺もな。さて、もういいだろう。青龍はこちらの手中に収めた。この山に残る青龍の力を取り込んだ後は、すぐに残りの五龍も捕らえに行くとしよう。そうすれば事態を重く受け止めた白龍も姿を現わすに違いない」
わざと眉を上げて首を傾げながら冷笑する昌真に手も足も出せず、海音は唇を噛みしめながら強く掌を握りしめることしか出来ない。何か方法はないのかと考えていると、突然目の前の蛍流が背筋を正したのでハッとしたように視線を移す。
何か決心したのか何度も深呼吸を繰り返す蛍流に向かって、つい「蛍流さん……?」と呼びかけてしまったのだった。
「海音……すまないがおれの手を握ってくれないか?」
「手、ですか……?」
すっかり鱗に包まれた手を差し出せば、蛍流も同じように浅葱色の鱗に覆われた手を出して握り返してくれる。ハッとして海音が顔を上げれば、振り向いた蛍流はどこか泣きそうな顔をしていた。
「ああ、おれの手も鱗に覆われてしまったな。だがお前と揃いなら悪くない」
「どうして、蛍流さんまでこんな手に……?」
「言っただろう。おれは青龍との誓約を破って、青龍の力と形代の資格を失ってしまったと。水辺というのは青龍の神気が最も濃い場所。そして目の前の水晶球には青龍がいる。今この場所は尋常ならざる青龍の神気で満ちている。只人が濃密な青龍の神気を浴び続けて五体満足でいられるはずがない。青龍の神気に耐え切れなくなった身体が鱗と化してきたのだ。もうじき消えるだろうな。跡形もなく、小米雪の如く砕け散るに違いない」
「そんなっ……! そんなのイヤです! だって、ようやく会えたのに! もっともっと蛍流さんのことを知って、たくさんお話したいのにっ!! この十年の間にあったこととか、お互いのことを……っ!」
「おれもだ。さっき崖下に落ちながら思い出したのだ。あの日、出会ったのが泣いていたお前だったと。どうして気付かなかったのだろうな。ずっと会いたくて、こんなにも焦がれていたというのに……」
玲瓏なる蛍流の低い声が震える。形代の役割を解任され、清水との繋がりが途切れたことで、かつて清水が二つの願い事を叶える対価として奪った記憶が戻ったのだろうか。握る手に力が込められたかと思うと、ふいに引っ張られる。
息も出来ないくらい強く抱き締められると、蛍流の言葉が耳を打つ。
「遠く異なる世界にやって来て、名前も知らず、顔も思い出せなくても、片時も頭から離れなかった。もう会えないと分かっていても、祈らずにはいられなかった。お前の息災とあの日交わした約束の通りに笑って過ごしていてくれることを。そして願わくは……おれという人間があの世界に存在していたことを、お前だけでも覚えていて欲しいと」
それだけ言うと蛍流は解放してくれたが、空いていた手で海音の頬に触れてくる。ガラスのような硬質な鱗に覆われた蛍流の手はほんのりと温かく、それでいてどこかくすぐったい。
「十年前のあの日、おれはお前を助けたはずが、ずっと助けられていたのだな。牢獄に似たこの山で両親に捨てられたと思い込み、師匠の元から逃げ出そうとして失敗し、幼子のように泣きじゃくるおれの心を守ってくれた。あの約束があったからこそ、おれは自分の心を見失わずにいられたのだ。師匠と茅晶がいなくなってからもずっと……」
「そんなことは……ずっと助けられていたのは私の方です。十年前も、この山で最初に出会った時も。この感謝をどう伝えたらいいのか、想いが溢れて言葉になりません」
「それなら、今こそあの時の約束を果たしてくれないか。どうか笑って欲しい。この胸にしかと刻みつけたいのだ。お前の笑みを。それさえあれば、もう何も心残りは無い。あの日の少女と約束を果たせずにいたことが、ずっと心に引っかかっていたからな」
声変わり前のあどけない蛍流の声が頭の中に響く。「きみが笑っているところを見たいんだ」と。
海音は蛍流の藍色の瞳をじっと見つめると、頬に添えられた蛍流の手に自分の手を重ねて握りしめる。爪の先まですっかり鱗に覆われた海音の手だが、同じように鱗の生えた手をした蛍流とは大きさが全く違う。蛍流の手の方が大きく、指先が細く長い。そんな蛍流の指先が当たる海音の唇は紅こそ取れてしまったものの、艶は失われていない。
もう二度と無いとは分かっていたものの、万が一にもまた何かの弾みで唇が触れ合ってしまった時に備えて、あれから入念に手入れをしていた。
