「凛風さま、湯殿の時間にございます」
 昼食を食べて半刻が経った頃、女官が部屋へやってきた。
 凛風は手習いをしていた手を止めて立ち上がった。
「今まいります」
 はじめて暁嵐の閨に呼ばれた次の日から、凛風は昼食を食べた後、人払いされた湯殿でひとりで湯に浸かることを許されるようになった。夜中に外の湯殿に行けなくなった凛風に対する暁嵐からの気遣いだ。
 本来は皆で使う湯殿を、ひとりで使うなんてあり得ない。申し訳ないと固辞したが、仮にも寵愛を受ける妃が行水で済ませるつもりかと後宮長に叱られて仕方なく従っている。暁嵐に頼んで以前のように外の湯殿に連れていってもらうことも考えたが、それでは手習いに取れる時間が少なくなってしまう。
「皇帝陛下からおひとりで湯殿を使うお許しがあるほどのお妃さまは、後宮はじまって以来、凛風さまがはじめてだそうですよ」
 付き添いの女官が、湯殿への廊下を歩きながらにこやかに言った。彼女は、凛風に外の湯殿へ行くよう勧めた女官だ。はじめて閨に呼ばれた日の次の日の朝、部屋で凛風を待っていて、これからは凛風付きの女官となると告げた。
 それから数日、こうやって毎日凛風の湯殿に付き添ってくれる。
 小廊下から大廊下へ出ると、二の妃がたくさんの妃たちを引き連れているのに出会した。凛風に気がつくと彼女たちは会話を止め立ち止まる。
「あら、百のお妃さま、ご機嫌よう」
 二の妃がにこやかに挨拶をした。
「ご機嫌よう」
 凛風は驚きながら小さな声で答えた。
 二の妃から声をかけられるのははじめてだからだ。彼女はいつもたくさんの取り巻きを引き連れて歩いているが、凛風を気にも留めていない。それなのにわざわざ立ち止まり声をかけられたのが意外だった。
 二の妃の後ろにいる妃たちも口々に凛風に挨拶をする。だが皆、凛風を見る目は鋭かった。
 明らかに友好的ではない雰囲気に、すぐに立ち去りたい気分だがそういうわけにいかなかった。
「湯殿へ行かれますの?」
「はい」
 戸惑いながら答えると二の妃はにっこりと笑ってうなずく。そして凛風の隣の女官を見た。
「あなた、百のお妃さまをお綺麗にして差し上げてね。今宵も陛下の閨に上がる方なのだから。汚れなどひとつも残さぬように」
『汚れ』のところに力を込めて彼女が言うと、後ろの妃たちがくすくすと笑った。
「あらぁ、それは無理ですわ、二のお妃さま」
「そうそう。だって百のお妃さまのお身体には、汚れどころか醜い傷がありますのよ」
「綺麗になどなりようがありません。無理なことをさせては女官が可哀想です」
 凛風の身体の傷を揶(や)揄(ゆ)する言葉を口にした。
「あら、そうだったかしら」
 二の妃がわざとらしく言って、眉を寄せた。
「そもそもその傷痕がある身体でどうして後宮に入れたのかしら?」
 凛風の正体にかかわるような言葉だ。凛風の胸が冷えた。
 二の妃の疑問に妃のひとりが目を釣り上げて凛風に問いかける。
「本当に身体検査を受けたの? 汚い手を使ってごまかしたんじゃないの?」
「そ、そのようなことは……」
 慌てて凛風は首を横に振る。凛風の後宮入りは間違いなく皇后によって仕組まれたものだが、それを言うわけにいかない。
「だけどわからないのは、陛下があの傷を見ても閨に呼び続けることだわ。あんなに汚い傷痕がある身体でとても伽が務まるとは思えないのに」
「本当に、どうして?」
「全然わからない」
 妃たちは口々に言って凛風を睨む。
 二の妃がにっこりと微笑んだ。
「どうかしら、皆さん、今ここで百のお妃さまに種明かしをしていただいては?」
 意味不明な言葉に首を傾げる凛風を、意地悪な目で睨み周りの妃たちに指示を出す。あっという間に凛風は妃たちに取り囲まれて両腕を掴まれた。
