鬼神の100番目の後宮妃〜偽りの寵姫〜

 目の前に並べられた(あさ)()を前に、暁嵐はふわぁとあくびをする。建物の外から差し込む朝日を、少し(まぶ)しく感じて目を細めた。
 厳しい冬が終わりだんだんと春めいてきた。そろそろ初夏の国家行事、()(エン)(サイ)の準備をしなければと思っていると。
「お疲れのご様子ですね、陛下。昨夜はよく眠れませんでしたか?」
 朝餉の給仕をする従者に問いかけられる。
「いや、大事ない」
 暁嵐は首を横に振った。
 鬼である暁嵐の体力は人のそれとは比べものにならない。だから疲れてはいるわけではないが、昨夜、あまり寝ていないのはその通りだった。
 昨夜の、郭凛風について考えていたからだ。
 筆と紙を渡された時の驚いた様子と、嬉しそうに教本を開く姿、自分の名を目にした時の澄んだ涙は、真実の姿だったと暁嵐は思う。
彼女は本心から自分の名を書けるようになりたいと望んでいる。
 暁嵐を皇帝だと知らないのも、おそらくは本当だ。彼女は、目の前にいる暁嵐を殺めようとしてあの場にいるわけではない。
 一方で、状況が限りなくあやしいのも事実だ。
 暁嵐の身の回りに起こる変化に対する違和感は、いつも例外なく皇太后に繋がっていた。今回もなんらかの形でやつが関わっているに違いない。
 このふたつの事実から導き出される答えを、暁嵐は探している。
「陛下、昨日用意させていただきました紙や教本ですが、あちらでよろしかったでしょうか? 教本は絵つきのものの方がよかったかと少々迷いましたが……」
 問いかけられて、暁嵐は彼が昨夜凛風のために教本を用意した従者だと気がつく。
「ああ……あれでよかった」
 本当は絵つきのものがよかったのだが、自分が教えることにしたためもう必要ない。
 従者が安心したように表情を緩めた。
「それはよかったです。どなたかに差し上げるものだったのですか?」
「まぁ、そうだ」
 気まずい思いで暁嵐は頷く。
あの教本を暁嵐自身が使うわけがないから、そう答えるしかない。では誰に?と尋ねられたらどう答えるべきかと一瞬身がまえるが、とくにそのような様子はなく、彼はにこやかにまた口を開いた。
「どなたか知りませんがそれは喜ばれたでしょう。陛下からの賜りものならば、その子の上達も早そうだ」
 彼は暁嵐が教本をあげた相手を子供か、あるいはその親だと思ったようだ。そう言って納得している。
「私も家で待つ妻に贈り物をしたくなりました」
 従者たちは皆城に泊まり込み役目に従事している。家に帰るのは数カ月に一度の休暇の時のみだ。
「そなたには、妻がいるのか?」
 なんとなく興味が湧いて暁嵐は尋ねる。今まで従者たちの家族のこと、とりわけ妻についてはまったく関心がなかったが。
「はい」
 従者が頭をかいた。
「一昨年一緒になりました」
 夫婦なのに別に暮らすのはつらいだろうという考えが頭に浮かぶ。こんなことを思うのもはじめてだ。
「ならば、同じ家で生活したいだろう」
 暁嵐が言うと、彼は苦笑した。
「私の方はそうですが、妻の方はどうでしょうか。子ができてからは私などそっちのけで子にかかりきりにございます。ですから、贈り物でもして気を引いていないと、休暇で帰っても知らんぷりされてしまいます」
 少し(おど)けて大袈裟に肩を落としてみせる彼に、暁嵐は笑みを浮かべる。知らんぷりされるとはいっても夫婦円満だというのが見て取れる。
 夫婦がいて子ができる。このあたりまえの光景を守るために自分はいるのだと思う。
「ならば、さっそくなにかよいものを家に届けさせよ」
「はい、そういたします。ですが直接喜ぶ顔を見たいとも思いますので、休暇の時にしようかなとも思います」
 のろける彼に、暁嵐はふっと笑う。
 でもそこで、なにかが心に引っかかり食事をする手を止め考える。
『喜ぶ顔』という言葉に、昨夜、教本を受け取った時の凛風が、頭に浮かんだからだ。
 目を輝かせて心底嬉しそうに教本を開いている姿に、暁嵐は今まで感じたことのないむずがゆいような不思議な気持ちを抱いた。そして、教本に書かれてあることが理解できず肩を落とす様子を見て、思わず自ら字を教えることにしたのだ。