その口付けを愛する人ではなく、どこぞの年老いた好色家と交わすかもしれないと思った時は悪寒が走ったが、蛍流が形代じゃ無くなった今なら許されるだろうか。少しくらい海音から口付けをしたとしても。悲恋で締めくくられる恋愛作品でさえ、ラストは愛する人とのキスで幕引きするのだから……。
そんな頬に添えられた蛍流の手を掴んで自分の唇に充てがうと、海音は幅広の掌に軽く口付けを落とす。そしてわずかに頬を赤く染めた蛍流に目を細めつつ口元を綻ばせると、はにかむような笑みを浮かべたのだった。
一連の海音の行動に目を見張った蛍流だったが、やがて「ありがとう」と両目を潤ませながら宙に溶け入りそうな低声で礼を述べる。
「お前はそんな笑い方をするのだな。大きな蕾が大輪の花を咲かせるような笑みは、まるで雪花と共に咲く椿の花のようで美しい……いや、『気取らない美しさ』という花言葉を持つ椿そのものだ。大雪の日に咲いた雪化粧を纏った椿の花を見ているようで胸が温かくなる」
「そんなに褒められると恥ずかしいです。普通に笑っただけですよ」
「だが今度こそこれで心残りは無くなった。たった数日ではあったが、お前と同じ時間を過ごせたことは、おれにとってとても満ち足りた日々だった。そしてあの日に交わした約束を果たせたのも、この世界に来てくれたお前のおかげだ。今なら青龍として自信を持てる。お前との約束を胸に、おれは最後の務めを果たそう」
繋いだ手を引いて抱き寄せられれば、今度は布越しに人肌とは思えない硬質な感触が頬に当たる。
まもなく海音の命が閉じようとしているように、蛍流の命も終わりを迎えようとしている。だがその前に青龍として最後の務めを――晶真を止めるつもりなのだろう。この状況で蛍流が落ち着いているのが何よりの証拠。全てを引き換えにして、この世界を救おうとしている。
蛍流の覚悟と決意を察して、じんわりと涙が溢れ出す。
「全てを失い、人を遠ざけるような噂を流した以上、もう人と関わることは無いだろうと諦めていた。そんなおれに人としての営みを思い出させてくれた。この世界で寄る辺も無いお前に居場所を与えたつもりが……なんだかもらってばかりいるな。結局、最後まできちんと礼をしなかった。こんなことになるのなら、もっと早くこの滾る想いを言の葉に乗せて伝えてしまえば良かった。青龍に限らず、一人の男として未熟者だな、おれは」
「未熟者なんてことありません。蛍流さんは立派な青龍で、素敵な男性です。今も昔も……」
「照れることを言ってくれるな。離れがたくなってしまうではないか。胡蝶の夢を見ているかのようだ」
「夢じゃありません。私はここにいます。この手の温もりも、掌にしたキスも本物です!」
自嘲するように笑っていた蛍流だったが、海音の目尻から今にも涙が零れだしそうになっているのを見出すとそっと唇で拭ってくれる。その唇が今度は海音の首筋に近づくと軽く口付けを落としたので、海音は「ひゃあ!」と小さく悲鳴を上げてしまったのだった。
「そうだな、この感触は夢ではない。焦がれていたお前の柔肌に触れている。こんなことになるのなら、あの山道で……それこそ出会った時にこうして触れていれば良かった。同じ龍に選ばれた伴侶か身代わりかなんて関係ない。出会い、恋してしまった以上、お前への慕情を止められるわけが無かった。たとえこの場限りの恋になってしまうとしても……」
「私たちずっと前から両想いだったんですね。私だけが好きなんだと思っていました」
「おれもだ。お前にはもっと相応しい男がいると思い込んでいた。だが他の男に嫁ぐと聞いた途端に手放せなくなった。お前を幸せに出来るのはおれだけだ。お前を一番大切に想っているのも……」
「もう……」
二人で顔を見合わせると笑壺に入る。それが以前、蛍流が自身の秘密を打ち明けてくれた時に見せてくれた年相応の爽やかな笑みと同じで胸の奥が熱くなる。
こんな状況じゃ無ければ、蛍流が言っていたように止めどなく溢れる思いを言葉にするのに。残された時間の少なさにもどかしさが募る。
「一場の春夢ではあったが、お前と相思相愛の仲になれたことを忘れはしない。またどこかで巡り合えたのなら、今度こそ決して切れない久遠の契りを結ぼう」
「待って! 蛍流さん……っ!!」
引き止めようとした海音の頬に蛍流が口付ける。海音の力が緩んだわずかな隙をついて、蛍流は絡めた手を離してしまうとゆっくりと離れてしまう。
