『良かったら、今度一緒に行かない?』

 なんとなく眠れない夜に、そんな返信をしてしまったのが運の尽きだった。
 私はいつものように大学から帰宅し、夕ご飯を食べてレポートを終わらせ、さっさとお風呂も済ませてベッドの上でゴロゴロしていた。うつ伏せで顔だけを起こしてスマホの画面をフリック、フリック。流れていく投稿をチラ見しながら、ほとんど無意識に上へ上へと指を滑らせていく。
 なんの気はなしになんてことない投稿を流し読み、自動再生される動画をボケーっと眺め、画面いっぱいに広がる画像をなんとなく拡大していた。そんな、何も特別ではない日常の夜だった。

「あれ……」

 その時も、私はぼんやりとフォローしている友達の投稿を見ていた。有紗は旅行に行くんだいいなー、とか。優香は彼氏とまーたデートしてるし、とか。智子は相変わらず甘党だなあ、とか。そんな、ありきたりな感想が頭の中を巡っていた時だった。

『めっちゃ美味しそうなケーキ。どこのだろう?』

 同じサークルに所属している男子。いつもはほとんど投稿なんてしない村中友樹(ともき)が、SNSでつぶやいていた。載っているのはそんな文字と、でかでかとアップで映し出されたショコラケーキ。装飾がとても凝っていて、一目でかなりこだわり抜いているケーキだとわかる。しかも、なんと。

「これ、近くにあるケーキ屋さんのだ」

 知らない、わからないのリプライがいくつか続いているのも無理はない。そのケーキ屋さんは個人で経営しており、かなり奥まったところにお店があることも相まって隠れ家的な洋菓子店になっているからだ。
 私は少し迷ってから、意を決して返信タブをタップする。

『これ、私の近所にあるケーキ屋さんのケーキだよ』

 山川佐奈(さな)という私の名前とともに、下書き欄に打った文字がリプライとして投稿される。リプ自体は幾度となくやっているのに、それだけで私はどっと気力を持っていかれた。

「お、送っちゃった……!」

 でも、こればっかりは仕方ない。だって私はいつも彼のことを遠くから見ているだけなんだから。もちろん認識はされているだろうし、雑談くらいなら何度もしたことがある。しかし同じサークルといっても人数は非常に多く、バイトとの兼ね合いもあって話す頻度はかなり少ない。でも私は、どうしようもなく彼が試合で打ったスパイクに見惚れ、チームメイトとハイタッチを交わす姿にキュンとしてしまうのだ。
 そして今しがたの投稿で、私の淡くて曖昧な恋心が少しだけでも形を帯びてくれれば儲けものだ。

 返信まだかな。

 心がそわそわする。落ち着かなくて足をパタパタと動かし、ギューっと枕に顔を埋めてみる。五分くらい経ったかなと思ってスマホを見れば、まだ一分しか経っていないんだから苦笑するしかない。

「……いったん落ち着こ」

 恋は冷静さを失ったらダメだ。駆け引きができるくらいの心の余裕を持たねば。
 そう自分に言い聞かせ、とりあえずトイレにでも行こうかと私はベッドから降りた。
 その瞬間、ブブッとスマホが枕の上で振動した。私はいち早く身を翻してスマホを引っ掴む。

『おぉっ! なんてお店?』

 たった一行。わずかそれだけの返信に、思わず頬が緩む。数秒前に言い聞かせた言葉はすっかり頭から抜け落ちており、私は二度三度と返信を眺めてからベッドのふちにポスンと腰掛けた。

「えーっと、お店の名前だよね。確かシャ……」

 何度か行ったケーキ屋さんの名前を打ち込もうとして、私ははたと気づいた。
 もしここで、私がケーキ屋さんの店名を打ってしまったら、お礼だけ言われて会話が終わってしまうんじゃないんだろうか。それはなんだか、とてももったいない気がする。

「……どうしよ。なんて返そう」

 私はスマホを眺めたまま、背中からベッドに倒れ込む。指先は画面の前で止まっており、カーソルが規則的に点滅を繰り返していた。
 ん〜とか、え〜とか、もう〜とか様々な鳴き声を発しながらゴロゴロとベッドを縦に転がり、私はどうにか返信文を捻り出す。

『ごめん! お店の名前は忘れちゃった! 今思い出す!』

 送ってから、「今思い出すってなにーー!」とひとり枕をバシバシたたく。けれどもう返信は取り消せないので、すぐにもう一度『ちなみに、この写真どうしたの?』と続けて送信。カモフラージュ作戦だ。

