鬼神の100番目の後宮妃〜偽りの寵姫〜

 自分の名を練習した紙と筆を抱えていつものように湯殿に着くと、黒翔と陽然はすでにいた。凛風に気がつくと陽然は大股にこちらへやってきて、少し強く両腕を捕む。そして目を丸くする凛風の顔をじっと見た。
「あ……あの、どうされましたか?」
 尋ねると、眉を寄せたまま口を開いた。
「具合が悪いのではないのか?」
「え? いえ……どこも悪くありません」
 戸惑いながら答えると、再び彼は問いかける。
「だが朝の謁見にいなかったではないか」
 その指摘に、凛風はドキッとした。厩の役人だと思っていたけれど、彼は思っていたよりも地位の高い役人だったようだ。朝の謁見に参加できるのは、主だった家臣のみだ。
「謁見に陽然さまもいらっしゃったのですね。……申し訳ありません」
「責めているわけではない。だが具合が悪くないなら、なぜいなかった?」
「そ、その……」
 陽然からの追及に凛風は言い(よど)む。
 寝坊をして謁見を欠席したなどと白状するのは恥ずかしい。けれど他にいい言い訳も思いつかず仕方なく口を開いた。
「昨夜、部屋へ戻ってから、手習いをしておりまして……」
「手習いを?」
「はい……それで、寝過ごしました」
 気まずい思いで凛風が言うと、陽然が目を見開いた。
「も、申し訳ありません……」
「いや」
 そう言う彼の口元が一瞬緩む。でもすぐに咳払いをして、いつもの不機嫌な表情に戻った。そして小言を口にする。
「明日からは昼間にやれ」
「はい」
「それが練習した紙だな? 見ておくからその間に湯浴みをしろ」
「はい」
 凛風がいつものように湯浴みをし黒翔の世話をする間、彼は岩場に凛風が書いた紙を広げて見ていた。
 その姿に凛風は申し訳ない気持ちになる。出来がよくないのを自覚しているからだ。一生懸命練習したがどうにもうまく書けなかった。陽然が書いた美しい文字とは(うん)(でい)の差だ。
「お、同じように書いていたつもりなのですが、陽然さまのように上手に書けなくて……」
 もじもじしながら凛風が言う。笑われてもおかしくはないくらいだと思うけれど、彼はそうはせず真剣な表情で見ている。そして凛風の字を指で辿った。
「まず、ふたつの文字の大きさが揃うように心がけろ。慣れるまでは紙を半分に折って書くといい。それから止めにはしっかりと力を入れ、跳ねる箇所は力を抜くのだ。来い」
 そう言って彼は手招きする。
「筆を持て」
 促されるままに、筆を持ち紙に向かうと、凛風を後ろから抱え込むようにして筆を持つ手に自らの手を重ねた。
 どくんと、鼓動が大きく跳ねる。陽然の体温とどこか高貴な香りに包まれて、思わず声が漏れそうになるのを唇を噛みなんとか耐えた。
 彼の手が添えられた筆が、ゆっくりと動く。
「止めはこうだ。力を入れて筆を上げる。跳ねは、ゆっくりと力を抜く」
 すぐ近くから聞こえる低い声音が、どうしてか甘く凛風の耳に届く。心の臓はますます大きな音を立てて、彼に聞こえないかと心配になるくらいだ。
「一箇所一箇所手を抜かなければ整ってくるだろう。わかったか?」
「はい……」
 蚊のなくような声で答えるのがやっとだった。頬が熱くてたまらない。動揺を隠せない凛風に、陽然が咳払いをしてそっと離れた。
「書いてみろ」
 頬を真っ赤にしたまま頷いて、凛風は再び紙に向かう。突然の接近に高鳴る鼓動を落ち着かせる。せっかく教えてくれているのだ、少しも無駄にしたくない。
 止めと跳ねを意識して、紙の上で筆を滑らせる。彼が見ていると思うと平常心ではいられないが、それでも言われたことを意識するだけで、ひとりで書いていた時よりずいぶんよくなっているように思えた。
「できました!」
 振り返り陽然を見た凛風は、息が止まりそうになってしまう。彼が口元に笑みを浮かべていたからだ。身体が離れて少し落ち着いていた鼓動が、また速度を上げていく。
「うん、よくなった。もう一度書いてみろ。繰り返すことで身体に覚えさせるんだ」
 今までよりも格段に優しい声音と眼差しに、頭が茹で上がるような心地がする。慌てて目を逸らし、もう一度筆に墨をつけた。そこへ陽然の手が伸びてくる。
「袖が墨につく。腕をまくれ……」
 そう言って彼は凛風の衣服の袖に手をかける。引き上げられて、凛風の腕の傷痕が露わになった。
「っ……!」
 とっさに凛風は腕を引き、袖をもとに戻す。手から離れた筆がコロロと転がり地面に落ちた。
 驚き止まる陽然に、凛風は目を伏せる。
 先ほどまでの浮き立っていた気持ちが急速に冷えていく。
一瞬だが確実に彼に見られてしまった。継母につけられた醜い傷を。
 重い沈黙がふたりの間に横たわる。
「も、申し訳ありません……」
 ようやく声を絞り出すと、彼は首を横に振った。
「いや、こちらこそ不用意に触れて悪かった」
 そして地面の筆を拾い上げ、凛風に持たせる。
「この調子だと紙がすぐになくなるな。明日は、新しい紙を持ってこよう」
