鬼神の100番目の後宮妃〜偽りの寵姫〜

 女官に連れられて、凛風がやってきた小部屋は、人気のない長い廊下をいくつも曲がった先にあった。
 窓を幕で覆われた中に下がる小さな灯籠。その灯りだけが頼りの薄暗い部屋には、甘ったるい香りが充満している。この香りには覚えがあった。
「おお、ずいぶん見られるようになったではないか」
 背後の扉が静かに閉まったと同時に、部屋の中央に座るでっぷりとした女性が口を開いた。
「皇太后さま、お連れしました」
 女官が彼女に告げるのを凛風は血の気が引く思いで聞いていた。いつの頃からそばにいた彼女が、皇太后と通じていたという事実に胸が騒ぐ。つまりはずっと監視されていたということか。
 彼女と過ごした日々、交わした言葉の数々を思い浮かべようと試みるが、動揺しすぎてなにも思い浮かばない。ただ冷たい汗が背中を伝うのみである。
 あまりの衝撃に立ってはいられず床に跪いた凛風のそばに皇太后がやってくる。
 静かな部屋に衣擦れの音がはっきりと響いた。
 彼女の持つ扇が凛風の顎に添えられる。ぐいっと上を向かせられると、蛇のような目が自分を見ていた。
「女子は男を知ると美しくなるというからのぅ。もはやあの男に可愛がってもらったか?」
「わ、私は……。まだ……」
 ガタガタと身体が震えだすのを感じながら凛風が答えると、彼女はふふふと嫌な笑みを浮かべた。
「そなたがまだ深い仲になっておらぬのは知っておる。じゃが、とりあえず気に入られておるのは確かなようじゃ、褒めてつかわす。ふふふ、それにしてもうまくいったのぅ。わらわの読みがあたったというわけじゃ」
 皇太后が凛風の隣の女官向かって満足げに言っている。言葉の意味がよくわからない凛風に、心底嬉しそうに種明かしをした。
「あの男は、哀れななりをした者に優しいじゃろう? 百の妃という惨めな位置もあの男の好みじゃ」
 意味深な言葉に、凛風の背中をぞくりと嫌な感覚が走りぬけた。
 隣に跪く、無表情な女官を見ると、はじめて彼女と言葉を交わした時のことが蘇る。
 百の妃に選ばれたこと。暁嵐と出会った露天の湯。
 まさか偶然だと思っていたあのはじまりから、すべて仕組まれたことだったのだろうか……?
「そなたは、わらわが課した役割を今のところ完璧にこなしておる。さすがは郭凱雲の娘じゃ」
 その言葉に、凛風は目を閉じる。
 胸が鋭利な刃物でえぐられたように痛んだ。そこから溢れ出た凛風の血が、凛風と暁嵐のふたりの間に起こった温かな思い出を、どす黒い赤に染めてゆく。
 はじめて目にした自分の名の字。
 はじめて目にした彼の笑顔。
 身体の傷を生きた証だと言ってくれた言葉も。
 互いを愛おしく想い合うこの心も。
 なにもかも、皇太后が描いた絵に過ぎなかったのだ。
「お主は優秀な刺客ぞ」
 皇太后の扇が凛風の頬を辿る感触に、凛風の心が絶望に染まっていく。
 知らなかったとはいえ、はじめて愛した唯一無二の男性を、陰謀に巻き込んでしまっていた自分の愚かさが憎かった。
「あの男が、気に入った妃に手を出せぬ腰抜けとは知らなかったが、もはや時間の問題なのであろう? 男はのう、寝所にて好きな女にしなだれかかられればいちころじゃ。つまりはもはやいつ使命を実行するのか、お前しだいというわけじゃ」
 そう言って皇太后は懐から、黒い布に包まれたなにかを出し、にっこりと微笑んだ。
「だがお前も不安じゃろう? なにしろ相手は鬼なのじゃから。皆でお前を助けてやる」
「皆で……?」
 暗殺は閨でひっそりと行われるのではなかったかと、凛風は首を傾げる。すると皇太后が手にしている黒い包みの布を解く。中から簪が出てきた。凛風が刺しているものと同じように先が尖り、紫色に変色している。
「これは……?」
「新たな簪じゃ。明後日、炎華祭が都の端の離宮にて執り行われる。皇帝の治める世が穏やかなことに感謝して国中の民が、感謝の品を皇帝に捧げるという毎年恒例の国家行事じゃ。皇帝は、離宮に妃をひとり連れていき、一夜を過ごすことになっている。今年は間違いなくそなたであろう」
 そこで皇太后は言葉を切り、鋭い視線で凛風を見る。
「その夜、必ず使命を実行せよ。わらわに組みする家臣たちが離宮に攻め入る手筈を整え、お前が手を下すのを待っている。やつを確実に仕留めるためじゃ。この簪で喉を突けば致命傷になるはずじゃが、念には念を入れてのことじゃ」
「そんな……」
 あまりにも恐ろしい話に絶句する凛風に、皇太后は楽しげに言葉を続ける。
「この簪にはやつを絶命させる術の他にもうひとつ術がかけてある。そなたがこの簪をやつの喉に突き立てて簪が血を吸えば、我が息子輝嵐がそれを感じるようになっておる。それを合図に家臣たちは離宮に攻め入る。そしてやつの(なき)(がら)をわらわのもとへ持ってくるのだ」
 血塗られた恐ろしい計画を口にしているというのに、彼女はまるで歌うようにうっとりと目を細めた。
 皇帝を暗殺し、()(ほん)を起こし家臣同士を戦わせれば、暁嵐だけでなく多くの者の血が流れるというのに。
 皇太后が、凛風が刺している簪を引き抜き、新たな簪を刺す。そしてなにかを思い出したように声をあげる。
「おお、そうじゃ」
 そしてまた、懐から紙を出し、凛風に見せるように広げた。
「お主の弟から預かっておった文じゃ」
 その言葉の通り、文のようだった。字を習いたての凛風にわかるのは、『凛風』の文字と『浩然』の文字。
「お主の弟は大変優秀だそうじゃ。科挙を受けるための予備試験を見事最年少で突破した。今は、本試験を受けるため都におる。わらわの実家で預かり、勉学に励んでおる。よい後継ぎがいて郭家の先は明るいな。そなたがきちんと役目を果たしたあかつきには弟の道は開けるじゃろう」
 つい先ほど見た、大空に飛び立っていった白い小鳥、自由に羽を羽ばたかせていた光景が、黒い墨でぐちゃぐちゃに塗りつぶされていくのを感じた。
 暁嵐に抱きしめられて夢を見た、もうひとつの道など自分にはなかったのだと思い知る。
 浩然が皇太后の手の内にいるならば、今この時にでも消すことができるのだ。炎華祭の次の日の夜明けを暁嵐が生きて迎えたら……。
 暁嵐と浩然、ふたりの大切な存在に身を引き裂かれるようだった。どちらかを選ぶなど、絶対にできないのに選ばなくてはならないのだ。
「よいな、弟の命はお前にかかっておるのだぞ」
 そう言い残し、皇太后は部屋を出ていった。
 残された凛風はしばらくそこで灯篭の灯りを見ていた。
「凛風妃さま、そろそろ戻りませんと。他の女官たちに不審に思われてしまいます」
 女官が少し苛立った様子で凛風を急かす。正体を知られた今、もはや凛風を妃扱いする必要はないということだろう。
 凛風は立ち上がり、女官に続いて部屋を出た。いつのまにか日は傾き、長い廊下の窓が橙色に染まっていた。
 その光が、絶望に染まる凛風の心を照らす。不意に凛風は先をゆく女官に向かって呼びかける。
「あなたはなぜ皇后さまに付き従っているの?」
 自らの願いのためならば、血を流してもかまわないと考える残酷な皇太后に。彼女にとっては女官もまた凛風と同じようにいつ切り捨ててもかまわない存在だ。
 女官が驚いたように足を止めて振り返る。
「皇后さまは、必要ならば忠誠を誓う者もためらわずに始末される方だわ。恐ろしくはない?」
「答える必要はありません」
 女官が感情のない声で答える。その表情は陽の光を背にしていて見えなかった。
「あなたさまは、ご自身の使命を果たすことのみをお考えください」
「私が使命を果たし後の輝嵐さまが治める世は、あなたにとっていい世なのかしら?」
 凛風からの問いかけに彼女は沈黙し、こちらに背を向ける。
「そのようなこと、考えたこともございません」
 そしてまた歩き出した。
 凛風も彼女について歩きながら、夕陽を見つめていた。
 自分を(だま)し、皇太后の策にはめたこの女官を憎む気持ちにはなれなかった。少し前の凛風も彼女と同じだったのだ。
 自分の果たす役割がいったいどのような結果をもたらすのか、考えることもしないで、凍りついた心のままただ流されるだけ。
 ――でも今は、もうそんなことはできなかった。
 暁嵐が凛風の心を動かしてくれたから。
 自分の頭で考える力をくれたから。
 己の心のままに生きられる世を作ると語ってくれたから。
 たとえ自分が見られなくとも、暁嵐が存在する限りその世が広がっていると凛風は信じたい。
 そのために、自分ができることはなんなのか。
 赤い夕陽を見つめて、凛風は考え続けた。

 その夜、凛風が暁嵐の寝所へ行くと珍しく彼はおらず、政務が長引いているから先に寝ているようにと、伝言があった。