そうして顔を引き締めると、蛍流はこの場に残る青龍の神気を吸収し続ける昌真に向き直る。昌真の手の中の水晶球は何度も青灰色と浅葱色の明滅を繰り返していた。もしかすると水晶球の中で清水も必死に抗っているのかもしれない。
「青龍!」
蛍流の金玉の声が水を含んだ空気を震わせる。その声で顔を上げた昌真は不快感も露わに眉根を寄せる。
「どんな咎も罰も引き受けよう。未来永劫、この地に縛られ、七龍に隷属したって良い。この身と魂をお前に捧げよう。だから頼む、もう一度おれを形代に選んでくれっ! その代わり、茅晶兄さんを赦して、海音を解放して欲しい! 今度こそ青龍としての役目を全うする。もう二度と逃げ腰になることも、弱気にもならない! 先代のような青龍になると誓う。おれの元に戻ってきてくれ! そんな水晶球くらい、神に属する青龍ならいとも簡単に抜け出せるはずだ!!」
「馬鹿なことを。これは黒龍が生み出した七龍の力を奪う水晶球。この中に閉じ込められた七龍は徐々に力を吸収され、やがて自我を保てなくなる。青龍に逆らった離反者の戯言を聞くはずがあるわけ……」
「私も捧げます! この身体がどうなったって構いません! 命だって惜しくありません! もう元の世界に帰りたいなんて言いません! だからどうか蛍流さんと昌真さんを解放してください!!」
「海音……っ!?」
残っていた涙を手の甲で乱暴に拭った海音はすっかり魂消てしまった蛍流の腕に掴まりながら、「さっき言いましたよね」と何とも無いように明るい調子で返す。
「この命が続く限り、ずっと一緒にいます。もう絶対に蛍流さんを一人にはしません」
「だが……」
「……後悔していたんです。蛍流さんに想いを告白された時にそれを断ってしまったこと。もしあの時に正直に自分の気持ちを打ち明けていたのなら、こんなことにはならなかったかもしれないのにって。こうなってしまった原因の一つは私にあるんです。それなら罰を受けるのは私です。蛍流さんだけに全ての責任を背負わせません」
いつかのようにきつく咎められ、冷たく突き放されるかと思ったが、蛍流は「まったく……」と呟いただけであった。
「……再会した時もそうだったが、お前は無茶ばかりするのだな。少しくらいは周りの気持ちも考えてくれないか。何度おれの肝を冷やせば気が済むのだ。その行動力はどこにある」
「そんなのとっても簡単です。私が蛍流さんを愛しているからです。たとえ青龍と伴侶じゃなくなっても、この身体が七龍の神気に蝕われて跡形も無く消えてしまったとしても、私が蛍流さんを愛する気持ちに変わりはありません。そういう蛍流さんだって、一人で何でも抱え込もうとするのは止めましょう。見ていて気を揉みます」
「そっ、そうか。これからは善処しよう」
どこか気恥ずかしそうに海音から目を逸らした蛍流だったが、やがて掌を海音に差し出す。
「……それならおれの手を握りしめてくれないか。そして何があっても離さないで欲しい。最期の瞬間までお前を感じていたいのだ。この命が閉じ、意識が無くなるその時まで。力が抜けて、冷たくなるまで師匠の手を握りしめていたように」
「勿論です。もう離しません」
「ああ。そうしてくれ。これからおれたちは一蓮托生の仲だ。住む世界が分かれ、互いに忘れていても、か細い縁を頼りに再び星の下に出会えた。これを運命と呼ばずして何と呼ぶ。もう二度とこの手を離すものか。共にこの窮地を脱しよう」
蛍流と指を絡めて離れないようにしっかり握りしめると、唇をぎゅっと固く結びながらどこか眩しいものを見るように目を眇めていた昌真に顔を向ける。
そんな海音たちの態度が気に入らなかったのか、昌真の後ろに控える激憤と怨念の塊ともいうべき黒龍が凄みを利かせながら獣のように吠え出したが、傍らの蛍流が勇気を奮い立たせてくれた。一人だったらきっと黒龍の恫喝に怯んで、脱兎のごとく逃げ出していただろう。それだけ黒龍から発せられる憎悪の圧は苛烈だった。臆病風に吹かれて気後れする心を叱咤して、蛍流と共に昌真と黒龍に歩を進める。
海音たちが黒龍を睨みつけた瞬間、黒龍は威嚇するように咆哮し、そして暴風雨を発生させる。蛍流が力を暴走させた時よりも激しい風雨に身体が吹き飛ばされそうになると、すかさず蛍流が手を引いて抱き寄せてくれた。海音もしっかり蛍流の身体を掴んで、互いに支え合いながら目前の昌真と黒龍へ向かう。
そうして繋いだ掌と震える足に力を入れながら、再び黒龍を凝視したのだった。