 そう言って黒翔の手綱を取る。帰るのだ。
 でもいつものように歩き出そうとして立ち止まり、しばらくして振り返った。
「お前も来い。後宮まで送る」
「え? ……でも」
 意外すぎる申し出に凛風は戸惑う。いくらなんでもそこまでしてもらうのは申し訳ない。
「夜道は危険だ、早くしろ」
 けれどそうまで言われては固辞することもできなくて、凛風は頷いた。

 後宮へ凛風を送り届け黒翔とともに厩目指して歩きながら、暁嵐はある結論に達していた。
 凛風が刺客だということは間違いない。あのような傷がある娘が後宮入りすることはあり得ないからだ。
 同時に、この出会いが彼女自身の意図するものではないという確信を深めてもいた。
 凛風がこの湯殿にやってきたのは間違いなく皇太后によって仕組まれたものだろう。そして彼女自身はそれに気づいていない。
その方が、より自然に暁嵐に取り入ることができるという皇太后の思惑だろう。
 人を人とも思わず、自らのために使い捨てることをあたりまえと考える皇太后らしいやり方だ。
 夜空を見上げて息を吐くと、自分の名を書けた時の彼女の輝く笑顔が脳裏に浮かび、胸が締め付けられるように痛んだ。
 皇帝暗殺という重い使命を課せられた身の上と、ひどい傷痕。
 弟へ手紙を書きたいという言葉と、自分の名を目にした時の涙。
 彼女のこれまでの境遇が過酷だったということは、想像に難くない。
 今宵彼女はただ純粋に、自分の名前を書けたことを喜んでいた。残酷な使命を果たすまでの束の間の喜びを味わっているのだろう。
 そのような者が、自ら望んで皇帝と差し違えたいなどと思うはずがない。脅されているか、そのように育てられたか、あるいはその両方かもしれない。どちらにしても皇太后がよく使う手だ。
 哀れだと心底思う。
 暁嵐と皇后との対立によって命を落とした者たちに対して、暁嵐がいつも抱いてきた感情だ。だがその中に、生まれてはじめての想いが存在するのを、暁嵐は確かに感じていた。
 手習いのために腕に抱いた彼女の甘やかな香りが、暁嵐の中の熱いなにかを加速させ、彼女を自分の手で救い出したいという強い思いに貫かれた。
 この感情は、今はじめて芽生えたわけではない。彼女と出会ってからずっと抱いていた違和感とともにあったもので間違いない。薄々気がついていながら、目を背け続けてきた感情だ。
 自分には必要ないと切り捨てようと試みたが、結局ずっと暁嵐の中に居座り続けている。
 彼女の、状況にそぐわないちぐはぐな行動の理由に思いあたった今、それはより濃い色を帯びてはっきりと存在を主張しはじめた。もはや切り捨てることはできそうにない。
 隣を歩く黒翔がぶるんと鳴いて、暁嵐の頬を突く。艶やかな黒い毛並みを撫でて、暁嵐は苦笑した。
「ああ、わかったよ。お前の目は確かだった」
 素直に負けを認めると、黒翔がふんと鼻を鳴らした。
 自分の中の特別な想いから目を逸らすのはもう終わりだ。
 彼女の傷を目にした時に感じた激しい怒りを思い出し、暁嵐はそう心に決める。
 自分で自分の心が思う通りにならないことははじめてだが、それに抗う気にはなれなかった。
 自分の心が、彼女を救い出したいと強く願っていることは紛れもない事実なのだから。
 それならば、これから自分はいったいどうするべきなのか。
 カッポカッポという黒翔の足音を聞きながら、暁嵐は考えを巡らせていた。

 陽然に後宮まで送り届けてもらった凛風は、自室へ戻り寝台へ入る。布団を被り目を閉じるが眠ることはできなかった。
 陽然に醜い傷痕を見られてしまった。そのことが、悲しくてつらかった。
 せめて右腕ではなく左ならよかったのに。
 右腕の傷は火傷(やけど)の痕だから、特に醜い。馬小屋に寝起きするようになってすぐの頃、空腹に耐えきれず炊事場から包子をこっそり取って食べてしまい、煮えた鍋の中身を継母にかけられた時のものだ。
 今まで凛風は、誰に傷痕を見られても平気だった。
 馬鹿にされて眉をひそめられようが、自分はもともとそういう存在だとわかっているからだ。凛風の方も相手をどうとも思っていない。
 でも今は、陽然だけには見られたくなかったと強く思う。
 自分の価値は変わらなくとも、彼だけには……!
 掛け布をギュッと握ると目の奥が熱くなり、あっという間に涙が溢れた。
 はじめての感情が洪水のように押し寄せて、どうしていいかわからなかった。
 名前を書いてもらった時の熱い思いと、ほんの少し彼に触れただけで、勝手に高鳴る胸の鼓動。
 自分ではどうにもならない感情が自分の中に存在するのが怖かった。
 今の凛風に必要なのは、浩然のことのみを思い、一切の望みを捨てること。そうでなくては過酷な運命に身を投じられなくなってしまう。
 それなのに、陽然と一緒にいる時はそれを忘れてしまいそうになる。頭の中が彼のことでいっぱいになり、その先を望みたくなってしまうのだ。
 そんなことを考えてはいけないのに!
