「ここに貼られている新聞記事って、もしかして……」
「おれたちのように異なる世界からやって来た人間と……その人間が辿った末路についてまとめたものだ。新聞には載っていないが、官憲より先に人買いに捕まり、国内外に売り飛ばされた者も多いと聞く。特に若くて美しい女人は遊郭辺りに高く売れるからな」
時間が経って黄ばんだものから最近貼ったと思しきものまで。そこには海音たちと同じように国の各地に現れた異世界人と、その異世界人たちがその後どうなったかについて、文量や書き方もてんで違う新聞記事が所狭しとページを埋めていた。
異世界人に関する記事について共通していることは二つ。一つは、不審者として捕縛された後に、罪人たちと同じように炭坑や工場へ強制労働に従事させられるというもの。中には政府が所有する開拓地に送られた者もいるようだが、開拓地も炭坑や工場とほぼ同じ扱いだろう。
元の世界とは違って、この世界は労働者に対する労働環境や法律が整っていない。衛生環境は悪い上に低賃金で、休憩や休日といった概念はほとんど無いに等しい。ノルマが達成できなければ体罰や折檻を与えるのは当たり前のようで、灰簾家で世話になっている時に何度か見ている。帰る場所がある奉公人ならいいが、罪人にも等しい異世界人が仕事を辞めることなど許されはずもなく、奴隷も同然に死ぬまで酷使されるに違いない。
もう一つは、元の世界に戻れた者はいないということ。記事によっては異世界人の名前が実名で載っており、その者の名前を辿るとしばらくして没したと書かれていた。死因は人によるが、元の世界とは全く異なる劣悪な環境下での強制労働で心身に異常を来たし、その結果頓死や客死したとしてもおかしくない。
「この屋敷に来たばかりの頃に話したことを覚えているか。この世界の人たちは余所者に厳しいということ。余所者は余所者でも、他国の民にはここまで酷い扱いをしない。彼らが厳しいのは異なる世界から来た者だけだ」
「どうして……ここまで扱いが酷いんですか? だって住む世界は違っても、同じ人間なのに……」
「……この世界では異なる世界から人が来た時、出現した土地には災いが起こると言われている。災害、飢饉、疫病……いずれにしても凶兆を及ぼす、不吉な存在として忌み嫌われて、村八分のような目に遭わされる。師匠はそんな異世界人の扱いに心をずっと痛めていた。それはおれと暮らし始めてからますます強くなったのだろうな。こうして新聞記事を切り抜いて一つにまとめ始めたのもおれと暮らし始めてからだ。おれのことを弟子ではなく、もう一人の息子として育ててくれたのも、おそらく異なる世界から現れたというおれの出自を周囲に知られないため。次代の青龍の形代がどこの馬の骨とも知らない異世界人だと知った青の地の民たちの怒りの矛先から守ろうとしてくれたに違いない」
蛍流が父親となった師匠から並々ならぬ愛情を注がれたかは普段の姿を見ていれば分かる。これまで海音に向けてくれた数々の仁愛は、師匠から教えられたものなのだろう。蛍流自身の性格も関係しているだろうが、その根幹を作ったのは間違いなく蛍流を育てた師匠だ。
そんな蛍流と師匠の関係からは、師弟愛以上の恩愛を感じられる。二人は本当に血を分けた親子同然の深い信頼関係で結ばれていたのだろう。
けれども今はその与えられた愛の分だけ、蛍流は師匠と自分を比べては自身の力不足を痛感して酷く藻掻き苦しんでいる。
「それ故におれは自分の出自を誰にも知られるわけにはいかなかった。この青の地を治める形代が異世界から来た人間で、そして異世界から来た人間だからこそ、この地を満足に統治することが出来ないなどと思われるわけにも……。そんなことをしたら我が子のように育ててくれた師匠の顔に泥を塗ることになる。歴代の青龍の形代たちにも合わせる顔がない! 自分が謗られ、罵られるだけなら良い。だが師匠を始めとする歴代の青龍たちの功績や栄誉を傷付けることだけは、断じてあってはならない……っ! それでは師匠の命を奪っただけではなく、青龍とひいてはこの国そのものを穢すためにやってきた疫病神も同然だ!」
語気を強めてはっきりと断言した蛍流に合わせるように、先程まで晴れていた青空に突如として暗雲が立ち込め始める。蛍流の言った通り、感情の起伏と天候が連動しているのだろう。青龍が持つ神気の影響を目の当たりにして、これには海音も絶句してしまう。
何とかして雨が降り出す前に宥めた方がいいのだろうかと、遠くで春雷が鳴り始めた灰色の空と蛍流を交互に見比べながら考えている内に、蛍流自身も空を覆う黒雲に気付いたようだった。昂る激情を鎮めようと、眉間に皺を寄せたまま息を大きく吸い込んでは深呼吸を繰り返す。
やがて落ち着いたのか雲の切れ間から青い天穹が見え隠れするようになった頃、蛍流は掌を自身の胸に押し付ける。そうして安堵の息を吐くと、「すまない」と短い謝罪と共に再び口を開いたのだった。
「急に声を荒げた上に、折角の春空が変わって驚かせてしまったな」
「いいえ……。これが青龍の力なんですね。天気にまで影響するからって、本当に怒ることや泣くこと、笑うことも出来ないなんて……」
「歴代の青龍の記録を漁ったが、青龍の感情の昂りが天候にまで影響を及ぼしたという記録はどこにも無かった。雲嵐殿を通じて他の七龍たちに尋ねても、結果は同じ。やはり異世界から来た人間が今代の青龍という前代未聞の事態になっているからか、この土地は少々おかしなことになっているのかもしれない」
自分を卑下するように乾いた笑みを浮かべたものの、その顔は苦渋に満ちていた。蛍流自身もこれまでずっと苦しんでいたのだろう。
青龍の形代としての務めがどれほど大きいものなのか、海音には想像しか出来ない。それでも師匠の跡を継いでから今もなお、蛍流が並々ならぬプレッシャーと責任感を抱えていることだけは肌で感じられる。
「正体が知られるのを恐れたおれは雲嵐殿に頼んで噂を流してもらった。師匠が形代だった時とは違って、気軽にここに来られては困るからな。『人嫌い』、『冷酷無慈悲』、『冷徹』、『非人情』、『冷涼者』、思いつく限りの人が遠ざかるような噂を幾つも……。その噂は徐々に広まり、やがて用もなくこの山に来る者は誰もいなくなった」