 今考えても、どうしてそんなことを買って出たのかわからない。
でもそこに、彼女のために筆と教本を用意させた時の疑問の答えがあるような気がした。
 なぜ自分は、凛風が筆や教本を望むのか、その意図がわからないままに彼女にそれらを、与えたいと思ったのか……。
 妻のことを思い出して幸せそうに笑う従者の顔を見ながら、暁嵐は考える。
 でもすぐに、まさかそんなはずはないとその答えを打ち消した。それは自分にはないはずの感情だ。ましてや相手は刺客としての疑いがかかる人物だというのに。
「陛下、そろそろ謁見の時刻にございます」
 別の従者から声がかかり、暁嵐は頭を切り替える。
 それがどのような気持ちだとしても自分には関係ない。やることは変わらないのだから。
 頭の中でそれを確認し、謁見へ向かうため立ち上がった。

 大広間では、すでに暁嵐を迎える準備が整っていた。自分に向かって平伏する大勢の家臣たち、その向こうの後宮の妃たちを横目に玉座に向かう。
 暁嵐は玉座に座り、凛風がいるであろう場所にさりげなく視線を送った。
 彼女と会うようになってから、毎日そこを見る癖がついた。誰にも気づかれないように一瞬だ。
 彼女は、暁嵐が面を上げる合図をしてもいつも頭を下げたまま。だから夜に会っている人物が皇帝だということに気が付かないのだろう。
 今朝も凛風の席を見た暁嵐は、そこがぽっかりと空いているのに気がついて、眉を寄せた。
 妃が朝の謁見を欠席するのが許されるのは、皇帝の寝所に召された次の日か、病の時……。
 暁嵐はそこを見つめたまま、昨夜の彼女の様子を思い出す。
 昨夜の彼女は、自分の名を見て感激して泣いていた。頬がいつもより蒸気しているように思えたものの、具合が悪そうではなかったが……。
「……か、陛下。いかがなさいましたか?」
 低い声で丞相に尋ねられて、暁嵐は今が謁見中だということを思い出す。暁嵐の合図がなければ、皆平伏したまま、顔を上げることができない。
「いや、大事ない」
 咳払いをして、皆に向かって口を開く。
「面を上げよ」
 その後はいつものやり取りを滞りなくこなしていく。
 だが、心はぽっかりと空いた凛風の席に向いたままだった。
 なぜ彼女は謁見を欠席している?
 これも刺客としての策に関わることなのだろうか?
 そんな疑問が頭に浮かぶが、それは()(さい)なことのように思えた。
 それよりも今この時、彼女が無事かどうかが気にかかる。
 先ほど、自分には関係ないと切り捨てたはずの感情が、またむくりと頭をもたげるのを感じた。
 彼女の身になにかあったのでは、という考えが頭をよぎる。皇太后側の人間は、皇太后の指先ひとつで瞬時に消されることも珍しくない。
「陛下、今宵は一のお妃さまにお渡りいただきます。よろしいでしょうか」
 自分に向かって、いつもの質問をする丞相の顔をじっと見て、暁嵐は考える。
 百の妃がなぜこの場にいないのか。彼女は無事なのかと尋ねたい衝動に駆られるが拳を作りどうにか耐えた。
 凛風の思惑と状況を把握できていないうちに公の立場で彼女に接触するべきではない。それこそ皇后の思う壺だ。
「陛下?」
 いつもより返答が遅い暁嵐に丞相が期待を込めた目で問いかける。
 暁嵐は首を横に振った。
「いや、私は今宵どの妃も所望せん」
 言い切って立ち上がり、玉座を降りた。大極殿を出て足早に外廊下を歩く。
 付き添いの従者に内密で凛風の様子を尋ねようかと考えるが、やはり思い留まった。
 彼女が無事であるならば、今宵も湯殿にやってくる。日が落ちればわかることをわざわざ今確認する必要はない。
 朝日を見上げて暁嵐は自分自身に言い聞かせる。
 たった一日だけのこと。
 いつも忙しく政務をこなしているうちに、あっという間に日は暮れる。
 ――だが。
 どうしてかそれが、今は途方もなく長く感じた。

「まったく! いったいどういうことにございます? お妃さまが謁見に出席しないなんて、後宮はじまって以来の大失態にございますよ!!」
