「ママ、おてて、ぜったいはなさないでね!」
「はいはい」
「ぜったいぜったいよ!」
「大丈夫よぉ、そんな怖がらなくったって」

 足がつくほどの浅いプール。けれどその縁で、幼子は必死に母親に訴えかけながら足先を慎重に水につけようとしていた。
 母親はくすくすと笑いながら、小さな手をしっかりと握りしめている。幼子が滑ってしまわないように。不安に思わないように。
 その手を命綱として、幼子はゆっくり水に体を浸す。
 冷たさにぷるぷると体を震わせて、きゅうっと目を瞑った後、ぱっと顔を輝かせて母親を見上げる。

「ママ! はいれた!」
「そうね、えらいわね」

 ぱしゃぱしゃと片手で水を跳ね上げながら、もう片方の手は母親の手をしっかりと握ったまま離さない。

「じゃぁ次はお顔を水につけてみよっか」
「ええ!? やだ!」
「大丈夫よ、お顔洗う時と一緒よ。ママがおてて繋いでてあげるから、怖くないでしょ」
「うう……」

 今度は両手をしっかりと繋げて、幼子は向かい合った母親をちらりと見る。
 母親は決して急かさなかったが、にこにこと笑ったまま「頑張れ」と言うばかりで、やらなくていいとは言ってくれなかった。
 へにょりと眉を下げて、それでも幼子は水面を見つめた。逃げることはできないのだ。
 何度か深呼吸をしてから、えいっと気合を入れて水に顔をつける。
 おそらくちょっと顔を水面につければ良かったのだろうが、勢いをつけすぎたせいか、ほとんど頭は水中に潜っていた。
 ぎゅっと目を瞑っているから、何も見えない。ごうと不思議な音がして、人々の声は遠くなる。行ったこともないのに、テレビで見た宇宙空間に放り出されたような気がして、途端に怖くなった。

(ママ、ママ!)

 唯一の命綱を、母親の手を、ぎゅっと握る。
 握った、はずだった。


 
「――――……」

 蒸し暑さの中で目が覚めた。
 よれよれのTシャツが、汗で体に貼りついている。すっかり成長を止めた長い手足は、畳の上に投げ出されていた。
 冷たい風に当たりたいが、クーラーが嫌いだと言う母親の希望で、この家にはエアコンが設置されていない。
 扇風機を探し求めて、私は身を起こした。

「ああ、あんたそこにいたの」
「……お母さん」
「いいわね、ぐうたら寝てられて。あたしがあんたくらいの年には、もうあんたを育ててたってのに」

 これが母親の口癖だ。口答えしても何にもならないことを学習しているので、私は黙っていた。

「しっかり働いてちょうだいよ。お父さんが出て行ったのは、あんたのせいなんだから」

 これもいつものこと。
 父親が出て行ったのは、母親のヒステリーに嫌気がさしたからだ。私の養育に金がかかるからと、母親はいつも父親に金の文句を言っていた。
 それを受けていた父親も気の毒と言えば気の毒だが、その結果が不倫だ。今は若い女と新しい家庭を築いている。
 そして母親は、私のための喧嘩が原因なのだから、離婚の原因も私であると結論づけた。
 その八つ当たりを何年も受け続けた私は、言い返すのも面倒で、もうそれでいいと思っている。

「あたしの人生、あんたのせいでめちゃくちゃよ。あんたのために犠牲にした分は、ちゃんとあんたが返してよ」

 繰り返される言葉は、呪いとなって蓄積していく。無数の手にしがみつかれているように、体が重くて動かない。
 深く、深く。水底に沈むように。

(もういい加減、離してよ)

 あの時は手を、離したくせに。