「寂しくなかったんですか。こんな山の上にたった一人で……」
「寂しくないと言えば嘘になる。が、ここにはおれが生み出した守護獣のシロたちがいて、行商で雲嵐殿が来てくれる。時折師匠や茅晶の影を感じてしまうが、その時はただ黙して耐えればいい。二人の幻影が消えるまで身を固くするだけだ。難しい話では無いだろう」
「それでもやっぱり一人は辛いです。誰しもが一人では生きていけません。それがたとえ七龍の形代だとしても……蛍流さんだって、私たちと同じ心を持った人ですから」
「それならお前はどうやって耐えたのだ。母君を亡くした後、何を支えにした。しばらくの間は故人の気配を全く感じなかったわけではないだろう」
「私にはお父さんや友達がいました。それにお母さんとの約束がありました。『人の心や痛みを知って、思い遣れる人になる』って。その約束を支えに、私はここにいます。お母さんを亡くしたお父さんの痛みを知って、前向きに生きる姿を見せて元気になってもらおうと考えました。病気や怪我に苦しむ人たちを理解して、痛みを和らげるお手伝いをするために看護師を志しました。この世界に来てからは、青龍に嫁ぎたくないという和華ちゃんの心を理解して身代わりを引き受けました」
母親を亡くした直後は海音も父親と同じように母親を悼み、嘆き、骨身に応えもした。学校の友人や先生はそんな海音を慰め、労りもしてくれたが、しばらくは誰の言葉も心に響かなかった。何も手につかない父親の代わりに家の用事を済ませようと外出すれば、幸せそうな母子ばかりが目に入って、その度に塗炭の苦しみを味わうことになった。それでも海音の心が挫けなかったのは、母親と生前に交わしたこの約束があったから。
もしかしたら母親は自分がいなくなった後、残された海音たちが悲嘆に暮れることを分かっていたのかもしれない。海音と父親、どちらも悲しみの沼に沈んだまま、いつまでも浮上出来ずにいることを――。
それを少しでも和らげるために、母親はこの約束を考えついたのだろう。いずれは海音が愁嘆する父親の手を引いて、二人で母親を喪った痛嘆を乗り越えられるように。
病気に罹る前の母親は事あるごとに「お父さんより海音の方がしっかりしている」と言って、繰り返し父親を揶揄していた。その母親が最後に当てにしたのが「しっかり者の海音」だとしたら、海音はその期待に応えたくなる。
それが母親からの最後の頼みだとしたら尚の事、必ず叶えたいと考えてしまう。
「他の人からしたら、お母さんとの約束は大した内容では無いかもしれません。ですがお母さんとの約束が悲しみに暮れていた私を奮い立たせてくれました。もう一度、心から笑える日を迎えられるように立ち上がる勇気を与えられました。お母さんとの約束に私は支えられて、いつも後押しをしてもらっています。私の考えや行動の原点にはお母さんとの約束があると言えるかもしれません」
改めて母親との約束を口に出している内に、どこか気恥ずかしささえ感じられて誤魔化すように海音は愛想笑いをする。平凡な理由に鼻で笑われて一笑されるかと思っていると、小さな笑みを浮かべた蛍流に「おれも同じだ」と柔らかな声色で返される。
「この世界に来る直前に出会った少女と約束を交わしたのだ。『今日悲しいことでたくさん泣いたら、明日は楽しいことでたくさん笑う』とな。子供らしい、くだらない約束かもしれないが、それでもその約束が今のおれを支え、活力となって身体中を漲らせている。この世界に来てからの訳もなく不安を抱えていた日々も、そうして師匠亡き後も。元の世界や両親への恋しさから涙を溢した日も、不甲斐ない自分に何度も心が挫けかけた時も、その度に少女と交わした約束がおれの力になってくれた。失敗しても逃げずに青龍としての務めを果たせるのは、師匠や茅晶からもらった愛情と少女との約束があるからだ。明日は笑って楽しい日となるように、今日という悲しい日を乗り越えようという気持ちにさせてくれるのだ」
「蛍流さんにもそんな約束があったんですね」
「名前を知らず、もう顔すら思い出せない少女との約束だが、この胸にしかと刻まれている。今思い返せば、あの少女は青龍の遣いだったのかもしれないが……」
「聞いてもいいですか? 蛍流さんが大切にされている約束について」
「話すのは構わないが、ここに来た影響なのか、元の世界での直前の記憶が曖昧でな。所々しか覚えていないのだ。少女と出会ったのは秋と冬の間ぐらいの季節。おれは父の仕事関係者のパーティーに参加するため、父と父に仕える清水と共に遠方の地にやって来たのだ……」
いつもは蛍流の父親のパートナーとして、蛍流の母親がパーティーやレセプションなどに同行するらしいが、その時は蛍流の弟妹となる二人目の子供を身籠っており、産み月が近いことから遠方への外出が出来ずにいた。そこで母親の代わりに連れて行かれたのが、息子の蛍流だったらしい。
子供の蛍流からしたらつまらない大人の会話を聞くのが退屈な上に、年に数回しか会えない寡黙な父親と過ごす時間も窮屈でしかならなかった。そこでパーティーが始まって大人たちの注目が逸れた瞬間を狙って、こっそりパーティー会場を抜け出して外に飛び出したという。
「行く当ては無く、どこかで時間を潰せればいいかと思って歩いていると、同い年くらいの少女が泣きながら遠くを歩いているのを見つけた。すかさず駆け寄って迷子かと尋ねると、少女は涙ながらにこう答えたのだ。『お母さんが死んじゃう』とな」
「事故か事件に巻き込まれて、助けを求めていたのでしょうか?」
「詳しく聞けば、病に伏していた母親の容体が急変したらしい。今夜が峠かもしれないという話を聞いて、大人たちの緊張感と父親の嘆きに耐えきれなくなって出てきたと言っていたな。おれはすぐ病院に帰るように説得したが、少女は帰りたくないと懇願してきた」
少女をこのままにするわけにもいかず、蛍流は大人に助けを求めようと来た道を戻ろうとしたが、初めて訪れた知らない土地だったことや夜間で道が暗かったこともあって、自分がどこから来たのか分からなくなっていた。幸いにも少女が母親の入院する病院の名前を知っていたので、近くを歩いていた通行人に場所を教えてもらえたことだけが救いだった。