 大廊下に後宮長の小言が響く。凛風はうつむいて、それを聞いていた。
 彼女が怒り心頭なのは、今朝凛風は寝坊して謁見をすっぽかしてしまったからだ。
 昨夜、部屋に戻った凛風はいつものように寝台に入って目を閉じた。けれどどうにも胸が騒いで眠ることができなかったのだ。
 はじめて自分の名前の字を目にした時の喜びと、それを書いてくれた男性の名前が胸の中をぐるぐる回って、頭は()える一方だった。
 仕方なく凛風は起き上がり、自分の名を書いてみることにした。心が落ち着くかと思ったのだ。墨を磨り、白い紙の上で筆を滑らせると、胸の中のざわざわは確かに少し落ち着いた。
 だが今度は手習い自体に夢中になってしまい、『あと一枚、次が最後』と思いながら続けるうちに朝を迎えてしまったのだ。
 もちろん謁見には参加するつもりだった。だがその前にひと休み、と思い寝台に横になったところ、次に目を開けたときはもう日が高くなっていたというわけだ。
 もちろん時間になっても起きない凛風を女官が放っておくわけがない。おそらく、他の妃たちがそう仕向けたのだ。
〝私たちが起こしておく〟とでも言ったのだろう。
 九十九の妃を含む数人が小廊下から顔を出して凛風が叱られるのを、くすくす笑って見ていた。
「うまくいったわ」
「だけど少し可愛そうね」
「あら寝坊したんだもの。自業自得よ」
 心底楽しそうである。
「謁見への欠席は前日にご寵愛を受けたお妃さまか、ご病気の時だけにございます。今後は絶対にこのようなことがないよう十分にお気をつけくださいませ!」
 もうかれこれ半刻ほど後宮長の説教は続いているが、内容は同じことの繰り返しである。
 妃たちは飽きもせずに凛風を見てくすくす笑いながら話をしている。
「それにしても寝坊で謁見を欠席するなんて、もったいないことをするわね。一日のうちで陛下のお顔を見られる唯一の機会なのに」
「私なんて、毎日陛下の足音が聞こえただけで、胸がドキドキしてどうにかなってしまいそうなのに」
「あら私もよ、頬がぽーっと熱くなって、いつまでも治らないわ」
 あれこれ言い合う妃たちの言葉に、凛風の胸がコツンと鳴る。
 そのような状態には、なんだか身に覚えがあるような……?
「あーん、もっとお目にかかりたいわ。朝だけなんて全然足りない」
「そういえば五十二のお妃さまが、閨に呼ばれるよう願いをかけて陛下のお名前を書いた紙を部屋に飾って毎日お祈りしてるって言ってた」
「あらそれ素敵。眺めるだけで陛下のおそばにいるような気になれそう」
 その話に、凛風はまた引っかかりを覚えて眉を寄せた。
 妃たちは皆、皇帝の寝所に召されたいと願っている。彼を男性として慕っているということだ。
 これが男性を恋しく思うということなのか、という普段の凛風なら気にも留めないことが頭に浮かんだ。
 さすがの凛風もそうした気持ちがこの世に存在するのは知っている。けれど自分には関係ないと興味がなかった感情だ。
 男性を恋しく思うと、胸がドキドキとして、頬の火照りがいつまでも治らない。相手の名前が書かれた紙を眺めたりして……。
 と、そこまで考えて、凛風の胸がどきりと鳴る。
 どちらも昨夜の凛風を(ほう)彿(ふつ)とさせる話だったからだ。
 昨夜は、部屋に戻ってからも胸の鼓動は治らず頬も火照ったままだった。
 陽然からもらった彼の名前が書かれた紙は帰ってすぐに机の引き出しにしまったが、寝台に入り目を閉じるとどうしてかもう一度目にしたいという気持ちになった。意味もなく引き出しから出してしばらく眺め、しまい込む。けれどまたすぐに見たくなり出してくる、ということを何度も何度も繰り返したのだ。
 どうしてあのようになってしまったのかいくら考えてもわからなかったが……。
 でもまさか、と凛風はその考えを打ち消した。
 そんなことあるはずがない。
 妃たちの話から、男性を恋しく思うとどうなるのかはわかった。
 でもやっぱり凛風とは関係がない話だ。よく似ているからって凛風もそうとは限らないのだから。
 ……けれど。
 ならどうして、昨夜の自分はあんな風になってしまったのだろう……?