 昼間の妃たちの話が頭に浮かぶ。
 そんなはずはないと打ち消した考えが凛風を再び(さいな)んだ。
 この感情がどこからくるものなのか。
 それがどのようなものでも知りたくないと強く思う。
 きっと知ってしまったら、今よりもつらくなる。自分の置かれている環境を恨み、どうにかなってしまうだろう。
 敷布に顔を押し付け()(えつ)を殺して泣きながら、凛風は込み上げる感情と闘っていた。
 熱い涙で頬を濡らし、わからない、知りたくないと、心の中で幾度も幾度も繰り返す。陽然に対する熱い想いに消えてほしいと懇願した。
 けれど結局、空が白みはじめるまで、どれだけ強く願っても、どうしてもそれはできなかった。

 丞相から進言があると聞かされたのは、暁嵐が凛風を後宮まで送った次の日のことだった。
 皇帝が家臣からの進言を聞く時は、すべての家臣を集めた黄玉の間と決められている。一部の家臣のみからの意見を皇帝が聞き、偏った政治を行うのを避けるためだ。
 その会に向かう直前、秀宇が帰還した。
「暁嵐さま、ただいま戻りました」
 久しぶりに私室へ姿を見せた側近に暁嵐はまず労いの言葉をかける。
「戻ったのか。ご苦労だった。まずは身体を休めよ」
「ありがとうございます。ですが、それより先に急ぎ郭凛風についてのご報告をさせていただきたいと思います」
 腰掛けに身を預けて頷くと、秀宇が跪き口を開いた。
「結論から申し上げますと、百の妃が刺客で間違いございません。郭凛風には、腹違いの妹がおりまして、もともとはそちらの娘が後宮入りするため大切に育てられていたようです」
「妹?」
「はい。郭凛風は、郭凱雲の亡くなった前妻の子、後妻である今の奥方に(いと)われ下女以下の生活をしていたようです。母屋で寝起きすることも許されず。馬小屋で寝起きしていたと……郭家では彼女に話しかけたり親切にするのは御法度だったようです」
 その報告に暁嵐の胸は痛んだ。だが内容については納得だ。彼女は暁嵐に怯えながらも黒翔にははじめから心を開いていた。馬小屋で寝起きしていたから、馬の扱いを知っていたというわけか。
「ですから皆、当然妹が後宮入りするものと思っていたようですが、どうしてか直前になって姉に代わった。都からの使者が帰ったあとすぐに決まったそうです」
 後宮入りする娘は家柄を基準に選ばれる。
 もともとは妹のつもりだったとしても直前になって姉に変更になることくらいはあるだろう。だとしても馬小屋で寝起きさせていた娘を……というのはどう考えても不自然だ。
 娘を後宮入りさせるのは一家にとって誉なこと。さらにその娘が寵愛を受け鬼の子を産めば一族の安泰は約束される。どの家も一家の中で一番美しい自慢の娘を差し出すのだ。
 自慢の娘どころかのけ者にしていた娘を差し出すということは、郭家が皇帝の寵愛を望んでいないというだけでなく……。
「問題は郭凛風が後宮入りした後です。郭家の召使いによると、凱雲の妻は、残った妹に未だ後宮入りの準備を怠っていないということで、皆首をひねっていると……。後宮入りしないならと持ち込まれた縁談を片っ端から断っているそうです。まるで、妹も近い将来後宮入りするかのようだ、と言う者もいるようです」
 つまりは。
 虐げて育てた姉の凛風を犠牲にして功績を上げ、皇太后に取り立ててもらった後、新皇帝の後宮へ妹を入れるつもりだということか。一の妃にしてやるという密約があるのかもしれない。
 ――いずれにせよ、凛風は捨て駒というわけだ。
 暁嵐は奥歯を噛みしめた。
 腹の奥底から、気持ちの悪いどす黒い怒りが込み上げてくるのを感じた。凍てつく青い炎のようなこの怒りは、皇太后に対するものであり、自分に対するものでもある。
 やはり彼女は、自分と皇太后との間の権力争いに巻き込まれた犠牲者だ。暁嵐が早く皇太后と決着をつけていれば、彼女は刺客などという役割を負うことはなかった。
 筆を持つ細い手首と紙を見つめる真剣な眼差しが脳裏に浮かんでは消えた。
 さすがは長くこの国に寄生し、富を貪り続ける皇太后だ。凛風のような娘を送り込めば、暁嵐が無下にできないと踏んだのだろう。そしてその読みは見事にあたった。
「状況ははっきりしました。後はこちらにお任せくださいませ」
 秀宇はそう締めくくる。その進言を暁嵐は即座に拒んだ。
「いや、お前はなにもするな。俺が決着をつける」
「決着をつけるとは……どういうことにございますか? まさかまだお会いになるとでも?」
 その問いかけに暁嵐が沈黙すると、秀宇は青筋を立てて声をあげる。
「わ、私は承服しかねます! 暁嵐さま、あなたさまのお力はよく存じ上げておりますが、このまま皇后の策に乗るのは危険です」
 秀宇の意見はもっともだ。結論が出た今、これ以上深入りするのは得策ではない。皇帝としては、ここで手を引き彼に任せるべきだとわかっている。
 だがそれを暁嵐はどうしても受け入れることはできなかった。
「暁嵐さま、どうか私にお任せくださいませ! 郭凛風が刺客であることは間違いないのです。この後は、どのような手段を用いてでも郭凛風から皇后の名を吐かせて……」
「やめろ! お前は絶対に手を出すな!」
 強く彼の言葉を遮ると、秀宇が目を見開いた。