「って待って。もしこれで恋人からとかだったらどうしよ……」

 村中くんとは雑談はしても、恋人が云々みたいな話はしたことがない。しかも彼は結構な秘密主義者なのか、その手の情報は友達に訊いても誰も知らなかった。

「大丈夫、大丈夫大丈夫」

 ドキドキと高鳴る心臓を落ち着けていると、まもなくして彼から返信が来た。

『頼む! この写真は姉から送られてきたんだ。なんかTLに流れてきたみたい』

「お姉さんか〜〜〜っ」

 あー良かった。もし彼女からなんて言われたら私のメンタルは地に落ちてしまう。というか既に乱高下激しくないか私のメンタル。もう大学生なんだぞ、大丈夫か私のメンタル。
 そこで抜け落ちた数分前の言葉を思い出し、冷静さを取り戻すべく私はスマホを置いた。自室を出てキッチンに行き、冷蔵庫から麦茶を取り出して喉に滑らせる。けれどもちろん、私の頭の中は次の返信のことでいっぱいだった。

「てか、みんなに見られないところでやりとりしたいな」

 ふいに思う。
 今やりとりしているのは、学部の友達もサークルの仲間もまったくの赤の他人も誰もが見られるオープンな場所だ。ここだと突っ込んだ質問はできないし、あまり長々と返信を重ねるのもどうかと思う。あと友達からいじられるのも必至だし、そもそもなんか見られているのは恥ずかしい。

「ん〜〜」

 かといって、メッセージアプリやDMに切り替えられるだろうか。そんな提案が私にできるだろうか。
 なんて送る? 恥ずかしいからDMでやりとりしましょう? いやそもそもそんなリプをするのが恥ずかしすぎる。なんか変に思われても嫌だし。断られようものなら軽く病む自信があるし。

「姉ちゃんうるさい」

 そこで唐突にリビングから弟の声が横入りしてきた。私はびっくりして肩を跳ね上がらせる。

「えっ!? 声に出てた!?」

「え? なんかわかんねーけど。やりとりがどうのとか、リプがどうのとか。え、なに、もしかして姉ちゃんの彼氏?」

「ち、違うっ! 違うからっ!」

 カァーっと顔が熱くなるのを感じて、私は足音うるさく自室に戻った。心を落ち着けようと思ったのに、落ち着くどころかさらに悪化だ。
 私は後ろ手に閉めた扉の前で顔を覆う。本当に熱い。ってか私、彼のこと好きすぎないか。
 改めてそんな気持ちを自覚して、また顔の温度が上がる。もう重症だ。
 でも、今からこんなんでは親しくなってからどうなるのか。まずは慣れ。慣れるところから始めないと。そのためにはやっぱり、個別でやりとりするのは避けられない。

「……よしっ」

 私は小さな小さな覚悟を決めると、ベッドの上に鎮座するスマホを手に取った。ついさっきまで眺めていたアプリを開き、村中くんからの返信にいいねを付けてから、DMを開く。

『いきなりごめん! 一応確認だけど、このケーキだよね?』

 過去のフォルダから探し出した、友達と私が映った目当ての写真とともに、私はメッセージを送信した。真っ白だったチャット欄に、青い吹き出しがシュポッと表示される。

「〜〜〜っ! 送っちゃった送っちゃった送っちゃった……!」

 何度目かになるベッドへの倒れ込みのあと、私は溜まった感情を吐き出すように足を思いっきりバタつかせた。バフバフバフッと下の方で布団が柔らかな音を立てる。
 でも、これくらいのメッセージならきっと大丈夫だ。あやしまれることはない。それに一応、写真には私や友達が映っているからという理由もあるし。
 そんな言い訳を考えていると、待ちかねていた返信が送られてきた。

『そう! これ! もしかしてお店の名前思い出した?』

 私のメッセージのあとに、反対側から村中くんの吹き出しが伸びている。

「ふふっ」

 思わず笑みが溢れた。内容はさっきまでとなんら変わらない。なんなら、サー練終わりにたまに話す雑談と大差はない。けれど、なぜか私の心はポワポワと温かくなっている。
 今度はゆっくりと足をパタパタさせながら、私は画面に文字を入力していく。