 青筋を立てて説教を続ける後宮長をよそに、凛風はぐるぐると考えを巡らせていた。

 自分の名を練習した紙と筆を抱えていつものように湯殿に着くと、黒翔と陽然はすでにいた。凛風に気がつくと陽然は大股にこちらへやってきて、少し強く両腕を捕む。そして目を丸くする凛風の顔をじっと見た。
「あ……あの、どうされましたか?」
 尋ねると、眉を寄せたまま口を開いた。
「具合が悪いのではないのか?」
「え? いえ……どこも悪くありません」
 戸惑いながら答えると、再び彼は問いかける。
「だが朝の謁見にいなかったではないか」
 その指摘に、凛風はドキッとした。厩の役人だと思っていたけれど、彼は思っていたよりも地位の高い役人だったようだ。朝の謁見に参加できるのは、主だった家臣のみだ。
「謁見に陽然さまもいらっしゃったのですね。……申し訳ありません」
「責めているわけではない。だが具合が悪くないなら、なぜいなかった?」
「そ、その……」
 陽然からの追及に凛風は言い(よど)む。
 寝坊をして謁見を欠席したなどと白状するのは恥ずかしい。けれど他にいい言い訳も思いつかず仕方なく口を開いた。
「昨夜、部屋へ戻ってから、手習いをしておりまして……」
「手習いを?」
「はい……それで、寝過ごしました」
 気まずい思いで凛風が言うと、陽然が目を見開いた。
「も、申し訳ありません……」
「いや」
 そう言う彼の口元が一瞬緩む。でもすぐに咳払いをして、いつもの不機嫌な表情に戻った。そして小言を口にする。
「明日からは昼間にやれ」
「はい」
「それが練習した紙だな? 見ておくからその間に湯浴みをしろ」
「はい」
 凛風がいつものように湯浴みをし黒翔の世話をする間、彼は岩場に凛風が書いた紙を広げて見ていた。
 その姿に凛風は申し訳ない気持ちになる。出来がよくないのを自覚しているからだ。一生懸命練習したがどうにもうまく書けなかった。陽然が書いた美しい文字とは(うん)(でい)の差だ。
「お、同じように書いていたつもりなのですが、陽然さまのように上手に書けなくて……」
 もじもじしながら凛風が言う。笑われてもおかしくはないくらいだと思うけれど、彼はそうはせず真剣な表情で見ている。そして凛風の字を指で辿った。
「まず、ふたつの文字の大きさが揃うように心がけろ。慣れるまでは紙を半分に折って書くといい。それから止めにはしっかりと力を入れ、跳ねる箇所は力を抜くのだ。来い」
 そう言って彼は手招きする。
「筆を持て」
 促されるままに、筆を持ち紙に向かうと、凛風を後ろから抱え込むようにして筆を持つ手に自らの手を重ねた。
 どくんと、鼓動が大きく跳ねる。陽然の体温とどこか高貴な香りに包まれて、思わず声が漏れそうになるのを唇を噛みなんとか耐えた。
 彼の手が添えられた筆が、ゆっくりと動く。
「止めはこうだ。力を入れて筆を上げる。跳ねは、ゆっくりと力を抜く」
 すぐ近くから聞こえる低い声音が、どうしてか甘く凛風の耳に届く。心の臓はますます大きな音を立てて、彼に聞こえないかと心配になるくらいだ。
「一箇所一箇所手を抜かなければ整ってくるだろう。わかったか?」
「はい……」
 蚊のなくような声で答えるのがやっとだった。頬が熱くてたまらない。動揺を隠せない凛風に、陽然が咳払いをしてそっと離れた。
「書いてみろ」
 頬を真っ赤にしたまま頷いて、凛風は再び紙に向かう。突然の接近に高鳴る鼓動を落ち着かせる。せっかく教えてくれているのだ、少しも無駄にしたくない。
 止めと跳ねを意識して、紙の上で筆を滑らせる。彼が見ていると思うと平常心ではいられないが、それでも言われたことを意識するだけで、ひとりで書いていた時よりずいぶんよくなっているように思えた。
「できました!」
 振り返り陽然を見た凛風は、息が止まりそうになってしまう。彼が口元に笑みを浮かべていたからだ。身体が離れて少し落ち着いていた鼓動が、また速度を上げていく。
「うん、よくなった。もう一度書いてみろ。繰り返すことで身体に覚えさせるんだ」
 今までよりも格段に優しい声音と眼差しに、頭が茹で上がるような心地がする。慌てて目を逸らし、もう一度筆に墨をつけた。そこへ陽然の手が伸びてくる。
「袖が墨につく。腕をまくれ……」
 そう言って彼は凛風の衣服の袖に手をかける。引き上げられて、凛風の腕の傷痕が露わになった。
「っ……!」
 とっさに凛風は腕を引き、袖をもとに戻す。手から離れた筆がコロロと転がり地面に落ちた。
 驚き止まる陽然に、凛風は目を伏せる。
 先ほどまでの浮き立っていた気持ちが急速に冷えていく。
一瞬だが確実に彼に見られてしまった。継母につけられた醜い傷を。
 重い沈黙がふたりの間に横たわる。
「も、申し訳ありません……」
 ようやく声を絞り出すと、彼は首を横に振った。
「いや、こちらこそ不用意に触れて悪かった」
 そして地面の筆を拾い上げ、凛風に持たせる。
「この調子だと紙がすぐになくなるな。明日は、新しい紙を持ってこよう」
