「蛍流さん。後ろに虎がいます……」

 小声で囁いて再び虎を見ると、その虎は先程海音を追い掛けてきた虎たちとは違って、白と黒の毛並みをしたホワイトタイガーであった。そうしてよく観察すると、口には何かを咥えており、それを海音たちに渡したいようにも思えたのだった。
 目を細めて虎が咥えているものの正体に気付くと、「あっ!」と声を上げてしまう。

「あの虎、口に草履を咥えています!」
「草履?」

 足を止めて振り向いた蛍流に白い虎は颯爽と走ってくると、蛍流の身体に頭を擦り付ける。そうして忘れ物を拾ってきてやったぞ、とでも言いたげな顔で、咥えていた草履を蛍流に差し出したのだった。
 これには受け取った蛍流でさえ、どこか怪訝そうな顔をする。

「これは庭に置いていた草履だな」
「すみません。私が屋敷を出る時にお借りしたんです。虎たちの気を逸らすつもりで放り投げて、その隙に逃げようと……」

 片方は虎たちに向けて放り投げたが、もう片方の草履は今も滝壺近くの石碑の辺りに落ちているはずだった。どちらかを拾ってくれたのだろうか。
 そんなことを考えていると、蛍流は「そういうことだったのか」と何故か納得したようだった。

「それでわざわざシロがおれのところに持って来たのか……ようやく理解した」
「何を理解したんですか?」
「部屋からいなくなったお前を探している時にシロ……この虎が、もう片方の草履を持って屋敷に姿を現したんだ。清水の住処である滝壺を守護する虎が屋敷に来た時点で異常が起こっていることは分かったから、お前が誤って滝壺に侵入してしまったというのも想像に難くなかったが……。まさか草履はお前が履いて行ったものだったとはな。庭に侵入した動物が盗んだのをシロが見つけて、ついでに回収したものとばかり思っていた」

 蛍流の説明によると、海音を侵入者と勘違いして襲ってきた虎たちとこのシロと呼ばれた白い虎は、どちらも清水が住む滝壺を守る番犬ならぬ番虎として、蛍流が森に放っている獣とのことだった。いずれも主人である蛍流に忠実であり、もし滝壺や清水に異常があれば屋敷まで報せるように躾けているという。
 ちなみに黄色の毛並みの虎たちは全て雄虎、白い虎は一頭しかいない雌虎にして虎たちの紅一点。白い虎に「シロ」という名前が付いているように、他の黄色の虎たちにもそれぞれ名前が付けられているらしい。

「つまりこの白い虎と先程の黄色の虎は、蛍流さんのペットということですか?」
「ペットというよりは、おれが持つ青龍の神気で作り出した幻獣のようなものだ。本物の虎じゃないから餌や手入れの必要がない。ついでに青龍の財産目当てで山に侵入する悪党と、山に暮らす野犬や狼たちを追い払う役目も果たしている。青龍の神気に反応するから、おれが呼べばすぐに来るぞ」
「幻獣が虎の姿をしているのも、何か決まりがあるんですか?」
「虎にしたのはおれの趣味だ。昔、動物園で見た虎を気に入ってな。自宅で飼いたいと強請ったが、使用人にダメだと言われた。それが悔しかったのを思い出して再現したんだ。どうせ番犬となる生き物を飼うなら、強くて見目が良い虎にしてしまおう、と雪辱を果たすつもりでな」
「そうだったんですね……」

 虎を飼いたいと駄々をこねる幼少期の蛍流を想像して、どこか微笑ましい気持ちになる。
 蛍流のペットなら触れるかと期待して手を伸ばすが、ふいと頭を避けられてしまう。青龍の神気が無い海音には、触ることも許してくれないのかもしれない。
 目的を果たしたシロは足早に滝壺に続く道へと戻っていくと、道を塞ぐかのように山道の真ん中に座り込んでしまう。そうして未だ海音を警戒するかのように白と黒の縞模様の尻尾を立てて、じっと様子を伺い出したのだった。

「警戒されていますね……」
「青龍の神気を持っていないからな。草履を持ってもらえるか?」

 蛍流から草履を受け取ると、腕の中で大切そうに抱える。きっとこの草履に残っていた蛍流の気配から、主人を追いかけてくれたのだろう。わざわざ届けて持って来てくれるなんて、随分と躾の行き届いた番虎だとしみじみ考えてしまう――忠実すぎる故に、危うく殺されそうにもなったが。
 蛍流に背負われたまま、屋敷の門前から玄関に戻ろうとした海音だったが、二人を出迎えるかのように玄関口からは「これはこれはっ!」とわざとらしく驚いた声が響いてくる。