 いつも彼と手習いをする椅子に座り、凛風は部屋を見回した。
 炎華祭が明日ということは、今夜が凛風にとってこの寝所で過ごす最後の夜だ。
 彼のための調度品は、凛風が手習いをするための机を除けば、椅子と大きな寝台のみ。皇帝の寝所にしては簡素なこの部屋は、彼の性格を表しているように思えた。
 机の上に並べられた文箱と紙に、凛風の胸は締め付けられる。ここで彼にたくさんのことを教わった。
 字だけでなく、自分の頭で自分の行く末を考えること。
 望むことを口に出すこと。
 そして誰かを愛することの喜び。
 実家にいた時の弱い自分はもうどこにもいなかった。ずっと止まっていた凛風の刻を彼は動かしてくれたのだ。
 自分の置かれている状況は変わっていない。むしろ悪くなっていると言えるだろう。
 彼を愛してしまったから、自分が突き進むしかない悲劇的な結末に、耐えがたい苦しみを感じてしまう。
 彼とともに生きたかったという思いに苛まれるのだ。
 それでも、以前の自分に戻りたいとは思わなかった。
 心を凍らせ自分の頭で考えることはせず、ただ言われたことに『否』と言わず従うだけ。そして重い罪を犯し一生を終える。
 そんなことのために自分は生まれたのではないと強く思う。暁嵐に凛風の存在を認めてもらった今、それだけは確信している。
 悲劇的な結末は、変えられないかもしれない。けれどそれでも流されるのではなく自分で決めたいと思う。
「寝ていなかったのか」
 声をかけられて、凛風は顔を上げる。物思いにふけているうちに、暁嵐が来ていたようだ。
「暁嵐さま。遅くまで政務、おつかれさまでございました」
「ああ、遅くなってすまない。炎華祭の支度で少しな」
 彼の口から出た炎華祭の言葉に、凛風の胸がどきりと鳴る。
「……国中の人たちが、暁嵐さまに感謝の品を捧げるためのお祭りだとか」
 思わず目を伏せてそう言うと、彼は頷いた。
「そうだ。まぁ、実際は捧げ物のためにやっているわけではない。各地の作物の出来具合を俺が直接見るためだ。作物の出来がよくない地域は、民の生活が脅かされる。各地の様子はその地を治める家臣たちの報告で把握しているが、そういうものは真実ではない場合もある」
「そうなんですか」
 やはり……と凛風は思う。
 彼はこの国に必要不可欠な存在だ。彼が作る世が、民にとっては必要だ。
 そして凛風自身もそれを強く望んでいる。
 どのような理由でも、彼を失うことなど絶対にあってはならない。
 たとえ凛風自身が彼の作る世を見られなくとも……。
「各地の伝統舞踊も披露されるから、お前も楽しめるだろう。華やかな場は苦手だろうが、明日は俺がそばにいる」
「私も連れていってくださるのですか?」
「離宮へは妃をひとり連れていくことになっている。お前以外誰がいる? 俺の妃は後にも先にもお前だけだ」
 そう言って彼は柔らかく微笑んだ。
 もうこの言葉だけでいいと、凛風は思う。この言葉が、自分が決めた道へのほんの少しの恐れを吹き飛ばしてくれた。
『俺の妃はお前だけ』
 その言葉を胸に、凛風は自分の頭で考えた正しいと思うことを実行する。
 唇をキュッと噛みうつむいたまま暁嵐の衣服をそっと掴む。
「暁嵐さま。その……少し灯りを落としてもらえますか?」
 頬が熱くなるのを感じながらそう言うと、暁嵐が訝しむように目を細めた。
 唐突に意外なことを言う凛風に、暁嵐の戸惑いが空気を通して伝わってくる。恥ずかしくて顔を上げることもできなかった。
 彼からの答えはない。
 けれどしばらくして灯りは落ち、部屋が薄暗くなった。
 どきんどきんと鼓動がうるさく鳴るのを聞きながら、凛風は髪に刺している雪絶華の簪をゆっくりと引き抜いて、そばにある台にコトリと置く。
 今宵だけは、この簪を外して彼と過ごすと決めたのだ。これだけ部屋が暗ければ、彼が紫色に染まる先端に気がつくことはないだろう。
 暁嵐が、台の上の簪を無言で見つめている。
 自分がこれからしようとしていることを考えると、とても平常心ではいられない。妃の方から皇帝に愛を求めるなど、してはいけないことなのかもしれない。それでも凛風が正しいと思う道を進むためには、どうしても必要なことなのだ。
 こくりと喉を鳴らして、凛風は暁嵐に歩み寄り、意を決して彼の胸に抱きついた。
「暁嵐さま……」
「……凛風?」
 突然の凛風の行動に、暁嵐が掠れた声を出した。恥ずかしくてたまらないけれど、どうしても今の私には必要なのだと、自分自身に言い聞かせる。
 彼の衣服に顔をうずめて、凛風はその言葉を口にした。
「私を……暁嵐さまの本当のお妃さまにしてください」
 これで想いが伝わるのか、彼が受け入れてくれるのか、凛風にはわからない。けれどこれが自分にできる精一杯だった。
 足りないところはあるだろうが、それでも凛風の望みは正確に伝わったようだ。彼の腕が凛風の身体を包み込み、低い声が甘く耳に囁いた。
「凛風」
 その声音に、誘われるままに顔を上げると、熱を帯びた瞳が凛風を見つめていた。
 こんな彼ははじめてだ。
 そう思った瞬間に、彼も自分と同じ気持ちなのだと確信して、凛風の胸は喜びに震えた。
「暁嵐さま、私の心は暁嵐さまだけを求めています。私……暁嵐さまのものになりたい」
 暁嵐の目尻が赤みを帯びる。その赤い光を綺麗だと思ったその刹那、熱く唇を奪われた。
 はじめから深く入り込む彼に、拙い動きで応えながら凛風はゆっくり目を閉じる。
 今夜だけはなにもかも忘れて彼の愛だけを感じていようと心に決める。
 この出会いが皇后によって仕組まれたことならば、今こうしていることも間違いだ。
 けれど今はこれでよかったと心から思う。
 彼と過ごした時間が、凛風に心を与えてくれた。自らの意思で前に進む力をくれたのだ。
「凛風、お前が愛おしい」
 暁嵐の唇が愛を囁き、傷だらけの肌を辿る。それだけで強くなれるような気がした。
 彼の吐息が、熱い想いが、凛風の心を刺激して身体が燃え上がるように熱くなっていく。
 ――覚えていよう、と凛風は思う。
 彼の唇の感触を。
 髪を優しくなでる大きな手の温もりを。
 彼がくれたたくさんの愛を。
 たとえこの身体が消えてしまっても、強く願えば想いは残ると思うから。
 もうすぐ迎える最期の時に、幸せな人生だったと胸を張って言えるから。
「暁嵐さま……暁嵐さま」
 目を閉じると、いつかの夜、彼が連れていくと約束してくれたあの花の町が広がっている。
 怖くはない。
 私はもう弱くないから。
 都が初夏の香りに包まれていたその夜に、凛風は愛する人の妃となり、たったひと夜の幸せを心と身体に刻み込んだ。
 胸に、ある決意を秘めながら。

 炎華祭が行われる離宮へは早朝に出発した。
 豪華な籠に乗せられて、凛風は都の端にある離宮までの道をゆく。沿道は集まった人たちでごった返していた。
 皇帝である暁嵐をひと目見ようと詰めかけた人々だ。
 凛風には政のことはわからない。
 それでも暁嵐が即位してからは、魑魅魍魎に人が喰われることはなくなった。皆暁嵐を見て口々に感謝の言葉を口にしている。
 御簾(みす)を下ろした籠の中で凛風はそれをじっと見つめていた。
 暁嵐の到着を待ち、離宮ではじまった炎華祭は、まずはじめに皇帝と皇后が鎮座する前で、各地から集められた特産品が捧げられた。民から皇帝への感謝の念が示されるのだ。
 それが終わると各地の伝統舞踊が披露される。ここからは、凛風も暁嵐から少し離れた席に座り参加する。
 家臣たちにも食べ物や飲み物が振る舞われ、賑やかな雰囲気になる。
 目の前で披露される国中から集まった者たちの舞いや、音楽、歌を聞きながら凛風は目を丸くしていた。祭など凛風にとってははじめてだし、そもそも歌や舞を近くで観ることもほとんどない。
 そしてつくづく自分は世間知らずだったのだと思い知る。どの演目も、出る人の身につけている衣装は見慣れないし、歌も舞も見たことがない雰囲気のものばかりだ。
 その中のひとつ、まさに今はじまったばかりの演目に、凛風は目を奪われていた。
 赤い衣装を身につけて、長い髪をひとつにまとめた女性が舞う様子は、まるで花の間をひらひらと飛ぶ蝶のようだ。
 この衣装はどこかで見たことがあるような……。
「凛風妃さま」
 控えの女官に声をかけられて、うっとりと観ていた凛風は、振り返った。
「はい」
「陛下よりご伝言を賜って参りました」
 そう言う彼女は皿に盛られた(だいだい)色の果実を手にしている。
 凛風は首を傾げた。
「ご伝言?」
「はい。今舞っているのが、以前凛風妃さまにお話しした、町の者たちにございますと……。こちらは、かの地の特産品にございます」