 そう言って黒翔の手綱を取る。帰るのだ。
 でもいつものように歩き出そうとして立ち止まり、しばらくして振り返った。
「お前も来い。後宮まで送る」
「え? ……でも」
 意外すぎる申し出に凛風は戸惑う。いくらなんでもそこまでしてもらうのは申し訳ない。
「夜道は危険だ、早くしろ」
 けれどそうまで言われては固辞することもできなくて、凛風は頷いた。

 後宮へ凛風を送り届け黒翔とともに厩目指して歩きながら、暁嵐はある結論に達していた。
 凛風が刺客だということは間違いない。あのような傷がある娘が後宮入りすることはあり得ないからだ。
 同時に、この出会いが彼女自身の意図するものではないという確信を深めてもいた。
 凛風がこの湯殿にやってきたのは間違いなく皇太后によって仕組まれたものだろう。そして彼女自身はそれに気づいていない。
その方が、より自然に暁嵐に取り入ることができるという皇太后の思惑だろう。
 人を人とも思わず、自らのために使い捨てることをあたりまえと考える皇太后らしいやり方だ。
 夜空を見上げて息を吐くと、自分の名を書けた時の彼女の輝く笑顔が脳裏に浮かび、胸が締め付けられるように痛んだ。
 皇帝暗殺という重い使命を課せられた身の上と、ひどい傷痕。
 弟へ手紙を書きたいという言葉と、自分の名を目にした時の涙。
 彼女のこれまでの境遇が過酷だったということは、想像に難くない。
 今宵彼女はただ純粋に、自分の名前を書けたことを喜んでいた。残酷な使命を果たすまでの束の間の喜びを味わっているのだろう。
 そのような者が、自ら望んで皇帝と差し違えたいなどと思うはずがない。脅されているか、そのように育てられたか、あるいはその両方かもしれない。どちらにしても皇太后がよく使う手だ。
 哀れだと心底思う。
 暁嵐と皇后との対立によって命を落とした者たちに対して、暁嵐がいつも抱いてきた感情だ。だがその中に、生まれてはじめての想いが存在するのを、暁嵐は確かに感じていた。
 手習いのために腕に抱いた彼女の甘やかな香りが、暁嵐の中の熱いなにかを加速させ、彼女を自分の手で救い出したいという強い思いに貫かれた。
 この感情は、今はじめて芽生えたわけではない。彼女と出会ってからずっと抱いていた違和感とともにあったもので間違いない。薄々気がついていながら、目を背け続けてきた感情だ。
 自分には必要ないと切り捨てようと試みたが、結局ずっと暁嵐の中に居座り続けている。
 彼女の、状況にそぐわないちぐはぐな行動の理由に思いあたった今、それはより濃い色を帯びてはっきりと存在を主張しはじめた。もはや切り捨てることはできそうにない。
 隣を歩く黒翔がぶるんと鳴いて、暁嵐の頬を突く。艶やかな黒い毛並みを撫でて、暁嵐は苦笑した。
「ああ、わかったよ。お前の目は確かだった」
 素直に負けを認めると、黒翔がふんと鼻を鳴らした。
 自分の中の特別な想いから目を逸らすのはもう終わりだ。
 彼女の傷を目にした時に感じた激しい怒りを思い出し、暁嵐はそう心に決める。
 自分で自分の心が思う通りにならないことははじめてだが、それに抗う気にはなれなかった。
 自分の心が、彼女を救い出したいと強く願っていることは紛れもない事実なのだから。
 それならば、これから自分はいったいどうするべきなのか。
 カッポカッポという黒翔の足音を聞きながら、暁嵐は考えを巡らせていた。

 陽然に後宮まで送り届けてもらった凛風は、自室へ戻り寝台へ入る。布団を被り目を閉じるが眠ることはできなかった。
 陽然に醜い傷痕を見られてしまった。そのことが、悲しくてつらかった。
 せめて右腕ではなく左ならよかったのに。
 右腕の傷は火傷(やけど)の痕だから、特に醜い。馬小屋に寝起きするようになってすぐの頃、空腹に耐えきれず炊事場から包子をこっそり取って食べてしまい、煮えた鍋の中身を継母にかけられた時のものだ。
 今まで凛風は、誰に傷痕を見られても平気だった。
 馬鹿にされて眉をひそめられようが、自分はもともとそういう存在だとわかっているからだ。凛風の方も相手をどうとも思っていない。
 でも今は、陽然だけには見られたくなかったと強く思う。
 自分の価値は変わらなくとも、彼だけには……!
 掛け布をギュッと握ると目の奥が熱くなり、あっという間に涙が溢れた。
 はじめての感情が洪水のように押し寄せて、どうしていいかわからなかった。
 名前を書いてもらった時の熱い思いと、ほんの少し彼に触れただけで、勝手に高鳴る胸の鼓動。
 自分ではどうにもならない感情が自分の中に存在するのが怖かった。
 今の凛風に必要なのは、浩然のことのみを思い、一切の望みを捨てること。そうでなくては過酷な運命に身を投じられなくなってしまう。
 それなのに、陽然と一緒にいる時はそれを忘れてしまいそうになる。頭の中が彼のことでいっぱいになり、その先を望みたくなってしまうのだ。
 そんなことを考えてはいけないのに!