 たとえ誰であっても、それが国のためだとしても、彼女を傷つけることは許さない。幼少期からずっと支えてくれた信頼のおける側近にさえ、激しい怒りを覚えるくらいだった。
 それほどまでに、彼女への想いは暁嵐の中に深く入り込んでいる。
 驚愕の表情で固まる側近を横目に、暁嵐は立ち上がる。
「時間だ、俺は行く。いいな秀宇。さっきの言葉を忘れるな。この件の決着は俺自身がつける」
 ねじ伏せるようそう言って部屋を出た。

 黄玉の間には、丞相以下、主だった家臣たちが揃って暁嵐を待っていた。皆に向かい合わせに位置する玉座。その隣に、皇太后が座っている。
 皇太后の出席は必須ではないが、内容によっては同席することもある。
「面をあげよ」
 暁嵐が玉座に座りそう言うと、丞相が口を開いた。
「陛下この度はお時間をいただきありがとうございます」
 暁嵐が無言で頷くと、彼は恐る恐るといった様子でさらに言葉を続ける。
「本日お話したいのは、後宮のことにございます」
 暁嵐はちらりと皇太后を見た。彼女がここにいると知った時から進言の内容に察しはついていた。
「後宮が開かれて、ひと月以上が経ちますが、陛下はまだお妃さまをお召しになっておられません。このことを家臣一同大変憂いております」
 丞相の言葉に、皇太后が同意する。
「お世継ぎの問題は国の存続に関わることにございますから」
 そして蛇のような目で暁嵐を見た。
「ですから陛下、どうか明日はいずれかのお妃さまをお召しになられてくださいませ。順番通りでなくともかまいません」
 一の妃の父親である彼は、思い詰めた様子で言う。国のことを心底憂いている様子だ。他の家臣たちも皆同意だという表情で頷いている。
 だが彼らの中の何人かは、本心からそう思っているわけではないように暁嵐には思えた。
 本当のところ暁嵐には、どの家臣が皇太后に通じているかの目星がついているのだ。静観しているのは、それだけで彼らを排除するわけにはいかないから。確たる証拠もない中で独断で断罪すれば国が乱れるもとになる。
 わかってはいても、凛風のことを思うともどかしく感じた。
 皇后とは生まれた時から対立しているが、未だかつてないほど、早く決着を着けたいと強く思う。
「まぁそう急かさずともよいではないか、丞相。陛下もなにかとお忙しい身じゃ。男女のことは繊細ゆえ、わられらはゆったりとかまえていようぞ」
 皇太后が扇子を口もとにあてほがらかに言う。丞相が眉を寄せた。
「ですが皇后さま、お世継ぎに関しては……」
「幸いにして、先帝は鬼の血筋をふたり残してくださった。どうしてもの時は、べつの方法もあろう」
 暗に、血筋を残すのは自分の子である輝嵐でもいいと言っているのだ。
 挑発的な物言いに、丞相がうかがうように暁嵐を見る中、皇太后が暁嵐に向かってにっこりと笑みを浮かべた。
「じゃがもちろん、陛下のお血筋であるにこしたことはない。どなたか、気に入った娘はおりませぬか? この際われらは、数にこだわりはしませぬ。順位の低い娘でも女官でもかまいませぬぞ? のう、丞相」
「はい、それはもちろん」
 順位の低い娘という言葉に、やはり凛風との出会いはこの女の差し金だという確信を深めながら、暁嵐はこの後どうするべきか考えを巡らせた。
「陛下?」
 甘ったるい声音で暁嵐に呼びかける皇太后と目が合ったその刹那、チリチリという(しび)れるような感覚が暁嵐のうなじを駆け抜けた。手の震えを誰にも気づかれぬようそっと握る。
 生まれた時から対立し、何度も命を狙われてきたこの女に、今はじめて暁嵐は恐れを抱いたのだ。
 もしこのまま、暁嵐が後宮の妃を拒み続け、凛風を閨に呼ばなければ、暗殺計画は失敗に終わる。早々に凛風は処分されるだろう。
 彼女にとって凛風はただの駒。失敗したなら即座に切り捨てられる存在だ。
「――あいわかった」
 皇太后の目を見据えて、暁嵐は答えた。
「明日は必ず妃を閨に呼ぶ」
 言い切ると、家臣たちがいっせいに安堵の表情を浮かべた。
「陛下、ありがとうございます」
 丞相が嬉しそうに礼を言う。
 その彼にちらりと視線を送ってから、皇太后が笑みを浮かべた。
「どの妃をお召しになるのか楽しみにしております、陛下」

 陽然に傷痕を見られた次の日の夜、凛風が迷いながら湯殿へ行くと彼はすでにそこにいた。さっさと湯浴みをしろと、凛風を急かす。
 しかし黒翔の毛並みを整えた後、(ひづめ)の手入れをするのは許されなかった。
「今宵はそれで終いにしろ。手習いに暇が取れなくなる」
「え? ……でも」
「蹄の手入れは俺がやる。ほら、来い」
 黒翔の不満そうな鼻息を聞きながら、凛風が岩場へ行くと彼は凛風に腕を出すように促した。
 戸惑いながら従うと、彼は凛風の腕に紐を巻き付けていく。驚く凛風が彼を見ると視線の先で少し照れくさそうに口を開いた。
「こうすれば、腕をまくらずとも袖に墨がつくことはない」
 意外すぎる彼の言葉に、凛風は目を見開く。また泣き出しそうになってしまう。
 醜い腕の傷を見られてしまい、傷ついていた心があっという間に癒やされていくのを感じた。
 あの傷を見た人は、すべからく凛風を軽蔑し馬鹿にした。昨夜の凛風は彼にそう思われるのがつらくてたまらなかったのだ。
 でも彼はそうはせず、それどころか凛風が傷を気にせずに手習いを続けられるよう考えてくれたということだ。