 凛風は驚いて、目の前で舞い踊る女性に視線を戻す。
 以前話をした町とは、暁嵐が連れていくと約束した花の町のことだろう。では彼女はあの書物に描かれていた町から来たのだ。そう言われれば書物の中で舞っていた女性と衣装がとてもよく似ている。
 きっと書物の中の女性もこのように舞っていたのだと思うと、凛風の胸は弾んだ。
「そうですか、この方たちが……」
 呟くと、凛風の胸は嬉しい気持ちでいっぱいになる。かの町へ暁嵐とともに行くことは叶わなかった。それでも舞を見ることはできたのだ。
「美しい舞と衣装ですね」
 目尻の涙を拭いながらそう言うと女官が微笑んだ。
「炎華祭にて、舞を舞うのは名誉なことにございます。すべての地域のものが披露できるわけではありませんから。毎年選抜された者だけが、この場に呼ばれるのです。今年は陛下たってのご希望で、かの地の者が舞を披露することになったとか……」
 では今、かの地の女性が凛風の目の前で舞っているのは、凛風のためというわけだ。
 暁嵐からの伝言の内容から女官もそれを察したのだろう。にこやかに笑って果物を差し出した。
「本当に陛下は、凛風妃さまを大切に思われているのですね。こちらはかの地の特産品にございます。どうぞ今お召し上がりくださいませ」
 女官の言葉に頬を染めて、凛風は果物に手を伸ばす。食べやすいよう小さく切られた橙色のかけらを口にして、目を見開いた。
「甘い!」
 女官がにっこりと微笑んだ。
「古来より、皇帝陛下からご寵姫さまへの贈り物として献上されてきた果物だそうですよ。その甘さは天にものぼる心地がするとか」
「はい、すごく……()()しいです!」
 今まで食べたどんな食べ物よりもまろやかな甘さで美味しかった。こんなに美味しい作物がこの世にあることが信じられないくらいだ。
「お気に召したなら、こちらのものはすべて凛風妃さまにお食べいただくようにと陛下がおっしゃっておられます。ささ、どうぞ」
 凛風はもうひとつ果物を口にする。そして女官の向こう、玉座に座る暁嵐がこちらを見ていることに気がついた。
 声こそ聞こえなくとも、凛風が果物を喜んでいるのはわかるのだろう。はしゃいでしまったのが恥ずかしくて、凛風が口を押さえると、彼はふっと笑って目を細める。そしてまた前を向いた。
 その精悍な横顔に凛風の胸はきゅんと跳ねた。
 皇帝としての揺るぎない強さを湛える堂々とした風格だ。昨夜寝所で一夜をともにした彼と同一人物だということが信じられないくらいだった。
 凛風の胸は愛おしい彼への想いでいっぱいになる。
 けれど、その向こう。
 皇太后の席に鎮座する皇太后がこちらを見ていることに気がついてどきりとした。口元を扇で隠し凛風を探るように見ている。今宵の計画を忘れていないだろうなと確認しているようだった。
 その視線に、凛風の背中が泡だった。身体中の傷痕がじくじくと(うず)きだす。課せられた使命に背くことに、身体が拒否を示しているのだ。呼吸が浅くなるのを感じて、凛風は慌てて目を閉じた。
 心を落ち着けて昨夜の出来事を思い出す。
 昨夜、暁嵐は凛風をこれ以上ないくらい大切に扱ってくれた。身体に残る無数の傷痕のひとつひとつに口づけて、愛の言葉をくれたのだ。
 ――大丈夫、私は私の決めたことを実行する。
 心の中で言い聞かせ目を開くと、傷痕の疼きは治まった。
 皇太后から目を逸らし、凛風は真っ直ぐに前を向く。晴れ渡った空のもと国中から集まった人たちが、暁嵐を崇め奉っている。
 きっと彼らが望むのは、愛する者との平穏な日々。暁嵐の治世が、穏やかであることを願っているのだろう。
 青い空を白い鳥が飛んでいくのを見つめながら、凛風は今宵自分が取るべき選択を心の中で確認した。

 離宮にある皇帝のための寝所は、大きな池の中央に浮かぶように建てられていた。水鳥が羽を休め眠る水面に、黄金色の月が映っている。ゆらゆらと輝く光を凛風は窓から眺めている。
 祭を終えて、寝支度を整えた今、暁嵐を待っている。
 皇太后がこの場所で謀反を起こすと決めた理由が、わかるような気がした。
 ここならば、寝所からの逃げ道はひとつしかない。寝所から陸へと続く橋には人気はないように見えるけれど、おそらくはすでに皇太后の息がかかった家臣たちに押さえられているのだろう。袋の(ねずみ)というわけだ。
 夜の空を見上げながら、凛風は今日一日のことを思い返していた。
 今日は、本当に幸せな一日だった。
 国中の伝統舞踊を目の前で見られたというだけでなく、正真正銘の暁嵐の妃として、彼と肩を並べたのだ。それが嬉しくて幸せだった。
 皇太后と通じている自分には本来ならそのような資格はない。けれど今夜を成功させれば、そうではなくなるのだ。そして必ずそうなるという自信が凛風にはある。
「疲れていないか」
 声をかけられて振り返ると、いつの間にか暁嵐が部屋へ入ってきていた。
「はい、暁嵐さま。今日は素晴らしいものを見せていただきありがとうございます」
 凛風が心から礼を言うと、暁嵐はこちらへやってきて凛風を抱き上げる。
「きゃっ!」
 凛風は声をあげ彼の衣服を握った。
 唐突に近くなった距離に鼓動が飛び跳ね戸惑う凛風に、暁嵐はふっと笑う。そして熱くなる凛風の頬に柔らかい口づけを落とした。
 それだけで、凛風は頭の中が茹で上がるような心地がする。濃くなった彼の香りと頬に感じる彼の吐息と唇の感触、寝所でふたりきりという状況に、どうしても昨夜のことを思い出してしまったからだ。
 思わず両手で顔を覆った。真っ赤になってしまっているのが恥ずかしくてたまらなかった。
「なんだこのくらいで。昨夜はもっと深く触れ合ったというのに」
 暁嵐は機嫌よく言って、部屋を横切り凛風を寝台へ下ろした。そして凛風の頬を大きな手で包み込む。
「今日の祭りを凛風が楽しんだのならよかったが、まだ身体がつらくはないかと俺は気が気じゃなかった」
「だ、大丈夫です……。美味しい果物も食べさせてもらいましたし」
 熱を帯びた彼の視線から逃れるように目を伏せて、少し話題を逸らす。
 昨夜は無我夢中だったから、普段の自分ならしないことをして、言えない言葉を口にできた。
 でも今は、彼の口から昨夜の出来事の片鱗が見えるのは耐え難いほど恥ずかしい。
「かの地の舞を見られたのが嬉しかったです。本物は想像をはるかに超えるものなのですね」
「ああ、次はかの地にてあの舞を見せてやる」
 力強く約束する暁嵐に、凛風の胸がギュッとなった。
 その日は……絶対に来ないのだ。
「……はい。楽しみです」
 お腹に力を入れて涙が出そうになるのをこらえた。
 そしてうつむき唇を噛む。いよいよ自分のするべきことを実行する時が来たと自分自身に言い聞かせる。意を決して顔を上げ彼を見た。
「暁嵐さま、お話ししたいことがあります」
 真剣な目で彼を見つめる凛風に暁嵐もまた笑みを消し、真っ直ぐな眼差しを返した。
「私、暁嵐さまに隠していることがあります。今宵はそれをお話ししたいと思います」
 突然はじまった凛風の告白を、暁嵐は驚く様子もなく静かな眼差しで受け止める。その視線に大丈夫だと確信する。
 彼はきっと、凛風の言うことを信じてくれる。
「私が、今ここにいるのは……」
 そこでいったん言葉を切る。緊張で息苦しさを感じたからだ。
 愛する人への裏切りを口にするのはつらかった。けれど、言わなくては。
「ここにいるのは、こ、皇后さまと父に命じられたからなのです……」
 とても彼の目を見ていられなくて、凛風は目を伏せる。あとは、何度も頭の中で繰り返し練習した通りに言葉を続ける。
「私は、皇太后さまと父から、ね、閨の場で暁嵐さまを殺めるよう使命を受けた、刺客なのです。後宮入りしたことも、湯殿で出会ったことも、すべて暁嵐さまを亡き者にするための計画だったのです……」
 凛風にとって大切な彼との出来事をこんな風に言葉にするのはつらかった。溢れる涙が頬を伝い膝の上で握った手に、ぽたりぽたりと落ちた。
「だ、だけど、だけど私は……!」
「凛風」
 温かい声に遮られて凛風が驚いて彼を見ると、暁嵐はいつもと変わらない優しい目で凛風を見つめている。そして驚くべきことを口にした。
「知っていた」
「…………え?」
「お前が刺客だということは、はじめからわかっていた」
「暁嵐さま……?」
 彼が口にした言葉の内容に、あまりに衝撃を受けすぎて、凛風の思考が停止する。
 刺客であることは誰にも知られていないはず。だからこそ凛風は暁嵐の寝所に上がることができたのだ。寵愛を受けることになったのだ。
 それなのに、彼がはじめから知っていた?
