自分の名を練習した紙と筆を抱えていつものように湯殿に着くと、黒翔と陽然はすでにいた。凛風に気がつくと陽然は大股にこちらへやってきて、少し強く両腕を捕む。そして目を丸くする凛風の顔をじっと見た。
「あ……あの、どうされましたか?」
尋ねると、眉を寄せたまま口を開いた。
「具合が悪いのではないのか?」
「え? いえ……どこも悪くありません」
戸惑いながら答えると、再び彼は問いかける。
「だが朝の謁見にいなかったではないか」
その指摘に、凛風はドキッとした。厩の役人だと思っていたけれど、彼は思っていたよりも地位の高い役人だったようだ。朝の謁見に参加できるのは、主だった家臣のみだ。
「謁見に陽然さまもいらっしゃったのですね。……申し訳ありません」
「責めているわけではない。だが具合が悪くないなら、なぜいなかった?」
「そ、その……」
陽然からの追及に凛風は言い淀む。
寝坊をして謁見を欠席したなどと白状するのは恥ずかしい。けれど他にいい言い訳も思いつかず仕方なく口を開いた。
「昨夜、部屋へ戻ってから、手習いをしておりまして……」
「手習いを?」
「はい……それで、寝過ごしました」
気まずい思いで凛風が言うと、陽然が目を見開いた。
「も、申し訳ありません……」
「いや」
そう言う彼の口元が一瞬緩む。でもすぐに咳払いをして、いつもの不機嫌な表情に戻った。そして小言を口にする。
「明日からは昼間にやれ」
「はい」
「それが練習した紙だな? 見ておくからその間に湯浴みをしろ」
「はい」
凛風がいつものように湯浴みをし黒翔の世話をする間、彼は岩場に凛風が書いた紙を広げて見ていた。
その姿に凛風は申し訳ない気持ちになる。出来がよくないのを自覚しているからだ。一生懸命練習したがどうにもうまく書けなかった。陽然が書いた美しい文字とは雲泥の差だ。
「お、同じように書いていたつもりなのですが、陽然さまのように上手に書けなくて……」
もじもじしながら凛風が言う。笑われてもおかしくはないくらいだと思うけれど、彼はそうはせず真剣な表情で見ている。そして凛風の字を指で辿った。
「まず、ふたつの文字の大きさが揃うように心がけろ。慣れるまでは紙を半分に折って書くといい。それから止めにはしっかりと力を入れ、跳ねる箇所は力を抜くのだ。来い」
そう言って彼は手招きする。
「筆を持て」
促されるままに、筆を持ち紙に向かうと、凛風を後ろから抱え込むようにして筆を持つ手に自らの手を重ねた。
どくんと、鼓動が大きく跳ねる。陽然の体温とどこか高貴な香りに包まれて、思わず声が漏れそうになるのを唇を噛みなんとか耐えた。
彼の手が添えられた筆が、ゆっくりと動く。
「止めはこうだ。力を入れて筆を上げる。跳ねは、ゆっくりと力を抜く」
すぐ近くから聞こえる低い声音が、どうしてか甘く凛風の耳に届く。心の臓はますます大きな音を立てて、彼に聞こえないかと心配になるくらいだ。
「一箇所一箇所手を抜かなければ整ってくるだろう。わかったか?」
「はい……」
蚊のなくような声で答えるのがやっとだった。頬が熱くてたまらない。動揺を隠せない凛風に、陽然が咳払いをしてそっと離れた。
「書いてみろ」
頬を真っ赤にしたまま頷いて、凛風は再び紙に向かう。突然の接近に高鳴る鼓動を落ち着かせる。せっかく教えてくれているのだ、少しも無駄にしたくない。
止めと跳ねを意識して、紙の上で筆を滑らせる。彼が見ていると思うと平常心ではいられないが、それでも言われたことを意識するだけで、ひとりで書いていた時よりずいぶんよくなっているように思えた。
「できました!」
振り返り陽然を見た凛風は、息が止まりそうになってしまう。彼が口元に笑みを浮かべていたからだ。身体が離れて少し落ち着いていた鼓動が、また速度を上げていく。
「うん、よくなった。もう一度書いてみろ。繰り返すことで身体に覚えさせるんだ」
今までよりも格段に優しい声音と眼差しに、頭が茹で上がるような心地がする。慌てて目を逸らし、もう一度筆に墨をつけた。そこへ陽然の手が伸びてくる。
「袖が墨につく。腕をまくれ……」
そう言って彼は凛風の衣服の袖に手をかける。引き上げられて、凛風の腕の傷痕が露わになった。
「っ……!」
とっさに凛風は腕を引き、袖をもとに戻す。手から離れた筆がコロロと転がり地面に落ちた。
驚き止まる陽然に、凛風は目を伏せる。
先ほどまでの浮き立っていた気持ちが急速に冷えていく。
一瞬だが確実に彼に見られてしまった。継母につけられた醜い傷を。
重い沈黙がふたりの間に横たわる。
「も、申し訳ありません……」
ようやく声を絞り出すと、彼は首を横に振った。
「いや、こちらこそ不用意に触れて悪かった」
そして地面の筆を拾い上げ、凛風に持たせる。
「この調子だと紙がすぐになくなるな。明日は、新しい紙を持ってこよう」
そう言って黒翔の手綱を取る。帰るのだ。
でもいつものように歩き出そうとして立ち止まり、しばらくして振り返った。
「お前も来い。後宮まで送る」
「え? ……でも」
意外すぎる申し出に凛風は戸惑う。いくらなんでもそこまでしてもらうのは申し訳ない。