「青龍、おれたちはここに誓う。この地で青龍の形代とその伴侶として身命を賭すと。もうお前の意志に逆らうような真似はしない。生まれ育った世界を捨て、この世界の一員となろう。この国と民がより良い生活を送れるように従事する。この地を守る守護龍として、これからもおれたちに力を貸してくれないか。お前たちが守ってきた世界をおれたちにも守らせて欲しい!」
「何度も言わせるな。そんな戯言を青龍が聞くはずが……」
鼻を鳴らして昌真が嘲笑した瞬間、音を立てながら水晶球にひびが入る。そしてあっという間に水晶球全体にひび割れが広がったかと思うと、雨雫のような細かな破片となって砕け散ったのだった。
「なにっ!?」
戸惑う昌真の掌から天に向かって浅葱色の光が放たれたかと思うと、威厳ある声が辺りに響き渡る。
――その宣言を二度と違えること勿れ。我は其方らを認めよう。新たな青龍の形代とその伴侶よ。
そうして浅葱色の光が周囲を包み込み、耳をつんざく激しい咆哮が渓谷に反響する。身の毛がよだつような激痛を伴った声に縮み上がってしまうと、海音を庇うように蛍流が抱き締めてくれた。そんな浅葱色の光を浴びた蛍流の身体からは急速に鱗が消えていったが、対して海音の身体は鱗が増えていった。
手足、背中、腹部、頬と身体の内側から殴られているかのように、全身がボコボコと痛む。歯を食いしばって痛みを堪えながら、無機質な鱗と化していく自分を嘆く。
蛍流は形代として認められたが、自分は伴侶として認められなかったということだろうか。海音の覚悟が足りなかったのか、それとも一度でも不適合の烙印を押された人間を七龍は認容しないのか。
(でも、これでいいか……)
蛍流と昌真は救われた。二人が愛するこの世界も。そして十年前に交わした少年との約束も――蛍流との約束も果たせた。海音は満ち足りた気持ちになる。
膝から力が抜けて、繋いでいた掌もするりと滑り落ちる。目を閉じれば、亡き母親や元の世界に残してきた父親との思い出が蘇ってきた。
母親の入院先でお世話になった看護師や学校の友人たち、この世界に来てから出会った人たちや昌真も。これが走馬灯と呼ばれるものだろうか。身体中が温もりに包まれる。
海音と父親に看取られた母親も最期はこんな気持ちになったのだろうか。在りし日を回想しつつ、多幸感と満足感に包まれながら意識を手放したのか。とうとう夢現の中で蛍流の幻聴まで聞こえてくる。
(蛍流さん……)
最後に蛍流の顔が浮かんでくると、自然と頬が緩んで笑みを形作る。遠くで耳心地の良い蛍流の迦陵頻伽の声が動揺と不安で震えていた。海音の身体を強く抱き締めながら、「海音! 海音っ!!」と今にも泣き出しそうになりながら早口で繰り返しているようだった。
こんな顔をさせるために、最後まで蛍流と一緒にいると宣言したつもりじゃ無かったのに。声を出す気力も残っていなかった海音は心の中で謝罪を繰り返す。
(ごめんなさい。最期まで迷惑を掛けて……ごめんなさい……)
視界が黒に染まっていき、自分の名前を繰り返す鶯舌がだんだん遠のいていく。母親が亡くなる直前に聞いたことがあった。命が閉じる瞬間、最期に残る五感は聴覚だと。
身体が動かなくなり、声も出せなくなり、やがて何も見えなくなっても、音だけは聞こえている。
だから最後に感謝の言葉を伝えて、残された時間を悔いの無いように過ごして欲しいと。感謝を伝えたいのは海音の方なのに、夢と同じように喉が張り付いてしまったのか全く動かない。
それでも夢との大きな違いは、まだ辛うじて呼吸が出来るところだろう。それなら声を出せなくても、唇くらいは動かせるはず。蛍流が理解してくれるかは別として。
そんなことを薄れていく意識の中で考えながら、海音がわずかに唇を開けた刹那、蛍流が自分の唇を海音の唇に押し当ててくる。人工呼吸をされているのか、海音の中で吐息が絡み合い、そして一つになる。
蛍流が与えてくれる温もりが冷え切った海音の身体を包むように温め出したかと思うと、胸の奥深くでドクンと何かが脈打ち始める。
――生きたい。
泡のように身体の奥底から湧き上がったその一言が静かに、そして激しく噴き出そうとする。
――蛍流さんと、生きたい。
泡沫が数を増し、ブクブクと音を立てながら勢いを増していく。
命に終わりを告げ、黄泉へと旅立とうとしていた海音に逆らうように、生への渇望が身体中を巡り出す。
――蛍流さんと生きたい……っ!