 昼間の妃たちの話が頭に浮かぶ。
 そんなはずはないと打ち消した考えが凛風を再び(さいな)んだ。
 この感情がどこからくるものなのか。
 それがどのようなものでも知りたくないと強く思う。
 きっと知ってしまったら、今よりもつらくなる。自分の置かれている環境を恨み、どうにかなってしまうだろう。
 敷布に顔を押し付け()(えつ)を殺して泣きながら、凛風は込み上げる感情と闘っていた。
 熱い涙で頬を濡らし、わからない、知りたくないと、心の中で幾度も幾度も繰り返す。陽然に対する熱い想いに消えてほしいと懇願した。
 けれど結局、空が白みはじめるまで、どれだけ強く願っても、どうしてもそれはできなかった。

 丞相から進言があると聞かされたのは、暁嵐が凛風を後宮まで送った次の日のことだった。
 皇帝が家臣からの進言を聞く時は、すべての家臣を集めた黄玉の間と決められている。一部の家臣のみからの意見を皇帝が聞き、偏った政治を行うのを避けるためだ。
 その会に向かう直前、秀宇が帰還した。
「暁嵐さま、ただいま戻りました」
 久しぶりに私室へ姿を見せた側近に暁嵐はまず労いの言葉をかける。
「戻ったのか。ご苦労だった。まずは身体を休めよ」
「ありがとうございます。ですが、それより先に急ぎ郭凛風についてのご報告をさせていただきたいと思います」
 腰掛けに身を預けて頷くと、秀宇が跪き口を開いた。
「結論から申し上げますと、百の妃が刺客で間違いございません。郭凛風には、腹違いの妹がおりまして、もともとはそちらの娘が後宮入りするため大切に育てられていたようです」
「妹?」
「はい。郭凛風は、郭凱雲の亡くなった前妻の子、後妻である今の奥方に(いと)われ下女以下の生活をしていたようです。母屋で寝起きすることも許されず。馬小屋で寝起きしていたと……郭家では彼女に話しかけたり親切にするのは御法度だったようです」
 その報告に暁嵐の胸は痛んだ。だが内容については納得だ。彼女は暁嵐に怯えながらも黒翔にははじめから心を開いていた。馬小屋で寝起きしていたから、馬の扱いを知っていたというわけか。
「ですから皆、当然妹が後宮入りするものと思っていたようですが、どうしてか直前になって姉に代わった。都からの使者が帰ったあとすぐに決まったそうです」
 後宮入りする娘は家柄を基準に選ばれる。
 もともとは妹のつもりだったとしても直前になって姉に変更になることくらいはあるだろう。だとしても馬小屋で寝起きさせていた娘を……というのはどう考えても不自然だ。
 娘を後宮入りさせるのは一家にとって誉なこと。さらにその娘が寵愛を受け鬼の子を産めば一族の安泰は約束される。どの家も一家の中で一番美しい自慢の娘を差し出すのだ。
 自慢の娘どころかのけ者にしていた娘を差し出すということは、郭家が皇帝の寵愛を望んでいないというだけでなく……。
「問題は郭凛風が後宮入りした後です。郭家の召使いによると、凱雲の妻は、残った妹に未だ後宮入りの準備を怠っていないということで、皆首をひねっていると……。後宮入りしないならと持ち込まれた縁談を片っ端から断っているそうです。まるで、妹も近い将来後宮入りするかのようだ、と言う者もいるようです」
 つまりは。
 虐げて育てた姉の凛風を犠牲にして功績を上げ、皇太后に取り立ててもらった後、新皇帝の後宮へ妹を入れるつもりだということか。一の妃にしてやるという密約があるのかもしれない。
 ――いずれにせよ、凛風は捨て駒というわけだ。
 暁嵐は奥歯を噛みしめた。
 腹の奥底から、気持ちの悪いどす黒い怒りが込み上げてくるのを感じた。凍てつく青い炎のようなこの怒りは、皇太后に対するものであり、自分に対するものでもある。
 やはり彼女は、自分と皇太后との間の権力争いに巻き込まれた犠牲者だ。暁嵐が早く皇太后と決着をつけていれば、彼女は刺客などという役割を負うことはなかった。
 筆を持つ細い手首と紙を見つめる真剣な眼差しが脳裏に浮かんでは消えた。
 さすがは長くこの国に寄生し、富を貪り続ける皇太后だ。凛風のような娘を送り込めば、暁嵐が無下にできないと踏んだのだろう。そしてその読みは見事にあたった。
「状況ははっきりしました。後はこちらにお任せくださいませ」