 答えられない凛風に、暁嵐がふっと笑う。そして種明かしをはじめる。
「俺は生まれた時から皇太后に命を狙われてきた。身の回りの変化には常に気を張っている。皇太后が絡んでいるかどうかは、だいたい勘でわかるんだ。湯殿で凛風と出会った時から、あやしいと踏んでお前のことはすぐに調べた。そして後宮入りするには不自然すぎる生い立ちを知った」
「出会った時から……」
 唖然としながら凛風は呟く。では彼は、凛風自身が仕組まれた出会いだったと知る前から気がついていたというわけか。
 信じられないと思うけれど、彼が鬼であるということ、これまでの皇太后との経緯から考えると納得だ。
「ああ、だいたいの予測はついていた。お前自身が皇太后の差し金だと気が付かぬまま、俺と会っていることもな」
 そう言って彼はくっくと笑う。
 それに凛風はますます唖然として、呆れてしまうくらいだった。
 そこまでわかっていたのならどうして彼は今まで黙っていたのだろう?
 皇太后の策略に乗るような危険な真似をしているのだろう?
「暁嵐さま、ならどうして……?」
 まったく彼の考えがわからなかった。
 己の心のままに生きられる世を作りたいと語った彼にとって、皇太后は最大の障害だ。凛風が刺客だと見抜いていたならば、捕らえて皇太后を糾弾すればよかったのだ。
 それがこの国ためになるというのに。
「どうして私を捕らえなかったのですか?」
 問いかけると、彼は一瞬沈黙する。凛風を見つめる目を細め、温かい声で答えた。
「お前を愛しいと思うようになったからだ」
「暁嵐さま……?」
「お前を失いたくないと思ったのだ。なんとしてもこの手で救いたかった。だから俺は皇太后の策略に乗せられたふりをしてお前が俺に心を預けてくれるのを、真実を話してくれるのを待っていた」
 彼の言葉に、凛風の目に再び涙が浮かび頬を伝う。
 こんなにも深い愛に包まれていたのだという、幸せな想いで胸がいっぱいになった。
「凛風、俺はこの日を待っていた」
 力強く抱きしめられて彼の胸に顔を埋める。喜びの涙は後から後から流れ出た。
 言葉にできないほどの過酷な生い立ちも、刺客として過ごしたつらい日々も、なにもかもが吹き飛び、この世で一番幸福な一生を送ったのだと思うくらいだ。
 ――本当にもう十分だ。これ以上望むものはない。
 凛風はそっと彼から身を離し、もうひとつ言わなくてはならないことを口にする。
「暁嵐さま、今宵この離宮は、皇太后さまに組みする者たちが取り囲んでおります。暁嵐さまに謀反を起こすために」
 暁嵐が頷いて、話の続きを促した。
「私が皇太后さまに合図すれば、皆この寝所を目がけて乗り込んで来る手筈になっております。その際は、皇后さまへの忠誠の証として、それぞれの家紋が描かれた旗を高く掲げているでしょう。彼らを一網打尽にすれば、宮廷に平穏をもたらすことができます」
 暁嵐が凛風の肩を掴み、大きく息を吐く。
「わかった。話してくれてありがとう。後は俺に任せろ」
 力強い言葉に、凛風は心底安堵する。
今宵は彼が皇太后一派を一掃できる絶好の機会。だが刺客だと明かしてもなお彼が凛風の話を信じてくれるかどうかだけが心配だったのだ。
 この国が、己の心のままに生きられる世になると確信する。
 ――私は見られないけれど。
「凛風、皇太后への合図というのは?」
 暁嵐からの問いかけに、凛風はこくりと喉を鳴らす。いよいよ、この時が来た。
 自分を見つめる暁嵐の目を見つめ返すと、彼と自分の間に起こったことが頭の中を駆け巡る。幸せだったと確信して、凛風は口を開いた。
「――合図は、これです」
 言うと同時に、素早く頭の簪を引き抜いて、握り直し一気に自分の喉を突く。鋭い衝撃を身体全体で受け止める。
「凛風!!」
 驚愕の表情で暁嵐が叫んだ。
「この……簪が血を吸うと輝嵐さまが感じ取るよう術がかけてあります。……それを合図に……」
 痛みは感じないけれど、簪が刺さった箇所が燃えるように熱くて、うまく声が出なかった。
 身体の力が抜けて寝台に手をつくと、暁嵐の腕に抱かれる。
「どうしてこんなことを!!」
 暁嵐の怒号が寝所に響く。こんなに怒りを露わにする彼ははじめてだ。彼の腕に身を預ける凛風の目尻から涙がつっと伝う。
「弟を……人質に取られています。今は皇太后さまのすぐそばに……。今宵私が失敗すれば、即座に処分されてしまう」
 凛風は、暁嵐を選んだのだ。
 この国のため民のためと言いながら、ただ愛する人に刃を向けられなかっただけなのかもしれない。
 いずれにしても。
「ひとりで()かせるわけには……いきません……。たい、せつな弟なのです。私の生きがいだった……」
「凛風……」
 痛ましげに眉を寄せる暁嵐の服を、もうあまり力の入らない震える手で掴む。
「暁嵐さまは、私に……心をくださいました。私に、考える力をくださいました……。お、己の心のままに……生きら……」
 苦しくてゴホッと()せると、大量の血が口から溢れた。
「凛風! しゃべるな。今俺が……!」
 凛風は被りを振って言葉を続ける。
「己の心のままに、生き……られる世を作って……もう、私みたいな者を出さぬ世を」
 必死の形相で覗き込む暁嵐が(かす)んでいく。もう自分の声が出ているのかすらわからなかった。相変わらず痛みもなにも感じない。ただ暁嵐の声だけははっきりと聞こえた。
「凛風、わかった。約束する、約束するから、頼むからもう……」
 その言葉に心底安堵して、凛風の体から力が抜ける。同時に世界は真っ黒な闇に閉ざされた。

「凛風!!」
 呼びかけに、反応しなくなった凛風を暁嵐は抱きしめる。
 真っ青な肌と真っ赤に染まる血に、身体の奥底から激しい怒りが込み上げる。身体中の血が煮えたぎる。
 彼女を追い詰めたものすべてが憎くてたまらなかった。
 このまま世界の刻を止め、永久にこうしていようか。そんな考えが頭に浮かぶ。
 自分と彼女以外がどうなろうとかまわない。
 だがどこかからか聞こえる怒号のようなものに、暁嵐は目を開く。きな臭いにおいが漂っているのは、火が放たれたのかもしれない。
 その前に、凛風を追い詰めた者たちに、その報いを受けさせてやる。
 暁嵐は凛風を寝台に寝かせ、彼女にだけ刻を止める特殊な術をかける。血に染まる唇に口づけ、立ち上がった。
 部屋を横切り、寝所の扉を蹴り破ると、池にかかる橋で家臣が従者と争っていた。
 暁嵐の姿を見て、家臣は驚愕の表情を浮かべた。
 てっきり暁嵐は喉を刺されて虫の息だと思っていたのだろう。いの一番に乗り込んで手柄を立ててやろうとしたところ、扉を蹴破り出てきたことに驚いているのだ。
「へ、陛下……?」
 目を見開き言葉を失っている。今宵暁嵐に刃を向ける皇太后側の家臣として、彼がここにいることは予想通り。
 彼は前帝が病に倒れた頃から皇太后の愛人になったと噂されていた男で、それによって今の地位を得た。皇太后の助けがなければ、要職につけなかった男だ。
「ああ、な、なぜ……」
 泡を吹いて問いかける彼に、無表情で手のひらを向ける。
「へ、陛下……おおお許しを……」
 この期に及んで懇願する彼を、心底愚かだと思いながら火を放った。
 燃え上がる男の断末魔を聞きながら、暁嵐は離宮を足早に闊歩して、旗を掲げている家臣たちを次々と撃破する。
 数はそれほど多くなく、当初の予想と外れている者はいない。彼らの懇願を無視して炎を放つたびに、後悔の念に駆られた。
 国の安定も、皇帝としての正しい在り方もすべて無視してはじめからこうしていればよかったのだ。人の分際で自身に歯向かうこと自体が間違っているのだから。もっと早くこうしていれば凛風は傷つかずに済んだ。
「あ、兄上……な、なぜ!?」
 声が聞こえて暁嵐は足を止める。振り返ると愚弟、輝嵐がいた。
 臆病者で甘やかされて育った彼は、いつもは母の後ろに隠れ、言う通りにしているだけ。このような場にはめったに姿を見せないが、さすがに次期皇帝となるためには、ここにいる必要があったということだろう。