 昨夜打ち消したいと願い胸の奥へ押し込めた彼への想いがまた頭をもたげるのを感じた。
「ほら、はじめるぞ」
「……はい」
 答えて凛風は筆を持つ。すると彼は当然のようにその手に自分の手を重ねる。正しい書き方を今一度確認するということだろう。背後から自分を包む温もりに、凛風の鼓動が飛び跳ねる。
「止めと跳ねを意識しろ。払いは、わかるな?」
 すぐ近くから聞こえる低い声音がどうしても甘く耳に響いて、凛風はたまらずに唇を噛む。
「次はひとりで書いてみろ」
 陽然がそっと離れると、凛風は息を吐いて筆を握り直した。
ゆっくりと先ほどの感覚を思い出しながら紙の上で筆を滑らせる。彼の字には遠く及ばないながら、ずいぶんとよくなってきた。
「ん、いいな」
 その言葉につられて視線を上げると、彼が笑みを浮かべて凛風を見つめていた。
 その優しい眼差しに、凛風の鼓動が大きく鳴って、諦めにも似た気持ちを抱いた。
 結局押し殺すことなどできなかった。
 彼に強く()きつけられる想いが、自分の中に確実に存在する。
 この気持ちは、過酷な使命を課せられた自分には無用のもの、いやそれどころか、いざその時を迎えた時には(あし)(かせ)になると、わかっていても抗えない。
「これだけ書ければ上出来だ。もう少ししたら、文用の紙を持ってきてやる。自分の名を書いて送るだけでも、弟にはお前が息災だと伝えることができるだろう」
「……はい。ありがとうございます」
 凛風は答えて目を伏せる。
 彼は自分にとってはじめての男性(ひと)だ。
 はじめて名を教えてくれて、はじめて親切にしてくれた。
 そしてはじめての気持ちを教えてくれた人。
 男性を恋しく想う気持ちなど、知識としては知っていても自分とは関係ない必要ないと思っていた感情だ。一生知らなくてよかったのに。
 ――どうして今になって……。
 改めて凛風は自分の運命を呪う。
 どうして今になって、出会ってしまったのだろう。
 人生の終わりが見えている今、この気持ちを知ってしまっても、つらくなるだけだというのに……。
 彼の出会いは、自分にとって正しいことではないように思えて、それがただつらかった。

 どーんどーんと銅鑼が鳴る中、凛風は大廊下を他の妃たちとともに大広間に向かっている。毎朝恒例の皇帝の謁見である。
 他の妃たちのおしゃべりを聞きながらこっそりあくびを噛み殺す。昨夜も陽然のことを考えて、よく眠れなかった。
 彼への想いは、どんなに押し殺そうとしても、消し去ろうと試みても、まったく無駄に終わってしまう。
 それならばもう湯殿へ行くべきではない。彼に会わなければ、胸の想いもいずれはなくなるだろうから。わかっていてもそれもできそうにないのが情けなかった。
 浮かない気持ちで凛風は大広間の自分の場所に着席する。頭を下げて皇帝を待った。
 銅鑼がどーんと鳴ると、その場が水を打ったように静まり返る。玉座の向こうの扉が開き、皇帝が入室した。
「面を上げよ」
 よく響く低い声に、隣の妃が顔を上げる。でも凛風は頭を下げたままだった。
 後宮入りした初日から今日まで、凛風は一度も顔を上げていない。どうしても皇帝の顔を見るのが怖いからだ。
 末席の妃など誰も気に留めないのだろう。それを(とが)められたことはない。頭を下げたまま、丞相と皇帝のいつものやり取りが終わるのを待つ。
「陛下、今宵お召しになられたいお妃さまはいらっしゃいますか」
 丞相からの伺いに、皇帝が口を開いた。
「ああ、いる」
 その答えに、一同息を呑む気配がする。隣の妃が「うそ」と呟くのを聞きながら、凛風も目を見開いた。
 本来なら皇帝の御前でおしゃべりは厳禁だ。だが、今は咎められるどころか、あちらこちらから囁くような驚きの声があがっている。
 無理もない。
 後宮が開かれてひと月以上、(かたく)なに妃を拒んでいた皇帝が、いきなり妃を所望したのだ。妃たちどころか役人たちも驚いている。
 その中で、丞相は落ち着いていた。
「して、そのお妃さまは、どなたさまにございますか?」
 その問いかけに皆が(かた)()を呑んで見守る中、皇帝はしばし沈黙する。しばらくしてよく通る声で答えた。
「今宵は、百の妃を所望する」
 その言葉に、凛風は目を見開き、石畳の床を凝視した。
自分の耳が信じられなかった。
 ここにいる女たちは皆皇帝の妃なのだから、誰が召されてもおかしくはない。それは凛風とて同じこと。だが顔を見たこともない最下位の妃を所望するなどどう考えてもあり得ない。
 きっとこれは聞き違い。
 混乱する頭で、凛風は自分を落ち着かせようと試みる。だがあまりうまくいかなかった。
 しばらくすると周りのざわざわが大きくなる。皇帝が立ち去ったのだ。
 心の臓がどくんどくんと嫌な音を立てるのを聞きながら、凛風は恐る恐る顔を上げる。きっと自分ではない他の誰かが指名されているはずと願いながら。
 けれど顔を上げた瞬間に、絶望感に襲われる。大広間にいる者全員が、怪訝な表情で凛風に注目していたからだ。
「なんであんたが?」
 隣に座る九十九の妃が憎々しげに呟いた。
 ――聞き間違いではなかった。
 皇帝に指名されたのは間違いなく自分なのだ。