 秀宇はそう締めくくる。その進言を暁嵐は即座に拒んだ。
「いや、お前はなにもするな。俺が決着をつける」
「決着をつけるとは……どういうことにございますか? まさかまだお会いになるとでも?」
 その問いかけに暁嵐が沈黙すると、秀宇は青筋を立てて声をあげる。
「わ、私は承服しかねます! 暁嵐さま、あなたさまのお力はよく存じ上げておりますが、このまま皇后の策に乗るのは危険です」
 秀宇の意見はもっともだ。結論が出た今、これ以上深入りするのは得策ではない。皇帝としては、ここで手を引き彼に任せるべきだとわかっている。
 だがそれを暁嵐はどうしても受け入れることはできなかった。
「暁嵐さま、どうか私にお任せくださいませ! 郭凛風が刺客であることは間違いないのです。この後は、どのような手段を用いてでも郭凛風から皇后の名を吐かせて……」
「やめろ! お前は絶対に手を出すな!」
 強く彼の言葉を遮ると、秀宇が目を見開いた。
 たとえ誰であっても、それが国のためだとしても、彼女を傷つけることは許さない。幼少期からずっと支えてくれた信頼のおける側近にさえ、激しい怒りを覚えるくらいだった。
 それほどまでに、彼女への想いは暁嵐の中に深く入り込んでいる。
 驚愕の表情で固まる側近を横目に、暁嵐は立ち上がる。
「時間だ、俺は行く。いいな秀宇。さっきの言葉を忘れるな。この件の決着は俺自身がつける」
 ねじ伏せるようそう言って部屋を出た。

 黄玉の間には、丞相以下、主だった家臣たちが揃って暁嵐を待っていた。皆に向かい合わせに位置する玉座。その隣に、皇太后が座っている。
 皇太后の出席は必須ではないが、内容によっては同席することもある。
「面をあげよ」
 暁嵐が玉座に座りそう言うと、丞相が口を開いた。
「陛下この度はお時間をいただきありがとうございます」
 暁嵐が無言で頷くと、彼は恐る恐るといった様子でさらに言葉を続ける。
「本日お話したいのは、後宮のことにございます」
 暁嵐はちらりと皇太后を見た。彼女がここにいると知った時から進言の内容に察しはついていた。
「後宮が開かれて、ひと月以上が経ちますが、陛下はまだお妃さまをお召しになっておられません。このことを家臣一同大変憂いております」
 丞相の言葉に、皇太后が同意する。
「お世継ぎの問題は国の存続に関わることにございますから」
 そして蛇のような目で暁嵐を見た。
「ですから陛下、どうか明日はいずれかのお妃さまをお召しになられてくださいませ。順番通りでなくともかまいません」
 一の妃の父親である彼は、思い詰めた様子で言う。国のことを心底憂いている様子だ。他の家臣たちも皆同意だという表情で頷いている。
 だが彼らの中の何人かは、本心からそう思っているわけではないように暁嵐には思えた。
 本当のところ暁嵐には、どの家臣が皇太后に通じているかの目星がついているのだ。静観しているのは、それだけで彼らを排除するわけにはいかないから。確たる証拠もない中で独断で断罪すれば国が乱れるもとになる。
 わかってはいても、凛風のことを思うともどかしく感じた。
 皇后とは生まれた時から対立しているが、未だかつてないほど、早く決着を着けたいと強く思う。
「まぁそう急かさずともよいではないか、丞相。陛下もなにかとお忙しい身じゃ。男女のことは繊細ゆえ、わられらはゆったりとかまえていようぞ」
 皇太后が扇子を口もとにあてほがらかに言う。丞相が眉を寄せた。
「ですが皇后さま、お世継ぎに関しては……」
「幸いにして、先帝は鬼の血筋をふたり残してくださった。どうしてもの時は、べつの方法もあろう」
 暗に、血筋を残すのは自分の子である輝嵐でもいいと言っているのだ。
 挑発的な物言いに、丞相がうかがうように暁嵐を見る中、皇太后が暁嵐に向かってにっこりと笑みを浮かべた。
「じゃがもちろん、陛下のお血筋であるにこしたことはない。どなたか、気に入った娘はおりませぬか? この際われらは、数にこだわりはしませぬ。順位の低い娘でも女官でもかまいませぬぞ? のう、丞相」
「はい、それはもちろん」
 順位の低い娘という言葉に、やはり凛風との出会いはこの女の差し金だという確信を深めながら、暁嵐はこの後どうするべきか考えを巡らせた。
「陛下?」