 彼の後ろにはこの計画の黒幕である皇太后が、輝嵐と同様に驚愕して暁嵐を見ていた。
「お主……」
 暁嵐の姿を見て、状況を察したようだ。悔しげに吐き捨てた。
「くそ、あの女! 失敗したな! やはり、あんな小娘に任せるのではなかった。あの娘……」
「義母上、あなたの負けだ。俺はこの長い争いに幕を下ろす」
 そう言って手のひらを向けると、彼女は「ひっ!」と声をあげて、息子の陰に隠れようとする。が、それを輝嵐が拒否した。お互いがお互いの身体に隠れようとして揉み合いになっている。
「ど、どういうことですか!? は、は、母上が、ぜ、絶対に大丈夫だと言うから来たのに……!」
「うるさい!! なんとかせい! お前も鬼じゃろう!」
「そんなこと、い、言ったって……!」
 醜く争う親子を暁嵐は心底軽蔑する。弟と血が繋がりがあるということすら、(むし)()が走る思いがする。一刻も早くこの存在を消し去りたい。
 ふたりに向かって一際大きな火を放つと同時に背を向けた。
 そしてまた結界を張った寝所へ戻る。
 寝台の上で目を閉じる凛風をそっと抱き上げ、外に出て夜の空に飛び上がり、星空を背に燃え上がる離宮を見下ろした。
 建物が崩れ落ちる音に、あちらこちらからあがる怒号と悲鳴。赤い目でそれらを見ながら、暁嵐は自らの心がどす黒い怒りの感情に塗りつぶされていくのを感じていた。
 欲深き愚かな人間どもめ。
 魑魅魍魎から守られねば生きられぬくせに、権力に寄ってたかり、暁嵐の愛するものを傷つけた。
 卑しくて忌々しい存在だ。
 目を閉じると、国の全土が見渡せる。結界の先には魑魅魍魎が、人を喰いたいと涎を垂らして待っている。
 暁嵐は目を開き腕の中の凛風の頬に口づける。荒ぶる心のまま凛風に問いかける。
 凛風、お前はどうしたい?
 お前を苦しめた愚かな者どもにどのように報いを受けさせよう?
 結界を外し、魑魅魍魎に喰われて、じわりじわりと死滅してゆくのをここでともに眺めようか。
 それとも、俺自身の手で国土のすべてを焼き尽くすか。
 身体を駆け巡り行き場を探す怒りの感情が、より残酷な方法を求めている。この世をどのような方法で破滅させれば、この怒りは収まるのか、自分にもわからない。
 その時。
 ――暁嵐さま。
 柔らかな凛風の声を聞いた気がして、暁嵐は腕の中に視線を落とす。彼女はぴくりとも動かないけれど。
 ――暁嵐さま。己の心のままに生きられる世を作ってくださいませ。
 その声は、怒りに支配され荒ぶる暁嵐の心に、すっと届く。
 暗闇の中に差し込むひと筋の光のように。
 ――私のような者をもう出さぬように。
 彼女の声が。
 彼女の言葉が。
 汚れなき想いが。
 暁嵐の目のどす黒い曇りを晴らしていく。
 そうだ、彼女は復讐など望んでいない。
 愛する彼女が望むのは、復讐でも破壊でもなく、己の心のままに生きられる世。
 腕の中の清らかな存在に口づけると、心が晴れてゆく。
 彼女との約束を思い出す。
 そして燃え上がる離宮に向けて、暁嵐はさっと手を振り下ろした。

「郭凱雲、こちらへ」
 役人が指示を出すと、大獄殿の玉座に座る暁嵐の前に鎖に繋がれた凱雲が引き立てられる。土気色の肌に正気を失った目で暁嵐を見た。膝をつき恐怖に震えている。
「へ、陛下……私は決して陛下を裏切るようなことは……」
 命乞いをする彼を隣の役人が小突いた。
「こら、陛下の御前で勝手にしゃべるな」
 そのくらいのこと、仮にも貴族である彼が知らないわけない。もはや正気を失いかけているのだろう。
 離宮での謀反から五日が経った。
あの日、離宮からあがる炎を消し止めた暁嵐は、すぐに皇后側の兵を制圧し怪我人の救出を行った。その場が落ち着いたのを見届けてから、凛風を連れて宮廷に戻ったのだ。
 今彼女は、清和殿にて複数の医師による手厚い治療を受けているが、生死の境を彷徨っている。
 暁嵐は家臣たちを集めて、謀反の夜に起こったことを明らかにし、彼女を自分の皇后にすると宣言した。彼女の命がどうなるかわからない今だからこそそうしたかったのだ。
 皇帝からの強い意向に、誰ひとり反対する者はなく、速やかに国中に発表された。
 本心では、片時も離れず彼女の容態を見守りたい。だが、皇帝としてはそうはいかなかった。
 皇太后が謀反を起こすという国はじまって以来の大事件に、民が不安がっている。片付けなくてはならないことは山ほどあった。そのひとつが、罪人の処分だ。
 謀反に参加した皇太后に組みする主だった家臣たち、皇后と異母弟はすでに自ら処分した。残るは凛風に過酷な使命を命じた張本人、郭凱雲だ。
 彼は謀反には直接参加せず、領地の自分の邸にいた。暁嵐は離宮の炎を消し止めた後すぐに急ぎ軍を向かわせ捕えたのだ。
 事前の取り調べに彼は身に覚えのないことと否定したという。娘、凛風が勝手にやったことだと。
 皇后亡き後、凱雲と皇太后の繋がりを証言する者はたくさんいたが、彼が凛風に皇帝暗殺を命じたところを見た者はいない。今のところ凛風の証言のみである。
 自白がなくとも処分を下すことは容易だが、公平を期すため暁嵐自ら取り調べることにした。
「郭凱雲、娘の凛風に私の暗殺を命じたという話は本当か?」
 単刀直入に問いただすと、凱雲は唾を飛ばして否定した。
「み、身に覚えのないことにございますっ!」
 想定通りの答えに、暁嵐は役人に指示を出す。役人に腕を掴まれた女が入室した。郭凱雲の妻であり凛風の継母だ。
 彼女を見る凱雲の目が見開かれ不安の色に染まった。
「正直に申せ」
 継母の隣の役人が促すと、彼女は早口で話しはじめる。
「夫が娘に陛下の暗殺を命じました。私はこの目で見ました! お、恐れ多く許されぬことと私は反対しましたが、逆らうことはできず……。ふたりいる娘のうち凛風をと決めたのも夫にございます。私は凛風が可哀想で可哀想で……」
 夫の命より自身の保身に走っているのだろう、わざとらしく涙を浮かべて聞いてもいないことまで並べたてる。
「お前……! よくもそんな嘘を! 凛風の後宮入りはお前も賛成していたはずだ」
 凱雲が真っ青になって妻を責めた。
「まさかそのようなことあり得ませんわ。あなたが怖くて言い出せなかっただけです」
 反吐(へど)が出ると暁嵐は思う。彼女が凛風を率先して痛めつけていたというのは、秀宇からの報告で暁嵐はすでに知っている。だがとにかく彼女の証言により凱雲の罪を明らかにすることができた。
「へ、陛下……! この女の話は嘘でございます。こ、こんな女の言うことをまさか本気になさりませぬよう、どうか……」
「残念だが郭凱雲、彼女の証言は凛風と、もうひとりの娘美莉の話とも一致する」
 暁嵐は、彼の言葉を遮りこの茶番を終わらせることにする。
「郭凱雲、皇帝暗殺未遂罪により死罪を言い渡す」
 冷たい声で結論を出すと、彼は泡を吹いてもはや卒倒しそうになる。
「へ、陛下お許しを……!」
 命乞いをする凱雲を無視して暁嵐は役人に目線で指示を出した。
「陛下、陛下! 私は本当にそのようなつもりはありませんでした! どうか、お許しを」
役人たちに引きずられるようにして凱雲が連れて行かれる。
暁嵐は継母の方に視線を移した。
「郭家は、貴族の身分を剥奪する。高揚へは別の者を派遣する。すぐに邸を出るよう」
 本音では彼女にも異母妹にも、凛風を痛めつけた報いを受けさせたい。だがこの状態で夫と同じ皇帝暗殺未遂の罪に問うのは無理だった。彼女が口にした通り、一家の長が下した結論に妻子は逆らえない。
「まさか、私が平民になるというのですか!?」
 継母が声をあげる。
「こら、黙れ! 陛下に口答えするな」
 隣の役人が目を剥いて制止するが、彼女はそれを無視した。
「なれど、皇后さまの母にあたる私を平民になど……なにかの間違いでは? 私は凛風に再会できる日を楽しみにしておりますのに」
