一日の用事を済ませると、もう日が落ちていた。
 凛風は盆に載った食事を持ち、寝床にしている馬小屋へ向かう。食事は一日これだけで、しかも下女のものよりもさらに粗末なものだった。
 母屋から聞こえる音楽と笑い声、窓から漏れる温かい光を横目に、足音を立てぬよう外廊下を行く。
 部屋から漏れるご()(そう)の匂いに凛風のお腹がぐーっと鳴った。
 用事をこなしている間に小耳に挟んだところによると、都からの使者は、後宮に入る娘の選定に来ているという。
 だから継母は、()(まなこ)になって髪飾りを探していたとたというわけだ。
 彼女にとって美莉を後宮入りさせることは、なにより大切なこと。そのために育てているとことあるごとに口にしている。
 後宮がどのような場所か、凛風には知るよしもない。
 美莉が後宮入りすることにはなんの感情も湧かないけれど、この邸を出て継母と離れられるというのは羨ましかった。

 五歳まで郭家の娘としてなに不自由なく育てられていた凛風の生活が一変したのは、弟の出産で母が亡くなったからだ。
 母を失った傷がまだ()えぬうちに、父の妾だった継母が妹の美莉を連れて邸に乗り込んできて、その日から、部屋も服も髪飾りも、凛風のすべてが美莉のものになったのだ。
 政治にしか興味がなく、家族に対する情の薄い父が、幼い凛風をかばってくれるはずもなく、すべて継母に任せきり。
 そもそも彼は一年のうち半分ほどを都にある別邸で過ごしていて、邸にあまりいない。
 必然的に、この邸では継母が絶対的な存在となり、継母のすることに誰も逆らえなくなっていった。
 はじめのうちは凛風をかばってくれていた乳母や下女たちも皆暇を出され、今はもう誰ひとり残っていない。
 勝手に邸を出ることも許されず、下女以下の扱いを受ける凛風に、残された希望は……。
「姉さん、姉さん」
 小声で呼びかけられて、凛風は足を止める。見回すと廊下の柱の影から、弟の浩然(ハオラン)が顔を出していた。
 慌てて周囲を確認してから自分も柱の陰に隠れ、浩然に向かって小さい声を出した。
「浩然、ダメよ。こんなところで私に話しかけちゃ。お継母さまに見られたら、あなたまで叱られる」
 浩然が肩をすくめた。
「大丈夫だよ。今はお継母さま、お使者さまとの宴にかかりきりだから」
「だけどあなたも宴に出てるんでしょう?」
「今日の主役は美莉姉さんだよ。僕は先に挨拶を済ませて抜けてきた。なにも言われなかったよ」
 そう言って懐から包みを出した。
「はい、これ姉さんの分」
 受け取ると包みは温かい。中には、包子が入っていた。
「ありがとう……」
 粗末なものしか与えられない、凛風にとってはご馳走だ。
「それからこれ」
 次に彼は貝の殻を差し出す。中には油で練った薬が入っていた。
「昼間に医師さまのところでもらってきたんだ。手の傷に塗ると痛みが和らぐよ」
「ありがとう……。だけど無理しないでね。私は平気だから」
 同じ母から生まれた子でも、父の唯一の息子で後継である浩然は蔑ろにはされてない。
 美莉と同じように郭家の子として大切に育てられている。
 それでも彼はこうやって継母の目を盗んで、凛風に食べ物や必要なものを持ってきてくれる。
「姉さんにこんな扱いをして、僕はお継母さまを絶対に許さない!」
 浩然が(こぶし)を握りしめた。
「僕が家を継いだら、姉さんにつらい思いはさせないから。ううん、その前に、僕一生懸命勉強して、()(きょ)を受けようと思ってるんだ。学問で身を立てて家を出る。姉さんを連れ出してあげるからね」
「ありがとう、浩然。でもあなたはこの家を継がなくちゃ。きっとお母さまはそれを願っておられるわ」
 もうほとんど覚えていない母の記憶は、彼を()(ごも)っていた頃。大きなお腹を幸せそうに撫でている母の笑顔だ。
『可愛がってあげてね、凛風。あなたのたったひとりの弟か妹になるのだから』