 甘ったるい声音で暁嵐に呼びかける皇太后と目が合ったその刹那、チリチリという(しび)れるような感覚が暁嵐のうなじを駆け抜けた。手の震えを誰にも気づかれぬようそっと握る。
 生まれた時から対立し、何度も命を狙われてきたこの女に、今はじめて暁嵐は恐れを抱いたのだ。
 もしこのまま、暁嵐が後宮の妃を拒み続け、凛風を閨に呼ばなければ、暗殺計画は失敗に終わる。早々に凛風は処分されるだろう。
 彼女にとって凛風はただの駒。失敗したなら即座に切り捨てられる存在だ。
「――あいわかった」
 皇太后の目を見据えて、暁嵐は答えた。
「明日は必ず妃を閨に呼ぶ」
 言い切ると、家臣たちがいっせいに安堵の表情を浮かべた。
「陛下、ありがとうございます」
 丞相が嬉しそうに礼を言う。
 その彼にちらりと視線を送ってから、皇太后が笑みを浮かべた。
「どの妃をお召しになるのか楽しみにしております、陛下」

 陽然に傷痕を見られた次の日の夜、凛風が迷いながら湯殿へ行くと彼はすでにそこにいた。さっさと湯浴みをしろと、凛風を急かす。
 しかし黒翔の毛並みを整えた後、(ひづめ)の手入れをするのは許されなかった。
「今宵はそれで終いにしろ。手習いに暇が取れなくなる」
「え? ……でも」
「蹄の手入れは俺がやる。ほら、来い」
 黒翔の不満そうな鼻息を聞きながら、凛風が岩場へ行くと彼は凛風に腕を出すように促した。
 戸惑いながら従うと、彼は凛風の腕に紐を巻き付けていく。驚く凛風が彼を見ると視線の先で少し照れくさそうに口を開いた。
「こうすれば、腕をまくらずとも袖に墨がつくことはない」
 意外すぎる彼の言葉に、凛風は目を見開く。また泣き出しそうになってしまう。
 醜い腕の傷を見られてしまい、傷ついていた心があっという間に癒やされていくのを感じた。
 あの傷を見た人は、すべからく凛風を軽蔑し馬鹿にした。昨夜の凛風は彼にそう思われるのがつらくてたまらなかったのだ。
 でも彼はそうはせず、それどころか凛風が傷を気にせずに手習いを続けられるよう考えてくれたということだ。
 昨夜打ち消したいと願い胸の奥へ押し込めた彼への想いがまた頭をもたげるのを感じた。
「ほら、はじめるぞ」
「……はい」
 答えて凛風は筆を持つ。すると彼は当然のようにその手に自分の手を重ねる。正しい書き方を今一度確認するということだろう。背後から自分を包む温もりに、凛風の鼓動が飛び跳ねる。
「止めと跳ねを意識しろ。払いは、わかるな?」
 すぐ近くから聞こえる低い声音がどうしても甘く耳に響いて、凛風はたまらずに唇を噛む。
「次はひとりで書いてみろ」
 陽然がそっと離れると、凛風は息を吐いて筆を握り直した。
ゆっくりと先ほどの感覚を思い出しながら紙の上で筆を滑らせる。彼の字には遠く及ばないながら、ずいぶんとよくなってきた。
「ん、いいな」
 その言葉につられて視線を上げると、彼が笑みを浮かべて凛風を見つめていた。
 その優しい眼差しに、凛風の鼓動が大きく鳴って、諦めにも似た気持ちを抱いた。
 結局押し殺すことなどできなかった。
 彼に強く()きつけられる想いが、自分の中に確実に存在する。
 この気持ちは、過酷な使命を課せられた自分には無用のもの、いやそれどころか、いざその時を迎えた時には(あし)(かせ)になると、わかっていても抗えない。
「これだけ書ければ上出来だ。もう少ししたら、文用の紙を持ってきてやる。自分の名を書いて送るだけでも、弟にはお前が息災だと伝えることができるだろう」
「……はい。ありがとうございます」
 凛風は答えて目を伏せる。
 彼は自分にとってはじめての男性(ひと)だ。
 はじめて名を教えてくれて、はじめて親切にしてくれた。
 そしてはじめての気持ちを教えてくれた人。
 男性を恋しく想う気持ちなど、知識としては知っていても自分とは関係ない必要ないと思っていた感情だ。一生知らなくてよかったのに。
 ――どうして今になって……。
 改めて凛風は自分の運命を呪う。
 どうして今になって、出会ってしまったのだろう。
 人生の終わりが見えている今、この気持ちを知ってしまっても、つらくなるだけだというのに……。
 彼の出会いは、自分にとって正しいことではないように思えて、それがただつらかった。