「教えられた道を歩いていたつもりが、いつの間にか二人揃って迷っていた。教えられた道というのが、取り立てて特徴の無い住宅街だったというのもあるだろう。手を引く少女は変わらず泣いており、おれまで泣きたくなってきた頃になって目の前に鳥居と石段が現れたのだ」
歩き疲れた蛍流は少女と共に石段に腰掛けると、少女を待たせている間に近くの民家で電話を借りて、父の側にいるはずの清水に電話を掛けて迎えを頼もうとした。しかし傍らの少女は、握っていた蛍流の手を離さなかった。
「足が棒のようになっていたのは少女も同じ。それでもおれの手を握ったまま、声を上げて泣き続けた。そんな状態の少女を放っておくことも出来ず、おれはずっと側についていたが、やがて後ろを振り向いて鳥居を見た瞬間に閃いたのだ」
「神社の人に助けを求めようとしたんですか?」
「その神社には誰も住んでいなかったが、他の神社と同じように参拝できるようになっていた。少しでも少女の気を紛らわせたい一心で、神頼みを提案したのだ」
少女と共に石段を登った先にあったのは、古びた木製の拝殿と年季の入った賽銭箱が印象的な古い神社であった。鳥居をくぐった時から感じていた神聖な空気は賽銭箱の奥の拝殿から流れてきているようで、犯しがたい清浄な空間の中に蛍流たちは佇んでいた。
「その時になっておれは自分が小銭を持っていないことに気付いた。少女に尋ねたところ、偶然にもポケットから十円玉が一枚転がり出てきたが、ここで次の問題が起こった」
「他に問題なんて無いような気がしますが……。何が起こったんですか?」
「『十円玉は縁が遠のく』という話を聞いたことはないか? 参拝には五円玉を使うと清水に聞いて知っていた。『ご縁があるように』という意味を込めて、五円玉を賽銭箱に入れるのだと……。おれは躊躇したが、今度は少女が提案してきたのだ。『二人でお願い事をすれば、一人五円になるから大丈夫』だと」
一枚の十円玉を五円にするため、少女はそれぞれ願い事をすることを蛍流に持ちかけた。けれども今度は蛍流側に問題が起きてしまう。この時の蛍流には特に願う事は無かったからであった。
「願い事が何も無いことを話すと、少女は自分が母の無事を願うように、おれは自分の家族のことを願えばいいと勧めてくれた。けれどもその時のおれは少々ひねくれていてな。産まれてくる弟妹に両親を奪われてしまうような気がして、まだ弟か妹かも分からない新しい家族に嫉妬していたのだ。到底家族のことを願う気にはなれず、別の願い事を考えたが、その話を聞いた少女に怒られてしまった。『せっかくお兄ちゃんになれるのに、どうして嬉しくないのか』とな」
一人っ子だという少女は友人たちが幼い弟妹と遊んでいる姿を見て、弟妹の存在に強い憧れを抱いていたという。しかし母親の病気が発覚したことで、治療に専念するため、二人目以降の子供は諦めなければならなくなったという話を、両親と医師がしているのを聞いてしまったらしい。
「おれは弟妹に両親が奪われてしまうことばかり恐れていたが、少女は弟妹と一緒にどんな遊びが出来るのかを延々と説いていた。春は一緒に桜を見に行き、夏は海に行って花火をして、冬は雪合戦をして雪だるまを作る。他愛のないことで喧嘩をしたと思えばすぐに仲直りをして、明日はどんな遊びをしようか隣り合わせに敷いた布団で横になりながら語り合う。そうやって弟妹と過ごせるのが、羨ましいとまで言われた。……今思えば少女の言う通りだったな。ここに来た後、少女に言われたことを兄も同然の茅晶と一緒に経験した。気兼ねしなくていい分、学友たちと過ごすのとはまた違った楽しさがあったな」
「私も一人っ子なので兄弟がいる楽しさは分かりませんが……。でも一度で良いから、『お姉ちゃん』なんて呼ばれてみたかったです」
「そうだな。おれは一度も茅晶のことを兄と呼ばなかったが、一度くらいは呼んでも良かったかもしれない。茅晶本人はずっと『兄』と呼ばれることを求めていたからな。その度に師匠に注意されて、おれもどこかで意地を張って呼ばずじまいだった……」
大きく息を吐いた蛍流は、また空を見上げては少女との出会いに想いを馳せる。
「結局、少女に説得されてほんの少しだけ弟妹に対して期待を膨らませたことで、家族について願うことを決めると、少女と共に十円玉を投げ入れて二人で鈴を鳴らした。少女は母親の病気快癒を、おれは弟妹が無事に産まれることと――少女が再び心から笑える日が訪れることを神に頼んだ」
一枚の硬貨で願いを分かち合った二人は神社を後にすると、近くの民家に事情を説明して電話機を借りた。架電先の清水はどうやら蛍流の姿が見えないことに気付いていたようで、蛍流が訳を話すと父親が気付く前に迎えに来てくれることになった。
民家の場所を伝えて、清水が到着するまでの間、蛍流は少女と例の約束を交わしたのだった。
「どちらから言い出したかは覚えていないが、『今日悲しいことでたくさん泣いたら、明日は楽しいことでたくさん笑う』という約束をこの時に交わした。おれは少女に元気を出してもらうために、おそらく少女は産まれてくる弟妹に両親を取られると落ち込んでいるおれを勇気づけるために」
それからすぐに清水が車で迎えに来たので、蛍流たちは少女の母親が入院するという病院まで送り届けた。
病院の前に車を停めて少女を中まで送り届けようとしたところで、病院の入り口では顔を真っ青にした男性が誰かを探すようにおろおろと辺りを見渡していた。挙動不審にも見える男性に向かって、少女が「お父さん!」と呼びかけながら駆け寄ったことで、蛍流はこの男性が少女の父親だと気付いたのだった。
「病院に着いたら、少女を探していたと思しき父親が居てな。少女と合流するとすぐに病院の中に入ってしまったので、結局少女の名前を聞けずに別れてしまった。おれもすぐに清水の車で父の元に戻ったが、夜半だったこともあってすぐ休むように言われた。だがそれでも心のどこかで少女のことが引っかかっていた。翌日には帰ってしまうので、その前にもう一度会えないかと考え、一夜明けた早朝にまた少女と別れた病院に向かったのだ。清水の制止も聞かずに、たった一人で……。そこから先の記憶が曖昧なのだ。おそらく病院に行く途中で何かが起こって、青龍の形代としてこの世界にやって来たのだろうな。気付いた時にはこの山に居て、師匠に介抱されていた」