 暁嵐の頬が不快感で歪んだ。罪を逃れるだけでなく、散々虐げていた凛風をまだ利用するつもりだったとは。
「凛風はそれを望まぬだろう。お前と郭美莉は、二度と高揚から出ぬように」
「こ、高揚から出られない?」
「ああ、そうだ。万が一にでも凛風と顔を合わせぬように」
 冷たい声で言い渡すと、なにが気に食わないのか、継母が口をヒクヒクさせた。
「陛下、お言葉ですが本来は、凛風は後宮入りする娘ではありませんでした」
 皇帝に向かって言い返す継母に、役人が真っ青になって止めようとするが、彼女の口は止まらない。
「そうでしょう、あのような醜い傷痕がある娘が後宮入りするなどあり得ないことにございます。本来なら私の娘美莉が陛下のおそばにいるべきだったのですわ。それを……あの娘……醜い身体のくせに」
 最後はひとり言のようにぶつぶつと言っている。
 凛風に傷をつけた張本人からのかさらなる侮辱の言葉に、暁嵐の胸に怒りの炎が灯る。凱雲を始末して下ろした手を握りしめた。
「本当に、母親そっくりだ。いつも私の邪魔ばかりする」
 貴族の身分を召し上げられた衝撃からか、継母は我を失い凛風を罵り続ける。
 なるほど、彼女は凛風自身ではなく凱雲の前妻に相当恨みがあるようだ。それをそのまま凛風に向けている。だから執拗に彼女を虐げたのだ。
 暴言を繰り返す女を役人が再び止めようとする。それを暁嵐は目線で制した。凛風に対する言葉にははらわたが煮え繰り返る思いがする。
だが、ある意味好都合でもある。
「ろくに教育を受けていない、あのような娘が陛下のお側に侍るなど、陛下の威信に関わりますわ。今からでも、美莉と交代させては……」
「そこまでだ」
 暁嵐は鋭く彼女の言葉を遮った。熱に浮かされたように凛風を侮辱していた継母は、ハッとして口を閉じる。だがもう時すでに遅しだ。
「お前にとっては価値のない娘かもしれないが、凛風は私の唯一無二の妃なのだ。これはこの宮廷で知らぬ者はいないことなのだが、私は彼女を侮辱されるのがなにより嫌いだ。二度とそのような口をきけぬようにしてやりたくなるほどに」
 そう言ってゆっくりと立ち上がる。赤い目で睨むと目の前の愚かな女はガタガタと震えだした。
「それにお前は、わかっているようで理解してはおらぬようだ。凛風が皇后の身分になったということを」
「は? ……え?」
「まさか知らないわけではないだろう? 皇族に対する侮辱罪の最高刑を」
 言いながら手の平を彼女に向けた。
 馬鹿な女だと心底思う。自らの行いを反省し、慎ましくいられれば命は助かったというのに。もはやひと欠片(かけら)の同情の余地もない。
「あ……お待ちください。陛下……」
 なにかを言いかける彼女に向けて暁嵐は火を放つ。断末魔が大極殿に響きわたった。
 午後の日差しが差し込む、開け放った窓枠にひと握りの米をパラパラと撒く。しばらくするとピイピイと鳴き声が聞こえて、白い小鳥が降り立った。
 そのまま小鳥は嬉しそうに鳴きながら一生懸命、米をついばむ。その様子を、窓辺に置かれた寝台から凛風は微笑んで見ていた。
 しばらくすると小鳥は凛風の寝台にチョンチョンと飛び跳ねながらやってきて肩に乗る。礼をするように凛風の頬をくちばしで突いた。
 くすぐったい感覚に、思わずくすくす笑うと、喉が引きつれるような感覚がしてそっとそこを手で押さえる。でももう痛みはなかった。
凛風がホッと息を吐いていると。
「凛風妃さま、陛下の御成にございます」
 部屋の扉が少し開いて、女官から声をかけられる。
 小鳥が、ピピッと鳴いてバサバサと窓の外に飛び立っていった。
 しばらくすると、黒い外衣を纏った暁嵐が現れた。
「凛風!」
 正装姿ということは、政務を抜けてきたのだろう。足早にこちらへやってきて寝台に腰を下ろし凛風を腕に抱いた。
「具合はどうだ? 大事ないか?」
 心配そうに確認する。凛風がにっこり笑って頷くと、安堵したように笑みを浮かべて、凛風の頬に口づけた。
 皇太后が謀反を起こし、都の端の離宮が炎上してから三月が経った。
 あの夜、自ら喉を刺し意識を失った凛風はそれからひと月の間生死の境を彷徨った。
 後から聞いたところによると、凛風が意識を失った後すぐに暁嵐が刻を止める術をかけてくれたという。皇太后たちを一掃し、城へ戻った暁嵐により宮廷医師に預けられ、手厚い治療を受けた。それがなければ、多量の血を失っていた凛風は、ひと晩持たなかっただろう。
 命の心配がなくなってからも、回復には時間を要した。なにせ喉を大きく損傷しているのだ。食べるのも飲むのもままならない。ようやくそれらができるようになり、寝台の中でなら、日中も起きていられるようになったところだ。
 凛風の意識が戻った時には謀反に関する罪人の処分はすべて終わった後だった。暁嵐から聞かされた父と継母の最期と、両親を失った美莉が行方知れずだという話に、これで本当に終わったのだという安堵のような、言葉にしがたい複雑な思いを抱いた。
 兎にも角にも前だけを向いて生きていこうと心に決める。
「なにかあればすぐに呼べ。俺はいつでも来るから」
 暁嵐はそう言って凛風を抱く腕に力を込めた。
 話によると、凛風が昏睡状態だった時は、暁嵐は最低限の政務以外はずっとそばにいてくれたようだ。夢と現を行ったり来たりしていた頃、彼の声を聞いたような気がしたのは、そのおかげだったのかもしれない。
 凛風の意識が戻ってからも、彼は可能な限りそばにいる。それは凛風のためというよりは、彼自身のためのようであった。
 凛風の枕元に座る鎮痛な面持ちは、はじめて見る彼だった。
 今もこうやって一日に何度も政務を抜けて凛風の部屋へやってくる。凛風が生きているのを確認するかのように。
「喉の傷はどうだ? まだ痛むか?」
 この質問も毎日のことだった。
 凛風は首を横に振る。もう傷は痛まないという意味だ。さっきは笑った際も引きつれるような感覚はあったものの痛みは感じなかった。
 喉の傷がひどかった凛風は、医師に傷が完全に治るまでは声を出すのを禁じられている。だから周りとの意思疎通はこうやって首を動かしてする。
 暁嵐は凛風の喉をじっと見る。凛風の言うことが本当か無理をしていないかと確認しているのだ。
 本当なら彼はここでこんなことをしている場合ではない。
 なんと言っても彼はこの国の皇帝なのだ。
 謀反と離宮が炎上したことによって不安定になっている政を立て直し、民を安心させなくてはならないのだから。
 だからいつも凛風は昼間に彼が来ると嬉しいと同時に少し申し訳ない気持ちになる。
 でも今は……。
 自分を見つめる暁嵐に凛風はふふふと笑みを漏らす。今日は彼の訪れを心待ちにしていたのだ。ちょうど報告したいことがあったから……。
「どうした? なにか嬉しいことでもあったのか?」
 暁嵐もつられるように笑みを浮かべ問いかける。
 それに凛風が頷くと、眉を上げて首を傾げた。
「どうした?」
 凛風は彼を見つめたまま、口を開いた。
「暁嵐さ、ま」
 いきなり声を出して彼の名を口にした凛風に、暁嵐が目を見開いた。
 実は今朝の診察で、もう声を出してよいと言われたのだ。だから、凛風は彼が来るのを待っていた。どうしても第一声は彼の名を呼びたかったから。
「……声を出して大丈夫なのか?」
 事情を知らない暁嵐は心配そうに眉を寄せる。凛風は安心させるよう、ゆっくりと説明をする。
「はい、もう声を出していいとさっき医師さまに言われました。だから暁嵐さまをお待ちしていたんです。私、一番はじめは暁嵐さまのお名前を呼びたかったから……やっぱりちょっと掠れてしまいまっ……!」
「凛風!!」
 暁嵐が凛風を抱く腕に強く力を込めて、凛風の肩に顔をうずめた。
「よかった……!」
 そのまま凛風の髪に口づける。それ以上は言葉にならないようだった。凛風も彼の背中に腕を回して精一杯力を込めた。
「暁嵐さま」
 こんなに喜んでくれる彼が愛おしくてたまらなかった。