その瞬間、海音の体内で何かが弾けたかと思うと、身体を蝕んでいた痛みが消えて、鱗の侵食も止まる。
凍りついたかのように固まっていた身体が軽くなり、次いで手足にも力を入れられるようになる。重かったはずの瞼も開けられたのだった。
何が起こったのか分からないまま、焦点の定まらない目で呆然と空を見つめていると、突然張り付いていた喉に大量の空気が入ってくる。
息苦しくなった海音は蛍流を突き飛ばすと繰り返し咳き込んだのだった。
「海音っ! 良かった。間に合って……」
「ほたるさん……?」
喉を押さえながら掠れ声で呟けば、蛍流が「良かった……」と呟きながら強く抱擁してくれる。
「おれの身体から流れてしまった余剰分の青龍の神気を吸い取ったのだ。神気に耐えられなくなったお前の身体が今にも砕けかけていたから……」
「じゃあ、私はまだ生きているんですね……」
「当然だ。おれたちは一蓮托生を誓い合った仲であり、お前は青龍であるおれの伴侶だ。お前以外が伴侶になることなど、あってたまるものか。天地がひっくり返っても認めん。それにおれはまだお前に伝えなければならない言葉があるというのに……」
「伝えたいことですか? いったい何を……」
一度は海音を離した蛍流だったが、やがてどこか照れくさそうにしつつも海音の目をじっと見据えたまま顔を近づけてくる。両手で海音の頬を包みながら、内緒話をするように吐息が掛かる距離まで顔を寄せると、ゆっくりと言葉を紡いだのだった。
「これからは伴侶として共に生きて欲しい。久遠の愛をお前に捧げよう――愛している、海音」
その言葉と共に再び海音の唇と蛍流の唇が重なる。今度は味わうように深く長く、愛し合う男女のように静かに熱く。
そんな蛍流の艶やかな唇の感触に触れたことで、ようやく生きていることを実感した海音が身を委ねて目を閉じた瞬間、目からは一粒の涙が零れる。そんな二人を祝福するように一陣の光風が辺りを吹き荒び、その風に煽られた海音の身体から浅葱色の鱗がポロポロと剥がれだす。
海音の身体から剥がれた鱗はやがて瑞花のような細かな粒子状の雪となって二藍山の彼方へと飛んでいき、この豪雨で溢れた川を沈め、荒れた大地に豊かな緑を芽吹かせる。
そして鱗の下から現れた海音の肌は、雪を欺くような真っ白な色をしていたのだった。
わずかに開けた窓から長風に乗って小鳥たちのさえずりが入り込んでくる。ようやく訪れた春を詠うような可愛らしい合唱に対して、伴侶のために整えられた部屋では若き青龍の声息が響いていた。
「ほら、冷ましたぞ。口を開けてくれ」
「あの……そこまでしていただかなくても、一人で食べられますから……」
「何を言っている。昨日もそう言って、ほとんど食べていなかったじゃないか」
「昨日まではまだ身体が怠かったからか、食欲が湧かなくて……でも、今日は大分良くなりましたから……」
そう言い掛けた海音の口元に、土鍋から掬った少量の粥――蛍流が息を吹きかけて冷ましてくれた、を乗せた匙が近付けられたので、渋々口を開ける。
程よく冷めた粥をもぐもぐと咀嚼していた海音だったが「んんっ!」と気付いて、粥を吹き冷ましていた蛍流に声を掛ける。
「今日は卵粥なんですね。葱も入っていて美味しいです」
「先程、雲嵐殿が到着したからな。ようやく山中の整備が終わって、屋敷までの動線が確保されたらしい。食料以外にも頼んでいたお前の薬も届いたぞ。食後に飲むと良い」
それで昨日までの白粥と違って、卵と葱が入っているのかと納得する。滑らかな舌触りの甘い卵粥に、アクセントとして加わった葱の辛味と独特の香りがクセになる。粥自体も昨日まで食欲が無かった海音の身体を気遣って消化しやすい七分粥にしてくれたのか、喉につるんと入って食べやすい。
「早かったですね。もっと掛かると思っていました」
「おれが急がせたのだ。早くお前の薬を届けてもらいたかったから。それにしても、目覚ましい回復力だな。あれからまだ三日しか経っていないというのに……これも青龍の神気がもたらす効果か」
三日前、蛍流と共に昌真と黒龍の魔の手から清水を取り戻した海音だったが、屋敷に戻ってすぐ高熱を出して倒れてしまった。
心配した蛍流が清水を呼んで診立ててもらったところ、ほぼ丸一日雨に打たれていたことに加えて、蛍流から流れてきた青龍の神気とこれまで清水が隠していた海音自身が持っていた神気が一挙に押し寄せたことで、海音の身体が限界を迎えたのではないかということであった。
神気を除いて、これが常人なら発熱で一週間は苦しむところだが、青龍の加護を受ける海音は数日で回復した。思えば、この世界に来てからというもの、いつも怪我の快復が異様に早かった気がした。これも青龍に選ばれ、青龍の神気に守られる伴侶だからなのか。
