「くそ、結局コンビニコーヒーかよ」

 カフェを飛び出てしばらくぼんやりと歩き続けていた。気づいたら会社のある新橋エリアまで戻っていた。
 目についた緑の看板のコンビニでつい、いつもの習慣でマシーンドリップの百円ちょっとのコーヒーを買い、紙コップを抱えたままとぼとぼと歩いた。

 何となくいつもは使わない歩道橋へと上がる。風に吹かれたかった。
 ビルの隙間にあるこの歩道橋は銀座方面も、反対の浜離宮方面も一望できる。

 道路の向こうに沈みゆく夕陽をぼーっと眺めながら冷めかけのコーヒーを飲んだ。
 ついでに銀座マダムにもらったトリュフチョコも食った。ずっと手で持ってたから溶けかけていたが、さすがお高いだけあってミルク風味の高級ショコラは美味かった。
 そういえば穂波もこのショコラがお気に入りだったっけ。あのカフェもショコラも、男の俺一人じゃ絶対入らないし注文だってしない。
 彼女が行きたいから行ってただけで……

 舌の上でとろけていく滑らかな感触と甘さに、またじわっと涙が滲んできた。
 スーツのポケットから小さい四角の指輪ケースを取り出す。中には駅ビルの若い子向けのジュエリーショップで買ったピンクゴールドと小さなダイヤの指輪が入っている。

 ……コンペは優勝間違いなしだと確信してたから、その勢いのままプロポーズ予定だったんだ。
 企画どころか、プロポーズ予定だった恋人まで奪われるとか、俺は……俺ってやつは……とんだ負け犬だ……

 プワプワァー!

 交差点のほうから車のクラクションが聞こえた。いるよな、意味もなくクラクション鳴らして粋がってるやつ。

 ビルの隙間から吹く風が俺の黒髪を乱した。
 今日のコンペのためにいつもの千円カットじゃなくて、前日にちょっといい美容室に行ってスタイリングしてもらった髪だった。


『明日彼女にプロポーズするんですよー』
『マジすか、オレ頑張ってイケてるカットにしちゃいますよ!』


 そんなスタイリストの若いお兄ちゃんとの会話がもう遠い。
 全部無駄だったわけだが。

 目の前には沈みゆく赤い夕陽。
 だが俺の目は死んだ魚のようにどんより濁って、美しい景色に感動する心も壊れていた。
 下を向けば次々通り過ぎる自動車の群れ。さすが銀座近くだけあって高級車ばかりが走っている。

 ――今このまま飛び降りたらきっとすぐ終われる。

「そうだ。もう俺なんて」

 死んでしまえばいいんだ、と指輪ケースを握りしめたまま歩道橋の手すりに手をかけたとき。

 スマホからお気に入りの英国アーティストの曲が流れた。ポンポンリズミカルに始まる着信音だ。この曲は家族用に設定していたやつ!
 画面を見ると『御米田 空(おこめだ くう)』、田舎のばあちゃんだ!

『ユキちゃん? 元気け?』

 柔らかな東北弁が聞こえてきた。



「ば、ばあちゃん、どうしたの? なんかあった?」

 指輪ケースを無造作にスーツの内ポケットに突っ込み、スマホの通話をオンにする。
 ばあちゃんは父方の祖母だ。

『あんなぁ、ユキちゃん。ばあちゃんな、村の高齢者、支援金……? ての貰ってな?』
「う、うん」
『使い道もあんまねえがら。ユキちゃんの顔もしばらく見でねえし。新幹線は高くてばあちゃんのお財布じゃ無理だけんど、ごぉるでんうぃーくに帰るバスさ買うてやるべ』

 え、っと。つまり、地元の自治体から高齢者給付金を貰ったから、俺に帰省の高速バスチケットを買ってくれるってことか?

「ばあちゃん! そういうのはさ、自分で美味いもんでも食うもんだべ!?」

 おっと、つい俺まで田舎の方言が出てしまった。

ええがら(いいから)。ユキちゃん、たまには(けえ)ってこい?』

 柔らかく暖かな声に、ついさっき彼女に振られてブロークンだった俺のハートがきゅっと鳴った。
 そうだ、思えばもう大学卒業したとき一度帰省したきりで、就職してからは一度も田舎に戻っていない。

『いつ帰ってくる?』
「ゴールデンウィーク中ならいつでも!」

 何せコンペも駄目、彼女との楽しいお出かけも予定は白紙になった。
 これはもう行くしかない。行こう、故郷の〝もなか村〟へ!