 今宵凛風は、彼の寝所に行かなくてはならない。
すなわちその時が、凛風の最期の時。
「ねえ、どういうこと?」
「あり得ない。なにかの間違いでしょう?」
 ひそひそと話す妃たちの言葉がどこか遠くに聞こえる。この世界が現のことではないように思えた。
 頭に浮かぶのは、陽然のことだけだ。
 もう彼を目にすることは叶わない。別れの言葉も言えていないのに……。
 自分を見るたくさんの人の中に、彼がいないだろうかと凛風は視線を彷徨(さまよ)わせる。
 せめてもう一度だけでも、彼の姿を目にしたい。
 ……けれどいくら探しても彼の姿は見えなかった。


 日が落ちた後宮にて、静まり返った大廊下を、先導する女官に続いて凛風は歩いている。
 頭に挿した簪がいつもより重く感じる。前で組んだ両手の震えがいつまでも治らなかった。
 両脇にはずらりと並ぶ妃たち。部屋から出てきて凛風を憎々しげに睨んでいる。
「あの子……あんなに汚い身体で陛下のもとへ上がるつもり? 正気じゃないわ」
「陛下はご存じないのよ、あの汚い傷」
「きっとすぐに戻されるわ。帰ってきたら笑ってやりましょう」
 今、凛風は、実家から持ってきた肌が隠れる衣服ではなく、後宮にて用意された薄い衣装を身に着けている。皇帝の気を引く装いをするのは閨に召された妃の義務なのだという。
 真っ直ぐに続く廊下の先を見つめる凛風の目は絶望の色に染まっていた。
 謁見後、凛風はすぐさま女官たちに取り囲まれ、皇帝の寝所に召されるための準備に取りかかった。
 湯浴みをして髪を梳き、爪を整える。寝所に召された際の手順から閨での作法までを後宮長から教えを受けた。やることは際限なくあり、自室へ戻ることも許されないほどだった。
 長い廊下は、自分の死へ続く道。
前後を挟む女官が黄泉(よみ)の国からの使者ように思えた。
 今すぐに逃げ出してしまいたい。いつものように湯殿へ行き、陽然の顔を見たい。
 でもそれは決して許されないことだった。
そのようなことをすれば、浩然の命はない。
 ――ごめんね、浩然。
 一瞬でも逃げたいと思ってしまった自分を凛風は責める。自分の心と弟の命、比べることなどできるはずもないというのに……。
 一行は、後宮と清和殿を繋ぐ外廊下に差しかかる。清和殿の建物へ続く階段の下で、女官長が立ち止まり振り返った。
「この扉の先が、陛下がいらっしゃる清和殿にございます。我らはここより先は行けない決まりになっております」
 凛風は震える脚で階段を上る。清和殿は荘厳な空気に包まれていた。
 階段を上りきると繊細な彫りが施された観音扉が音もなく開く。中に入ると背後で閉まる。
 前室は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
 この世ではない場所に足を踏み入れたような危機感に襲われる。今から自分が対峙するのは、本当に人ではない存在なのだ。殺めることなどできるはずはないと思うのに、やらなくてはならないのだ。
 あらかじめ女官長から聞いかされていた作法の通り、奥の扉に向かって凛風は口を開いた。
「百の妃、郭凛風参りました」
 扉がゆっくりと開いた。
 こくりと喉を鳴らして、凛風は首を垂れる。床に視線を固定したまま、部屋へ入ると、背後で扉が閉まる音がした。気が動転してどうにかなってしまいそうだ。悪い夢だったらどんなにいいか。
 女官長から教えられた作法はここまでだ。後は皇帝に身を任せろと言われている。
 首を垂れたまま、凛風は彼の足音がこちらへ近づいてくるのを、固唾を呑んで聞いている。足先が視線に入ったその刹那、ふわりと感じる香りに、凛風の頭が混乱する。
 今朝、皇帝の指名を受けてからひと目だけでも会いたいと思い続けたあの人の香りのように思えたからだ。
会いたいと強く思いすぎて、ありもしないことを感じてしまったのだろうか。
 視界の中の靴の足先も、彼が纏う衣も最上級品だ。一介の役人が身につけられるものではない。目の前にいるのは、紛れもなく皇帝だ。
「いつまでそうしているつもりだ?」
 どこか楽しげな声が聞こえて、凛風は目を見開く。この声音にも聞き覚えがあった。
 顔を上げて皇帝の顔を見た瞬間、「え」と掠れた声が出る。そのまま彼の顔を見つめて言葉を失った。
 皇帝と思っていた相手が陽然だったからだ。
 自分は目までおかしくなったのだろうか? ありもしない幻覚を見るなんて。
 いつまでも彼を見つめたままなにも言えない凛風に、彼は楽しげにふっと笑った。
「驚きすぎて、言葉が出ないようだな」
「陽然、さま……?」
 掠れた声で尋ねると、彼は笑みを浮かべたまま頷く。
「ああそうだ、俺だ。陽然は幼名だ。今の名は暁嵐」
「陽然さまが、皇帝陛下……」
 唖然としたまま呟いて、自分の言葉にハッとする。目の前に広がる絶望の色がより濃くなるのを感じた。
 陽然が皇帝だった。
 つまり自分は、彼を殺めなくてはならないということだ。
 なんて残酷な定めのもとに生まれてしまったのだろうと、凛風は自分の運命を呪う。同時にやはり自分は彼を愛おしく思っているのだと確信する。
 彼は、凛風が生まれてはじめて特別な感情を抱いた人であり、凛風に名前を書けるよう教えてくれた人なのだ。
 その彼を殺めなくてはならないなんて……!