「まだ無理はできないから、たくさんおしゃべりしては、いけないみたいですけど」
 暁嵐が身を離し、凛風を額に自らの額をくっつける、
「ああ、まだ無理はするな。だけどひと言だけでも声が聞けたのが嬉しい。お前の声はどんなにいい声で鳴く鳥より美しいからな」
 大袈裟に言って心底嬉しそうに笑った。
 その笑顔に凛風が胸をドキドキさせていると。
「だが、そういうことならちょうどよかった。お前に会わせたい人物がいる」
 意外なことを言って立ち上がった。
 この部屋に女官と医師、暁嵐以外の人物が来るのははじめてだ。不思議に思う凛風をよそに彼は控えの間に向かって声をかける。
「入ってよいぞ」
 すると扉が遠慮がちに開いて意外な人物が現れた。
「浩然!」
 無理をするなと言われていたにも関わらず、凛風は声をあげてしまう。
「姉さま!」
 浩然も大きな声で凛風を呼び、凛風のもとへ走り寄りふたり固く抱き合った。
「浩然……! 元気そう。よかった」
 それ以上は涙でなにも言えなくなってしまう。
 浩然の方も同じだった。
 離宮が炎上したまさにあの日、浩然は暁嵐の側近である秀宇によって、皇太后の邸から助け出され、身柄を確保されていた。秀宇は、暁嵐から内密に皇后と凛風の繋がりについて調べるようにと、言われていたからである。
 郭家の者ではあるものの、浩然は、計画をまったく知らなかったという凛風の証言により、罪は逃れ、貴族の身分を剥奪されるだけで済んだ。
屋敷を出ることになったわけだが、彼はむしろ喜んだのだという。以前より科挙に受かり自分で自分の身を立てたいと願っていたからだ。その優秀さを見込まれ、秀宇の実家で本試験に向けて勉学に励んでいる。
 以上のことを凛風はすでに聞かされていた。もちろん会いたいとは思っていたが、おいそれと願うわけにはいかない。
 罪を逃れたとはいえ、ふたりとも世紀の大事件に絡む大罪人をふたりも出した家の出身なのだから。
 元気であればそれでいい、そう思ってはいたけれど。
「浩然……元気そうでよかった」
「姉さまこそ、命が危ないと気かされていた日々は毎日心配でなにも手につかなかったよ。唯一もらったあの手紙が形見になったらどうしようかと……」
 涙を流し、ふたり無事を喜び合った。
 少し離れたところにて、ふたりを見守る暁嵐が口を開いた。
「浩然は、科挙に受かれば正式に秀宇の弟子として召し抱えることになった」
 その言葉に凛風は目を輝かせた。
「秀宇さまの弟子に……? 暁嵐さま本当ですか?」
「ああ、秀宇たっての希望だ。非常に優秀だから俺の側近として育てたいと」
 それについては浩然自身も聞かされているのだろう。希望に満ちた表情で凛風を見ていいる。
「陛下は窮地にいた姉さまを救ってくださった命の恩人です。僕は陛下にこの身を捧げると決めたのです。そのためにまずは、科挙に受かり役人の資格を得ます」
「そう、試験頑張ってね」
 凛風は目尻の涙を拭いた。
「そうなればここへも出入りしやすくなる」
 暁嵐が付け加えた。
 暁嵐は事件後すぐに、後宮を廃止すると宣言した。
 反対する者たちに、少なくとも自分には必要ない残りたい者は残ればいいが、絶対にどの妃も寵愛しないと言い切ったのだという。
 今回の謀反で、暁嵐の凛風への愛の深さ、凛風の暁嵐に対する功績を目のあたりにしていた妃たちは、ひとり残らず後宮を去った。
 だから凛風は今、凛風も一緒にいられるよう改築を施した清和殿にて暁嵐とともに寝起きしているのだ。
 浩然が秀宇の弟子になり、これからも近くで成長を見られるならこんなに嬉しいことはない。
「浩然、秀宇さまのことをよくきくのよ。それからくれぐれも……」
「わかってるって、姉さん」
 凛風の言葉を遮り浩然は立ち上がった。
「僕、昼間は秀宇さまの仕事をお手伝いしてるんだ。そして夜は勉学。しっかりやってるからもう子供扱いしないでよ」
 生意気に言ってニカッと笑った。
「じゃあ、僕、これから仕事があるから。またね。陛下ありがとうございました」
 暁嵐に挨拶をして、部屋を出ていった。
「暁嵐さま、ありがとうございます」
 再び寝台へやってきて、凛風を腕に抱く暁嵐に、凛風は感謝の言葉を口にする。
 彼ははじめから刺客だとわかっていた凛風を愛し、生きる希望と自分で考える力をくれた。のみならず、弟の浩然の将来への道筋も開いてくれたのだ。
 感謝してもしきれないくらいだ。
「いやこれは本人の力だ。お前が命をかけるほど大切にしていた弟は、どうやら相当優秀みたいだからな」
 とそこで、暁嵐は凛風が浩然を思い喉を突いたことを思い出したようだ。眉を寄せて凛風を見る。
「だがなにがあっても、もう命を投げ出すことはせぬように」
 少し厳しい声音で釘を刺した。
「はい」
 ずっと凛風に付き添っていた暁嵐の苦しげな姿を思い出し、凛風は素直に頷いた。
「傷が残ってしまったな」
 暁嵐が、喉の傷にそっと触れる。
「たいしたことはありません。私もともと傷だらけですから」
 ひとつやふたつ傷が増えたとしてもたいして変わらない。そう言おうとした凛風の唇は……。
「少しくらい……ん」
 暁嵐の唇によって塞がれる。唐突に与えられた甘くて深い口づけに、凛風がぼんやりしだした頃、ようやくそっと解放される。
 すぐ近くから凛風を見つめたまま、暁嵐が低い声で囁いた。
「そのように言うのは、たとえお前自身でも許さないと言ったはずだ。傷があってもお前はすべてが美しい。だがこれ以上増やすことは許さない」
「暁嵐さま」
「この後、お前を傷つけた者は俺が厳しく罰する。それはお前自身もだ。わかったな」
 自分になど価値はないと思っていた頃が嘘みたいだった。今はそうするべきだと素直に思う。
 なにより自分を愛しみ大切に想ってくれる彼のために。
「はい、暁嵐さま」
 大好きな彼の優しい目を見つめてそう言うと、額に優しく口づけが降ってきた。

 晴れ渡った空の下、草原の中を黒い馬が駆け抜ける。
 凛風はその馬に乗り風になったように感じていた。黒い髪を風になびかせて、目を輝かせて。
 目の前に広がるのは、どこまでも続く緑色の大地。その向こうには海が広がっているのだという。凛風の胸は高鳴った。
 早く見たい、あそこへ行こうと、黒翔に合図を送ろうとした時。
「凛風!」
 自分を呼ぶ声に振り返る。黒翔に止まるよう合図を送り振り返ると、白い馬に(またが)った暁嵐が追いついてきた。彼の後ろ遥か向こうに、彼と自分の従者たちの一団がいる。
 もうすぐ海が見えると耳にしてたまらずに駆け出しているうちに、いつのまにかずいぶん離れてしまったようだ。
 手綱を引き、暁嵐を待った。
「勝手に先に行くなと言っているだろう。なにかあったらどうする」
 暁嵐が渋い表情で小言を言った。
「ごめんなさい。早く海まで行きたくて」
 凛風は眉尻を下げて謝った。
「ったく……。乗り手も馬も、じゃじゃ馬だ。黒翔も黒翔だ。凛風がいる時は凛風しか乗せないとは……。白竜を見習え」
 ぶつぶつと言う彼に、黒翔がヒヒンヒヒンといなないた。
 今暁嵐が乗っているのは、凛風の実家にいた白竜だ。郭家が解体された後はるばる都へ連れてこられた。もちろん凛風の希望である。
 感激の再会を果たした後、凛風を乗せるための馬として城へ迎え入れられた。今では黒翔のよき伴侶となった。
 療養を終えた凛風は暁嵐に馬の乗り方を教わった。乗馬に欠かせない馬との信頼関係はすでにあったから、すぐに習得し、皇后としての役割の合間に楽しんでいる。
 黒翔が凛風を乗せたがるため、暁嵐とふたりで騎馬で出かける時は、暁嵐は気性の穏やかな白竜に乗ることが多かった。
 凛風の毎日は、黒翔と白馬の世話ではじまる。普通、皇后は馬の世話をするものではないとわかっているが、これだけは譲れなかった。
「ごめんなさい、暁嵐さま。海が見えると聞いて我慢できなくなってしまって……」