「ということは、その女の子とは再会出来なかったんですね」
「そうなるな。その少女と少女の母親がどうなったのか気になるが、この世界に来た以上、最早知る術は存在しない。それならただ願うだけだ。あの日交わした約束の通りに、今も少女が笑って暮らしていることを。母親の病気が快癒したにしろ、しなかったにしろ、少女が幸せな日々を送っているようにおれは祈り続ける。青龍として務めを果たしていれば、いつかこの願いは少女に届くかもしれないからな。もっともその少女は約束どころか、おれのことさえ忘れているかもしれないが」
「きっとその子も覚えていると思います。もし忘れてしまったとしても、何かしらは心に残ると思います。私にも似たような記憶がありますよ。お母さんの病気を神頼みしに行った時、一緒に行ってくれた男の子との思い出。その子の顔や話した内容もすっかり忘れてしまいましたが、側にいてくれてとても心強かったです。もしかしたらその相手は蛍流さんだったかもしれませんね」
「お前が追憶の中の少女だったら、忘れるわけがない。こんなにも魅力的で可憐な目もあやなお前のことを……」
そこまで言い掛けたところで、恥ずかしくなったのか蛍流は顔を逸らすとわざとらしい咳払いをする。水も滴るような絶世の美男子である蛍流からの誉め言葉に海音もじわじわと恥ずかしさがこみ上げてくると、紅葉を散らした顔を見られないように横を向いたのだった。
「可憐なわけありませんよっ! 今まで彼氏さえいませんでしたし、告白でさえ一度もされたことはありません!」
「それは他の男の見る目が無いからだ。だが先程お前が言っていたように、過去にお前と会っていたら何かは心に残るだろうと思う。それかどうかは知らないが、お前とは不思議と初めて会った気がしないのだ。やはりどこかで会っているのかもしれないな」
「そうですか。私は何も覚えていなくて……。でも蛍流さんの手と触れ合う度に、どこか懐かしい気がするんです。安心すると言えばいいのか、落ち着くというのか……」
これまで蛍流の背に負われ、蛍流と手を繋ぎ、そして頬や頭を触れられもしたが、いずれも不快に感じられなかった。それどころか、とても心地良いとされ思っていた。男らしい大きく皮の厚い手にしては、小動物や真綿に触れる時のような、力を抜いた柔らかな触り方だからだろうか。
「もしかすると神頼みをしに行った時に会ったという少年が、お前を心配して手を握っていたのかもしれないな。この時のおれも病院に着くまで、少女の手をずっと握りしめた。車の後部座席に並んで座った時もな。少女が不安そうに震えながらおれの手を掴んでいたというのもあるだろうが、ただ単に頼られて嬉しかっただけかもしれない。それまであまり異性と触れ合うということをしてこなかったからな」
「へえ、意外です。女性の扱いが慣れているように思いましたが……」
「まさか。この間も清水に注意されたのを知っているだろう。生まれてこの方、異性と関係を持ったことはほとんど無いに等しい。自ら迎えると決めたものの、伴侶と上手くいくのかさえ心配していたのだ。お前が伴侶だったら、どれだけ良かったことか……」
その言葉に海音は声を飲むと瞬きを繰り返す。海音自身はずっと身代わりを哀れに思った蛍流が情けをかけて、ここに置いてくれているとばかり思っていた。いずれは追い出されることも、伴侶を騙った罪人として政府に渡される可能性も考えていた。
そんな覚悟をしていた分、何でも無い自分を必要としてくれているとは全く思いも寄らなかったので、どう言葉を返していいのか分からない。
「私が伴侶だったら、上手くいっていましたか? その……伴侶との関係を……」
「それだけじゃない。おれはお前に居場所を与えられる。青龍の伴侶という誰にも侵されない居場所をな。そうすれば、お前だってこの世界に来た意味と役割が分からないと泣かずに済むだろう」
和華の身代わりとして蛍流の元に来た次の日。この世界での身の置き場がない不安から泣き出した海音を蛍流が真摯に受け止めてくれた。「今はここがお前の居場所だ」と断言してくれた蛍流の言葉は今も胸に刻まれている。あれほどまでに心強い言葉を掛けられたことは、この世界に来てからこれまで一度たりとも無かった。
この世界にとっては居ても居なくても問題ないような部外者の海音でも、自分を受け入れてくれる居場所があり、蛍流たちと関わることでこの世界と関係を結べる。元の世界では当たり前のようにあったものが、実は難しいものだったことを知れたのも、ここが海音の居場所だと言ってくれた蛍流のおかげ。感謝しても足りないくらいだ。
「かつてこの世界に来たばかりのおれは、師匠と茅晶がくれた数々の言葉に救われた。時間こそ掛かったものの、青龍そして家族として受け入れてくれたことで、先の見えない不安が消し飛んだ。あの時にもらったものを、今度はお前に与えたい。おれと同じように異なる世界から迷い込み、自分の在り処を探して彷徨い、心許なさから涙を溢す、お前に……。輿入れの日、木の根に座り込んで泣いている姿を見つけた時から、ずっとそんな気持ちでいる」
蛍流の手が海音の髪を撫で、そして頬に触れる。唇に指先が触れただけで高揚したかと思えば、愛おしむように細められた藍色の瞳と視線が絡み合っただけで心が歓喜で沸き立つ。
「滝壺に迷い込んだお前を探し出し、屋敷まで背負った時だって、師匠はこんな気持ちで逃げ出したおれを探していたのだろうかと考えもした。共に手習いをした時も、お互いの身の内を語り合っているこの瞬間もな」
「もし許されるのなら、蛍流さんと一緒にずっとここで暮らしたいです。伴侶にはなれませんが、これからも使用人として置いて欲しいです。勿論、許されるのならばの話ですが……」