 身体が弱かった母は、あの時すでに最後のお産になると気がついていたのかもしれない。まさかそのお産で命を取られるとまで思っていなかっただろうが……。
 母のいなくなった浩然の世話は、雇われていた乳母の役目だったが、凛風も一生懸命手伝った。母を知らない浩然のために、母の代わりになれるように。
 彼が赤子の頃は、まだ男子の出産を諦めていなかった継母に、浩然も冷遇されていた。味方のいない邸で、姉と弟は身を寄せ合い、(きずな)を育んだのだ。
 だが凛風十三、浩然八つになった年、状況は一変する。突如ふたりは口をきくことを禁じられ、凛風は馬小屋で寝起きするよう命じられた。
 継母が男児を生むことを諦め、浩然は郭家の後継として継母の手で教育されることになったからだ。
 そうして凛風は、十八になった今も変わらず、ずっと馬小屋で寝起きしている。
「こんな家、どうなってもいいよ。亡くなった母さまも大切だけど、今は姉さんの方が大切だ。学問所の老師さまがね、僕ならきっと受かるだろうって言ってくださってるんだ。……問題は父上が科挙を受けさせてくれるかどうかだけど」
「老師さまがそうおっしゃってくれるの? すごいじゃない!」
 凛風は声を弾ませる。
 彼が、学問所でいい成績を収めているということが(うれ)しかった。彼が健やかに成長することだけが、凛風の望みだ。
 その時、廊下の向こうで扉が開き、誰かが出てくる気配がする。
 浩然が(ささや)いた。
「じゃあね、姉さん。また食べ物持っていくから」
 素早く離れて、見つからないように建物の中に入っていった。
 凛風も急いでその場を離れる。足早に、邸の裏庭にある馬小屋を目指した。
 郭家では(ハク)(リュウ)という馬を一頭飼っている。凛風が戻ってきたことに気がついて、前足でカポカポと地面を蹴った。
「ただいま。飼葉ちゃんと食べた?」
 声をかけながら白竜の顔を撫でると、白竜は嬉しそうに凛風の頬を突いた。
「ふふふ、食べたみたいね」
 馬小屋の隅の粗末な板を渡し、ぼろ布を敷いただけの寝台、そこが凛風の寝床だ。雨が吹き込む寒い日もここ以外で眠ることは許されない。
 そこに食事と包子を置いて、凛風は白竜の身体を(くし)で梳く。白竜が気持ちよさそうに目を閉じた。
 馬の毛並みは、健やかかどうかの目安になる。どんなに疲れていても朝晩必ず櫛で整え確認するようにしていた。
 もともとは年老いた下男が、白竜の手入れを任されていて、凛風に馬のことを教えてくれた。
 凛風に同情的だった彼が継母に暇を出されて以来、馬たちの世話は凛風の役割となっている。
 浩然と話すことを禁じられ、用がなければ母屋に入れないのはつらいけれど、寝起きするよう言われたのが馬小屋でよかったと今は思う。白竜と一緒なら寂しくはない。
 手入れが終わると、凛風は寝台に座り食事をとる。
 包子を食べながら浩然のことを考える。
 小さな頃は怖がりで泣き虫、夜ひとりで(かわや)へ行くこともできず泣いていたのに、学問所で科挙を勧められるまでに成長したのが嬉しかった。
 彼は凛風の生きる支えなのだ。
 東の森に放り込まれて魑魅魍魎に喰われるのを恐ろしいと思うのは、浩然がいるから。
 浩然が成人し、立派にこの家を継いだのを見届けて、それをあの世で母に報告するのが、凛風のただひとつの望みなのだ。
 それまでは、どんな扱いをされようとも死ぬわけにはいかない。
 そんなことを考えながら食事を終えると、白竜が(わら)の上に横たわる。凛風を見て首を縦に振っている。こっちへ来いという合図だ。
 凛風は寝台の上のぼろ布を手に、白竜のそばに横になった。
 夜はよりいっそう冷えるが、こうやって寄り添って寝れば暖かい。艶々(つやつや)の毛並みに身体を寄せれば、途端に疲れが押し寄せてくる。
 朝になればまたやるべきことに追い回される一日が待っている。目を閉じて、凛風はあっという間に眠りに落ちた。