 しょんぼりと肩を落として凛風は言う。彼に心配かけることは、凛風がもっともしないように気をつけてことのひとつだ。
 暁嵐が前方を見て口を開いた。
「焦らずとも、かの町へはもうすぐ着く。あの丘を越えたら見えてくるだろう。町へは俺たちが行くと前もって知らせてあるから皆待ちかねているだろう」
 皇太后が謀反を企てて離宮が炎上するという事件から、一年が過ぎた。
 しばらくは宮廷も民も騒がしかったが、ようやく落ち着いたこの日、凛風と暁嵐は都を離れ、かの町を目指している道中にいる。
〝かの町へいつか連れていく〟という約束を、果たしてくれるためである。
 かの町へは馬で駆けて二十日ほど。凛風と従者を連れている状況では三十日ほどかかる。だが今日は、都を出て四十日目、日程が予定より遅れてしまったのには事情があった。
 凛風が立ち寄った町にて、ちょくちょく寄り道をしたからである。観光をしたわけではない。町の人々の話を聞いていたのである。
 皇后になってからはじめて城を出た凛風が、どうしてもしたかったことのひとつだった。
 暮らし向きはどうか。
 つらいことはないか。
 誰かに酷い目に遭わされていないか。
 今の炎華国が、己の心のままに生きられる世になっているのかということを自分の目で確認したかったのだ。
 町の人々の話を聞く際は、皇后だと名乗ることもなく徒歩で町を歩き、話を聞いて回った。民の気持ちそのままを耳にしたいからだ。
 今のところおおむね、凛風が望んだ世が実現しつつあると感じていて、とても嬉しかったけれど、そのために日程がずいぶん遅れてしまったというわけだ。
 かの町の人たちが待ちかねていると聞き、凛風は申し訳ない気持ちになる。
「着くのが遅くなったのは私のせいですよね。申し訳ござません」
 凛風が旅の日程について詳しく聞かされ、予定が遅れていることを知ったのは昨日だった。それまでは町の人々に話を聞いて回る凛風を誰ひとり急かさなかったからだ。
 とはいっても、だからそれでいいとは言えないだろう。
 この旅は私的なものではなく皇帝の視察。ただ日程が遅れたというだけで済むことではない。
今のところ治世が安定しているとはいえ、都に皇帝が不在の状態が長く続くのはよくないことに違いない。
 立后して一年ほど経つのに、自分の行動で暁嵐に迷惑をかけてしまったのが情けなかった。
 肩を落とす凛風に、暁嵐がふっと笑った。
「謝ることではない。むしろ礼を言うべきだろう。やはり、俺が末長く正しい政をするためにはお前が必要だと確信したよ。だから日程が遅れていることを、昨夜まで黙っていたんだ」
「お礼?」
 言葉の意味がわからずに凛風が首を傾げると、暁嵐が理由を説明する。
「民の思いを聞くのは政には必要不可欠だ。今回の旅ではそれを存分にすることができた。日程が遅れるくらいどうということはない」
「でもそれは私がいなくとも……。暁嵐さまも町の人たちの言葉に耳を傾けていたじゃないですか」
 町へは凛風ひとりで行ったわけではない。暁嵐もそばにいて一緒に話を聞いていた。
「いや、お前がいたからだ。町に行く時は身分を明かさなかったが、俺は威圧感があるからな。どうしても警戒されてしまう。凛風、お前の持つ柔らかい空気が、相手の心を開かせる。民の本音がたくさん聞けた」
 それはきっと凛風が貴族の娘としての教育を受けておらず、贅沢な暮らしも知らなかったからだ。町の人々の困りごとには共感できることも多かった。
 いつかの日の宴では、そんな自分を他の妃と比べて引け目に感じたこともあった。でもそれが彼の役に立っているのだと思うと嬉しかった。
「皆、暁嵐さまが即位されてから、安心して暮らせていると言っていましたね」
 弾んだ声で凛風は言う。
 都へ帰ったらこの旅の経験を存分に活かして、皇后の仕事に邁進しようと決意する。
 謀反の夜、もう自分のような悲しい思いをする人が出ないような世の中になってほしいと強く願った。
その願いを暁嵐と一緒に実現できる立場にいることが嬉しかった。
 凛風の言葉に暁嵐が頷いて、青い空を見上げ、少し感慨深げな声を出した。
「凛風、お前と出会う前の俺が、穏やかな世を作ろうと心に決めていたのは、本当のところ民を思っていたのではなく、自分のためだったのだと思う」
「自分のため……?」
「ああ、母上を失った悲しみと行き場のない怒りを、先の皇太后を追い出し平穏な世を作ると決意することで乗り越えようとしたのだろう」
 少し寂しげな眼差しで空を見つめる暁嵐に、凛風の胸がギュッとなった。
 笑わない母を失った少年は、倒すべき相手を憎み目標を持つことで、自らの心を守っていた。
「だが今は民のためだと心から言える。凛風、お前のおかげだ。お前の澄んだ心に触れたおかげで、俺は人を好きになった。この国の民がすべからく幸せであるよう、力を尽くしたいと思う。皇太后は俺から大切なものを奪ったが、お前との出会いを作ったことだけは、感謝している。末長く国を治めるために、俺には凛風が必要だ」
「暁嵐さま……」
 自分にそれほどの力があるとは思えない。
 凛風の方こそ、彼からたくさんのものをもらった。今こうしてここにいられるのはすべて彼のおかげなのだから。
 それでも、凛風がそばにいることを彼が望むというならば、永遠に一緒にいる。この出会いは必然だと思うくらいだった。
「暁嵐さま、私、ずっと暁嵐さまのおそばにいます」
 言葉に力を込めてそう言うと、暁嵐が目を細めて微笑んだ。
 そこへ、ようやく従者たち一団が徒歩でふたりに追いついた。
「こ、皇后さま……! おひとりで駆けていかれては困ります! 御身大切にしていただきませんと!」
 秀宇が青筋を立てて凛風に意見した。
「本当ですよ! 陛下にご心配をおかけするのはやめてくださらないと、皇后さま!」
 秀宇の弟子となった浩然も小言を言って凛風を睨んでいる。
 無事科挙に合格した彼は最年少で役人となり、今は城で働いている。今回の旅にも秀宇の弟子として参加しているのだ。
 姉弟で旅をしたことのないふたりへの暁嵐からの心遣いでもある。
「申し訳ありません……」
 凛風は素直に謝る。心の中でまたやってしまったと思いながら。
 秀宇は、凛風に対して非常に丁寧に接してくれる優秀な側近なのは確かだが、やや心配症で口うるさいところがある。皇后らしくないと叱られることも多かった。
 しかも浩然は、彼に輪をかけて口うるさい役人になってしまった。特に凛風が暁嵐に心配をかけるようなことをすると、こうやって(よう)(しゃ)なく叱られる。
 弟が立派になるのを見たいという凛風の夢は叶ったけれど、それにしても立派になりすぎでは?と思うくらいだった。
「そのくらいにしてやってくれ。凛風は海を見るのがはじめてなのだ。気がはやるのも仕方がない」
 とりなすようにそう言って、暁嵐が秀宇に指示をする。
「俺と凛風は先に行く。お前たちは、焦らずゆっくり来るがいい。日暮れまでに町に着けばいい。凛風、先に行こう。海に陽が沈むところを見せてやる」
「はい!」
 一刻も早く花の町と海を見たい凛風は張り切って答える。
 一方で、秀宇は目を剥いた。
「なっ!? いけません暁嵐さま。おふたりだけで行かれるなど……! この辺りは山賊はおりませんが……」
「案ずるな、俺が一緒なら大丈夫だ。ほら、凛風行くぞ!」
 そう言って彼は手綱を握り直し、先ほど指差した丘に向かって走り出す。
 凛風も黒翔に合図をして彼を追った。
 頬にあたる風と草の香りが心地いい。
 暁嵐が振り返り、凛風を優しい目で見つめた。この眼差しに導かれてここまで来たのだと凛風は思う。
 そしてこれからもずっと彼について行きたい。彼に救ってもらったこの命が尽きる日まで。
 小高い丘を駆け上がると目の前が開ける。
 眼下にどこまでも続く青い海と、凛風が憧れ続けた花の町が広がっていた。

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