「おれも許されるのなら、未来永劫ここに留めておきたいとさえ思っている。けれどもそれを清水が許されないだろう。ここは青龍が司る神気の根源となる場所。普通の人間にとって神気とは毒でしかない。近い内にお前の身体を蝕み、心身を崩壊させてしまう。そうなる前にこの山から降りて、別の場所に行ってもらった方がいいが、異なる世界から来た人間がどのような末路を辿るのか知っている以上、このままお前を外に放り出すのは忍びない。ここを出たお前がどんな目に遭遇したのか……そしてどんな最期を迎えたのか。この新聞に載っている者たちと同じ目に遭ったと知るのが怖い」
「そうなったとしても、蛍流さんは関係ありません。全てこの世界について私が無知なのと、運の悪さが原因です」
「いいや、ちがう! 元は異なる世界の住人であったとしても、この世界に来た以上は、おれたち七龍が庇護すべき存在なのだ。彼らも守れずして、国を護れるはずがない。それも苦しんでいる相手というのが、恋慕を寄せているお前だぞ! たとえ人の世に私情を挟むことを禁じられている七龍の形代であったとしても、助けてやりたいと思うのが道理だろう!」
「恋慕を寄せている……って、蛍流さんが私にってことですか……?」
勢いのまま言ってしまったのだろう。海音の指摘に蛍流はしまったという顔をする。バツが悪い顔をした蛍流だったが、やがて観念したのか諦めたように白状したのだった。
「……先日事故とはいえ、互いの唇が重なった時にようやく自覚した。おれはお前に家族以上の特別な感情を抱いている。しかしそれを口にするつもりは無い。青龍に選ばれたおれと夫婦の契りを結んでいいのは、同じく青龍に選ばれた伴侶である――和華だけだ」
「そうですよね……」
「この先、おれは和華を伴侶に迎え入れる。だが心はお前に捧げるだろう。この世界でお前が平穏無事に過ごせるように祈り続ける。青龍として、一人の男として。この山の上からお前を想い続けよう……」
熱を帯びた藍色の瞳を輝かせながら海音を見つめる蛍流の鶯舌が紡ぐ愛の言葉に、身体だけではなく心まで震える。その告白に対する返事をしなければと口を開こうとしても、気持ちが先走って上手く言葉にならない。
本当は海音からも蛍流に対する並々ならぬ愛情を伝えたい。けれども「伴侶ではない」という負い目が、止めどなく溢れる蛍流への想いを阻む形で海音の前に立ち塞がる。次いで躊躇いが言葉を奪い、地歩の違いが恋心に蓋を閉じさせる。
ここで海音の想いを伝えることは簡単だ。その結果、蛍流と相思相愛になれたのなら、この世界での海音の憂いは無くなる。蛍流の腕の中という安心できる居所を得られ、この世界での「家族」が出来る。誰にも関係を認められず、神気によって添い遂げられなくても、心が通じ合っている以上は、「家族」と呼べるだろう。だがその後は?
蜜月の関係になったとしても、青龍の蛍流と人間の海音は同じ時間を生きられない。何も変わらない蛍流に対して、海音は老いていきやがて数十年には朽ちてしまう。
永遠に近い年数を青龍の形代として生きる蛍流からしたら、海音と一緒に居られる時間というのは玉響の如く刹那の時間であろう。海音との限りある時間を大切にしたい気持ちも理解出来るが、それでも触れ合った時間だけ、交わした想いの数だけ、残された蛍流を苦しめる。喪ったものの重みにくずおれ、海音を心恋うあまり、哀傷が蛍流の心を蝕もうとするかもしれない。
そうなれば蛍流の力はますます不安定になり、遠からず青龍の龍脈と青の地にまで影響を及ぼすだろう。ひいてはこの国に暮らす無関係な人たちまで、海音たちの巻き添えを喰らうことになる。
伴侶にはなれない海音の存在が、青龍としての務めを果たそうとする蛍流の足枷になってしまう。そんなことは海音自身望んでいない。
ようやく蛍流と心を通わせられそうなのに、立場の違いが二人を阻む。だからこそ七龍と添い遂げられるのは、七龍と同じ時間を生きられる伴侶だけだと気付かされる。
何度も出会いと別れを繰り返して七龍が心を痛めないように、深い関係を持てるのは七龍と同じ存在のみ。七龍と永遠なる時間を生きられる存在――伴侶だけなのだろう。
もしかするとこの国の創世にも書かれていた「七龍と同等の歳月を過ごせる伴侶」というのは、周囲と隔絶された時間を生きる七龍の形代の心を守る存在として生み出されたのかもしれない。親兄弟、友、師、そして愛する人。それらを見送り続ける七龍の形代が失意の中で壊れてしまわないように――。
自分の心のままに気持ちを伝えるか、それとも蛍流の心を優先するべきか。海音の中でせめぎ合う二つの相反する感情と葛藤している間に、興奮は熱が引いたように落ち着く。自分に何度も問い質して逡巡した後に、ようやく口をついて出てきた言葉は「駄目ですよ」という自分の想いとは裏腹の一言だった。
「蛍流さんは伴侶を――和華ちゃんだけを大切にしてください。そうしなければ、別れが辛くなります。同じ時間を生きられないのに……」
「海音……」
どこか困惑しているように目を見開く蛍流の反応から、もしかすると泣きそうな顔になっているかもしれないと自覚しつつ、海音は表情筋に力を入れて貝の形をしているであろう口元を正すと作り笑いで誤魔化す。
「私のことはいずれ忘れてください。本当だったらここにいない人間です。ただの身代わりなんですから、私は……」
蛍流の想いを理解しながら、突き放すような言葉に胸が痛む。これはこの場限りの恋なのだと、一花心なのだと自分に言い聞かせるが、それでも自分の気持ちに嘘をついているからか、罪悪感と悲愴感がより増して海音をじわじわと責め立てる。
その言葉に一瞬だけ蛍流は表情を固まらせたものの、すぐにいつも通りのどこか物思いに沈んでいるようにも見える涼しげな微笑みを浮かべたのだった。
「……そうだな。おれたちは互いに大切な存在を喪う悲しみを知っている。同じ時間を生きられない苦しさも」
海音は母親を、蛍流は師匠を喪った時に、身を切るような痛みを経験している。時間の経過と共にいずれ消えると知ってはいても、それまでは春が来るまで極寒に耐えるのと同じくらい苦しい。
七龍と人間、生きる時間が違う蛍流と海音にもいつか別れがくる。蛍流には師匠を亡くした時と同じような経験をまた繰り返して欲しくない。それならいっそのこと海音の存在自体を忘れて欲しい。そう思ってしまうのは、海音の我が儘だろうか。