「夜道は危険だ、早くしろ」
けれどそうまで言われては固辞することもできなくて、凛風は頷いた。
「あ……あの、どうされましたか?」
尋ねると、眉を寄せたまま口を開いた。
「具合が悪いのではないのか?」
「え? いえ……どこも悪くありません」
戸惑いながら答えると、再び彼は問いかける。
「だが朝の謁見にいなかったではないか」
その指摘に、凛風はドキッとした。厩の役人だと思っていたけれど、彼は思っていたよりも地位の高い役人だったようだ。朝の謁見に参加できるのは、主だった家臣のみだ。
「謁見に陽然さまもいらっしゃったのですね。……申し訳ありません」
「責めているわけではない。だが具合が悪くないなら、なぜいなかった?」
「そ、その……」
陽然からの追及に凛風は言い淀む。
寝坊をして謁見を欠席したなどと白状するのは恥ずかしい。けれど他にいい言い訳も思いつかず仕方なく口を開いた。
「昨夜、部屋へ戻ってから、手習いをしておりまして……」
「手習いを?」
「はい……それで、寝過ごしました」
気まずい思いで凛風が言うと、陽然が目を見開いた。
「も、申し訳ありません……」
「いや」
そう言う彼の口元が一瞬緩む。でもすぐに咳払いをして、いつもの不機嫌な表情に戻った。そして小言を口にする。
「明日からは昼間にやれ」
「はい」
「それが練習した紙だな? 見ておくからその間に湯浴みをしろ」
「はい」
凛風がいつものように湯浴みをし黒翔の世話をする間、彼は岩場に凛風が書いた紙を広げて見ていた。
その姿に凛風は申し訳ない気持ちになる。出来がよくないのを自覚しているからだ。一生懸命練習したがどうにもうまく書けなかった。陽然が書いた美しい文字とは雲泥の差だ。
「お、同じように書いていたつもりなのですが、陽然さまのように上手に書けなくて……」
もじもじしながら凛風が言う。笑われてもおかしくはないくらいだと思うけれど、彼はそうはせず真剣な表情で見ている。そして凛風の字を指で辿った。
「まず、ふたつの文字の大きさが揃うように心がけろ。慣れるまでは紙を半分に折って書くといい。それから止めにはしっかりと力を入れ、跳ねる箇所は力を抜くのだ。来い」
そう言って彼は手招きする。
「筆を持て」
促されるままに、筆を持ち紙に向かうと、凛風を後ろから抱え込むようにして筆を持つ手に自らの手を重ねた。
どくんと、鼓動が大きく跳ねる。陽然の体温とどこか高貴な香りに包まれて、思わず声が漏れそうになるのを唇を噛みなんとか耐えた。
彼の手が添えられた筆が、ゆっくりと動く。
「止めはこうだ。力を入れて筆を上げる。跳ねは、ゆっくりと力を抜く」
すぐ近くから聞こえる低い声音が、どうしてか甘く凛風の耳に届く。心の臓はますます大きな音を立てて、彼に聞こえないかと心配になるくらいだ。
「一箇所一箇所手を抜かなければ整ってくるだろう。わかったか?」
「はい……」
蚊のなくような声で答えるのがやっとだった。頬が熱くてたまらない。動揺を隠せない凛風に、陽然が咳払いをしてそっと離れた。
「書いてみろ」
頬を真っ赤にしたまま頷いて、凛風は再び紙に向かう。突然の接近に高鳴る鼓動を落ち着かせる。せっかく教えてくれているのだ、少しも無駄にしたくない。
止めと跳ねを意識して、紙の上で筆を滑らせる。彼が見ていると思うと平常心ではいられないが、それでも言われたことを意識するだけで、ひとりで書いていた時よりずいぶんよくなっているように思えた。
「できました!」
振り返り陽然を見た凛風は、息が止まりそうになってしまう。彼が口元に笑みを浮かべていたからだ。身体が離れて少し落ち着いていた鼓動が、また速度を上げていく。
「うん、よくなった。もう一度書いてみろ。繰り返すことで身体に覚えさせるんだ」
今までよりも格段に優しい声音と眼差しに、頭が茹で上がるような心地がする。慌てて目を逸らし、もう一度筆に墨をつけた。そこへ陽然の手が伸びてくる。
「袖が墨につく。腕をまくれ……」
そう言って彼は凛風の衣服の袖に手をかける。引き上げられて、凛風の腕の傷痕が露わになった。
「っ……!」
とっさに凛風は腕を引き、袖をもとに戻す。手から離れた筆がコロロと転がり地面に落ちた。
驚き止まる陽然に、凛風は目を伏せる。
先ほどまでの浮き立っていた気持ちが急速に冷えていく。
一瞬だが確実に彼に見られてしまった。継母につけられた醜い傷を。
重い沈黙がふたりの間に横たわる。
「も、申し訳ありません……」
ようやく声を絞り出すと、彼は首を横に振った。
「いや、こちらこそ不用意に触れて悪かった」
そして地面の筆を拾い上げ、凛風に持たせる。
「この調子だと紙がすぐになくなるな。明日は、新しい紙を持ってこよう」
そう言って黒翔の手綱を取る。帰るのだ。
でもいつものように歩き出そうとして立ち止まり、しばらくして振り返った。
「お前も来い。後宮まで送る」
「え? ……でも」
意外すぎる申し出に凛風は戸惑う。いくらなんでもそこまでしてもらうのは申し訳ない。
「夜道は危険だ、早くしろ」
けれどそうまで言われては固辞することもできなくて、凛風は頷いた。