 頭がカァッと熱くなり鼓動がばくばくと鳴りはじめる。指先からスッと冷えるような心地がした。そのまま身体の力が抜けて崩れ落ちそうになったところを、彼に素早く抱きとめられた。
「大丈夫か」
 抱き上げられ、寝台へ運ばれる。肌触りのいい上質な敷布の上に優しく下ろされた。
 寝台の隣に腰を下ろした彼が自分を見つめる優しげな眼差しに、凛風の胸はズキンと痛む。
「驚かせて悪かった」
 彼の手が凛風の頬をそっと撫でるその感触を心地よく感じてしまうのがつらかった。
もっと触れてほしいと思うのに、それはふたりの死への道筋を辿ることを意味するのだ。
 凛風が胸元の手をギュッと握った、その時。
「安心しろ、伽をせよとは言わん」
 暁嵐がふっと笑って、自分が着ていた上衣を脱ぎ、薄い衣装の凛風を包んだ。
「……え?」
 首を傾げると、肩をすくめた。
「俺は伽をさせるためにお前を閨に呼んだのではない」
 意外な言葉に、凛風は瞬きをする。
 寝所に召されても、閨をともにしなければ、使命を実行することはできない。彼にその気がないということは、とりあえず今夜は使命を果たさなくていいということだ。
「そう……なんですか」
 凛風はホッと息を吐く。
 意外な成り行きではあるけれど、差しあたって今夜は生きながらえることができたのだ。
 緊張が一気に溶けて胸を撫で下ろす凛風に、暁嵐が噴き出した。驚き首を傾げる凛風の視線の先で、そのまま肩を揺らしている。
「あの……?」
「皇帝の伽を逃れて、そのようにあからさまに安堵するな。不敬罪に問われても仕方がない振る舞いだぞ」
「え!? あ……。も、申し訳ありません」
 指摘の意味を理解して、凛風は慌てて謝罪した。
 凛風が安堵したのは、今すぐに使命を実行しなくてよいからだ。彼と閨をともにしたくなかったからではない。
でも凛風の正体を知らない彼から見たら失礼な振る舞いに見えたのだろう。
 妃が皇帝の伽を嫌がることなどあってはならないこと。今彼が言ったように罰を受けても仕方がない。
 でも彼にそのつもりはないようだ。
 心底おかしそうに笑っている。その姿を見るうちに、凛風の中で自分が恋しく思っていた男性と皇帝としての彼が完全に一致する。思い切って尋ねてみることにする。
「……ではなぜ、私をここへ呼んだのですか?」
 閨に侍らせるつもりがないなら、どうしてわざわざ指名して寝所で会う機会を作ったのだろう?
「俺が妃を呼ばないことを皆が不満に思っている。とりあえず誰かを呼べば納得するだろうと思ったのだ」
 つまり彼は、家臣たちへの手前、凛風を呼んだというわけだ。
 確かに、誰も寝所に呼ばれないことについては、妃たちの間でも相当不満が溜まっていた。今宵のことで彼女たちが納得したわけではないけれど、誰も呼ばれないという状況よりはましになったと言えるだろう。
 実際、ここへ来るまでの廊下でも『次は私』といった囁きも耳にした。
「それに、手習いには岩場は不向きだからな」
「手習いを……? ここでしてもいいのですか?」
 思いがけない彼の話に、凛風は弾んだ声で聞き返した。
 いったん使命から逃れられただけでなく、一度諦めた手習いを続けることができるのだ。絶望の色に塗りつぶされていた心に、再び光が差し込んだような心地がする。
「ああ、だが今宵はダメだ。疲れているようだからな。明日からは毎夜お前をここへ呼ぶ。その時に」
「ありがとうございます」
 思わず笑みを浮かべてしまってから、少し気まずい思いで彼を見る。
夜伽より手習いをできることを喜んでしまったのが、さっきのように失礼にあたらないか心配になったのだ。
「も、もちろん、陛下の夜伽の方が大切ですが……」
 ごまかすように妃としての最低限の言葉を口にすると、彼は凛風を安心させるように首を横に振った。
「さっきはああ言ったが気にする必要はない。もともと俺は、その気がない妃に伽をさせるつもりはないからな」
「その気がない妃には伽をさせない……?」
 彼の言葉を、凛風は心底不思議に思う。皇帝である彼の口から出たとは思えない内容だ。
 皇帝はこの国の最高権力者で、望めばなんでも思うまま。彼の意向に臣下である民が従うのはあたりまえだ。彼がいちいち従わせる者の心境を気にする必要はない。
 固まったまま考える凛風に、暁嵐が眉を寄せて問いかけた。
「まだ不安か? 俺は嘘は言わん」
「い、いえ、そうではありません。陛下のお言葉を疑っているわけではなく、ただ……」
「ただ?」
 問われるままに、素直な疑問を口にする。
「少し、不思議なお言葉に思えました」
「どういうことだ?」
「……陛下が……その、妃(わたしたち)の心を考えてくださるのが……。従うべき者は胸の内がどうだろうと、力のある者に従うべきですから」
 凛風の言葉に、暁嵐は険しい表情になり、強い視線を凛風に向けた。
「いいか、凛風」