「だがいずれここを出て行くにしても、定期的に便りは寄越してくれ。お前の無事を知りたい。どこでどんな暮らしを送り、何をしているのか。幸せかどうかも含めてな。そして困ったことがあったら、いつでも頼って欲しい」
「ありがとうございます。蛍流さんの代わりにこの山の外の様子をたくさん教えますね。他の土地にも行ってみたいですし、元の世界との違いも知りたいです。絵や写真があれば一緒に送ります」
「そうしてくれ。おれはこの山の外の様子について、見聞きした内容を元に想像を膨らませるばかりなのだ。憧れてはいるものの、この地を離れられないからな。せめてテレビやラジオがあれば良かったのだが、生憎とこの世界には存在していないらしい」
「テレビだけではなくラジオも無いなんて残念です。でも仮にテレビが存在していたとして、こんな山の上まで電波が届くのでしょうか……?」
「その時は政府に頼んで電波が届くように二藍山のどこかに電波塔を建ててもらおう。神域に人の手が入ることを清水は嫌がるかもしれないが、そこは納得してもらえるように形代であるおれから説得を試みるつもりだ」
「山の上に電波塔ですか……。なんだか急に元の世界にありそうな光景になって、親しみを感じられるようになりますね……」
この自然豊かでどこか厳かな空気に満ちた二藍山の山頂に、鋼鉄で作られた人工の電波塔が建てられるかと思うと、あまりにもアンバランスに感じられてつい相好を崩してしまう。そんな海音に釣られるように蛍流も口元を綻ばせたので、二人は顔を見合わせるとお互いに笑い合ったのだった。
「さて、すっかり話し込んでしまったな。片付けはおれが請け負おう」
縁側から立ち上がった蛍流が素早く使い終わった食器を集め始めたので、海音は慌てて制止する。
「片付けなら私がやります。カルメ焼き作りに使用した道具を出したままにしていましたし、炊事場の掃除もしなきゃだし……」
「炊事場の後片付けもおれがやろう。ようやく秘め事を明かせたからか、身も心も軽いのだ。お前はもう少しここで寛いでいるといい」
「でも……」
「もし可能なら、残っているあんぱんを分けて貰えるだろうか。師匠の墓前に供えたいのだ」
「勿論です。ぜひお供えして下さい」
空になった茶器を盆に重ねていた蛍流にあんぱんの紙袋を差し出す。受け取る際に互いの手が触れ合ったが、もうどちらともなく逸らそうとしなかった。それどころか、その一瞬さえも寂しく思えてしまう。蛍流の手を借りて書道をした時は、何とも思わなかったというのに。蛍流に避けられていたこの数日で、海音の心も随分と蛍流に傾いたのだと自覚する。
「ありがとう」
囁くようにそれだけ言うと、蛍流は炊事場に戻ってしまう。縁側にはどこか夢うつつな海音とカルメ焼きが載った皿だけ。残っていたカルメ焼きを摘まみながら、海音は溜め息を吐く。
(これでいいんだよね。お母さん……)
蛍流が後に心を痛めるだろうと考えて、今後の蛍流を思い遣った上で慕情に気付かない振りをした。結果的に蛍流が寄せる好意を拒んだ形になってしまったが、これも徒恋となる前に一線を引いただけ。それでもどこか釈然としないのは、自分の感情を偽ったからだろうか。
(蛍流さんが和華ちゃんと夫婦になる姿を見るのが苦しい。身代わりでも伴侶になれない自分が憎い。好きな人と結ばれないことがこんなにも辛いなんて、知らなかった……)
甘いはずのカルメ焼きがどこかほろ苦く、塩気まで感じられる。焦がしたところでも無ければ、塩を使ってもいない。それにもかかわらず、蛍流と食べていた時と全く味が違っているように思えてしまう。
実りそうで実らない恋のことを「空なる恋」と呼ぶと古典の授業で聞いたことがある。天上で輝く月に恋をするかのように、儚く、虚しい恋をすることだと。今の海音もそんな「空なる恋」をしているのだろう。決して結ばれない月――蛍流への恋心。悲恋と分かっていながらも、どうしても蛍流への想いを止めることが出来ない。蛍流への密心が胸に溢れて歯止めがきかなくなる。この恋慕の情は誰かに悟られる前に仕舞わなければならない。深い水底に、水籠りしなければ――。
ふと庭から視線を感じて頭を上げれば、遠くに黒い人影が見える。今日は誰も来ないと聞いていたが、この間の役人たちと同じ急な来客だろうか。使用人という手前、ここは出迎えに行かなければならないだろう。海音は袖で目元を拭うと、沓脱石の上の草履を履いて人影に向かう。
木々を掻き分けるようにして近寄ると、音も無く佇んでいたのは、初めて雲嵐と会った時に庭で会った青年であった。
「あの……」
新月の夜を彷彿とさせるような青年は海音に気付くと、「ああ」と低い声で話し出す。
「また君か。青龍の……伴侶」
「私は……私は海音です。伴侶なんて名前ではありません」
ここで前回と同じように言い淀んでも、また伴侶かどうか問答の繰り返しになるだけ。それなら話の矛先を変えてしまえばいい。すると、青年は遠くを見つめながら「そうか」と返す。その物憂げな顔が蛍流と重なる。
「あの屋敷に暮らしているのだな。今代の青龍と共に」
「そうです。貴方はどなたでしょうか。蛍流さんのお客さん? それとも青龍が見せる幻?」
「俺は……」
そう言い掛けた青年だったが、不意に海音の口元に指を伸ばす。咄嗟に身を引いたものの、青年が摘まんでいたのは薄茶色の塊だった。それを自身の口に運んで咀嚼しながら、青年が静かに言葉を紡ぐ。
「これは砂糖か?」
「多分、カルメ焼きだと思います。今さっきまで食べていたので」
「カルメ焼き。懐かしい響きだ」
どこか遥か懐かしむような青年の優しい声色に、海音は「あの!」と声を掛ける。
「ここで待っていてください。すぐに戻ります!」
海音はつんのめりつつ屋敷の縁側に戻ると、カルメ焼きが残る皿を掴んで青年の元に取って返す。そうして今にも闇夜に紛れてしまいそうな青年に差し出したのだった。
「私が作ったカルメ焼きの余りです。良ければ食べてください」
「君が?」
「焦がしてしまったところもありますが、でも概ね食べられると思います」
青年は海音とカルメ焼きを交互に見比べた後、やがて「いただこう」とカルメ焼きのひとかけらを摘まむ。細く長い指先はやはり蛍流と似ている。この青年も武術を嗜んでいるのだろうか。ゆっくりとカルメ焼きを食していた青年だったが、やがてほうっと息を吐いたようであった。