「神気だけじゃありません。蛍流さんが甲斐甲斐しく、看病をしてくれたおかげです」
「そうか……それなら早く元気な姿を見せてくれ。お前と愛を語らうためにも」
「愛って……」
出会った頃とは打って変わって、饒舌なまでに恥ずかしい言葉を衒いなく話す蛍流に戸惑うが、海音がそれを指摘する前にまた薄黄色の卵粥を口に入れられてしまう。やはり昨日までの食欲不振が相当蛍流の痛心に堪えたのか、卵粥の入った土鍋と匙を海音に渡すつもりは無いらしい。
こうなった以上、質実剛健な蛍流は海音が完食するまで解放してくれないだろう。ここは仕方なく蛍流に甘えて、卵粥を食べさせてもらうことにする。
「これまではずっと我慢していたが、相思相愛の間柄になったのならもう語り合っても良いだろう。早くこの胸の内で滾る、お前への愛を伝えたいのだ。昼も夜も関係なく、言葉でも身体でも全身全霊をかけて情愛を語りたい」
「身体でも、ってことは、やっぱり、その……私たちもいずれ大人の関係を持つということですよね」
「当然だろう。おれたちは青龍によって選ばれた夫婦だ。まだ政府に通知を出しておらず、祝言も挙げていないが、おれたちの関係は清水も認めている。背中にもその証が現れているのだからな」
「龍の形をした痣ですよね。この髪色もでしたっけ?」
「ああ。その青みのかかった髪色は間違いなく青龍の神気によるものだ。出会った頃の緑の黒髪も似合っていたが、今の色もよく似合っている」
海音は改めて自分の髪を見つめる。長さや質こそ変わらず胸元までの伸びたストレートヘアだが、色は蛍流の藍色の目とよく似た青みのかかった黒色に変わっていた。
発熱で倒れた後、鏡に映った自分の姿を見て仰天した海音が蛍流に尋ねたところ、この青色は青龍の神気を纏っている証であり、蛍流の髪や目の色と同じものだと教えられたのだった。
髪色以外にも肌は蛍流と同じ抜けるような白色に変わっており、背中には右を向いた龍の痣がくっきりと現れていた。痣については発熱で沐浴が出来ない海音に代わって、背中を拭いてくれた蛍流も確認しており、そんな蛍流の背中にも青龍に選ばれた形代の証である左を向いた龍の痣があることを教えてもらったのだった。
七龍によって選ばれた形代と伴侶が一夜の夢を結ぶ姿は番の龍が交わうようであり、信愛によって結ばれた二人がもたらす神気は自身が治める龍脈をより活性化させる効果があるという。
「ありがとうございます。まだしばらくは鏡を見る度に違和感を覚えて落ち着かない気持ちになりそうですが、早く慣れるようにしますね」
「そうだな……でもそれくらいなら、おれでも手伝えそうだ。見る機会を増やせば良いのだからな」
そう言って蛍流が海音の髪をひと房手に取って軽く口付けを落としたので、海音はぎょっとしてしまう。そんな蛍流は眉一つ動かすことなく、「全快したら毎日しよう」とさも当然のように返しただけであった。
「本当なら毎日でも唇を重ねたいところだが、おれたちの接吻を見ていた清水が難色を示してな。祝言を挙げるまでは健全な付き合いをするよう諭されて、禁止されてしまったのだ」
「そうですか……」
「だがこの胸に滾る想いを伝えるには、言葉だけではどうしても足りない。頼んでみるつもりだが、せめて頬や首、髪あたりには毎日したい。それが駄目でもせめて耳か手くらいには出来ないかと思っている。三日前、手に接吻された時はお前の深い愛を感じて心が沸き立った。あの時に感じた浮き立つ気持ちをお前にも味わって欲しい。お前が与えてくれた愛に匹敵するような深愛を捧げよう」
その時を思い出したのか蛍流の顔が綻んだが、対して海音の背筋はますます寒くなる。
あの時はこれが最後になるかもしれないと思って、元の世界で見た映画に倣って蛍流の手に口付けしたつもりだったが、もしかすると純粋無垢な蛍流に余計な知識を吹き込んでしまっただけかもしれない。回復した後、清水に何と言われることか……想像しただけで身体が震え慄く。
そんな海音の様子に気付いた蛍流が「羽織を取ってくるか?」と尋ねてきたので、海音は「大丈夫です!」と即座に否定したのだった。
そうして親鳥から餌を貰う雛のように大人しく残りの卵粥を食べさせられていた海音だったが、火傷しないように息を吹いて冷ましてくれる蛍流の端正な横顔を盗み見ながら、ふと気付いたのだった。
(そっか……今までがずっと気を張っていただけで、これが本当の蛍流さんなんだよね……)
多くの民に慕われていた先代青龍のようにならなければならないと気負い過ぎていただけで、これが本来の蛍流なのだろう。蛍流自身が流した噂による先入観も関係していたのかもしれないが、本当の蛍流は心根が優しくて面倒見の良い、年相応に純朴で真っ直ぐな性格の持ち主。
晶真や師匠に愛されながら育ったからか甘え気質や独占欲の強いところもあるが、いざという時は誰よりも勇気と義侠心に溢れた青龍の形代としての強く逞しい顔を持っている。