「な、なにをなさいます……!」
 声をあげる女官を無視して、意地の悪い笑みを浮かべた。
「陛下を夢中にさせているそのお身体を、私たちに見せてくださいな」
 つまりここで服を引っぺがして、裸にしてやろうということか。彼女の魂胆に気がついた凛風は真っ青になった。
「なっ……い、嫌です……! は、放してください」
 身体の傷痕を揶揄されるくらいの嫌がらせは慣れっこだが、さすがに皆の前で裸になるのは嫌だった。そもそもそれを気にして人目を避けて入浴しているというのに。
 けれど二の妃はそれが気に食わないのだ。だから、凛風が一番嫌がるであろうことをあえてここでやろうとしている。
「恥ずかしがることはありませんわ、百のお妃さま。女同士ではありませんか。本当なら、私が湯殿でお背中をお流しして差し上げたいくらいですもの」
 優雅に言って、彼女は顎で他の妃たちに指示をする。
 凛風の腕を掴む妃が、帯に手をかけた時。
「おやめなさい」
 大廊下に凛(りん)とした声が響いた。凛風の衣服を脱がそうとしていた妃たちがぴたりと止まる。
 声の主は一の妃だった。彼女も何人かの妃を連れている。
 揉み合いになっている凛風と妃たちを蔑むような目で見た。
「そのような真似をするは、慎むべきです。私たちは皆陛下をお支えする身だとご自覚なさい。下衆な振る舞いをすれば陛下の品格を落とすことになります」
 二の妃が忌々(いまいま)しげに舌打ちをして、凛風を押さえ込んでいる妃たちに合図をすると凛風は解放された。
「ただの戯れに、大げさですこと。そのようなお固いお考えの女子が陛下のお心を癒やして差し上げることができるかしら」
 捨て台詞(ぜりふ)を吐いて、取り巻きを引き連れて去っていった。
 一の妃もくるりとこちらに背を向けた。
「あの……!」
 凛風は彼女を呼び止めた。
「ありがとうございました」
 衣服の乱れを整えながら礼を言うと、彼女は振り返り、眉を寄せて答えた。
「私は、後宮の秩序が乱れぬよう止めたまで。あなたを助けたわけではありませんわ」
 凛風を頭の先から足までじろりと見た。
「私も皆さまと同じように、なぜあなたが陛下のご寵愛を受けるのか疑問です。陛下の寵愛を受けるには、この後宮で強くある覚悟がなければいけません。あなたには、そのような覚悟はないように思えます。ただ寵愛を受けるだけが妃の役割ではありませんよ」
 そう言って、またこちらに背を向けて去っていった。
「凛風さま、今回のこと陛下と後宮長さまにご報告されますか?」
 心配そうな女官からの問いかけに、凛風は首を横に振る。
「そこまでは……」
 衣服を脱がされるのは嫌だったが、一の妃があそこまで言ってくれたのだ。もう同じことは起こらないだろう。それ以外のことは、言うほどのことではない。
 それよりも……。
 去っていく一の妃の背中を見つめながら、凛風は別のことが気にかかっていた。
『なぜあなたが、陛下のご寵愛を受けるのか疑問ですわ』
 そう言われて考えてみると、どうして彼は凛風を閨に呼んだのだろう?
 ここまで優しくしてくれているのだろう?
 はじめは彼は役人としての役割を果たしているのだと思った。でも彼が皇帝だったのならそれは間違いだったということだ。
 彼は、伽をさせるつもりはない最下位の妃の湯浴みに付き合ってくれて字を教えた。まさに皇帝としての慈悲深い行いだとは思うけれど、それでもやはり疑問だった。
 家臣の手前、妃を寵愛しているふりは必要なのかもしれないが、だとしてもここまで優しくする必要はないはず。
「凛風さま、参りましょう」
 女官の言葉に頷いて彼女の後をついて歩きながら、凛風は考えを巡らせていた。