「美味いな。味や見た目もそうだが、多少の焦がし具合も懐かしい」
「カルメ焼きがお好きなんですか?」
「……弟が好きだった。俺も好きだったが、弟の方がより好きだったと思う」
「弟さんがいるんですか?」
「歳の近い弟だった。もう何年も会っていない」
「そうですか……」
抑揚の無い寡黙な青年の話し方からは、それ以上の情報は得られそうになかった。深く踏み込んでいいのか躊躇していると、青年は再び口を開く。
「……弟と父は不仲だった。俺が二人の仲を取り持たねばならないと、幼い頃は張り切っていた。だがある日の夜半、姿が見えない弟を探している時に知ってしまった」
「何があったんですか?」
「弟と父が二人で仲睦まじく話していた。昼間の弟はどこか父に対してよそよそしく遠慮をしていたが、夜間に父の部屋で語らう二人にはそんな様子は微塵も感じられなかった。俺よりも父と親子のようで、俺はそんな弟に……嫉妬してしまった……。それで弟に辛く当たってしまった」
「仲直りはされたんですか?」
「していない。喧嘩別れのように弟の元を出て、それから一度も会っていない……」
青年の言葉が木々の囀りの中に消える。それが後悔しているようにも聞こえて、つい海音は深入りしてしまう。
「きっと弟さんも仲直りしたいと思っています。早く会えるといいですね」
「……いいや。弟はもう俺のことなどすっかり忘れているだろう。風の噂で聞いたところ、弟はつい先日伴侶を娶って婚姻を結ぶつもりだと聞く。弟にとって俺はもういない存在なのだ」
「そんなことはありません。誰よりも深い絆で結ばれた家族なんですよね? 今もきっとお兄さんの帰還を待ち望んでいます」
「家族か……。そうだな、家族だな。俺と弟は……」
嘯くような青年に海音は怒りと悲しみがない交ぜになった気持ちになる。異なる世界から来た海音や蛍流は、家族に一目会いたいと冀っても、二度会うことは叶わない。対して、青年はこの世界の住人で家族に会おうと思えば会いに行ける。それがどれだけ素晴らしく、羨ましいことか、この青年は分かっていない。
言い返そうと口を開きかけた海音だったが、不意に青年が口の前で人差し指を立てる。そうして先程まで蛍流と語らっていた縁側を指し示したのだった。
「そろそろ、アイツが戻ってくる。嫉妬される前に戻った方がいい」
「嫉妬なんてするはずがありません。蛍流さんはそんな器の小さい人では……」
「男というのは一途になると恐ろしい生き物だ。今のアレは君に盲愛している。その盲愛は偏愛となり、やがて愛憎に変貌するかもしれない。そうなる前にアレの想いに答えてやるといい」
「どうしてそんなこと……」
「痴れたこと。独占欲が強いからだ。子供の頃からずっとな」
まるで子供の頃の蛍流を知っているかのような口ぶりに海音が問う前に、青年が言った通り、蛍流が戻ってきてしまう。風に乗って「海音?」と探す声が聞こえてくるので、このままでは海音を探して外に出て来てしまいかねない。
仮にこの状況を見られたとしても、精神面が成熟した蛍流がそう嫉妬に駆られるとは思えないが、蛍流の想いを振ったばかりでこの状況を見られるのはさすがに良くない気がする。ここは素直に戻った方がいいだろう。
青年に一礼をして背を向きかけた海音だったが、青年がぽつりと漏らした低い声を耳にして足を止めてしまう。
「昌真」
「えっ?」
何のことか分からず、青年の言葉を頭の中で反芻しながら瞬きを繰り返していると、再度青年は宙空に溶けてしまいそうな小声で言葉を繰り返す。
「晶真。それが俺の名だ」
「昌真さん……? それが貴方の名前ですか?」
海音の問いに青年――昌真は頷く。
「……父が生前に付けてくれた名だ」
どこか悲しみの色を漂わせた黒い瞳に後ろ髪を引かれるが、今もなお海音の名を呼び続ける蛍流を放っておけず、すぐに晶真から目を逸らす。
そんな海音の姿を晶真が見つめていたことを、海音はついぞ気付かなかった。
『青龍として、一人の男として。この山の上からお前を想い続けよう……』
蛍流に告白されたあの日から、海音は繰り返し同じ夢を見ている。
それは清水が住むという神域の滝壺の中に、蛍流が身を捧げるように消えてしまう夢。
清らかな流水を湛えた滝壺にいる海音の目の前で、背を向けた蛍流が吸い込まれるように碧水の中へと消えてしまうものであった。
蛍流が消えた後には、宙を舞う無数の水飛沫と衝撃で硬直する海音、そして遣る瀬無さだけが残される。無声映画のように何の音も存在しない無音の世界で、蛍流を救えなかった悲嘆と後悔に慟哭を上げながら夢から覚醒する、という実に後味の悪い夢であった。
顔や着物に掛かる水飛沫の感触が生々しく、空を切って滝壺の流水の中へと沈んでいく蛍流の姿もあまりに現実味を帯びていて、夢にも関わらず海音を不安な気持ちにさせる。これは正夢で、いつか本当に蛍流が人身御供となる日が来てしまうのではないかと――。
そんな悪夢に為す術も無く、ただ歯痒い気持ちで繰り返し見ている内に、やがて夢の中にも関わらず、身体の自由がきくことに気付いた。
その時から海音はこの妙にリアルな悪夢の内容を変えて、蛍流を救おうと行動を開始する。
蛍流が消える前に身を乗り出そうと滝壺へと真っ直ぐに腕を伸ばして蛍流を捉えようとするが、最初はどんなに掴もうとしても紙一重の距離で擦り抜けてしまった。それでも蛍流との距離は日を追うごとに近づいていき、ついには蛍流の衣を掴んで引き止められるまで縮められた。
「蛍流さんっ!」
言葉を発したはずが何も聞こえてこない。それでも蛍流を助けられたことで夢の内容は変わったはず。
そう安堵したのも束の間、蛍流の衣に触れた指先から氷のような半透明の浅葱色の鱗が生え出す。
鱗は掌、腕へと広がっていき、やがて全身を覆っていく。
(なにっ……! これ……っ!?)
まるで身体が凍りつくかのように、鱗に覆われた肌からは体温が奪われ、体内を流れる血液や臓器まで凍結する。冷気が肺まで達すると、胸が圧迫されるような息苦しさを覚えて苦悶で身を捩り出す。
(いきっ……が、でき、なっ……!)