それでも好きな人にはどこまでも熱情的で愛情深く、蕩けるような溺愛で包み込んでくれて、元の世界を捨てた海音の未練やうら淋しさを温めてくれる。
同じ痛みを知っているからこそ、欲しい言葉をかけて愛を注いでくれる蛍流は理想的な男性そのもの。そんな蛍流とこれから果てしなく長い時を過ごしていくことを思うと、緊張と興奮で身体がうずうずしてしまう。透き通る水のような玲瓏な声で星の数にも等しい睦言を囁かれるに違いない。清水にも指摘された海音の初心な心臓が持つのか……これも自分の姿と同じように時間を掛けて慣れていくしかないのだろう。
そんなことを考えながら卵粥を食していると、不意に蛍流と目が合ってしまう。藍色の目を細めながら熱っぽく微笑まれたことで身動いでしまったからか、匙から溢れたご飯粒が口の端に残ってしまった。海音が手巾で拭う前にすかさず蛍流が指先で掬うと、自分の口にご飯粒を放り込んでしまったのだった。
「蛍流さんの気持ちは嬉しいですが、私にばかり時間を割いていただくわけにもいきませんし……。そんなことより、青龍のお務めはいいんですか? 私は大丈夫なので、早く戻った方が良いんじゃ……」
「これくらい問題ない。あれから青龍の力が安定しているのだ。これまでとは違って自分の感情に左右して天候が乱れることも、力が暴走することも無い。それにまた何かあっても清水がどうにかしてくれるからな。少しくらいお前に時間を割いたって、許されるはずが……」
「あるわけないだろう。いつまでも病人の元に押しかけていないで、早く戻って来い」
蛍流の言葉に間髪入れながら「邪魔をするぞ」と部屋に入ってきたのは、蛍流に負けず劣らずの艶のある美声と鼻梁の整った顔立ちの青年――昌真であった。
「食事を届けたらすぐに戻るというから中座を許したというのに、戻る気配が一向に無いから様子を見に来てみれば……。まったく、お前という奴は……」
「少しくらい話しても良いだろう。あれから海音とほとんど話せていないのだ。それにもしおれが目を離している隙に海音の症状が悪化していたらと思うと、心配で青龍の務めどころでは……」
「はぁ……お前たちは青龍の神気で繋がっているだろう。お互いの身に何か異変が起これば、真っ先に気付くはずだ。こうも騒々しいとみ……嫁御寮も休めないだろう」
晶真は同意を求めるように海音に目線を送ってきたが、蛍流が不貞腐れたように目を逸らしたので海音は苦笑することしか出来ない。
どうやら蛍流は兄である昌真が海音と親しそうに話すのが気に入らないばかりか、自分以外の男性が海音の名前を呼ぶのが嫌らしい。
それに気付いた晶真も蛍流が居る前では、なるべく海音の名前を呼ばないように気を遣ってくれていた。今のように「海音」と言い掛けても、蛍流が睨んでいることに気付いて、慌てて「嫁御寮」と言い直してくれる徹底ぶりであった。
「だが蛍流の言う通り、昨日よりだいぶ顔色が良くなった。これで俺も一安心だ」
「ありがとうございます。晶真さんにもご心配をおかけしてしまって、すみません……」
「……これくらいどうということはない」
抑揚の無い話し方も相まって冷たそうに聞こえるものの、晶真の顔はどこか明るい。安堵を覚える柔和な笑みは微睡みの中に差し込む一条の光のようで、不意打ちで囁かれる蛍流の情熱的な言葉に取り乱す海音の心をいつも落ち着かせてくれていた。
「それで蛍流はいつまで居座るつもりだ」
「居座ってなど……」
「あまり病人を振り回すものじゃない。嫁御寮も困るだろう」
「私は平気です。ただ昌真さんが大変ですよね。私たちのお目付け役ですから」
「……こんなことになるのなら、安請け合いするんじゃなかったと後悔しているところだ。これが今後続くのかと思うと、先が思いやられる……」
発熱で倒れた海音が目を覚ましてから蛍流がずっとこの調子なので、あれから昌真とはほとんど会話が出来ずにいたが、ようやく昌真と話しが出来たのは昨日の昼に蛍流の代わりに昼餉を運んでくれた時。そこで海音は昌真から謝罪を受け、この一件の罰としてしばらくは清水の監視下に置かれることを教えられたのだった。
本来であれば国の守護神である七龍を害そうとした犯罪者として晶真は政府に引き渡されて沙汰を待つことになるが、青の地に未曾有の水害が起こる前であったことや晶真が七龍国の歴史上初めて黒龍に選ばれた人間であることから、蛍流と清水が情状酌量を求めているとのことであった。
海音は知らなかったが、これまでも黒龍が人間の強い負の感情を利用して顕現した記録はあるものの、負の感情を増幅させる黒龍の強い神気に心身が耐えられず、一人残らず黒い破片として砕け散っていた。現出した黒龍もその土地を守る七龍たちによって祓われ、その都度どこかへと消え去っていたため、行方を追い掛けられずにいたが、今回昌真が抱える負の感情に呼応して数百年ぶりに姿を現した。