 力強く自分の名を呼ぶ暁嵐に、凛風は目を見開いた。
「俺はそのようなことはしない。民が己の心のままに生きられる世を作ると決めている」
「己の心のままに生きられる世……?」
「そうだ。身分の上下に関わらず。嫌なものは嫌だと言える世だ。だから俺はたとえ相手が家臣だろうが妃だろうが、相手の心を蔑ろにして、望まぬことを強いることはしたくないと思っている」
 彼の言葉は、凛風にはおかしなことのように思えた。身分の低い者、力のない弱い者は強い者に従う。その仕組みでこの世は成り立っている。
 そもそも人が弱い存在で、鬼である彼に魑魅魍魎から守ってもらわなくては存在できないというのに。
「家臣を従わせている俺がこのようなことを言うのはおかしいか?」
「そのようなことは……。ですが、考えたことのない話でしたので……」
 混乱しながら凛風は答える。彼の言う世が、人にとっていい世なのかどうかすらよくわからなかった。
「ならこれから考えろ。もしそのような世であれば、お前はどうするのか。どのような行く末を望むのか」
「どのような行く末を望むのか……」
 混乱したまま呟くと、暁嵐が表情を緩ませ凛風の頭をポンポンとした。
「すぐに、とは言わん。とにかく今宵は疲れたであろう。もう休め」
 そう言って彼は寝台の掛布をまくる。
 寝台に横になるように促され、凛風はどきりとして固まった。
 確かに今日は疲れたが、ここで休むわけにはいかない。なにせここは彼の寝台なのだ。凛風がここで寝るということは、彼と同じ寝台で眠ることを意味する。
「へ、陛下……私は、床で寝ます」
 頬が熱くなるのを感じながらそう言うと、彼は不快そうに眉を寄せた。
「陛下はやめろ。今まで通り、名でいい」
「名って……暁嵐さま……ですか?」
「それでいい。それから俺は女を床に寝かせる趣味はない。同じ寝台で寝るのが嫌なら、俺が床で寝る」
 有無を言わせぬようにそう言われて、凛風は慌てて首を横に振った。
「同じ寝台で大丈夫です。嫌ではありません」
 まさか彼に床で寝てもらうわけにはいかない。
 暁嵐が寝台に向かって首を傾ける。ならば言う通りにしろという意味だ。
 凛風が恐る恐るそうすると、彼も隣に横になる。
 大きな寝台だから互いの身体が触れ合うことはなさそうだ。それでも隣に彼がいるという状況に凛風の胸はドキドキとした。
 とても寝られそうにない。
 けれど、皇帝のために用意された寝心地のいい寝台の中で目を閉じると、途端に眠気が襲ってくる。
 暁嵐の手が頬に触れたように感じても、目を開けることができなかった。優しい温もりは、なぜか母を思い出す。
 己の心のままに生きられる世。
 もしそのような世であれば、自分はどのような行く末を望むのか……。
 彼からの問いかけを頭の中で繰り返し、凛風は眠りに落ちていった。

 すうすうという凛風の呼吸が規則的になったのを確認して、暁嵐はむくりと起き上がる。そして、凛風の髪に挿したままになっている簪を引き抜いた。
 鋭く尖った先が紫色に変色している。術がかけられている証だ。弟の輝嵐の仕業に違いない。暁嵐を絶命させるにはやや弱いが、やつにはこれが精一杯なのだろう。
 枕に顔をうずめて眠る凛風の、少し幼く見える頬に手を伸ばす。柔らかな感触に胸が甘く締め付けられた。
 部屋へ入ってきた時の凛風は、遠目にもわかるほど怯え震えていた。自らに課せられた使命に恐れ慄(おのの)いていたのだろう。その姿に暁嵐の胸は痛んだ。
 すぐにでも抱きしめて、つらい使命から解き放つと言いたくなる衝動に駆られたが、奥歯を噛んでどうにか耐えた。
 彼女の心と抱えているものがわからないままに、それをするのは危険だからだ。彼女と皇太后がどのくらい深く繋がっているのかを確認する必要もある。そもそも彼女自信が、使命から解き放たれたいと思っているのかどうかすらわからないのだから。
 それでも。
 暁嵐が皇帝だと知った時の絶望に染まる瞳に、暁嵐は希望を見出した。
 やはり刺客としての役割は、彼女の本意ではないと確信したからだ。
 彼女を危険な使命へと駆り立てるもの。自らの命を投げ打ってでも使命を果たさなくてはならないと思うのはなぜか、その答えを必ず見つけ出してみせる。
そして必ずこの手で彼女を救い出す。
 ひと時の平和を楽しむように眠る凛風を見つめて、暁嵐はそう決意する。
 彼女に、己の行先を自分で考えるように言ったのはその第一歩だった。
彼女が自分で考えて自らの意思で、暁嵐に心を預けてくれるなら、どのようなものからも守ってやることができる。
 もう迷いはなかった。
 閉じた長いまつ毛と、柔らかな頬、桜色の唇も。
 彼女のすべてに、暁嵐の心は囚われているのだから。
 目にかかる黒い艶やかな髪をそっと払うと、彼女は「ん」と唸(うな)ってこちら側に寝返りを打つ。
 暁嵐は笑みを浮かべて、真っ白な額に口づけた。