涙目になりながら自分の喉を押さえるが、硬質な冷たい鱗に覆われた喉は張り付いたように息が吸えなくなり、やがて陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクと開閉させることしか出来なくなる。それでもどうにか蛍流の衣を掴み続けるが、とうとう蛍流を掴む指先にひびが入り始める。
(えっ……)
ガラス製の置物を割ってしまったかのように、ひびは海音の身体全体へと広がっていき、やがて手足からゆっくりと身体が砕け始める。
粉雪のようにパラパラと鱗が落下し始めると、身体からは力が抜けていく。とうとう視界が崩れ始めた頃、後ろを向いた蛍流が海音に向かって、何かを話し出したのだった。
(何を言っているの……?)
耳を喪って聴力を持たない海音には、蛍流の口の動きと表情から言葉を拾うしか術が無い。最初こそ全く分からなかったが、何度もこの夢を繰り返すことで、ようやく蛍流の言葉を全て拾う。
そうして文字を繋げて完成した言葉の意味に気づいた瞬間、心臓を鷲掴みされたかのように全身を悪寒が走ったのだった。
――コ、コ、カ、ラ、サ、レ。
信じたくないと思いたいが、それが嘘ではないというように、その言葉を発した後の蛍流の表情が毎回大きく歪むのを見ている。
(そんな……)
目が砕けて先も見えない真っ暗闇に包まれた時、夢の中の海音は心の中で哀哭する。
それが悪魔のような不気味な笑みと共に発せられた蛍流からの拒絶の言葉であった。
◆◆◆
「……んはっ! はぁはぁ……」
薄明るい部屋の中、掛け布団を跳ね除けるようにして海音は飛び起きる。額や身体は寝汗で湿っており、寝巻は乱れはだけていたのだった。
(またあの嫌な夢……。それにあんな蛍流さん、見たことない……)
蛍流の顔をした別の生き物。人ならざるもの――そんな単語が頭に浮かぶ。あんな薄気味悪い笑みを浮かべられるのは、悪魔のような人智を超えた存在だけ。
それとも蛍流が自分を拒絶するはずがないと思いたいだけかもしれない。先日の告白がまだ胸の中に残っているから――。
きっとここでの生活に慣れて疲れが出始めてきただけだろうと思い直す。布団から起き出して、着替えようと寝巻を脱いだ瞬間、自分の鎖骨に小石サイズの濃い藍色の欠片がついているのを見つける。最初は塵でも付いているのかと思って爪を立てたものの、全く取れる気配が無かった。そこで今度は摘まんで剥がそうとするが、指先に冷たい硬質な感触が当たったところでぞっと鳥肌が立つ。
転がるように姿見のところまで行って自分の姿を写した時、信じられないものを見つけたのだった。
「なに、これ……」
海音の鎖骨から生えていたのは、浅葱色の鱗であった。ガラス細工のようにどこか透き通っている浅葱色やひし形状の形、そして肌から生えている様子までもが、夢の中で海音を覆った鱗と瓜二つ。手で触れた時の触感もガラス細工と同じ冷たく無機質で、そこだけ血が通っていないかのようにひんやりとしていた。
「そんな……」
もし夢の中と同じ運命を辿るとしたら、この後の海音、そして蛍流が待ち受けている未来は――。
嫌な想像を膨らませたところで、身体が大きく身震いする。一筋の熱涙が頬を伝って流れ落ちると、浅葱色の鱗に落下して吸い込まれるように消えてしまう。
(いや……いやっ! 怖い、怖いよ。誰か、誰か助けて……)
室内に差し込む朝の陽気を反射する鱗が、不気味な笑みを浮かべた夢の中の蛍流の姿を重なったのだった。
◆◆◆
寝汗で湿った肌を拭き、着替えて部屋を出ると、丁度蛍流が青龍の神域である滝壺から帰ってきたところだった。玄関まで出迎えに行くと、手桶を片付けていた蛍流が海音の姿に気付いて声を掛けてくれる。
「おはよう。今朝は早いのだな。まだ朝日が昇り始めたばかりだぞ」
「おはようございます。なんとなく早く目覚めてしまったので、一足先に朝餉の支度を始めようかと」
「そうか。おれも荷を片付けたら、すぐに行こう」
「いえ、一人でも大丈夫です。蛍流さんは神域に行ってきたばかりですよね。ゆっくりしてください」
青龍の形代とその伴侶の日課の一つに、早朝の神域の見回りと歴代の青龍の形代とその伴侶が眠る石碑の掃除がある。いわゆる巡邏と墓参のことだが、神域はこの国に流れる水の龍脈の源に当たるため、異常事態が起こらないように管理するのが形代の担う一番大きな役割らしい。
そんな重要な役目を長らく任じられてきた形代とその伴侶が眠る石碑の管理と掃除は、形代を支える伴侶の務めであるが、蛍流の伴侶は不在のため、今は蛍流が代わりに請け負っていた。
只人である海音は神域への立ち入りを禁じられているため、こうして屋敷で蛍流の帰宅を待つことしか出来ない。それが非常に歯痒く感じられたのだった。
「ここに来たばかりの時とは違って、もうひと通り自分一人で出来ます。それに使用人の身で、いつまでも蛍流さんの手を借りてばかりいるわけにもいきませんし……」
「そうは言っても、力が必要な時もあるだろう。青龍だからと気を遣わずに、頼ってくれていい」
「ですが……」
「二人で支度した方が早く終わる。そうしたらお互いにゆっくり休めるだろう。そうだ、朝餉の後にひと息ついたら、庭でも散歩しないか。先程見に行ったところ、ようやく梅の花が満開になったのだ。芳しい匂いに心が弾む。お前にも見て欲しい」
「梅が満開に……もうそんな時期なんですね」
「もう少し暖かくなって桜が開花したら、花見をするのもいいかもしれない。昔も師匠や茅晶と三人でしたのだ。大量の桜吹雪に包まれた時は、夢見心地な気持ちになる。あの幻想的な光景を一緒に見たい。お前と共に……」
藍色の瞳を細めて微笑む蛍流に胸が高鳴る。この間、蛍流の想いを振ったばかりだというのに、未だにどこかで期待してしまう。このままずっと二人きりで、この至福の時間を過ごせるのではないかと……。
それでもやはり自分と蛍流では住む世界が違う。海音が告白を断った後も、蛍流は変わらずに接してくれるが、海音自身がどこかで居心地の悪さを感じてしまう。今も蛍流に花見を誘われて嬉しい反面、それを素直に喜べない自分がいる。
別れを惜しんでいるのは蛍流ではなくて、本当は自分自身なのかもしれない。
けれどもそんな気持ちを蛍流に悟られなくて、海音は「ありがとうございます」とそっと笑みを返す。