黒龍は昌真に自身の神気を与えたが先代青龍の形代の血を引いていたからか、昌真は黒龍の力に振り回されることなく、また清水によって黒龍の神気を浄化されたことから、今は蛍流たち他の形代と同じように黒龍と国を繋ぐ神と同等の存在になっていた。
これまで誰も扱えなかった黒龍と良好な関係を築き、また黒龍の神気を扱えていることから、蛍流たちは晶真を黒龍の形代として政府に申請出来ないかと他の七龍たちに相談して協力を要請した。そうすることで晶真は蛍流と共に青の地の水害を止めようとして慣れない黒龍の力を暴走させてしまい、その結果蛍流と清水に危害を加えそうになったと、今回の騒動を説明する根拠にもなるとのことだった。晶真が現青龍である蛍流の兄であるという兄弟関係も、この理由を信じるに足るものとして後押ししてくれるだろうと蛍流たちは考えているという。
政府からの音沙汰を待つ間は晶真を清水の監視下に留めおくことになるが、ただ拘束するのではなく、少しでも罪を軽くするために、清水の提案でしばらくは二人のお目付け役とこの世界に疎い二人の教育係を担うことが決まったとのことであった。
そんな教育係となった晶真から、海音が鱗に覆われて砕けかけたあの時に何が起こったのか、詳細な顛末を教えられたのだった。
海音が鱗に覆われる前、昌真は黒龍が生み出した水晶球に清水を捕縛したものの、清水が持つ圧倒的な神気で水晶球が耐えられなくなった。その結果、清水は自ら水晶球を破壊して脱出し、再度蛍流を形代に選ぶことで混乱に陥りかけていた青の地を平定させた。それが出来たのも、清水が全盛期以上の力を取り戻せたからであった。
捕らえられる直前に清水は蛍流の代わりに罰を受けたことで力を失ってしまったが、その際に蛍流との繋がりも切れてしまっていた。
それにより蛍流に供給されていた神気が清水に戻っていき、清水は本来の力を取り戻していた。加えて、蛍流自身が歴代の青龍の形代の中で最も神気を持っていたこともあり、清水はこの山で龍脈の守護につく前より強い力を得られたとのことだった。
それを知らなかった黒龍は想定を遥かに上回る神気を持っていた清水を抑えられなかった。水晶球さえ吸収出来ない神気を持っていた清水は自ら黒龍の呪縛から逃れると、青の地に起こっていた水害を抑えるために蛍流と海音をそれぞれ形代と形代の伴侶に選んだ。
そして蛍流には龍脈に流れる神気のコントロールを、海音には蛍流から溢れた神気を受け止める器としての役割を与えたという。
『海音も知っている通り、蛍流の力が不安定だった原因の一つは尋常じゃない量の神気だった。蛍流一人では抱えきれない量の神気を持っていたことで、これまでこの青の地は天候不順が続いていた。そこに蛍流と共鳴する存在として伴侶が現れた。伴侶の神気は形代から供給されることになる。つまり蛍流が持っている余剰分の神気は伴侶である海音――君に流れるが、伴侶とて一度に強い神気を流されてしまえばひとたまりも無い。身体は龍の鱗に覆われて砕けてしまうだろうな。丁度、二日前と同じように』
その時、昼餉として用意された粥に口をつけながら昌真の話に耳を傾けていた海音だったが、二日前という言葉で飛び上がりそうになる。
『そういえば、蛍流さんが言っていました。「余剰分の神気を吸い取った」って。つまりあの時も、蛍流さんから流れた神気に身体が負けそうになっていたということだったんですね』
『そういうことだ。そこで蛍流には一度君に流れた神気を自分に戻すように伝え、あいつは君に口吸いして神気を吸収した。それにより神気が減ったことで君の身体も自由が利くようになり、自力での呼吸も可能になっただろう。それでも一度に大量の神気を流し込まれた影響で、身体はすっかり悲鳴を上げてしまったようだが』
『やっぱりこの体調不良は神気を受けた影響なんですね……』
『まあ、君の場合は他にも原因がありそうだが……。正式に伴侶として選ばれた以上、これから君の身体は少しずつ神気に対する耐性を身に付け、蛍流と同じ悠久の時間を生きる存在となるように、身体が作り変えられていくだろう。その過程で身体にも変化が現れるだろうが、調べた限りでは人型を失うほどの変化は起こらないとのことだった。安心して流れに身を任せて欲しい』
ちなみに昌真の黒髪と黒目というのも、黒龍に選ばれて神気を受けたことで今の色に変わったとのことであった。蛍流も清水に選ばれてこの世界に来た時には、髪と目の色が変わっていたと言っていたので、海音たちに限らず他の形代とその伴侶も同じなのかもしれない。
以前よりも色素が薄くなった肌と藍色に近くなった髪を見ながら、そんなことを考える。