『友達に訊いてるところ! 返信来たら教えるね!』

 すぐに既読がつき、メッセージが返ってくる。

『ありがとう! どうしても買いたくてさ!』

『そうなんだ! ちなみにどんなケーキが好きなの?』

『俺はモンブランが甘すぎなくて好き!』

『モンブラン! 私もめっちゃ好き! このお店にもあったよ! 写真送る!』

『うわ、めっちゃ美味そう! 夜にこれはアカン!』

『飯テロというか、ケーキテロ?笑』

『俺が太ったら間違いなく山川の写真のせいだな笑』

 楽しい楽しい楽しい。
 もうとっくにいつも寝る時間は過ぎているのに、まったく眠くならない。それどころかどんどん目は冴えてきて、心はウキウキと踊っている。
 もっと話したい。話していたい。でも、会話を引っ張るにも限界がある。
 それに本当は、直接会っていろいろお喋りしたい。
 次の返信を打っていた手を止める。ほかのケーキの写真と一緒に『どうだー笑』と打っていた文字を消し、私は一度溜まっていた息を吐き出す。
 いいかな。ダメかな。
 ぐるぐるぐると思考が回る。いいかな、ダメかな、を行ったり来たり。けれどもう、私が送りたい返信は決まってしまっている。これは勇気を貯める時間だ。
 私はぽちぽちと文字をフリック入力し、ていやっ、と送信ボタンを押した。

『良かったら、今度一緒に行かない?』

 一世一代、私からした初めてのお誘い。
 これは間違いなく深夜テンションだからできたことで、普段の雑談はもちろんのこと、昼とかだったら絶対に送れないメッセージ。
 最新の青い吹き出しを数秒眺めていると、急速に心音は大きくなっていく。全身の血管から血が吹き出すんじゃないかってくらい、私の心臓は全力で鼓動していた。
 既読がついた。手はじんわりと濡れ、額からも汗がにじむ。どうにも落ち着かなくて足の指をこすりこすり、ついには画面を直視できなくなって再び枕に顔を埋める。
 なんて返ってくるかな。
 聞こえるのは、私の恋心の音ばかり。トクトクなんて可愛いものじゃなくて、バックンバックンと大層な音を鳴らしている。
 時間が経過していく。どれくらい経ったんだろう。五分? 十分? いや、そう思ってさっきは一分しか経ってなかったし、きっと今もそれくらいなんだろう。
 変わらない心臓の音に耳を傾けていると、ついにスマホが微かに振動した。弾かれるようにして顔を上げ、スマホを見つめて……私は固まった。

『ごめん! 一緒に行くのは厳しい! 彼女に悪いから』

 ひゅっと胸のあたりが締め付けられる。さっきまで感じていた温もりは急速に冷えていき、別の意味で心臓がまたうるさい音を奏で始めた。

「そっか。そっかあ…………」

 力が一気に抜けた。返信する気力ももうない。でも、時間が空くと変にとられそうで、私は重い頭をもたげて画面に指を滑らせる。

『えー! びっくり! でもそれなら仕方ないね!』

 続けて、『友達から返信来た!』と打って、お店の外観の写真を送った。
 すぐに『ありがとう!』の吹き出しと、『もうすぐその彼女の誕生日だから買いに行きたくてさ』の文字が表示された。
 間を置かずに私は『そうなんだ! やっさしー!』と返してから、『ごめん! 私そろそろ寝るね!』の文字とスタンプを送信する。ちょっと強引な気がしなくもないけど、これ以上やりとりを続けるのはさすがにしんどい。
 私は通知をオフに切り替えてから、ポイっとスマホを放った。

「はぁ……」

 頭の中は真っ白だった。枕に顔を押し付ける。さっきまで落ち着きのなかった足は重く、手も動かせない。

「そっかあ…………」

 目頭が熱くなる。じんわりとそれは浮かんで、枕にしみていく。止めようと思っても止まらなくて、私はさらに枕をギュッと抱きしめる。

 すぐには諦められそうになかった。
 まだそんなに親しくないじゃん。
 べつに告白したわけじゃないし。
 大丈夫、大丈夫だし。
 言い聞かせる。
 言い聞かせる。
 自分に、言い聞かせる。

「はぁ……しんど」

 たった一夜の、僅かなひととき。
 とても楽しくて、幸せな時間だった。
 すごく悲しくて、絶望した時間だった。

 恋って、こんなにもままならないのか。

 画面の向こう側にいるあなたに、無性に叫びたくなった。


「――――――――っ!」


 って。