近くにあった喫茶店に入り僕はホットコーヒーを、白雪はホットレモンティーを注文した。
 平日の九時過ぎだからか店内はお客の数が少なく、ほぼ貸し切り状態だった。込み入った話をするには整いすぎる環境だった。
 湯気の立つコーヒーをゆっくりと、時間をかけて口元に運ぶ。ただただ鉛のように重苦しい時間が過ぎていく。
 一時間にも感じられた数分後、「あのね」と喉の奥から引き絞るような声を出した。

 「私、今の映画の撮影が終わったら……東京に行こうと思ってるの」
 「え。……それって本気、なの」
 「本気。実は数か月前に私が立った舞台を見に来てた演劇のお偉いさんがいてね、その人に声かけられたんだ。次回作に出す映画のキャスト探してたんだってさ。マジって感じだよね。でも本当。それで本格的な稽古付けたいから事務所に来て欲しいって誘われたの」

 一つ一つの言葉が誰も通っていない雪道のように柔らかく硬い。
 目の前に座る白雪の顔には、固唾を吞んでいるような真剣な色が表れていた。迷っているのではない、あと一歩、ほんの少しだけ、誰かに背中を押して欲しのだろう。
 けれど、僕の心には哀かなしさ、寂しさ、悔しさ、焦りが暴風のように襲ってきていた。
 
 「でもそれって」
 「うん。大学はやめるし、多分この街には当分戻れないと思う」

 取り残された。大切な物を抜き取られた感覚がした。
 今作っている作品は売れる女優と売れない脚本家の作る売れる映画へと様変わりする訳だ。
 自分の胸に空洞ができ、そこを店内の暖かい空気が吹き抜けてゆく。
 僕はなんて言えばいいのだろう。
 行かないで。違う。
 頑張って来いよ。違う。
 僕も一緒に行くよ。いや違う。
 違う違う違う違う。
 別に彼女は僕の恋人でも何でもないし、恋人同士だったとしても彼女の夢を止める権利など誰も持っていない。
 それなのに、どれだけ藻掻いても海面に浮上出来ないこの息苦しさはいったい。
 
 「だからさ、もし良かったら海心もーーー」
 「凄いじゃんか!白雪の努力が報われたってことだね!やっぱ白雪ならやると思ってたよ!あ、ごめん。そう言えばまだ書き途中の脚本がるんだった、先に帰るね」
 「え、ちょっと!」
 
 財布から千円札を取り出し机に置くと、僕は直ぐにファミレスを後にした。
 濁りの無い白銀の静寂の中に「はあはあ」と僕の息の上がった声と涙の落ちる音だけが鮮明に聞こえてきた。
 ……そうか。僕は彼女の事が、一ノ瀬白雪の事が好きなんだ。

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